古来、橋は別の世界に移行する通路、境界に位置する空間として認識されてきた。橋のたもとに亡霊が現れたり、生まれたばかりの赤子を橋のたもとに連れて行きお参りしたなどという伝承は、この意識を反映したものとされる。立山信仰における布橋も、その象徴的な例のひとつで、女性の極楽浄土への往生を願う布橋灌頂会の舞台として、いわば此岸と彼岸をつなぐ境界の橋と観念されていた。
布橋は
橋は堂川(姥堂川。姥ヶ谷とも)に架かる木橋で、
布橋の名は、江戸時代、毎年秋彼岸中日に閻魔堂と堂およびこの橋を利用して布橋灌頂会が催された際、白布が敷かれたことに由来するという。延宝二年(一六七四)の一山旧記控(芦峅寺文書)には、天正一八年(一五九〇)に中宮堂・同橋などの修理が行われたという記事があり、また文政三年(一八二〇)の布橋再建の橋札銘文には慶長一一年(一六〇六)に造営されたと記されているから、近世初頭にはすでに架けられていたものと考えられている。
史料では、一山旧記控に慶長一九年加賀藩主前田利長の室玉泉院らが堂に参詣に訪れ、その際「御宝前之橋ニ布橋ヲ御掛、大分之儀式被為成」とみえるのが早い。また「布橋」の呼称は、前掲橋札銘文に「堂前布橋」とみえる。
橋の長さ二五間は二十五菩薩、高さ一三間は十三仏、桁の数四八本は阿弥陀如来の四十八願、敷板の数一〇八枚は煩悩の数、欄干の数六個は六地蔵、釘数三万八千八本は法華経の文字数という具合に、橋の各部分に仏教に基づく意味が込められ、敷板の裏には種子(=シュジ。仏、菩薩などを表わす梵字)が墨書されていた。橋は堂と同様明治初年に破却されたが、立山風土記の丘建設に際し復元された。遺物としては慶長一四年の棟札および寛永元年(一六二四)の擬宝珠が現存している。
布橋灌頂会は他の霊山と同様女人禁制であった立山において、女性が主役の行事であった。少ない年でも三千人を下らなかったという大勢の信女が参集したといい、その様子は立山曼荼羅にも描かれている。
灌頂会に参加する女性は、全国から長い旅を経て越中に入り、立山道の道標に誘われて芦峅寺の宿坊に入った。信女は死装束を着けて、まず閻魔堂に参入し、閻魔大王の裁きを受ける。その後目隠しして行列をつくり、僧に導かれて、布橋を渡り堂へ向かった。
道筋には加賀藩から寄進を受けた白布が敷詰められたが、これは仏教の二河白道の教えになぞらえたものといわれる。心の悪い者が布橋を渡ると踏み外して谷に転落し、竜に食われるとして恐れられていた。
堂に入ると戸が閉められ、暗闇の中すし詰めとなって念仏読経が長時間行われた。のち戸が開かれると、真正面に立山・大日岳・浄土山の峰々が出現し、信女は浄土に生まれたかのような感激を味わい、宗教的恍惚に浸ったという。
この体験をした者は死後の成仏を保障され、擬死再生の一大行事であった。布橋灌頂会の参加費は、言い伝えによると行列の先頭が七五両で、列の後になるに従って六〇両・五〇両と下がり、最後尾は五両であったといわれる(立山信仰の源流)。旅費と合わせるとかなりの出費であり、布橋灌頂会への参加には当時の旅事情も考えあわせると相当の覚悟が必要であったものと思われる。またそれだけに成就の喜びも大きかったであろう。
富山県は日本有数の山岳地帯を有し、そこから流れ出す河川は急流で、水量も多い。明治時代、日本各地で河川改修などに活躍したオランダの土木技術者デ・レーケは、常願寺川の洪水を見て、「これは川ではない、滝だ」といったと伝えるほどである。
急流河川は洪水を引き起こし、耕地を失うことも少なくなかった。また大きな河川や深く刻まれた谷は、交通上の障害ともなった。
越中を東西に貫通した北陸街道には、黒部川の乱流を避けた結果、三奇橋のひとつとされた
布橋は決して規模も大きくなく、日常的には住民が利用する程度の機能しか持たなかったが、彼岸中日には彼岸への懸橋に変容した。つまり、布橋の彼此の懸隔は、先にあげた越中のどの橋のそれよりも大きかったことになる。
(K・O)
初出:『月刊百科』1994年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである