たとえば今の若い子は、
「この飯マジやばいっすねえ」
と言ってむしゃむしゃ食べても、お腹をこわす心配はまずないのである。
「やばい」はもともと「危い」の意味の隠語から「まずい」「かっこわるい」を表す若者言葉になり、最近はさらに転じて「おいしい」や「かっこいい」といったニュアンスで用いられるようにもなってきている。
『日国』に目を通せば、それと似た例がはるか昔にあったことを発見できるから面白い。
たとえば「すばらしい」は今だと好ましい場合のみの表現だが、過去にはひどくて呆れたときにも発せられる言葉で、「やばい」と同じく同時代に両方の意味で使われていたことが数々の用例で明らかにされている。
「すばらしい」から派生した「すてき」という言葉も当然ながら本来は善悪両面の意味が含まれ、漢字表記も当初は「素的」が多くて、「素敵」が定着したのは昭和以降のようである。
言葉はまさに刻々と変化する生き物といえるのだった。
ところで「すばらしい」や「すてき」が悪い意味にも用いられていたことを私が最初に知ったのは歌舞伎の舞台である。
現代ではひとくくりのジャンルにされている歌舞伎も実は長い歳月をかけて成立した舞台芸術だから、たとえば19世紀の文化文政時代に活躍した鶴屋南北の台本と、18世紀前後の元禄文化を担った近松門左衛門の戯曲とでは使用された語彙がかなり違っている。南北の台本によく出てくる「すばらしい」や「すてき」は近松作品には決して見られない語彙なのだ。
私は過去に歌舞伎台本の補綴を仕事にしていた関係で、江戸時代の話し言葉に対しては敏感にならざるを得ない。もちろん時代小説を当時の言葉だけで書くわけにはいかないが、「必要」や「一段落着く」といった言葉を江戸時代の登場人物に使わせることにはどうしても抵抗がある。
かくして今でもよく使う言葉を時代小説に書く際は、必ず『日国』で過去の用例を調べて検討する。『日国』は私にとって欠かせない、頼もしい相談相手であり、直木賞を受賞した『吉原手引草』などは全編を話し言葉で綴った作品だけに、『日国』抜きでは成り立たなかったともいえる。
近頃は出版社の校閲もいささか心もとないところがあって、極端な例だと「一生懸命」と書けば「一所懸命」の間違いではないかと質すチェックが入ったりもする。語源的には「一所懸命」のほうが正しいにしても、江戸時代になれば「一生懸命」と書くほうが一般的で、その手のことは『日国』を見ればわかるはずだと私は若い編集者に説明しなくてはならない。
オンライン化されて今やパソコン上で見られるのだから、少なくとも時代小説を担当する編集者には、『日国』と首っ引きでチェックに当たって欲しいと願いたくもなるのだった。
撮影=大橋 愛