ある雑誌で、多少とも歴史に光芒を放ったパリのカフェ・キャバレー・ダンスホール、ミュージック・ホールをすべて取り上げる連載をおこなっているが、日本人の手になるパリ風俗観察の類いが思いのほかに役立つのに驚いている。とくに、第一次大戦後は、日本語のパリ風俗案内が続々と出版されているので、フランス語の文献では決して得られなかったような貴重な情報を得ることができる。
たとえば、ベル・エポックに誕生し、第一次大戦後に急増したナイト・クラブ。
フランス語ではこのナイト・クラブのことをボワット・ド・ニュイ、すなわち「夜の箱」と呼ぶが、その実態となるといま一つ理解できていなかった。ところが、昭和五年(1930)に竹酔書房からでた酒井潔の『巴里上海歓楽郷案内』を読んでいたら、「夜の箱」と題した章にこの流行のナイト・クラブの詳細極まるレポートが出てきたので、一気に疑問が氷解した。「こゝでは人は正餐も摂るが、それよりも大抵は軽い食事だ。芝居が閉場てからやつて来て一夜を過ごすには持ってこいの場所である」
では、ナイト・クラブはたんなる深夜営業のレストランかというと、楽団を備え、ダンスの踊れる空間を設けたダンス・ホールの役目も兼ねていたのである。ヴァラエティ・ショーを見せたり、シャンソンを聞かせたり、余興にも力を入れていたところもあった。しかし、じつを言うと、フランス版のナイト・クラブ(ボワット・ド・ニュイ)の本当の存在意義は、そこに行くと、男女の出会いが用意されていた点にある。すなわち、男の一人客の相手をするダンサーが控えていたり、あるいは、アフターの面倒をみる私娼が「客」として待機していたりしたのだ。
もっとも、男女同伴でやってきて食事をとったり、ダンスをしたりする客もいたらしいが、そうした同伴の女性客が素人であることは少なかったようである。
ところで、こうしたことを調べているうちに、ふと、ナイト・クラブという言葉はいつ頃から日本語に登場したのだろうかと疑問を感じた。
こういうときには「日国オンライン」が役に立つ。さっそくアクセスして見ると次のように出た。まず定義から。「ナイト-クラブ(英 nightclub)酒・音楽・ダンスなどを楽しむ男女同伴の高級飲食店」。この定義は「男女同伴の」という限定を設けているところが気にかかるが、日本では私娼の伝統は薄いので、ナイト・クラブは「男女同伴」と限定しているのも無理からぬところ。
しからば、初出はどうか。「新種族ノラ[1930]《吉行エイスケ》大世界『恋の風俗鑑』「フランス租界にあるナイト・クラブで近代の支那女の踊るスペイン・タンゴの優婉な姿態を連想し」。これから判断する限りでは、1930年にはナイト・クラブは上海にまでは来ていたが、東京には上陸していなかったらしい。日本でナイト・クラブが流行るのは、井上友一郎の「銀座二十四帖」(1955)の引用が示すとおり、戦後になってからだ。
この調子で、隣接語である「キャバレー」を引いてみることにする。定義は「ダンスのためのホールや舞台のある酒場。客は女給(ホステス)のサービスで飲食やダンスをし、バンド演奏やショーを楽しむ」とあるから、「男女同伴」のナイト・クラブとは明らかに業態が異なる。あるいは、風俗営業法で、そのように定義分けされているのかも知れない。初出はと見ると「友田と松永の話[1926]《谷崎潤一郎》「『君は何処でタンゴを習ったんだね?『《略》別に習った訳ぢゃあないが、つまり散々カフェエやキャバレを荒らした結果さ』」とある。この時点で、少なくともキャバレの方は、かなりフランス語の原義(酒を出す寄席)とはニュアンスを変えて日本に上陸を果たしていたようである。
ことほどさように、「日国オンライン」は、風俗用語の初出と業態の出現時期を調べるには最高の武器の一つとなっているのである。もっとも、「日国」サーフィンに時間が取られて、原稿がはかどらなくて困るのも事実なのだが。
写真提供 NOEMA INC.