辞書を編む人
Series1-2
前回は、ポルトガル語を母語とするイエズス会の宣教師たちが編んだ『日葡辞書』について述べた。今回はJames Curtis Hepburn(1815 - 1911)の編んだ『和英語林集成』を採りあげることにしたい。「Hepburn」は通常であれば「ヘプバーン」あるいは「ヘップバーン」などと発音され、そのように片仮名表記されることが多い。例えば、Audrey Hepburn(1929 - 1993)は、「オードリー・ヘップバーン」だ。しかし、James Curtis Hepburnは自身が「平文」という漢字表記、「ヘボン」という片仮名表記を使っており、「ヘボン」と呼び慣わされているので、ここでも以下は「ヘボン」という呼び名を使うことにしたい。「ヘボン式ローマ字」の「ヘボン」だ。「ヘボン式ローマ字(綴り方)」は、明治19(1886)年に出版された『和英語林集成』第3版で採られていたローマ字綴り方をもとにしている。
ヘボンはアメリカ長老派教会の医療伝道宣教師、医師として安政6年9月22日(1859年10月17日)に横浜に来る。ヘボンは脳外科を専門としていたが、眼科治療も行ない、また美貌の女形として知られる3代目澤村田之助(1845-1878)の足の手術も行なっている。こうした医療活動のかたわら、日本語と英語との対訳辞書である『和英語林集成』を編纂した。前回紹介した『日葡辞書』も日本語を見出しとした辞書であったが、『和英語林集成』も日本語=和を見出しとしており、日本語を母語としない人が日本語を理解する、という編集目的が辞書の枠組みにはっきりとあらわれている。
『和英語林集成』は初版が慶応3(1867)年に上海で、再版がやはり上海で明治5(1872)年に、第3版が日本で明治19(1886)年に丸善商社書店から出版されている。明治43(1910)年には第9版が出版されており、幕末、明治期を通して出版され続けた和英(英和)辞書であることがわかる。初版には索引の扱いで英和の部が添えられていたが、再版からは英和の部も独立し、『和英語林集成』という書名であるが、「和英の部」「英和の部」を兼ね備えた辞書である。
さて、オンライン版『日本国語大辞典』の検索機能を使って検索範囲を「用例(出典情報)」と設定して検索すると、5702件がヒットする。『日葡辞書』は17941件であったので、それと比べると案外と少ない、と感じる。『日本国語大辞典』を読んでいるとかなり使われているように感じるが、やはり「印象」と実際とは異なる。『日本国語大辞典』は初版を「和英語林集成(初版)」、再版を「和英語林集成(再版)」、第3版を「改正増補和英語林集成」と表示していると思われる。これは第3版が和文タイトルページに「改正増補和英英和語林集成」と印刷しているためであろう。しかしこれが少しわかりにくい。初版、再版と同じように、「和英語林集成(3版)」と表示したほうがわかりやすいということはないだろうか。
『和英語林集成』をめぐっては、もう一つ気になることがある。それは「辞書」欄で「ヘボン」、「表記」欄で「(ヘ)」(オンライン版では「ヘボン」)として表示されているのは、東洋文庫から出版された複製本をテキストとして使用した「再版」の情報ということだ。『和英語林集成』の場合、再版には採用されていない見出しが第3版では見出しになっていることが少なくない。
例えば第3版には「HOKIJI」(ホキヂ)という見出しがあり、「A dangerous mountain road, or path」(危険な山道、または小道)と説明されている。『日本国語大辞典』には次のようにある。
ほきじ【崖路】〔名〕山腹の険しい道。がけみち。ほきみち。ほけじ。*山家集〔12C後〕上「吉野山ほきぢづたひに尋ね入りて花見し春は一むかしかも」*柿園詠草〔1854〕「ひぢをりてゆかれむものか春山のほきぢの桜今盛りなり」*白羊宮〔1906〕〈薄田泣菫〉小雀と桂女「天ゆくからに、険路(ホキジ)にも」
12世紀頃から使われている語であることがわかるが、「辞書」欄にはいずれの辞書もあげられていない。『和英語林集成』第3版では見出しとなっているが、再版ではなっていないためだ。『日本国語大辞典』を使いなれてくると、「辞書」欄には必ず眼がいくようになる。「辞書」欄を無意識に確認するようになれば、『日本国語大辞典』を使うことになれてきた、といってもよいかもしれない。どんな辞書に採りあげられているか、ということで当該語の歴史的な展開の(一つの)かたちがなんとなくみえてくることがある。この語の場合、薄田泣菫の『白羊宮』の例があげられているから、明治期にも使われていたことはわかる。しかし、『和英語林集成』第3版が見出しにしていることがわかれば、それは一つの「情報」となる。再版と第3版とは見出しにしている語がかなり異なる。提案というより、「欲を言えば」ということかもしれないが、「辞書」欄の「ヘボン」を「ヘボン1」「ヘボン2」「ヘボン3」というようにして、初版、再版、第3版の区別ができるようになっていると、ちらりと見ただけでも「辞書」欄の価値は飛躍的に高まる。
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“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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