「古くは」の意味するところ
Series13-3
Andover(アンドーヴァー)の町で、Alice Ascher(アリス・アッシャー)という名前のたばこ屋の老女の死体が発見され、死体のそばに「ABC鉄道案内」が置かれていた。続いて、Bexhill(ベクスヒル)でBettyと呼ばれていたElizabeth Barnardという名前の女性が殺され、さらにChurston(チャーストン)でSir Carmichael Clarke(カーマイケル・クラーク卿)が殺され、いずれの死体のそばにも「ABC鉄道案内」が置かれていた。
1936年に発表されたアガサ・クリスティの長編推理小説「ABC殺人事件」(The ABC Murders)である。このように並ぶと、次はDで始まる場所で、D・Dというイニシャルをもつ人物が殺されるだろうと誰しもが思う、というところが作品のおもしろいところであるが、前後の順序から「誰しもが思う」ことは確実にある。
日本語の歴史ということを考えようとした場合、「歴史」だから当然時間軸を意識することになる。『日本国語大辞典』の見出し「あかぼし[明星・赤星]」には次のようにある。
あかぼし【明星・赤星】
【一】〔名〕
(「あかほし」とも)
(1)明るく、または赤く輝く星。流れ星。
*万葉緯〔1717頃〕一七「尾張国風土記〈略〉玉置山〈略〉亦有二一小石一、昔人云赤星之所レ落也」(2)夜明け頃、東の空に輝く金星。明けの明星(みょうじょう)。
*神楽歌〔9C後〕明星「〈本〉安加保之(アカホシ)は 明星は くはや ここなりや 何しかも 今夜の月の 只だここに坐すや」
*色葉字類抄〔1177~81〕「明星 ミャウシャウ、アカホシ、〈略〉太白 同」
*山家集〔12C後〕下「めづらしな朝倉山の雲ゐより慕ひ出たるあかぼしの影」*書言字考節用集〔1717〕二「啓明 アカボシ 一名太白星。俗云暁明星」【二】
〔一〕木星。
*十巻本和名類聚抄〔934頃〕一「明星兼名苑云歳星一名明星〈世間云一名阿加保之〉」
*観智院本類聚名義抄〔1241〕「歳星 アカホシ」
〔二〕さそり座の中心に輝く星。豊年星。大火(たいか)。アンタレス。《季・夏》
〔三〕神楽歌の曲名。
*狭衣物語〔1069~77頃か〕三「大将殿、『あかぼし』謡ひ給へる」
*弁内侍日記〔1278頃〕寛元四年一二月一二日「あかぼしのこゑもさこそはすみぬらめ庭火に月の影ぞうつろふ」
*無言抄〔1598〕下・三「冬〈略〉かぐらのうたひものみな冬也。〈略〉明星、きりきりす、からかみ〈略〉など、その外うたひものみな冬なり」(略)
〈音史〉古くは「あかほし」と清音か。
『日本国語大辞典』が(語義の別は措くとして)使用例として示しているものの中で、第3拍濁音語形「あかぼし」の例は「山家集〔12C後〕」「書言字考節用集〔1717〕」「狭衣物語〔1069~77頃か〕」「弁内侍日記〔1278頃〕寛元四年一二月一二日」である。もっとも古い例は「狭衣物語」の例で、11世紀の例ということになる。『日本国語大辞典』が使った「狭衣物語」は日本古典文学大系『狭衣物語』で、その底本は内閣文庫本であり、同一系統の諸テキストを使って「校合」されている。それはそれとして、『日本古典文学大系』の『狭衣物語』は校訂者が濁点を補っている。すなわち校訂者が濁音と推測した場合は、底本に濁点がなくても濁音として翻字している。
例えば13世紀に成った『観智院本 類聚名義抄』は和訓にアクセントをあらわすために声点を施すことがある。濁音には点を2つ打つ。『日本国語大辞典』があげる「歳星」の和訓「アカホシ」には残念ながら声点が打たれていない。1行前に「明星」があり、そこにも和訓「アカホシ」がある。それにも声点が打たれていない。だから、『観智院本 類聚名義抄』では、清濁の判定ができない、という判断がもっともたしかな判断ということになる。しかしまた「アカボシ」であるのだったら、声点を打ちそうなものだが、と少し思ったりもする。
何が言いたいかといえば、『日本国語大辞典』があげている使用例をみると、第3拍清音形「アカホシ」と第3拍濁音形「アカボシ」とがどのあたりで交錯し、「アカボシ」が優勢になっていくのか、という「過程」が読みとりにくいということだ。それを読みとろうとする時に、11世紀に成立した「狭衣物語」によって、あるいは12世紀後半に成立した「山家集」によって、第3拍濁音形がきちんと確認できるのか、ということだ。
『日本国語大辞典』は「狭衣物語」の出典として『日本古典文学大系』を使っただけです、ということになるのかもしれない。しかしそうであっても、上記のように、使用例を並べて提示した時に、そしてもちろんそれは当該語の歴史を考えるための情報として提示されているはずなのだから、それをみた辞書使用者がそこに「史的変遷」を読みとろうとすることはきわめて自然な行為であろう。そこに、読みとりや解釈を阻害する情報がもしも含まれているとすると、それによって読みとりがミスリードされることになる。そのあたりを、やはり「日本国語大辞典を使う人のために」というような「マニュアル」を用意することによってカバーできるといいのではないかということだ。
▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回は6月16日(水)、佐藤宏さんによる回答編です。
ジャパンナレッジの「日国」の使い方を今野ゼミの学生たちが【動画】で配信中!
“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
『日国』に未収録の用例・新項目を募集中!
会員登録をしてぜひ投稿してみてください。
辞書・日本語のすぐれた著書を刊行する著者が、日本最大の国語辞典『日本国語大辞典第二版』全13巻を巻頭から巻末まで精読。この巨大辞典の解剖学的な分析、辞書や日本語の様々な話題や批評を展開。