江戸中期の俳人、国学者、読本(よみほん)作者、画家。片歌(かたうた)の唱道によって知られている。本名喜多村金吾久域(ひさむら)。のち建部姓を名のった。俳号葛鼠(かつそ)、都因(といん)、凉袋(りょうたい)。画号寒葉斎(かんようさい)。弘前(ひろさき)藩の家老職を勤める名家の次男として出生。祖母は山鹿素行(やまがそこう)の女(むすめ)鶴女。20歳のとき嫂(あによめ)との不倫の恋によって弘前を出奔、以後全国を放浪する数奇な生涯を送った。初め志田野坡(しだやば)につき、彭城百川(さかきひゃくせん)、和田希因(きいん)らと交流したあと、江戸浅草に庵(いおり)を結んで宗匠として自立、清新で平明な句風によって大いに迎えられた。多芸多才、覇気の人で、長崎で費漢源(ひかんげん)に山水画を学び、画人としても一家をなした。俳諧(はいかい)の固定した形式に飽き足らず、賀茂真淵(かもまぶち)の影響もあって、45歳のとき、五・七・七の三句からなる古詩体(片歌)を復活、唱道に努めたが、反論をよび普及するに至らなかった。49歳の年に上洛(じょうらく)、国学を講ずるかたわら、巷間(こうかん)の悲恋事件を擬古文に写した『西山(にしやま)物語』(1768刊)や、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱に材をとって『水滸伝(すいこでん)』を翻案した『本朝水滸伝』(前編のみ1773刊)を著し、安永(あんえい)3年3月18日江戸で没している。56歳。『西山物語』は文人雅文小説を代表する佳作とされており、また『本朝水滸伝』は『水滸伝』翻案の嚆矢(こうし)となった作品であり、読本の長編形式を開いた本格的な章回体の小説として、意義を認められている。片歌関係の書に『片歌道(みち)のはじめ』など多くの書があり、画集に『寒葉斎画譜』がある。