政治家。秋田県の生まれ。秋田県立湯沢高等学校を卒業後、上京し就職するがほどなくして帰郷。二浪して法政大学法学部政治学科に進学する。空手道部に4年間在籍し空手道二段。1973年(昭和48)3月同大学卒業。1975年政治家を志し大学OBで自由民主党(自民党)衆議院議員の中村梅吉(1901―1984)の秘書を通じ、同じく同党衆議院議員の小此木彦三郎(おこのぎひこさぶろう)(1928―1991)の秘書となり、11年間務めた。小此木が通商産業大臣(現、経済産業大臣)になると大臣秘書官となった。1987年4月神奈川県の横浜市会議員選挙で当選、1991年(平成3)に再選され2期務める。1996年10月の第41回衆議院議員選挙に神奈川2区から自民党公認で出馬し当選、その後7期連続当選(計8期)。自民党では当初「平成研究会」(小渕(おぶち)派)に属したが1998年7月の自民党総裁選挙で派閥会長の小渕恵三ではなく梶山静六(かじやませいろく)(1926―2000)を支持し小渕派を脱会、「宏池(こうち)会」に移るが、2009年(平成21)9月に宏池会を脱会し、以後無派閥。2006年9月の総裁選挙で安倍晋三(あべしんぞう)を支持し、第一次安倍内閣で総務大臣(郵政民営化担当大臣を兼務)として初入閣。その後、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)にもなった。安倍退陣後の2007年9月の総裁選挙では宏池会の推す福田康夫ではなく麻生太郎(あそうたろう)を支持した。2012年9月の総裁選挙では甘利明(あまりあきら)(1949― )、麻生太郎とともに安倍晋三の総裁復帰を目ざし、安倍新総裁のもとで党幹事長代行に就任した。2012年12月の第二次安倍内閣発足にあたり官房長官に就任、2020年(令和2)9月に退任するまで8年近く官房長官の座にあり、これは歴代第1位の在職期間(2822日)である。2020年8月に安倍が病気を理由に退任を表明するとすぐに幹事長の二階俊博(としひろ)(1939― )と会談して総裁選出馬の意向を示し、二階派が菅支持を打ち出すと最大派閥の細田派を筆頭に麻生派、竹下派、石原派が次々と支持を表明し菅総裁への道が一気につくられた。翌9月の総裁選挙では、都道府県票141票中89票、国会議員票393票中288票、計377票と全体の7割の得票で石破茂(いしばしげる)(1957― )、岸田文雄(1957― )に圧勝した。「二世議員」ではない自民党総裁は2000年の森喜朗(もりよしろう)以来である。9月16日の臨時国会の首班指名選挙を経て第99代内閣総理大臣に就任した。総務大臣および官房長官時代には官僚の人事権を駆使した官僚の統制を行い、いわゆる「忖度(そんたく)する」官僚をつくりだした一人とされる。2012年以降の安倍政権では内閣の「顔」として、「森友学園問題」「加計(かけ)学園問題」「桜を見る会問題」など首相にかかわるさまざまな疑惑については全面的に否定し政権を支え続けた。「二世議員」でなく市会議員から国会議員となったたたき上げの政治家で、派閥に属していた時は派閥の決定に何度か従わず、所属派閥を変えたりしながら、最終的には派閥に属さない状態で総理総裁にまで上り詰めたのはきわめて異例である。
2021年1月21日