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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第69回 金山
【かなやま】
62

地名が伝える古代の歴史
富山県小杉町
2012年09月14日

射水いみず丘陵の北部、小杉町南部の金山地域(明治二二年成立の金山村域)を中心とする丘陵性山地は、下条げじよう川などの小河川によって細かく刻まれ、典型的な丘陵地帯の姿を呈している。この地域は金山谷ともよばれ(文禄五年「金山谷新開許可状」渋谷家文書)、上野うわの谷・浄土寺谷・青井谷・野手のて谷などに分れる。金山の地名起源や由緒について述べた近世の地誌はなく、『小杉町史』(一九五九年刊)も言及していないが、全国各地にある同名・同種の地名と同じく、鉱山や製鉄・鍛冶に関連して発生した地名であろう。
事実、上野の上野南遺跡群では八世紀後半から九世紀代の製鉄炉跡や鍛冶炉跡が発見されており、上野赤坂A遺跡でも平安時代後半の製鉄炉跡が確認されている。また青井谷の小杉丸山遺跡では八世紀末頃の製鉄炉跡が検出されており、鉄滓のほか砂鉄の堆積がみられた。このほか上野には旧石器時代から近世に及ぶ(中心時期は弥生時代末―古墳時代初頭)上野遺跡があり、これらの遺跡では登窯形式の須恵器窯跡や炭焼窯跡、工房跡も発掘されている。旧石器時代以来、この丘陵地が狩猟採集や居住の適地として選ばれ、鉄器の普及過程では生産地として機能していたことが知られる。原料や燃料の入手が容易であり、また製鉄炉・鍛冶炉建設の立地条件が勝れていたのであろう。なお射水丘陵と東の呉羽山くれはやま丘陵に発し、北流して富山湾に注ぐ鍛冶かじ川(現在は新堀川の支流となり鍛治川と記す)には、流域の乗福じようふく寺(現富山市中老田)創建にあたって上流の鉱床を採掘して仏具を作り、それを契機に流域に鍛冶屋が多数できてこの称が生れたという伝承がある(「乗福寺縁起」乗福寺蔵)。

金山の地名が史料に登場するのは、貞治五年(一三六六)一二月二二日の「足利義詮袖判下文」(名古屋市佐野多喜氏所蔵)に「越中国金山□□(并伊カ)沢保」とみえるのが早い例で、このとき金山は闕所地処分により下野国佐野庄を本領とする佐野氏一族の佐野新左衛門尉秀綱法師(法名道悟)に宛行あておこなわれた。ただし宛行われたのは金山の六分一地頭職であり、翌六年七月二四日の「沙弥宗気渡状」(同氏蔵)などによれば、他の五名との均分で、延文四年(一三五九)一二月の南朝方討伐の際の京都留守役としての恩賞であった。佐野氏らの地頭職支配については、ほかに史料がなく詳細は不明である。が、遠隔地であり、また内乱期でもあったので、宛行いは名目だけに終った可能性が高い。
次いで史料にみえるのは応永一九年(一四一二)のことで、同年五月七日足利義持の寄進により、金山保は四季五種行法の料所として山城石清水いわしみず八幡宮領となった(「足利義持寄進状」石清水文書)。同宮領としては戦国期まで存続しており、神保氏が公用銭五〇〇疋などを運上している(年未詳二月晦日「神保職安書状」同文書)。永徳二年(一三七二)以来、放生津湊船の課役は石清水八幡宮の進止となっているが、神保氏はその放生津を拠点にしているので、協力関係が戦国期にいたるまで維持されたのであろう。

文禄五年(一五九五)前田利長は金山谷の「永不作之田畠」の開発を、一年間の年貢免除と三年間の夫役免除の条件で孫七郎に許可した(前掲新開許可状)。これを端緒に、以後戦乱の中で放置されていた田畑の再開発や新田開発が盛んに行われ、新村も成立していく。
寛文一〇年(一六七〇)に加賀藩から藩領各村に交付された村御印によると、上野村の草高は三四〇石でうち一五石は明暦二年(一六五六)の検地高入れ、このほか寛文二年―同三年の新田高が二一石、万治元年(一六五八)―寛文六年の新田高が四一石ある。またこれとは別に上野新村(草高七三石)も成立している。浄土寺村の草高は五一四石、うち一五石は明暦二年の検地高入れ、このほか寛文二年―同三年の新田高が二八石ある。青井谷村の草高は七〇八石で、うち二〇石は明暦二年、同じく二〇石は寛文元年の検地高入れ、このほか万治三年―寛文三年の新田高が九八石、万治元年の新田高が三一石あり、草高四五石の青井谷新村も生れている(以上「三箇国高物成帳」金沢市立図書館加越能文庫)。
これより前の正保郷帳によると、耕地に占める水田率は、上野村は八〇パーセント強、浄土寺村は八一パーセント強、青井谷村は七八パーセントに達している。以上の数字から、水利に恵まれない丘陵地に立地しながら懸命に水田化を進め、また驚くべき早さで新田開発をなし遂げた金山の人々の努力の姿をみることができる。

金山地域は江戸時代には法内ほうない庄と称されたが、法は保の意味であり、上野・上野新・浄土寺・青井谷・青井谷新の五村のほか、下条川流域の橋下条はしげじよう・橋下条新・日宮新ひのみやしんの三村(いずれも現小杉町)、合わせて八村がこれに属した。正徳二年(一七一二)の「射水郡社号帳」(上田家文書)では、橋下条・浄土寺・上野に八幡宮のあることが知られ、八幡宮の分布はさらに神楽川流域の赤井・鳥取・北高木・今開発いまかいほつ・小林(現大島町)など近隣の村落に及んでいる。勧請年代や経緯がつまびらかでないので即断はできないが、石清水八幡宮領金山保の範囲を推定する一つの手掛りにはなるだろう。

 

(H・M)

青井谷の東方に上野谷、国道377号に沿って野手谷、472号に沿って浄土寺谷


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初出:『月刊百科』1994年4月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである