「指月の地(伏見区にある観月橋周辺の宇治川河畔の地域)」は、平安期より月見の名所として知られ、平安貴族の著名な別荘地であった。この地に強く惹かれていた豊臣秀吉は、天下統一を果たしてまもなく「指月城」を最初の城として建造している。別名の「伏見城」や「伏見桃山城」は有名であるが、戦国時代の不思議な因果の中で「幻の城」とも呼ばれており、その理由を知る人は少ないだろう。実は2015(平成27)年に、指月の地において伏見城築城の前段階に建てられた指月城の遺構が発見され、その全貌が420年のときを超えてようやく解き明かされつつある。最新の情報をもとに、指月の地に始まる指月城の歴史を紐解いてみよう。

 まず、伏見城は築城から廃城までがわずか30年間という短い期間であったこと。そして、その間に4回も作りかえられているということが重要なポイントである。経緯が複雑なので、その歴史を4つに大別し、ひとつひとつを書き並べてみる。

(1)始まりは1592(文禄元)年のこと。豊臣秀吉は自身の隠居所として、「指月屋敷」の建設に着手した。

(2)翌1593(文禄2)年。秀吉は「指月屋敷」の建設半ばで、「指月城」の建設を新たに着手する。そのため、本格的な城郭を有する城として「指月屋敷」は改築された。1594年、「指月城」完成。だが、わずか二年後に京都を襲った「慶長伏見大地震」で「指月城」は全壊してしまう。

(3)秀吉は、「指月城」のあった「指月の地」から1キロほど離れた木幡山(こはたやま)に場所を移し、新たな城を築城する。これを「伏見城」という。秀吉は晩年をここで過ごし、生涯を閉じた。現在、京阪電鉄・伏見桃山駅近くにあるこの場所には、「伏見桃山遊園地跡」とし、「伏見城」の模擬天守閣がシンボルとして残されている。

(4)秀吉没後、1599(慶長4)年に徳川家康が「伏見城」へ入城する。城はその翌年に起こった「関ヶ原の合戦」の前哨戦で焼失。そこで、家康は1601(慶長6)年に三度めの再建を実現する。だが、その後の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。「伏見城」はついに廃城が決められる。1623(元和9)年、天守は二条城に移築され、一部の建築物や資材は淀城(伏見区)や福山城(広島県)に利用されたとされている。

 2015年に行なわれた発掘調査では、これまで所在地が不明で幻とされてきた指月城の金箔瓦をはじめ、石垣や巨大な堀などが出土している。これにより、実際にあった場所が初めて確認されたばかりでなく、秀吉らしい煌(きら)びやかさで、月の名所にふさわしく、様々な贅を尽くした城であったことがわかってきている。


伏見の町を見下ろす運動公園のシンボルとなっている、伏見桃山城天守閣と小天守閣。レジャー施設時代の残存物であるが、本格的な造りから映画の撮影などにも使用されている。


「コトバJapan!~ニッポンの“いま”を知る~」は本稿をもって終了いたします。
5年間、お付き合いいただき、ありがとうございました。
(編集スタッフ一同)
   

   

京都の暮らしことば / 池仁太   


池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。
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