とにかく僕にとっては、この『日本国語大辞典』は困ったときの相談相手で一日に最低十回は引いていますから、相談されるほうも、ここのところ、かなり激しく疲れてきたみたいですね(笑)。
辞書というのは、項目を引くためにページを開くわけですけど、どういうわけか、僕らに無意識にそのページのおもしろい項目を探させてしまうという性質がありますね。学生時代に、「軋(きし)む」なんていう漢字を探していて、「キス」なんて出ていると、つい目が行ってしまった経験がある人は多いと思いますよ。
つまり、辞書のなかには、そうした「読む」という楽しみが潜んでいるわけです。ところが、日本人には「辞書を読む」「辞典を楽しむ」という習慣があまりない。ひとつの言葉を引いて読み方がわかったら、それだけで終わってしまう。そこが残念でなりませんね。
どういう説明がしてあるのか。どんな用例があるのか、いつ頃から使われた言葉なのか同類語にはどんなものがあるのか、ひとつの単語から推理小説のように、いろいろと想像ができるわけです。その癖をぜひつけてもらいたいと思いますね。
「辞書なしで本を読むのは、読まないのと同じだ」だと大江(健三郎)さんの師匠の渡辺一夫先生がそうおっしゃったそうですが、たしかにそれは言えると思いますね。ですから、この『日本国語大辞典』も皆さん、お読みになったらいい。それまで自分の持っていた知識がいかにいい加減なものか、よくわかりますし、第一、謙虚になります。謙虚になれば、今度は少しずつ、自分の知っていることを書き込みたくなる(笑)。
辞書は引くものではない。読んで楽しむもので、勉強するもので、研究するもので、人生そのものなのだということをわかって、この『第二版』をぜひ読んでほしいと思いますね。なにしろ、用例を含めて、言葉の量が圧倒的に多いですから。
用例が素晴らしく充実しているというのは、いい国語辞典の証明になりますね。
たとえば、僕も小説や戯曲を書いていて、時々、「この言葉はつまらない」と思う時があるんですね。そんな時、辞書を引いて、用例をよく読むと、漱石も鴎外も使ってたりするんですね。そうすると突然、その言葉がピカピカ光ってきたりするんです。「そうか、漱石も使ってるんだ」って逆に勇気が出たりしましてね。紫式部が使っていた言葉が自分が使おうとしたものと同じだったりすると、もう突然自分が雅(みやび)の世界に入った感じがしたりして(笑)。
つまり、用例というのは、その言葉の「戸籍簿」なんですね。言葉は、人間と同じで、いつ、どのような意味で使われ出したのかという、一つ一つ出自があり、青年期や壮年期があり、やがて老年に至る・・・・・・という「運命」を持っているわけです。
『第二版』では、用例に引いた文献の年代が入っていますから、そうした意味で言葉の戸籍集としては、いっそう充実したものとなりましたね。
用例を探すのは、狂気に近い仕事なんです。出典を探し、それが間違っていないか確認し、さらにこれが最初の用例だというところまでたどりつく。そこまでやるのは国家的な事業ですよ。
つまり、本来なら国が日本語の「伝記」をしっかりとつくらなければいけないような大仕事。それが充実しているということだけでも、この辞典が素晴らしいということが見えてきますね。
とにかく、めったやたらに引きますね。なかでも、圧倒的に多いのは、言葉の使い分け、漢字の使い分けを確かめたい場合じゃないでしょうか。たとえば、「あう」という言葉、ひとつとっても、いろいろな使い分けがあるわけです。普通に「会う」のほかに、女性と歩いていて、銀座でバッタリ女房と出くわすのは「遭う」でしょう。両方から人が来て「逢う」こともあります。「沸く」「湧く」「涌く」の違いなんか、辞典を見ないとわからない人が多いでしょうね。
つまり、同訓異字語ですね。特にワープロが発達してきますと、漢字の変換が簡単に行われますから、どの字を使うかは書き手によるわけです。そうなると、それぞれの字の意味を知らないと書けなくなる。ワープロを使うと、辞書を引かなくなるという方もいますが、僕から見ると逆ですね。ワープロをやるようになってから、余計に辞書を引くようになった気がします。
とくにこの『日本国語大辞典』は、その意味でも同訓異字語が完璧に引けるので、いちいち漢和辞典を引かなくてもすみますので、便利ですね。極端なことを言えば、これさえあれば、家庭崩壊も防げるのではないかというぐらい。各家庭にほしい(笑)。