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洋学者、教育家、慶応義塾塾長。豊前(ぶぜん)国中津藩(大分県)の藩士小幡篤蔵の二男。藩黌(はんこう)進修館で漢学を修め、塾長となったが、福沢諭吉の勧めで1864年(元治1)江戸に出て福沢の塾に入り英学を学び、塾長を務め、また幕府の開成所英学助教ともなった。『天変地異』『博物新編補遺』などの科学啓蒙(けいもう)書は人々に歓迎され、科学知識の普及に貢献した。福沢とともに『学問のすゝめ』を著し、また『時事新報』の創刊に尽力するなど思想界の指導的役割を果たした。1879年(明治12)初の東京学士院会員となり、のち貴族院議員にも推された。