金属や硬い鉱物の面に紋様や文字を彫りつけ、その印痕(いんこん)を文書に押し付けて残し、文書の信頼性を保証するもの。その使用がもっとも盛んだったのは中国であるが、その起源は古代オリエントだったようである。中国では古くは「印」といわず「(じ)」または「璽(じ)」といっていたが、秦(しん)の始皇帝が、「われ」ということば「朕(ちん)」を皇帝の専用にしたように「璽」は皇帝のみ、臣下は「印」とよばせるようにしたという。
中国の文献にみえるもっとも早い例は、『春秋左氏伝』の襄公(じょうこう)29年の条に「公還(かえ)りて方城に及ぶとき、季武子(きぶし)、卞(べん)を取る。公冶(こうや)をして問わしむ。璽書して追いてこれに与えて曰(いわ)く、卞を守る者将(まさ)に叛(そむ)かんとするを聞き、臣、徒を帥(ひき)いて以(もっ)てこれを討じ、すでにこれを得たり。敢(あえ)て告ぐと」とある「璽書」とは王の璽をもって封じた命令書である。紙の使用が広まる以前は、木片に文書をしたため、それを紐(ひも)で封じて、封じ目に粘土を詰めて、それに印を押したのであった。これを「封泥(ふうでい)」といい、その遺物が、清(しん)朝の末期以来、大量に発見されている。なお、左伝の記事のある魯(ろ)の襄公の29年は、周の霊王の27年にあたり、紀元前545年で、春秋時代の中葉である。「璽」の様式はいろいろあり、『呂氏(りょし)春秋』の適威(てきい)編に「民の上に於(お)けるは、璽の塗(と)におけるがごとし、これを抑うるに方を以てせば則(すなわ)ち方、これを抑うるに円を以てせば則ち円なり」とある。「塗」とは粘土のことで、そこに四角の璽を押し付ければ四角の形がつき、円い璽を押せば円い形がつくといっている。事実、春秋戦国時代(前8世紀~前3世紀)の印璽が近世になって大量に発見されているが、四角いのや円いのや変形のもの、また文字だけでなく、図様を彫ったものもある。中国では「円筒印章」は用いられなかったようであるが、1面だけでなく、両面から6面に及ぶ多面の印がある。材質は玉(ぎょく)や金などもあるが、いちばん多いのは青銅で、鋳造がもっとも多いが、たがねで文字を彫りつけたものもままある。印面の反対側がつまみになっているものが多く、これを「鈕(ちゅう)」というが、動物の形を鋳出したものが多い。その形によって、「虎鈕(こちゅう)」とか「亀鈕(きちゅう)」とかよばれるが、そのほかに、「瓦鈕(がちゅう)」とか「壇鈕(だんちゅう)」とかいろいろな形があり、塔のような形をした「重屋鈕」などというのまである。
中国で印がもっとも盛んに用いられ、また制度が整ったのは漢代で、近世になってから印章をつくることを「篆刻(てんこく)」といって、芸術の一部門として発達するようになってから、その模範とし、理想として貴ばれたのは「漢印」であった。「印章」はもともとそれを業とする工人が、美しく整ったものを作製すべく努力をしたのはもちろんであるが、本来、実用品であって芸術とされてきたものではなかった。それが、近世になって、読書人のたしなみとして、詩、書、画とともに篆刻が東洋固有の芸術の一部門に数えられるようになったものである。
印章には官府から発給される「官印」と、私人の作製し使用する「私印」の2大別がある。「官印」は、文書の封緘(ふうかん)に用いられるだけでなく、それを所持することによって、官吏としての身分を証明するものでもあった。漢印の鈕の下部には紐(ひも)を通すすきまがあり、そこに「綬(じゅ)」とよばれる組紐を通して、その「綬」をもって身体に佩用(はいよう)するのである。戦国時代の末期に活躍した、いわゆる縦横家(じゅうおうか)の一人、蘇秦(そしん)が、六つの国の合従(がっしょう)を策し、六国の相(しょう)の印を佩(お)びて、不遇の時代に侮られた故郷の人々に誇示したということは、司馬遷(しばせん)の『史記』(巻69)に記されて有名な話である。これは、六つの国の代表者としての権限を与えられたことを表明するものである。
漢代の印は多く青銅製であるために、土中に埋められても損傷することなく、完全なものがたくさん発掘されているが、「綬」は腐敗してしまったらしく、今日までのところ一つも現物は発見されておらず、文献にも詳細な記載はなく、その形もはっきりわからない。また、今日の勲章の大綬のように肩からつり下げたものか、腰に巻き付けたものか、どちらとも知りがたい。
印と封泥は、三国時代の魏(ぎ)や、その次の晋(しん)のころまではなお使用されていたが、南北朝の末になると、木簡(もっかん)の使用はもはや廃れ、紙が用いられるようになると、紙に朱(しゅ)の印肉で押されるようになり、大きさや鈕の形にも大きな変化が生じた。漢、魏、晋の印はおおむね直径1寸以下であったが、南朝や隋(ずい)・唐(とう)の官印には面積でその4倍以上のものが多い。
日本ではすべて唐の制度を模倣した奈良朝の印は、官府のも寺社のもすべてやはり大きなものであった。
中国では宋(そう)・元(げん)時代の官印はやはり大きなものが用いられた。元代には、漢字でなく、パスパ文字の印が用いられている(同じく征服王朝であった清(しん)朝は、満文と漢文を一つの印の中で併用している)。
宋・元時代から、絵画が画工の手から文人の余戯としての文人画に発達していったように、印章も読書人が自ら手がけるようになり、元代の末に王冕(おうべん)(1335―1409)が、花乳石という専門の工人でなくても容易に彫ることができる石材を発見してから、多くの文人たちがこれを手がけるようになり、明(みん)朝になると、有名な文徴明の子の文彭(ぶんほう)(1498―1573)のように、篆刻の大家といわれる人が現れる。
文彭に続いて名をあげたのは何震(かしん)(生没年不詳)で、文・何と併称された。このあと、篆刻は独特の芸術として大いに発展したが、清朝になって、浙江(せっこう)省銭塘(せんとう)を中心に多くの篆刻の名手が輩出し、浙派(せっぱ)といわれて後世まで大きな影響を与えている。浙派に対抗して、安徽(あんき)省にも篆刻の一大勢力がおこり、安徽の古名によって皖派(かんぱ)とよばれる。清朝末期の呉譲之(ごじょうし)(1799―1870)、趙之謙(ちょうしけん)(1829―1884)、呉昌碩(ごしょうせき)(1844―1927)などに至って篆刻芸術は頂点に達したが、呉氏の後を継ぐ者はなく、中華人民共和国の斎璜(せいこう)(白石(はくせき)。1863―1957)などは人民芸術家という特別の待遇を受けて尊重されていたが、その画や書と同じく篆刻作品もはなはだ粗暴で、清朝の大家に比ぶべきものではない。清末から民国にかけて、呉昌碩らが結成して篆刻の発展に寄与してきた西泠(せいれい)印社は、このごろふたたび活動を開始し、王福庵などのように、かえって世間的にそれほど著名でない人々が地道な作品をおりおり発表している。
日本で書道がブームだといわれているように、中国でも「書法」はなかなか盛んで、それに付随して篆刻も書法の雑誌などに掲載されている。日本の書道が現在ほとんど展覧会向けのデザイン強調が主流となっていることの影響を受けているらしく、中国現代の「書法」もだいぶ荒っぽいのが目だつが、篆刻も同様であるように思われ、粗雑なのが多いのは悲しいことである。
日本の律令(りつりょう)制度は、隋・唐の印章の制度を輸入し、天皇の印(内印(ないいん))は方3寸(8.7センチメートル、1寸は2.9センチメートル)、太政官(だいじょうかん)の印(外印(げいん))は方2寸半、諸司の印は方2寸2分、諸国の印は方2寸と定められ、中央政府で鋳造した銅印が頒布(はんぷ)された。私印は一般には認められなかった。印章は、初め文書の紙面全体または字面全体に押して、証拠のしるしとするのが原則であったが、しだいに文書の要所にのみ押すようになり、まったく捺印(なついん)しない公文書も平安時代中期から現れるようになった。これは花押(かおう)の発生とも関係があり、印章にかわって署名や花押が文書の証拠とされ、それが一般化したためであろう。鎌倉~室町時代の武家文書がまったく無印であったことも、時代の趨勢(すうせい)によるもので、役所の印章よりも、権力者個人の表徴としての花押のほうが、より重要視されたためとみられる。
官印の衰退とは逆に、中世には私印が発達した。古代からわずかに行われていた私印の風習に加えて、宋代禅林の私印の流行が鎌倉時代に日本に伝わり、禅林風の印章が花押にかわって五山(ござん)の僧侶(そうりょ)間に普及した。書画の落款(らっかん)に用いられることが多く、蔵書印もしだいに多くなった。印面の形体も、正方形のほかに円、楕円(だえん)、小判、壺(つぼ)、鼎(かなえ)、菱(ひし)、矩形(くけい)など各種のものが現れた。木が印材の主流を占めるようになるのも中世からであり、また朱に油を混ぜた朱肉が用いられるようになった。
私印の流行は、花押の使用にも影響を与え、鎌倉時代に現れた版刻の花押は、しだいに多く使用されて、近世に至ると花押を籠字(かごじ)(文字の輪郭をとる縁どり文字)に刻んで、これを押した上に填墨(てんぼく)する方法も現れ、印章は、自署のかわりとして発生した花押にかわる役目をもつに至った。
戦国時代の武将は、好んで各種の印章を用い、その発給する文書に押した。これを印判状(いんばんじょう)といい、朱印状(しゅいんじょう)と黒印状(こくいんじょう)の別があった。同じ印文でも朱、墨の2種があり、一般に朱印のほうが厚礼とされた。戦国武将が用いた印章には、吉祥句や政治上の理想を表すものが多く、また神仏の名や、霊力・威力のある動物の図が用いられた。北条氏の「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」、今川氏の「如律令(にょりつりょう)」、織田信長の「天下布武(てんかふぶ)」、上杉氏の「立願勝軍地蔵摩利支天飯縄明神(りつがんしょうぐんじぞうまりしてんいいづなみょうじん)」、武田氏の竜印などが有名である。
近世においても、徳川将軍に朱、墨2種の印章があり、石高(こくだか)の承認や、渡海証明などに朱印状、黒印状が与えられた。各大名もこれに倣って印章はますます流行した。印章の使用は庶民にも広まって証文に押されたが、百姓・町人は朱印を用いることはできなかった。印章の流行に伴い、印章の正否を判断するため、照合用にあらかじめ印影を登録しておく必要が生じた。この登録台帳を印鑑といい、今日印章のことを印鑑というのは、この転化である。
明治政府は公印の制度を定め、一般にも証文には花押にかわって登録された実印を用いることが定められた。しかし通常は簡略な認印(みとめいん)や、できあいの三文判が使用され、拇印(ぼいん)が代用されることもある。はんこの煩わしさが問題にされながらも、印章は今日では日常生活に欠かせないものとなっている。
なお、印影は書道芸術として鑑賞の対象となるものであり、古印や篆刻家の刻印の印影を集めた印譜が珍重される。また印章そのものも美術品として価値の高いものがある。
印章の起源はきわめて古く、すでに紀元前四千年紀のオリエントでその使用が認められる。その用途は主として王権の表示、認可、封印などであり、粘土板の文書に押捺(おうなつ)された。形式はスタンプ(押し型)とシリンダー(円筒)の二つがあり、後者は粘土板上に回転されることで印影を得た。
ヨーロッパの印章は、このオリエントの印章が東部地中海域に伝わったことから始まる。そのもっとも初期の例は、前2500年ごろのクレタ島にみられるスタンプ形のもので、オリエント的な獣文や神話的主題に加えて、樹木や海棲(かいせい)動物が印影として現れてくる。素材は凍石、硬玉などの石が主であるが、クノッソス宮殿址(し)からは粘土製の人物文印章も出土している。また、楕円(だえん)形の印面をもつ金製指輪も発見された。クレタ島にやや遅れて、ギリシア本土のミケーネ文明では、クレタの影響のもとに、獅子(しし)、人物、狩猟などの図柄に、ミケーネ本来の主題をみせている。ただし、ミケーネ出土の印章のなかには、クレタで製作されたものが多いことも指摘されている。
ミケーネは前1200年ごろからしだいに力を失って、印章製作も不活発となるが、前8~前7世紀ごろにギリシアは都市が力を増し、貴族たちが地位を確立して、印章はふたたび需要を取り戻すことになる。この時期には、エジプトから流入した聖甲虫(スカラベ)形の印章や貨幣形の印章が盛んにつくられ、とくに貨幣とは図柄のうえで密接な関係が認められる。またアテネ市で市の象徴としてフクロウが盛んに用いられたように、スフィンクス、跳ぶ馬、牡羊(おひつじ)などは貨幣にも印章にも愛好された主題であった。アレクサンドロス時代はとくに勅封などの必要で印章の重要性が強まったが、彼自身の玉璽(ぎょくじ)の図柄は不明である。アレクサンドロス以前から、高官たちもすでに個人印をもっていたが、ローマ時代に入ると、印章に自分自身や先祖の肖像を刻むことが行われ、また一般人の間でも神像や牡牛、鳥、仮面などを刻んだ指輪形の認印が普及した。
13世紀ごろまでに、印章は、一定の規約に従って使用される体系を整えてきた。母型の多くは鋳造された銅製で、大きいものは直径10センチメートルを超える場合もある。中世の印章の使用法は、文書などに蝋(ろう)を用いて型を押すものと、文書の末端にリボン、絹紐などを取り付け、これを封蝋する垂下印とに大別される。形は円形のほか盾形や両端のとがった楕円などがあり、主題は象徴や紋章、聖職者、建物など多様である。しかし、18世紀ごろからはしだいに封印としての役割は少なくなる。ナポレオン1世時代やビクトリア時代に、一時的に装飾性の強い印章の復活をみるが、一般に署名に置き換えられるようになり、個人的な趣好で残される場合以外は衰微した。現代では、印章はもっぱら企業体、団体、個人などの保証や認可のしるしとして用いられる。