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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第55回 古海河原
【ふるみがわら】
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江戸時代のイベント会場
鳥取県鳥取市
2011年08月18日

鳥取市街地の西方を北流して日本海に注ぐ千代せんだい川は、大正末年から昭和初年にかけて大規模な河川改修が行われ、現在国道九号に架けられた八千代やちよ橋から上流、千代橋、千代大橋付近には、河川敷などを利用した自転車道路・野球場・広場などが設けられ、鳥取市民のレクリエーションの場となっている。また、夏には盆の精霊送り・花火大会が行われ、多くの人々で賑わう。

この千代川の河原は、江戸時代にも家並の続く鳥取城下や町裏・町端と称される城下周辺の住民にとって貴重な空間であった。鳥取藩の施設が置かれたほか、城下周辺の寺院・神社の宗教行事が行われるなど、各種の行事の場となり、人々が寄り集まった。河原は古海河原と通称され、千代川の東岸、鳥取城下の西側に位置し、鹿野しかの往来によって城下と直結されていた。江戸時代の邑美おうみ古市ふるいち村とその北の同郡行徳ぎょうとく村の領域にあたり、千代川対岸の高草たかくさ郡古海村への渡船場である古海渡が設けられていた。

河原は古市村の領分が広く、古くは古市河原と称されていたが、江戸時代中期以後、古海渡があることから古海河原の呼称が定着したといわれる(「鳥府志」など)。古海の地名は古く、天平一四年(七四二)一二月三〇日の優婆塞貢進解(正倉院文書)に古海郷の名がみえ、「和名抄」にも登載されている。中世にも一帯に同名郷が成立し、建武四年(一三三七)五月には、足利尊氏が古海郷地頭職を前年八月の合戦で焼けた京都東福寺(現京都市東山区)に造営料所として寄進し(同月六日「足利尊氏寄進状」東福寺文書)、以降同寺領として推移した。

寛政七年(一七九五)に成立した地誌『因幡志』には、古海の地名の由来について「相伝ふ此地もと裏海なり、古海の名此に起る」とあるが、ちなみに海とは遠く離れた上野国邑楽おうら郡にも古海村(現群馬県大泉町)が存在した。同村も利根川の川沿いに位置し、南岸の武蔵国幡羅はたら善ヶ島ぜんがしま村(現埼玉県妻沼町)と結ぶ渡場があり、江戸との舟運を担う古海河岸も設けられていた(日本歴史地名大系『群馬県の地名』)。もっとも上野国古海村はコカイと訓じられており、地名由来を考察するのは無理かもしれない。

古海河原の南側には、承応元年(一六五二)に鳥取藩で最高の社格とされた東照宮(現樗谿神社)の御旅所が、北側には寛文一二年(一六七二)に藩主一族の休憩所として古海御茶屋が設けられた(因府年表)。御旅所の近くには、寛政一一年に家中稽古用の射場、文政七年(一八二四)には騎射場が設置されている(「在方諸事控」鳥取県立博物館蔵など)。御旅所内にも馬場があり、家中の乗馬・騎射の修業場となっていた。四月一日の松上まつがみ神社の祭日には、家中の少年数百人がこの馬場に身なりを整え騎馬姿で集まったため、多くの見物客で賑わったという(鳥府志)。

広い河原は人々の集まる場所として適し、江戸時代中期以降になると宗教行事や種々の興行が催された。宝永五年(一七〇八)善祥ぜんしょう院の地蔵開眼供養が行われたのをはじめ、城下周辺の寺院による出開帳も行われた。また、多くの寺院が死者を供養する水施餓鬼を行ったほか、従来千代川の支流ふくろ川で催されていた盆の灯籠流しが千代川に変更され、河原には多くの人々が参集し、出茶屋も立った(「控帳」鳥取県立博物館蔵、「在方諸事控」など)。

同時に勧進相撲や芝居興行、猿楽興行、曲馬興行なども盛んに開催されるようになっていく。元禄九年(一六九六)の芝居興行は高草郡の大庄屋三人の連名、翌一〇年の操り芝居興行は邑美郡の大庄屋二人の連名で、牛銀調達を目的とする旨を願い出て許可されたものであった。操り芝居見物・相撲場では喧嘩が起こることもあり、元禄一五年の相撲場では死者を出すほどの騒ぎとなっている。享和二年(一八〇二)の女曲馬興行では、女役者の容色や三味の音色に魅せられて多くの人々が河原に集まり、藩によって中止された(因府年表)。

また、鳥取城下での盆踊りは七月限りと定められていたため、踊上げと称して八月一日に町中の踊子が河原に集まり、その見物人で河原は賑わった。夏には藩主一族の慰みや客人のもてなしのため花火もあげられ、寛延二年(一七四九)大坂商人鴻池家の手代のもてなしに花火があげられたおりには、立錐の余地もないほど群衆が見物に集まったという(因府年表)。

古海河原は一揆勢の集結場ともなった。寛政三年六月一三日、魚売買を城下の元魚もとうお町の二町と下魚しもうお町に限定し、浜に通う仲買の人数を制限するという藩の施策に抗議して、魚売商人四〇〇人余が河原に結集した。この動きに対し、藩は七月一一日に生魚が三町のみでは行渡りにくいとの理由で魚商の要求をのみ、他所での営業を認めている(因府年表)。古海河原は河原本来の性格のとおり、鳥取城下やその周辺で生活する者にとって、その日々の営みから切り離されたところにある空間であった。

 

(K・O)


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初出:『月刊百科』1992年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである