赤絵、錦手(にしきで)、五彩(ごさい)ともいう。陶磁器の基本的な加飾法の一つで、白釉(はくゆう)陶、白磁胎の釉面に赤、黄、緑など各種の彩釉を使って上絵付けする手法。白釉陶や白磁をつくる透明釉は高火度の1250~1300℃で焼製されるため、大規模な本窯が用いられる。一方、絵の具に用いる釉彩はやはり一種の釉薬であるが、これは鉛釉を基礎にしているところから、800℃前後で調製される。したがって、本窯で精製された透明釉陶磁を再度、錦窯(きんがま)とよばれる小規模な窯に入れて低火度の酸化炎で各種の釉彩を焼き付けると、素地(きじ)をつくる透明釉はまだわずかに溶ける段階にあり、ここで上絵の具は良好に呈色して釉面としっくり溶け合うことになる。この釉彩は赤と他の色(黄、緑、紺、黒など)とに大別され、調整が異なる。いずれも鉛釉の基礎をなすのは白玉(フリット)とよばれる鉛釉の玉であり、この白玉に硫酸鉄(緑礬(りょくばん))を焼いてさらしたものと混合して赤絵の具をつくり、色絵陶磁は華やかなこの赤絵の具が活躍するために、江戸時代の初期から赤絵という色絵の総称語がつくられたほどであった。他の釉彩は白玉のほかに酸化鉛(鉛白(えんぱく))やケイ酸(日の岡(ひのおか))を加え、呈色剤に硫酸鉄、酸化銅、その他を使って各種の色釉をつくる。すなわち長石質の高火度釉の上に、鉛釉の低火度釉を上のせしたのが色絵の原理であり、この2種の釉(うわぐすり)こそまさに東洋陶磁器を形成する二大釉であったところから、世界に先駆けて東洋で色絵陶磁が焼かれ始めるのは当然のことであった。
世界で最初に色絵を考案したのは中国華北の磁州窯(じしゅうよう)であり、12世紀末の金(きん)時代であった。初めは白釉陶が基礎となっていたが、14世紀元時代後半には景徳鎮窯(けいとくちんよう)で白磁胎の色絵、中国流にいって五彩がつくりあげられ、明清(みんしん)陶磁の寵児(ちょうじ)となった。日本では江戸前期の1640年(寛永17)ごろに九州有田の酒井田柿右衛門(かきえもん)が中国人に学んで開発した。ペルシアでは13世紀ごろおそらく独自に色絵がくふうされて、いわゆるミナイ手がつくられている。西欧では日本の伊万里焼(いまりやき)に刺激を受けて、1720年代に色絵磁器の創成がドイツのマイセン窯で進められた。