辞書を編む人
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どんな辞書であっても辞書には「編集者」と呼ばれるような人が存在する。過去に編まれた辞書においては、「編集者」の具体的な名前がわかっていないこともあるが、それでも「編集者」はいるはずだ。現在出版されている辞書であれば、「編集主幹」がいて複数の「編集委員」がいる、というような体制で辞書が編まれていることが多い。過去においても、それと近い体制で辞書が編まれたことはあるだろう。その一方で、個人が記しとどめていた「情報」が(結果として)辞書のようなかたちでまとまりをみせた、ということもあると思われる。
『日本国語大辞典』もさまざまな辞書の「情報」をとりこんでいる。イエズス会の宣教師たちと日本人信者とが協力して編んだと考えられている『日葡辞書(にっぽじしょ)』という辞書がある。慶長8(1603)年に本編が、翌9(1604)年に補編が出版されている。日本語を見出しとして、それにポルトガル語で語釈を配した、「日本語ポルトガル語対訳辞書」である。
見出しはアルファベットによっていわゆるローマ字表記されている。例えば「松茸」は「Matçudaqe」というかたちで見出しになっている。イエズス会の宣教師たちはポルトガル語を母語としているので、このローマ字のつづり方はいわば「ポルトガル式」ということになる。このつづりから導き出される語形は「マツダケ」である。漢字で「松茸」と書いてあると、それが江戸時代の文献であっても、現在の発音は「マツタケ」であるから、当時もそうだろうと(無意識に思って)「マツタケ」という発音を思い浮かべる。
室町時代においては、特別な場合を除いては濁点を附して濁音音節を明示するということはほとんど行なわれていなかったと思われる。江戸時代においては、濁点の使用は多くなってはいるが、なお濁音音節を示さないことはあった。そうであると、平仮名で「まつたけ」と書いてあっても、発音の可能性は「マツタケ」「マツダケ」両様があることになる。(さらにいえば、「ツ」と「ケ」にも清音濁音両様の可能性があるが、今この可能性については話題に含めないことにする。)つまり、「松茸」「まつたけ」という書き方によって、当時の発音が「マツタケ」「マツダケ」いずれであったかを判断することはできない。しかし、アルファベットによって「Matçudaqe」と書かれていれば「マツダケ」であることが明らかである。そのように、『日葡辞書』の見出しによって、『日葡辞書』が編まれた頃の日本語の発音がわかることがあり、日本語の歴史を考えるにあたって、よく参照されてきた。『日本国語大辞典』の見出し「まつたけ」に「(「まつだけ」とも)」と注記されているのは、この『日葡辞書』の見出しを考え併せてのことと思われる。こうしたところにも『日葡辞書』の「情報」が活用されている。
『日本国語大辞典』の検索「範囲」を「用例(出典情報)」にして検索をすると17941件がヒットする。書籍版『日本国語大辞典』の帯には「50万項目、100万用例」が謳われているので、100万用例のうちの1.8パーセント弱が『日葡辞書』の使用例であることになり、ずいぶんと使われている文献であることがわかる。先に述べたように、イエズス会の宣教師たちと日本人信者とが協力して編んだと考えられている。
この辞書編集の主たる目的は、宣教師たちが布教のために日本語に習熟するため、であることは疑いがない。日本人信者の日本語による告白を聴く聴罪師、標準語を使って上流階級や知識階級にキリスト教を説く説教師、いずれにも役立つ辞書であるためには、広範囲の日本語を見出しとして採用する必要があった。見出しとしてどのような語を採用するかということを「採用方針」と呼ぶとすれば、『日葡辞書』の見出しの「採用方針」は日本語を母語としない宣教師寄りのものであったことには留意しなければならない。
『日本国語大辞典』が『日葡辞書』を使用例としてあげる17941件の中には次のような見出しが含まれている。
あいつづける【相続】〔他カ下一〕あひつづ・く〔他カ下二〕(「あい」は接頭語)「つづける」の改まった言い方。*日葡辞書〔1603-04〕「Aituzzuqe, ru, eta (アイツヅクル)(tu はtçu の誤り)」
「アイツヅケル」の接頭語「アイ」には改まりの気分、丁寧さといった意味合いがあるけれども、語義としては「ツヅケル(続)」と同じだ、ととらえれば、この語は(わざわざ)見出しにしなくてもよい。『日本国語大辞典』の見出し「あいつづける」には『日葡辞書』の使用例しかあげていない。そして辞書欄にも『日葡辞書』以外の記述がない。だからといって、この語が『日葡辞書』にのみ使われた語であるということにはならないけれども、日本語を母語とする人が編んだ辞書であれば、この語は見出しにならなかったのではないか、と思う。『日葡辞書』の使用例しか示されていない見出しを調べてみると、接頭語がついている語、複合語などが少なからずあることに気づく。日本語を母語としていない人にとっては、「アイツヅケル」と「ツヅケル」とは別の語であるからそれぞれの説明がほしい。しかし日本語を母語としている人には、「内省(introspection)」によって2つの語の語義がだいたい同じであることがわかる。誰が辞書を編むかによって、見出しの「採用方針」が違ってくることはわかるが、その「誰」の母語も見出しの「採用方針」に深くかかわると考える。
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“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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