僕は「知識経営」という新しい経営学の分野に関わっているが、バックグラウンドは理系だ。それでビジネスの世界で仕事をしている。最近こういう人は多いだろう。「国語」というのは、およそ縁遠いか、異分野のこと、という意識しかなかった。
ところがいま、僕の仕事の多くは、概念化や、概念形成作業が価値の源泉になっている。ビジネスというとこれまでは分析や論理が主だった。だが、21世紀は創造経済時代の経営と言われていて、それだけでは価値がなくなっているのだ。ただし、これは言葉づくりというより、言語を媒介にした知識創造行為のプロセスだ。
イノベーションや新事業の創出、将来に向けての戦略といった局面では「言葉」の力がおおいに作用する。とりわけ言葉の出自は気になるし、豊かな表現が求められる。何より、漢字文化がもつ独自の意味の世界は、グローバルな経営の場面でも大変有意義だ。
コンセプトづくりの作業では、自分たちの思い込みで他者に伝わらない言葉を使わないことや、キャッチフレーズのような表現に陥ってしまわないことが重要だ。そもそも適切な言葉がなかなか出てこないということも少なくない。そんなときに「日国オンライン」は便利だ。
たとえば、「事業部間の協力が必要だ」などと言いたいとき、「協力」を<見出し>検索で引くと「力を合わせて努力すること。心を合わせて働くこと」とある。しかし同時に「二人以上が同一の仕事をするために、協同して働くこと。合力と分業とがある」ともある。確かに分業体制のまま協力するのと、分業なく自律的に協調するのとでは全く違う。言葉は怖い。
<用例(本文)>検索すると、「戦争の遂行者や協力者の告発」(真継伸彦)という表現もある。たしかに英語のcollaboratorは米国におけるナチスへの「協力者」だ。芥川龍之介が『侏儒の言葉』で「芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である」と書いている。いまでいうアーティストのコラボレーションと一緒だ。また、「同心協力」(樋口一葉、福沢諭吉、吉岡徳明)が散見される。きっと、こういう使い方が多かったのだろう。
その中から、幕末・明治時代の国学者、吉岡徳明の『開化本論』の用例を見てみると、「同心協力」は「社倉」(飢饉などの時の窮民救済に備えて米穀をたくわえる倉)のためのものとわかる。そう、言いたかったのは「知識資産を集積する組織のありかた」だったのだ。
こうして言葉を練り直すこともあれば、補足することもある。さらには、造語のようなもの---「熱狂協力」(坂口安吾)に新たな刺戟を受けたりもする。まるで、歴史的・伝統的な知や知見者が、僕と一緒にブレインストーミングに参加しているようなのだ。インターネット検索における作者不詳のコンテンツのブラウジングとはまた違った感覚だ。これがごく短い時間に手にとるようにできる。
この数十年、企業経営の卓越性(エクセレンス)はマネーに偏ってきた。いま卓越した経営とは、環境や社会との価値の創造だ。教養(リベラルアーツ)が大事になった。たとえば、これはと僕が感じるような経営者との対話で重要なのは、流行言葉や「外来種」の新語でなく、本質を掴むような言葉だ。これを見出すのは、往々にして深いルーツを持つ言葉と交わる粘土細工のような作業となる。言葉の使い方ひとつで本質を見誤ることも少なくないからだ。
ちなみに「超満員」「超高速」の「超××」というのは、いまに始まったものではないらしい。検索すると、西田幾多郎が『善の研究』〔1911〕で「抽象的概念といっても、決して超経験的の者ではなく」と言っているからだ。
なんといっても「日国オンライン」は、ただ辞書を引いて意味を知るツールではない。国語に疎かった僕にとって、「日国オンライン」は伝統的・歴史的な知の集積(フーコーの「集蔵体」(アルシーブ)のような)にアクセスする、最適なツールとなっている。