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江戸初期の漢詩人。名は凹(おう)。丈山は字(あざな)。六六山人、四明山人、凹凸窠(おうとつか)などと号した。代々徳川氏に仕える三河武士の家に生まれたが、大坂夏の陣のとき軍律を犯してとがめを受けたため武士を捨て、藤原惺窩(せいか)に入門して詩を学んだ。1641年(寛永18)洛北(らくほく)一乗寺に詩仙堂を築いて隠棲(いんせい)し、林羅山(らざん)、元政上人(げんせいしょうにん)ら当時著名な文化人との風雅の交友を楽しみ、詩文に遊ぶ自適の生涯を送った。詩仙堂の名は、中国の詩人36人を選んで狩野探幽(かのうたんゆう)にその像を描かせ、壁に掲げたことにちなむ。儒学に比して漢詩の地位の低かった江戸初期に、詩作をもっぱらとした点で特異な存在であり、作品は『新編覆醤集(ふしょうしゅう)』に収められる。とくに「富士山」と題する七絶、「仙客来遊す雲外の巓(いただき)。神竜栖(す)み老ゆ洞中の淵(ふち)。雪は紈素(がんそ)の如く煙は柄(え)の如し。白扇倒(さかさま)に懸(かか)る東海の天」は人口に膾炙(かいしゃ)する。