図書館は、図書その他の資料を収集・保存し、一般あるいは特定の利用者のため、閲覧、貸出し、参考調査(レファレンス)などのサービスを提供する機関である。この語は英語のライブラリーlibraryの訳語として、明治中期から使われ始める。それ以前には「文庫」「書籍館(しょじゃくかん)」などが使われていた。libraryには図書館のほかに、図書コレクション、叢書(そうしょ)の意味があり、ギリシア語語源の英語bibliothecaも同じであるが、日本語では図書を収集・保存する場所の意がとられた。
図書館の機能は時代とともに変遷している。現代の図書館が収蔵する資料は図書、雑誌に限らない。さまざまな種類の印刷資料のほか、利用者の需要に応じ、音の資料(レコード、録音テープ、CDなど)、目で見る資料(フィルム、写真など)、点字資料、CD-ROM、コンピュータ処理の電子データなどが対象になりうる。社会教育施設としての図書館は読書活動以外に、利用者の啓蒙(けいもう)と生涯学習のための種々の活動を行っている。児童のための読み聞かせ、障害者のためのサービスも重要な活動となっている。現代の図書館は、文献資料を中心にした各種情報要求にこたえ、資料検索の仕組みをコンピュータ化している。また、1館ごとの存在では十分に機能を発揮しえなくなり、図書館相互のネットワークおよび地域内や全国的なシステムづくりを行っており、さらにインターネットを通じて世界各国からの電子化した資料も利用できるようになっている。
2021年1月21日
図書館の歴史は古く、文字文化の発生とともにある。古代オリエント、エジプト、中国、インドには古代の文献保存の方法と場所があった。古代の文献は国や地域によってその材料が異なり、保存法も違っていた。中国の竹簡(ちっかん)、木牘(もくとく)、メソポタミアの粘土板、エジプトのパピルス(ナイル河畔に多産の植物)、インドの貝多羅葉(ばいたらよう)(ヤシの葉)は古い文献時代の代表的材料であった。古代の文献保存所は、文書の保管所であったのか、書物の図書館であったのかさだかでなく、図書館の成立についてもまた不明な点が多い。ただし、寺院、王宮に結び付いて存在した点は認められる。アッシリアの古都ニネベ、バビロニアのニップール、ヒッタイト王国のボアズキョイの発掘では粘土板を集積した場所がみいだされている。
2021年1月21日
ヨーロッパではギリシアのヘレニズム文化の興隆、中国では漢の武帝あたりから、組織体としての図書館が記録にとどめられている。図書館としての機能をはっきり示す最古の大図書館はアレクサンドリア図書館であろう。プトレマイオス王朝(前4~前1世紀)の庇護(ひご)のもとに設立された学問所図書館で、ギリシア語写本をパピルスの姿で収集し、収集のためには、ギリシア本土から、あるいはこの地に寄港する船から写本を取り寄せて写し取っていた。紀元前47年にカエサルにより焼き払われたときには、70万の巻子(かんす)があったといわれている。図書館の管理に携わった8人の名前が知られているが、ゼノドトス、エラトステネス、ビザンティンのアリストファネスらは、当代有数の学者であった。図書館員は、最良の写本を選別する目をもち、テキストの校訂を行っていた。ヘブライ語などをギリシア語に翻訳するのも図書館員の仕事であった。カリマコスの編纂(へんさん)した『ピナケス』は、この図書館の蔵書目録というよりは、当時の著作の分類目録とされている。古代第二の図書館は、アレクサンドリアに対抗してアッタロス王朝のエウメネス2世(前2世紀)が学者を集め、王宮に建てたペルガモン(現、トルコ)の図書館であった。
古代ローマの図書館はアレクサンドリアの型に倣ったが、写本は職業としても成り立ち、写本取引は地中海全域に広がっていた。プリニウス(大)の『博物誌』Historiae Naturalisのように、文献コレクションをもとに書かれる本も現れた。政治家と軍人の実務社会であった古代ローマでは、彼らの権勢を示すためにつくられた個人図書館も多く、これらはある程度学者や市民にも公開されていた。東方に遠征する将軍は戦利品としてギリシア語文献を持ち帰っていた。カエサル自身も公開の図書館建設を企画したといわれ、アシニウス・ポリオGaius Asinius Pollio(前76―後5)の「自由のアトリエ」、文人キケロの蔵書は有名であった。初期キリスト教のコレクションは、紀元後3世紀初頭すでにエルサレムとカエサリアにあった。
西欧中世の図書館はキリスト教教会を中心に発達した。ローマ帝国の分裂により、東のビザンティン帝国と西のローマ帝国に新しい文明が栄えたが、ビザンティン帝国はギリシアの学問と文献収集の伝統を受け継ぎ、10世紀にわたりこれを保った。首都には三つの重要な図書館(帝室図書館、総司教図書館、帝室学問所図書館)があったが、古代の文献を保存し、東方世界に伝えた意義は大きい。ここはイスラム世界との接点であり、窓口でもあった。民族移動による混乱を終えた西ヨーロッパは、9世紀のカール大帝の統一により文化建設が実現する。大帝の「カロリング朝ルネサンス」は、宮廷図書館の設立、領土内各地の修道院・学校の建設、法規の集成を含み、小文字を取り入れた書体の改良から書写活動も進んだ。
中世を通じてもっとも発達した図書館は修道院・教会の図書館で、ここは書写室・書庫が接近した自家生産型の図書館であった。材料も羊皮紙に変わり、巻子から綴本(とじほん)への移行もみられた。13世紀からキリスト教中世が解体の方向に向かうと、修道院や教会の図書館は衰え、かわって世俗の文化の担い手が現れ、安価な書写材料としての紙が普及し、写本も商取引の対象となるにつれ、領主貴族の図書館、市会の図書館が出現する。百科事典の試みが相次ぐのは14世紀であり、愛書家や個人文庫の誕生もみられる。ロベール・ド・ソルボンRobert de Sorbon(1201―1274)によるパリの学寮設立は大学図書館の成立を促す。ここでは1289年に図書館ができ、14世紀なかばには1700冊が所蔵されていた。大学の設立と同時に図書館が付設される例も出てくる(ハイデルベルク、1386年)。大学図書館の蔵書は主題分類に従っていた。本は書見台に横たえられるか、そこに取り付けられた棚に並べられ、おのおの鎖で台か棚かにつながれていた。この姿は中世の領主図書館、修道院図書館にもみられるが、繰り返し利用されることを前提としていた。
イスラム世界の図書館は、口伝のコーランが集成され写本ができあがるころ(7世紀)から栄える。8世紀には紙が中国から伝来し、バグダードに製紙工場が完成する。11世紀アッバース朝では学術研究が栄えた。図書館は首長や文学・学術団体が宗教・歴史の知識を普及するために設けられた。10世紀バグダードの本の家(ダール・アル・クトゥブ)、知識の家(ダール・アル・ヒクマ)が知られ、イスラム寺院(モスク)には至る所に図書コレクションがみられた。アル・ナディームの分類体系は、中世から19世紀まで使われた。図書館の利用者は限られていたが、図書館は無料で開かれ、紙やインキが用意されており、貸出しも保証金があれば行われていた。
2021年1月21日
ルネサンスと宗教改革、そして印刷術の発明で始まる西欧近代は図書館の基盤を築いた。人文主義時代のイタリアでは君公、学者のもとに、現在に残るコレクションが次々とつくられた。フィレンツェのメディチ家の司書ニッコロ・ニッコーリNiccolo Niccoli(1364―1437)は主家のため各地で写本を集めて回った。ルターによる宗教改革は、中世を支配したカトリックの基底を揺るがし、そのため旧教諸派、新教ともに教団、学問所を強化した。16世紀には大学も両派のものがドイツ各地でつくられた。これらの動きを支えたのはグーテンベルクによる印刷術である。写本にかわって印刷本は一般市民の手に届くようになり、大学はこぞって印刷所をもつようになった。印刷図書が写本を圧倒する16世紀にはドイツ各地で封建諸侯のもとに大型コレクションがつくられ始める(ハイデルベルクのパラティーナ図書館、ミュンヘン大公図書館、ウィーンとプロイセンの宮廷図書館)。それはドイツにおける図書文化の優越した地位に支えられていた。ここではフランクフルト(1564)とライプツィヒ(1594)に書籍見本市が始まっていた。コンラート・ゲスナーの『万有書誌』(1545)は図書館を中心に調べた写本の総目録である。
17世紀は、三十年戦争によりドイツの図書館が全体的に衰え、かわってフランスの図書館が決定的な影響力をもった。ヨーロッパ第一の文化国となっていたフランスは学術研究にも力を示し、アカデミー・フランセーズの成立(1635)、学術雑誌の刊行(『ジュルナール・デ・サバン』Journal des Sçavans, 1665)で他に先駆けた。この世紀のフランスの図書館で大きな影響力をもったのは王立図書館(ビブリオテーク・ド・ロア)であった。成立は16世紀初頭、フランソア1世の時代とされるが、法令による義務納本制を初めて施行し、国内全出版物を収集・保存できる国の中央図書館を実現させた。フランスの宰相マザラン卿(きょう)は司書ガブリエル・ノーデGabriel Naudé(1600―1653)の助力でマザラン図書館をつくったが、ノーデは徹底した収書方針を貫き、1643年、図書館を毎日一定時間開放する原則をたてた。ノーデの考えは『図書館建設に関する意見』Avis pour dresser une bibliothèque(1627)として著されている。イギリスの政治家トマス・ボドリーSir Thomas Bodley(1545―1613)も同じ時代に司書ジェームズThomas James(1573?―1629)の力を得て、母校オックスフォード大学の図書館を再建した。書籍商組合からの納本を受け、蔵書目録の印刷、公開利用も他に先だって行った。
2021年1月21日
18世紀の図書館は、各国の民族意識の高揚と啓蒙(けいもう)思想の普及による、市民の読書の場への要求、利用に値する教養コレクションの成立などにより特徴づけられる。1759年開館の大英博物館は、性格と成立事情はあいまいであったが、その後、個人蔵書の寄贈・遺贈を受け入れ、図書館部門を急速に伸ばした。ロシアのエカチェリーナ2世は、ポーランド分割の機に獲得したコレクションや買い集めた蔵書をもとにペテルブルグの帝室公共図書館の準備を整えた。デンマーク、スペインの王立図書館も18世紀には再興の兆しを示している。大学の学術コレクションは、とくにドイツで、哲学者ライプニッツの理論により、そしてこれを実行したゲッティンゲン大学図書館により、発展の基盤を得た。ライプニッツの思想は、
(1)図書館では独創的な思想はすべて調和のとれた継続として集めるべきである
(2)図書館を支えるのは年度ごとのしっかりした予算である
(3)図書館の職務はこの貴重な財産が利用できるよう目録にとり、開館時間や自由な貸出しを広げることにある
と要約できよう。市民の間には自分たちの自己形成を目的とするクラブ図書館や会員制図書館がイギリス、アメリカにでき、ベンジャミン・フランクリンのフィラデルフィア図書館会社は1731年に設立されていた。また、イギリス各地の職工学校には市や慈善団体の資金でつくられた図書室があり、女性や子供の読書をもまかなっていた。
2021年1月21日
19世紀のヨーロッパはフランス革命とナポレオン戦争で始まり、これらが図書館に及ぼした影響は大きかった。共和制の思想は各地に広まり、情報の伝達、各国の工業化に拍車がかけられた。フランスでは、革命で貴族・教会の財産は没収され、国立図書館(王立図書館から改称)は写本などの蔵書を増やし、『フランス書誌』という一国の図書全体の目録を目ざすものが発足する。ナポレオン戦争で国土を荒らされ、蔵書の多くを没収されたドイツ(とくにライン川左岸)の図書館は再建を迫られた。大学の10校以上が廃校となり、図書資料はほかに移されたり、分散されたりした。図書館の存在意義はここで改めて考え直され、1840年代にはドイツ図書館学を支える学者が輩出、専門誌『セラペウム』Serapeumも刊行されている。
イギリスでは産業革命後の国力の隆盛を受け、ビクトリア女王時代に大英博物館は美術品、図書資料ともに世界第一級となった。時の館長パニッツィSir Antonio Panizzi(1797―1879)による強力な収集方針、円型閲覧室と鉄骨の書庫導入の意義は大きい。しかし急速なコレクションの増加で、増築の手当てはつかず、大英博物館のその後の解体を招いている。19世紀後半には、市民のための真の図書館が成立し、図書館の数は増え、蔵書とその利用は近代的に組織化され、図書館員の養成も始まる。1850年イギリス議会を通過した「図書館法」は自治体に対し、地域住民のための図書館の義務設置を規定し、ここに、税金でまかなわれる無料公開の市民の図書館設立の基盤ができあがった。
アメリカでも同じ動きがおこり、州によっては法の制定がイギリスよりも早かった。この法による公共図書館は19世紀のうちに数を増やしたが、カーネギーによる建物と当初活動予算の援助は両国の運動を助けた。1876年フィラデルフィアの図書館大会を機に成立したアメリカ図書館協会は、急速に数を増した図書館員の共通問題解決の場であった。イギリスの図書館協会が翌1877年成立し、諸国はこれに続いた。1876年はデューイMelvil Dewey(1851―1931)が『十進(じっしん)分類法』(初版)を発表し、カッターCharles Ammi Cutter(1837―1903)が『辞書体目録規則』を発表した年でもあり、ここに図書館資料組織化(分類と目録)に共通の方法が現れた。各国の図書館協会から雑誌の刊行が相次ぎ、1887年にデューイが始めた学校教育による図書館員養成はしだいに諸国に定着していった。19世紀末から20世紀初頭にかけ、大型の目録刊行が目だった。
ベルギーのオトレPaul-Marie Ghislain Otlet(1868―1944)とラ・フォンテーヌは「あらゆる領域、すべての言語の資料」をカード形式の目録に集めたが、こうした作業はもはや個人の手には負えず、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)で挫折(ざせつ)し、彼らの意図は文献検索の方向に引き継がれた。1900年までの蔵書を印刷形式で収録した『大英博物館図書館印刷目録』は代表的なもので、その後、大図書館の目録はどの図書館にとっても資料調査のための必須(ひっす)の参考書となった。
20世紀に入ると、1917年のロシア革命とともに社会主義社会の図書館が出現する。これは読書指導をたてまえとし、年次計画により発展を図る図書館である。非識字者の撲滅と教育の普及により、大衆図書館の数は増え、コルホーズ(集団農場)、工場にも図書館は行き渡っていく。しかし、1990年代に入って社会主義体制が崩壊したことにより、ロシアの図書館は厳しい時代を迎えている。旧ソビエト連邦を構成していた各共和国では、各国独自の言語をもちながらもロシア語で学術を発達させてきた「負の遺産」から抜け出すことが課題となった。
20世紀後半以降になると、これまで以上に、図書館は相互に協力しなければ十分なサービス活動を展開できないまでになってきた。1927年設立の国際図書館連盟International Federation of Library Associations and Institutions(IFLA(イフラ))を中心に国際間の協力も進んでいる。アメリカでは1926年発足のシカゴ大学図書館学科以降、大学院レベルの教育が始まり、図書館に関する学問的研究が進められている。第二次世界大戦以降の技術の進歩は図書館の目録情報のコンピュータ化を推し進めた。また、1990年以降、コンピュータとインターネットの普及により、ネットワーク社会に対応した電子図書館(デジタル・ライブラリー)サービスが各国で行われるようになり、研究開発が進められている。
2021年1月21日
古代から中国の王朝は記録の収集・保存に熱心であった。前代の遺書を収集し、目録を編纂(へんさん)し、歴史を編んでいるが、王朝が倒れると戦火で王室の保存庫は焼失、資料は散逸した。隋(ずい)代以降の官吏登用試験(科挙)は古典の知識を重んじていたため、図書の利用は古くからあった。反面、図書は「本来むやみに大ぜいの人に読ませるものではない」との考え方が支配的であった。秦(しん)の始皇帝は焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)で知られているが、すべての図書を焼いたわけではなかった。漢の武帝は最初の国立図書館の設立を考えたといわれている。東晋(とうしん)の元帝のとき、李充(りじゅう)(生没年不明)は四部分類を完成したが、この図書分類は清(しん)朝の『四庫全書(しこぜんしょ)』に至るまで使われた。歴代皇帝のうちには図書の収集に関心を示す者が多かったが、官立の図書館を建てたり、コレクションの公開利用を考えたりするには至らなかった。王族、高官、学者などの個人の文庫も多く、戦国時代からその例がみられる。読書人の私的蔵書は、宋(そう)代以後、太平に伴って経済力が増したころに有名なものがみられる。宋の李淑(りしゅく)(生没年不明)、宋敏求(そうびんきゅう)(1019―1079)などは、数万巻の蔵書をもっていたので、近くに移り住んだ読書家もいたという。明(みん)代には范(はん)氏の天一閣(てんいっかく)、毛氏の汲古閣(きゅうこかく)、清代では楊(よう)氏の海源閣、瞿(く)氏の鉄琴銅剣楼など、日本にも知られた個人文庫は多い。
近代的図書館の建設は清朝末期に始まり、教育の普及のため各省に図書館がつくられた。北京(ぺキン)図書館(中国国家図書館)は1912年に開館、1916年にはこの図書館への納本が定められた。公共図書館の規定も1915年に公布されたが、経費難で著しい発展はみられなかった。図書館員の養成は、1900年、アメリカのウッド女史Mary Elizabeth Wood(1861―1931)が武昌(ぶしょう/ウーチャン)の文華(ぶんか)大学で教職につき、人材育成に乗り出したときに始まる。図書館協会は1925年に成立、1936年には全国に5196の図書館があったという。抗日戦期には、延安を除き図書館活動は停滞を余儀なくされた。1949年の解放以後、図書館は当時のソ連の型に倣って着実に発展し、とくに農村図書館、労働組合図書館は数を増やした。1966年からの10年間は、文化大革命でふたたび発展は阻害された。とはいえ、北京大学図書館など、学術機関の図書館は豊富な蔵書量を誇っている。「改革開放」政策の進む現代中国の図書館では大図書館の建設が相次いでいる。北京図書館、上海(シャンハイ)図書館、天津(てんしん)図書館、浙江(せっこう)図書館の新館はいずれも高層の書庫棟をもつ近代建築で、コンピュータ利用による業務の機械化にも積極的である。
2021年1月21日
古くからの印刷文化により知られる日本でも、個人の収集を除くと、利用をたてまえとした図書館は発達しなかった。律令(りつりょう)国家の官制に図書寮(ずしょりょう)という名称が出てくるが、独立した図書館ではなく、記録の編纂(へんさん)・保管の場であった。8世紀には個人でも書写・収集する例が現れ、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が自邸内につくった亭(うんてい)という文庫が知られる。875年(貞観17)宮廷文庫の冷泉院(れいぜいいん)が焼けた際、宇多(うだ)天皇の勅により藤原佐世(すけよ)は、中国渡来の書籍が日本にどれだけ保存されているかを調べて、『日本国見在(げんざい)書目録』に1万6790巻を収録した。国書の目録としては弘安(こうあん)・正応(しょうおう)年間(1278~1293)の成立とされる『本朝書籍(しょじゃく)目録』がもっとも古い。江戸時代以前の成立になる図書館としては足利(あしかが)学校と金沢(かねさわ)文庫が知られている。
足利学校は平安時代の歌人小野篁(たかむら)の創設との説があるが、実際には上杉憲実(のりざね)により再建され、知られるようになった。その最古の目録(享保(きょうほう)10年=1725)によると、漢籍を主とし蔵書は501部2895冊を数え、江戸時代を通じて庇護(ひご)されていた。金沢文庫は鎌倉時代の武家の創設にかかり、仏典、和漢の群書などの蔵書は2万冊を超え、横浜市に現存する。江戸時代には、徳川家康が林羅山(らざん)に命じ駿河(するが)城内に文庫をつくらせたが、これは尾張(おわり)の蓬左(ほうさ)文庫、水戸の彰考館文庫、紀州の南葵(なんき)文庫に分かれて受け継がれた。江戸城内には紅葉山(もみじやま)文庫(楓山(もみじやま)文庫)がつくられ、書物奉行(しょもつぶぎょう)がその管理にあたっていた。徳川綱吉(つなよし)は湯島の地に昌平坂(しょうへいざか)学問所をつくっている。加賀前田家は歴代書物愛好の藩主を得、その蔵書は1759年(宝暦9)の金沢(かなざわ)の大火で失われたが、今日なお10万冊の尊経閣(そんけいかく)文庫となっている。個人文庫も国学者塙保己一(はなわほきいち)の温故堂文庫などがあったが、これらは庶民の利用できる場ではなかった。幕末の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)では書物方がオランダ書をはじめとする洋書を研究していた。
2021年1月21日
幕末から明治にかけて、福沢諭吉、市川清流(せいりゅう)(1824―?)、久米邦武(くめくにたけ)、金子堅太郎らの欧米図書館に関する報告と建言が相次いだ。政府は1872年(明治5)湯島の地に書籍館を設けた。この官立図書館はその後東京図書館と名称を改め、1885年には上野公園内に移り、1897年帝国図書館と改称された。一方、大学図書館は1886年東京帝国大学に図書館ができたのをきっかけに、京都が次ぎ、私立大学も慶応義塾大学、早稲田(わせだ)大学など、図書館を整え始めた。1899年「図書館令」の発布で、地方自治体は図書館を設置できることになり「閲覧料を徴集できる」性格のものではあったが、佐野友三郎(さのともさぶろう)(1864―1920)が秋田県で無料公開の原則をたてるなど、何人かの館長は欧米型の経営を実践していた。1892年、25人の図書館員により発足した日本文庫協会は1903年(明治36)私立大橋図書館(東京、九段靖国(やすくに)神社横)で第1回図書館事項講習会を開いた。司書の養成教育が整うのは、1921年(大正10)帝国図書館内に文部省図書館員教習所が開かれてからである。
第二次世界大戦後、図書館は急速に発展した。国立国会図書館の設立(1948)、「図書館法」の発布(1950)、大学設置基準に基づく国公私立大学の図書館付設により、図書館の数は飛躍的に伸びた。1948年(昭和23)の「国立国会図書館法」により成立した国立国会図書館はアメリカ議会図書館をモデルとしていたが、日本の国立図書館としての自覚のうえにたち、『日本全国書誌』の機械可読目録(MARC(マーク))化に成功した。また、2000年(平成12)には東京の上野公園内に国際子ども図書館が部分開館(全面開館は2002年)。2002年10月には関西に電子図書館機能を担う国立国会図書館関西館が開館した。都道府県立の公共図書館は、1950年の「図書館法」の制定で、数を増やして住民に身近な存在となった(2018年時点で3296館)。公共図書館は、地域の図書館としての存在意義をもつようになり、都道府県から中小都市に行き渡り、住民の要求は団地、市街地にも分館や移動図書館を実現させるに至っている。第二次世界大戦後急速に数を増やした大学図書館は、1960年代より蔵書を増やすとともに、大学相互協力の実現、市民への開放に取り組んでいる。大学図書館への書誌情報の提供という面では、国立情報学研究所(2000年4月学術情報センターが改組)が中心的な役割を果たしている。また、司書養成が大学の学部レベルで行われ、情報処理技術の方向を加えて、大学院レベルの研究に向かうようになってきた。
1954年に施行された小・中・高等学校などの学校図書館の規定に関する「学校図書館法」が1997年に改正され、これまで不備だった司書教諭の制度が見直された。司書教諭は、学校図書館の専門的職務を担うとされており、2003年度以降、12学級以上の規模のすべての学校に配置することが義務づけられた。また、2014年にも学校図書館法が改正され、翌2015年から学校司書の設置が法制化された。
第二次世界大戦後再建した日本図書館協会は、大会を通じて図書館員の連帯を強め、国際間の協力にも大きな役割を演じるようになった。
2021年1月21日
図書館は設立主体によって学校図書館、大学図書館、公共図書館、専門図書館と分けられてきたが、後に国立図書館という種類を加えて考えるようになった(「公共図書館」「学校図書館」「国立図書館」「専門図書館」の項参照)。ドイツのように大学図書館と市民の図書館が共通である場合もあり、前記の分類はあくまでも便宜的であるが、人間の成長・発達にしたがい、これらの型の図書館を利用できる。
公共図書館の児童部門を児童図書館ともいい、ほとんどの市町村立の図書館はこれを備えている。ほかに私的なコレクションを開放する家庭文庫が全国的に広まっている。子供のための図書館は、学齢前、小学校低学年、高学年、中・高校生と対象によって集める資料も異なり、設備(書架、机、椅子(いす))もサービスも対象により変えなければならない。また読み聞かせ、ストーリー・テリング、紙芝居、読書相談なども広く行き渡っている。
大学図書館は各大学に付属しており、大学の規模・歴史によってコレクションはさまざまである。蔵書数970万冊以上の東京大学図書館から3万冊程度の短期大学図書館までいろいろある。日本では国立大学と私立大学の格差(学生当りの蔵書数、同座席数など)が大きい。大学図書館は研究と教育のためのコレクションであり、学術雑誌、洋書が重視される。また雑誌は製本してとっておかねばならない。日本で外国の図書が自由に多く買えるようになったのは1960年代以降で、歴史の長い図書館を除いては、まだ基本書収集の段階のところが少なくない。とくに特殊言語となると、欧米の大学に比して日本のコレクションは貧弱である。しかし、どこで何を所蔵しているかが簡単にわかる総合目録が国立情報学研究所により書誌データベース(CiNii(サイニィ) Books)となっており、相互に利用できる仕組みも整ってきた。1980年代以降、大学図書館の多くが機械化に取り組み、また学生・研究者の利用のため、基本参考図書を手にとって見られるようにしているのが普通である。近年は、学修支援機能を重視したラーニングコモンズを設けるところも増えている。
専門図書館は、資料とそれに基づいたサービス活動が専門領域にわたるようになっているが、日本では欧米諸国にみられる専門中央図書館(アメリカの国立医学図書館、国立農学図書館、ドイツの経済中央図書館、科学技術中央図書館など)がほとんどなく、研究所や企業体の資料室を専門図書館と称しているのが実情である。こうした図書館は規模も小さく、資料を多く抱えられないで、調査・参考相談のための情報サービスが中心となるため、相互協力の必要がいっそう認識されている。このほか、特殊な資料、特定の利用者を対象とする音楽図書館、点字図書館、博物館図書室、病院図書館などがあるが、欧米諸国に比べてその実態は貧しいといっていい。アメリカではほかに、個人の寄付とか個人名を冠した図書館がある(ニューベリー図書館、ハンティントン図書館、ケネディ図書館など)。
2021年1月21日
図書館の機能は、資料の収集、保存、提供とこれに伴ういくつかのサービスにある。収集、保存は、国立国会図書館のように「文化財として」の日本の資料を網羅的に集めているところを別にすれば、一般には自館の設置目的すなわち利用対象によるので、収集、保存は利用者への提供のためにあるといえる。各館は資料選択の基準を定め、委員会などの体制を整えているが、公共図書館における漫画本や、また、モラルにかかわる問題があり、どこにでも通用する基準はありえない。収集する資料は図書・雑誌に限られていない。収集により図書館の資料は年ごとに確実に膨れ上がるという性格をもっているため、保存の場を確保することが現代の図書館の大きな課題であろう。一方、新築・増築は容易には考えられない。そこで、資料の有効な保管方法として移動式書架を取り入れたり、資料そのもののマイクロ化や電子化を図ったりするところもあるが、研究目的の図書館は別として、公共図書館ではその方法も大幅には採用できない。市町村立の中小公共図書館では、いかに有効に資料(どこでもとっている雑誌など)を廃棄処分にできるかを考えねばならないであろう。提供は図書館の中心機能であり、このために古い時代から資料の記述目録をつくってきたし、図書分類法も考えてきたわけである。
開架の公共図書館の出現に伴い、書架は利用者が自由に近づけるものとなり、無料公開の原則から本はだれでも借り出せるものとなってきた。本以外の資料(CD、DVDなど)も借りられるし、登録は簡単にできるようになっている。こうした現状にあって、図書館利用者へのサービス提供の拠りどころとして「図書館の自由に関する宣言」(1954年、1979年改訂。日本図書館協会)を採択し、次のことを確認した。「図書館は、基本的人権の一つとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする」「この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し、実践する」「第一、図書館は資料収集の自由を有する」「第二、図書館は資料提供の自由を有する」「第三、図書館は利用者の秘密を守る」「第四、図書館はすべての検閲に反対する」。また、「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」などである。
2021年1月21日
図書館は独立した機関であることは少なく、学校、大学、地方公共団体、企業体などに付設されているか、所轄下にある。日本では「国立国会図書館法」(1948)、「図書館法」(1950年。公共図書館)、「学校図書館法」(1953)などにより設置されているが、外国では中央政府の直接管理下に大学図書館が置かれたり、州の直轄であったり、さまざまな形態をとっている。日本の公共図書館は各自治体の教育委員会がおもに所管しており、公共図書館の財政は各都道府県または市町村によって支えられている。
図書館の組織は規模により当然、異なる。日本の大学図書館でも歴史の古い大学では、中央館のほかに学部図書館などの分館がいくつかあるが、第二次世界大戦後発足の新制大学にあっては、キャンパスが複数でなければ中央館に絞られる場合が多い。公共図書館では、とくに都市部で、分館を構えて図書館サービスを行き渡らせているところが多い。都道府県立の図書館と、同じ市の市立図書館は役割が違うので、併存している。
図書館内部の組織も、図書館の大きさによって異なり、職務として整理部門、管理部門、サービス部門などがある。整理の仕事は資料の分類・目録を中心とするが、1980年代以降はほとんどがコンピュータ処理で行われている。管理は発注から受け入れが中心で、小図書館では1人ですべてを行う。サービスの仕事は貸出し・返却の窓口業務であるが、資料にかかわる参考質問や調査の援助を主とした参考業務(レファレンス・サービス)が現代の図書館では重視され、図書館活動の柱とみなすむきも多い。そしてここに有能な職員をつぎ込むところが多い。各図書館ではそれぞれスタッフ・マニュアルをつくっている。
閲覧室の管理は、図書館の規模、開館時間の規程によって形態に相違がある。大図書館、学術図書館では資料分野、種類によって階層や部屋を分けているところもある。公共図書館では一般に児童部門と成人部門を分けている。開館時間は利用者の便宜に対処するところが一般的で、大学では夜間と試験期の時間延長、公共図書館でも夜間開館への要望があり、実施しているところも多い。
近年、地方財政の悪化に伴い、図書館業務の外部への委託が行われるようになりつつある。
2021年1月21日
図書館はそれぞれ特定または不特定多数の自館の利用者のためにあるが、20世紀に入って、どの図書館も1館だけであらゆる資料を抱え込み、すべての情報要求にこたえられないことがわかってきた。地域的、全国的、さらには国際的な協力の仕組みが不可欠となっている。コンピュータによる情報検索技術はこれに大いに役だっている。
2021年1月21日
地域内の協力はとくに公共図書館において進んでいる。大都市では中央館といくつかの分館がネットワークを形成し、相互に資料を利用しあう仕組みが日本の大学図書館、公共図書館間でもみられる。イギリスのロンドンでは、各区のなかは図書館がオンラインでつながり、他館の資料探しができるとともに、毎日各館の間を定期便が回っている。区内に求めるものがないと、中央館からほかの区に問い合わせることができる。さらに、バーミンガムほかの都市で、公共・大学・企業体の図書館がすべて参加できるネットワークをつくっている。ドイツでは、州を中心に協力体制が組まれ、中心となる大図書館には州内図書館の蔵書を調べられる中央目録があり、ここが相互貸借の斡旋(あっせん)をしている。
全国的なネットワークには、国の中央図書館が国内全図書館の図書館となる形と、専門領域を同じくする図書館間の協力体制とがある。
日本でも国立大学図書館の間で共通利用証の発行が可能になったし、医学図書館間では相互利用の前提に立って、外国雑誌のうち特殊言語のものはどこかでかならず購入しておくという共同購入の方法も実現させている。学術雑誌については、文部科学省が国立大学図書館のうちから、理工学、医学・生物、農学、人文・社会科学各分野の外国雑誌センター館を設置し、多くの雑誌をとるよう援助するとともに、全国への複写サービスの中心としている。
コンピュータによる技術革新は、こうした協力を大きく前進させた。アメリカのオンライン・コンピュータ・ライブラリー・センター(OCLC)は全国的な情報検索・相互利用の新しい仕組みとして諸外国に影響を与えている。日本でも国立情報学研究所(旧、学術情報センター)が大学図書館の蔵書をデータベースとし、全国システム(CiNii Books)をつくりあげている。
2021年1月21日
国際図書館連盟(IFLA(イフラ))がその中心となる。この国際団体は、諸国の目録記述を標準化して、どの国でも他の国の資料を利用できる基礎づくりと、図書館資料の国際間における貸借の実現を目ざして活動している。イギリスはこれにこたえ、大英図書館の成立とともに、諸外国に先駆けて国外への貸出しを実践してきた。とはいえ、国によっては出版物の自由な流通が制限されており、郵送料受益者負担の実現には困難が伴い、この理想への取組みは今後の課題となろう。国際間の協力としては、スカンジナビア四国(デンマーク、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン)が各国の特色を生かした分担収集と、相互利用のためにつくっているスカンジア計画、言語を同じくするラテンアメリカ諸国間の書誌協力といった地域的な実践例がある。
2021年1月21日
以上は相互利用を中心とした図書館協力についてであるが、図書館間ではこのほかにさまざまな形態の協力を考え、実践してきている。共同収集をして資料を有効に集め、互いに保存し、利用しあう協力は、欧米諸国にその例がみられる。アメリカのファーミントン計画は、国内の大学・学術図書館約50館がそれぞれ分野を定めて外国の資料を分担収集するもので、1972年まで約25年間続けられた。当時、西ドイツの学術協会Deutsche Forschungsgemeinschaftが行った全大学への分担割当て援助は、第二次世界大戦後の図書館再建に大きな役割を果たした。現在、どの国においても、中央の網羅的な集中コレクションと、専門分化したコレクションの間のシステム化が必要とされている。
学術的な図書館ではとくに、蔵書のほとんどはつねに使われるわけではない。まれにしか使われない資料でも、研究のためには場所をとっておかねばならない。アメリカでは第二次世界大戦後、共同保管の仕組みをつくってこれに対処し、さまざまな実験を試みている。中西部インター・ライブラリー・センター、ニュー・イングランド寄託図書館はその最大の例であろう。
資料の交換・再配置の体制もアメリカ、イギリスではつくられている。アメリカ議会図書館内にある合衆国図書交換機構は、各図書館で不要な資料を集め、リストをつくり、必要とする図書館にその資料を無料で送る斡旋(あっせん)機関である。雑誌のバックナンバーもこの仕組みでそろえられる。
利用の前提としての「総合目録」は、図書館協力のための必須(ひっす)のツールである。アメリカでは、カナダを含めた3500館の蔵書が調べられる総合目録を議会図書館がつくっている。日本では、大学等が所蔵する学術雑誌の総合目録として、1953年(昭和28)文部省(現、文部科学省)編集により『学術雑誌総合目録』(冊子体)が創刊された。これにより雑誌については、どの号がどこにあるかがわかる。編集は、東京大学情報図書館学研究センター、学術情報センター、国立情報学研究所と変わっていき、1997年(平成9)からは目録のインターネット検索を可能としたサービスも開始された。冊子体は2000年(平成12)版(2001年刊行)を最後に終了し、現在は国立情報学研究所のインターネットによる検索サービスのみの対応となっている(CiNii Articles)。また、図書についても国立情報学研究所のシステム(CiNii Books)を利用できる。
図書館協力の面では、日本は遅れていたといえよう。しかし、その必要性が認められ、地域によっては公共図書館の協力システムが進んでいるところもあるが、組織的に縦割りの社会なので、横の連携を基礎とする協力関係には課題も多い。大図書館は小図書館への資料提供に終始するという格差の問題もあり、国有財産の管理という問題もいまだ完全には解決をみてはいない。
2021年1月21日
図書館の技術はコレクションを利用者の便宜のため、いかに組織化しておくかを中心に考えられ、分類と目録という方法を生み出した。19世紀以降、世界の図書館のほとんどが、西欧の図書館において発達したこれらの技法(図書分類法、目録法)を基本に運営されている。
2021年1月21日
図書館の目録は、図書館資料の著者、書名、出版事項、形態などの書誌情報を記述し、カードまたは冊子体で提供してきた。そのため当然、一定の規則が必要となり、各国はそれぞれに目録規則をつくってきたが、1970年代以降、国際的な標準化の方向に進んでいる。
目録作業は各図書館の担当係が行ってきたが、同じ図書については同じ記述が便利であり、20世紀初めからアメリカ議会図書館が印刷カードを配布しだすと、これを利用するところが増えてきた。日本では国立国会図書館が日本の出版物の記述については責任を引き受け、『日本全国書誌』週刊版と印刷カードを刊行してきた。また、国立国会図書館は、1973年(昭和48)から国際逐次刊行物データ・システム(ISDS)の国内センターとなり、国内で発行されている雑誌・新聞などの逐次刊行物に識別のための国際標準逐次刊行物番号(ISSN)を与えるとともに、書誌情報を作成し、パリの国際センターに登録している。
1966年、アメリカ議会図書館はコンピュータによる書誌情報提供の技術を開発し(MARC(マーク):Machine Readable Cataloging、機械可読目録)、国立国会図書館も1981年にはJAPAN/MARC(ジャパン・マーク)を開発、目録情報はデータで提供されるようになった。
アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシアなどでは、法律により国内出版物が国立図書館にもれなく納本されるので、出版社の協力を得ることにより、出版物自体に国立図書館で作成した目録データを刷り込むこと(CIP:Cataloging in publication)が行われている。CIPには、著者、書名などのほかにその国で使われている標準的な分類記号などが含まれているから、各図書館ではCIPのなかにない出版事項、形態などを、受け入れた図書から補って目録を作成すればよい。CIPデータはMARCにも含まれている。日本では著者名や書名の読みが目録の排列と検索の手掛りになるので、著者名、書名の読みはある根拠に基づかなければならない。国立国会図書館では、そのための典拠ファイルをつくり公にしているが、出版物にそれらの読みを含めたCIPデータを記すまでには至っていない。洋書については、大学図書館ではアメリカその他のMARCを利用できるようになった。
2021年1月21日
情報検索の技術が進み、雑誌記事などの索引はデータベースからコンピュータで引き出せ、さらにはオンラインでどこにいても利用できるようになった。語句索引はもとより、概念語からの検索、文献以外の情報のデータベース化も進んでいる。
図書館の電子化・コンピュータ化はあらゆる面にわたっている。発注リスト、入荷チェックはコンピュータで処理できるようになったし、資料の貸出し・返却はコンピュータで行っているところが大半である。窓口業務は期限延長や催促など、それぞれの館が決めた細かい規則に縛られるが、業務全体にわたるコンピュータ化は業務の効率化をもたらした。
文献の全テキストがコンピュータに内蔵されるようになり、全世界の情報がインターネットで利用できるようになって、電子図書館(デジタル・ライブラリー)の時代が到来した。日本の大学図書館でも、貴重書や学位論文、学術雑誌のデジタル化が一般化している。国立国会図書館でも、2002年(平成14)に開館した関西館が中心となって、同館所蔵資料の電子化とデータベース化を進めている(国立国会図書館デジタルコレクション)。
2021年1月21日
図書館は現在大きく変わりつつある。技術の変化は図書館の存在理由をも揺さぶり始めたといえる。この状況のもとで、旧来の司書養成は検討し直さねばならない。アメリカでは1930年代から、学部レベルの基礎の上に大学院で教育を始め、これが一般化した。博士課程では、図書を中心とした資料の収集、保存、提供を機能とする図書館の本質とその経営やサービスなどを対象とする図書館学library scienceの研究が多くの成果を生んだ。その後、図書館学は、図書館業務のコンピュータ化、情報処理の進展に伴い、情報学information scienceという分野を加えた図書館情報学library and information scienceとなった。ドイツでは博士号をもった専門分野の研究者を、学術図書館の主題専門図書館員として養成している。図書館員を支えるものは資料知識であり、サービス技術であるが、現代の図書館ではコンピュータをはじめとする機械技術の基礎知識、図書館の科学的管理運営の方法についても学習がなされねばならない。現場の職員の再研修も当面の課題となろう。図書館員の支えとなるべき図書館情報学は、図書館の原理、歴史から制度、技術にわたり研究されている。
2021年1月21日
図書館建築は歴史的には、収蔵する資料の材料形態によって大きく変化してきた。古代オリエントでは粘土板を重ねて置く穴蔵状の場所が発掘されているし、古代エジプトでは読書の図に壺(つぼ)状の容器がみられる。アレクサンドリア図書館ではパピルスの一枚巻子(かんす)を巻いて棚に並べたり、大きな甕(かめ)などに入れたりしていたと想像できる。綴本(とじほん)が成り立ってからは、本は平らに置かれたであろうし、表紙がつくようになると本は立てて並べることもできたが、いつ、こうした変化が出てきたのか正確にはわからない。東洋では、19世紀に至るまで本には厚表紙がなく、平らに置かれたので、西欧の書架型式は最近に至るまで発達をみなかった。
2021年1月21日
古代から中世にかけての写本の時代、西ヨーロッパの図書館は書写室(スクリプトリウム)と収蔵庫(アルマリウム)からなり、両者は互いに接近していた例がスイスのザンクト・ガレン修道院にみられる。読書室については詳しいことはわかっていない。古代ローマの個人図書館からは、本のコレクションを誇示する目的が加わり、室内にギャラリーが巡らされるところもあった。書見台は8世紀ころから普及したといわれるが、次々と本を見られる回転車の様式は貴族的、趣味的なもので、どこにでもあったとは考えられない。本を書見台に鎖で結び付ける形式は13世紀ころの教会・修道院で始まったらしいが、保管と同時に繰り返しの利用を前提としていた。やがて本は複数で書見台に取り付けられ、書架付きの読書机が出現する。13世紀以降の大学図書館では、多数の写本が鎖で書架に結び付けられ、こうした書架(書見台が横板状に巡らされる)が次々に列をなして並ぶ姿がみられた。
2021年1月21日
16世紀、写本にかわって印刷図書が普及するようになると、図書館の様式は根本的に変化する。王室・貴族の図書館にみられるコレクションの大型化であり、大学図書館に示される利用へ向けての移行である。スペインのエル・エスコリアル(エスコリアル宮殿)に典型的に示されるバロック様式の図書館は、当時の空間感覚を見せつけている。周囲の壁面全体にわたり高い天井に届くほど本棚がつくられ、そこにぎっしり本が並び、中央スペースにはなにも置かない、いわば大広間図書館であった。一般に図書館は小部屋から広いスペースに移っていくが、18世紀なかばに開館した大英博物館でもモンタギュー邸を使い、区分された部屋を収蔵庫や閲覧室にあてていた。
19世紀には情報が拡大され、産業社会の到来で教育が普及し、同時に民族意識が高まり、これらを受けて図書館コレクションは量的に建物を脅かすようになった。大英博物館では次々に増える寄贈・購入で、増築すらまにあわなくなる。1856年完成の円型閲覧室は、矩形(くけい)の建物の中庭を埋めたもので、館長パニッツィの発案であったという。当時ようやく使われだした鉄骨で書庫が組み立てられており、大閲覧室はドーム型で、天井からの採光であった。この様式はフランス国立図書館、アメリカ議会図書館に受け継がれる。パニッツィの発案はさらに、円型閲覧室周囲の壁面を基本書で埋め、参考コレクションの基礎をつくったこと、閲覧室の外側スペースをすべて鉄骨の書庫としたことに示されていた。閲覧スペースとは切り離された、天井の低い積層式の書庫ができあがった。パニッツィは手動式の移動書架まで考えていたというが、採用には至らなかった。ここまでくふうして場所の問題を解決しようとしたものの、大英博物館では、次の時期には新聞図書館を郊外に新築するなど、コレクションの分散化が始まっていた。
2021年1月21日
1850年からの公共図書館の出現はそれまでの図書館とは別の様式を生んだ。開架方式の採用である。初めは棚を構えた半開架もあったが、本がなくなってしまうとの理事会の反対を押し切り、イギリスの図書館員ジェームズ・ダフ・ブラウンJames Duff Brown(1862―1914)らが実行し、しだいに普及していった。しかし文化遺産を扱う図書館員のなかには技術・設備の革新に対して慎重にならざるをえない者もいた。19世紀末、アメリカのカーネギーが公共図書館の援助を行ったとき、見取り図を提出させ、暖炉などの飾りはつけず、利用スペースに回すよう指導したといわれる。
20世紀の図書館はどこでも、ヨーロッパで発達した建築を受け継いでいた。第二次世界大戦以降、新しくできる図書館は現代的な建築様式でできている。薄暗い場ではなく、利用者はゆったりしたスペースで新聞・雑誌が閲覧できるし、CDを聞く場所も設けられている。一般に公共図書館では貸出しに重きを置き、勉強机は別に設置されるようになった。建物自体も周囲との調和が考えられ、新設の大学のキャンパスでは、図書館が中央の位置を占めるところも多い。図書館建築は特殊な配慮の要る建築様式と認められ、図書館員の経験を生かし、意見をいれて建築家が取り組むようになった。建築ならびに施設基準も整ってきた。また、公共図書館では、複合文化施設の一環として図書館が計画、建設される例が目だっている。閲覧机と椅子(いす)の広さ・高さ、照明、採光、室内温度には基準が適用され、カウンターその他は利用しやすいようくふうがなされるようになっている。
2021年1月21日