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江戸後期を代表する京都の文人陶工、南画家。明和4年京都祇園縄手(ぎおんなわて)の茶屋「木屋」に青木佐兵衛の子として生まれる。通称木村佐兵衛、号は木米のほか青来、百六山(散)人、古器観、九々鱗、聾米(ろうべい)など数多い。富裕な家系の子弟である木米が陶工の道を選んだ動機は、大坂の文人木村蒹葭堂(けんかどう)宅で中国清(しん)朝の朱笠亭(しゅりゅうてい)の著『陶説』を閲読したことによる。また書画に巧みな京都の高芙蓉(こうふよう)を訪ねて絵画や書の手ほどきを受けたらしい。木米は古銅器や古銭をも賞翫(しょうがん)するあまり鋳金技術も習得していたといわれている。江戸後期に流行した中国趣味に存分に浸って成長した木米は、書画、工芸諸般の技術を体得したが、結果としては南画と煎茶(せんちゃ)道具を主体とする陶磁器に彼の才能は絞られていった。陶工としての木米は、建仁寺に住んでいた奥田穎川(えいせん)に師事し、穎川の始めた磁器製法を煎茶道具に応用し、中国の染付(そめつけ)、赤絵、青磁、交趾(こうち)焼の技術と様式を受け止めつつ、南蛮焼(東南アジアの焼締陶(やきしめとう))、朝鮮李朝(りちょう)時代の陶磁の作風も加味して、江戸後期らしい多種多彩な焼物を残した。1824年(文政7)58歳のころ、彼の作画や作陶がもっとも円熟した時期に、耳が不自由になり聾米の号を使い始めた。南画では『兎道朝潡図(うじちょうとんず)』『新緑帯雨図』『騰竜山水図』などが有名。天保(てんぽう)4年5月15日没。