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精神医学者、医史学者、東京帝国大学教授。箕作阮甫(みつくりげんぽ)を外祖父に、広島藩医呉黄石(こうせき)(1811―1879)を父に、元治(げんじ)2年2月17日(新暦の4月14日)江戸青山に生まれる。兄は統計学者呉文聡(あやとし)。1890年(明治23)帝国大学医科大学を卒業、精神病学教室に入る。1897~1901年とヨーロッパに留学して、脳研究法と新しい精神医学体系とを導入した。帰国して帝国大学教授および東京府巣鴨(すがも)病院長に任ぜられた。1902年(明治35)には日本神経学会(現、日本精神神経学会)を創立し、精神病者慈善救治会を組織した。巣鴨病院の院内制度を大改革し、1919年には病院を府下松沢村(現、世田谷区上北沢)に移転させた。樫田五郎(かしだごろう)(1883―1938)との共著『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其(その)統計的観察』(1918)は、座敷牢(ろう)を公認している精神病者監護法および国家・社会の無策を厳しく批判した。1925年(大正14)定年により退官、退職。師榊俶(さかきはじめ)(1857―1897)早逝のため、日本の精神医学の建立者とされる。
若年より富士川游(ゆう)とともに医史学を研究し、1896年には富士川らと芸備医学会をおこした。1927年(昭和2)創立の日本医史学会理事長となる。代表作は『シーボルト先生 其生涯及功業』(1926)。文章家としても知られ、森林太郎(鴎外(おうがい))らと親交があった。昭和7年3月26日死去。