S・ノイマンによる「政党は現代政治の生命線」ということばに示されるとおり、現在、政党を抜きにして政治を分析することはできない。それは自由で公正な選挙を伴う民主主義体制についてとくにいえるが、権威主義体制にもかなりの程度、当てはまる。
政党とは何か。たとえば、G・サルトーリGiovanni Sartori(1924―2017)は、「政党とは、選挙に登場して、選挙を通じて候補者を公職につけさせることができるすべての政治集団である」と定義する。より広い定義を示すならば、「政党とは、共通のイデオロギーや政策に基づいて組織され、政治権力の獲得を目ざす集団である」。このように定義すると、選挙に参加しないような革命政党も、その一種として扱うことができる。
歴史的にみれば、近代以降、市民社会と国家が相対的に分離したことを前提に、両者に足場を置きつつ媒介する役割を果たすのが、政党であるといえる。政党は市民社会で人々を党員として組織する一方、国家機構である政府や議会にポストを得て、両者を結び付ける。
政党と類似する機能を担う存在として、官僚制、利益団体、市民運動などがあげられる。これらのうち、官僚制は国家機構の一部であり、市民社会を統御するのに対して、政党は市民社会を基盤とする自発的結社であり、その意思を国家へと投入する。また、利益団体や市民運動は、政党と同じく市民社会の自発的結社であるが、審議会などへの参加を除くと、政党とは違い国家のなかの公職を占めない。
前記のサルトーリの定義にみられるように、政党の存在は選挙と緊密な関係をもつ。市民社会と国家の媒介役として、候補者を公職に送り込む機会が選挙だからである。その選挙が自由で公正な形で実施されるのが民主主義体制であり、そうではない形で行われるのが権威主義体制である。民主主義体制のもとでの政党は、イデオロギーや政策に基づいて複数存在し、選挙などを通じて競争する。
権威主義体制に関して分析したE・フランツErica Frantzの2018年の著書は、軍事独裁、支配政党独裁、君主独裁、個人独裁の四つに分類したうえで、ソビエト連邦(ソ連)や中華人民共和国(中国)にみられる支配政党独裁が冷戦期以来、もっとも一般的であり、比較的多数の人々を包摂するがゆえに抑圧的な性格が弱く、持続可能性が高いと指摘している。このように権威主義体制でも、市民社会と国家を媒介する政党の役割は小さくない。
以上を前提として、政党が具体的に果たしている機能としては、次のようなものが存在するといえる。(1)個人や集団の利益を集約し、表出する機能、(2)政治指導者を選抜し、育成する機能、(3)政府や議会を構成し、政策決定を行う機能、(4)野党として政府を批判し、監視する機能、(5)有権者に情報を提供し、政治教育を行う機能、などである。
イギリスでは、政党が古くから発達した。ピューリタン革命後、1660年以降の王政復古期の国王と議会の対立のなかに、その端緒がみいだされる。1688年から翌1689年にかけての名誉革命を経て、国王と議会の対立は一応の決着をみるが、そうしたなかで王党派のトーリーと議会派のホイッグによる二党制が定着していった。両党は緩やかな政策の共通性に基づく個人的派閥の連合体にすぎず、議員は政府に買収されたり、官職を与えられたりして、取り込まれがちであった。
議会内の党派として生まれてきた政党が、議会外に組織を拡大し始める契機になったのは、1832年の第一次選挙法改正である。第一次選挙法改正は、徐々に成立してきた議院内閣制が、その過程で確立したという意味でも重要であったが、その結果、都市部を中心に有権者が増加した。それに加え、産業革命に伴い地域社会が流動化したことを背景に、選挙区での有権者の組織化が進み、中央組織と選挙区組織の結び付きもしだいに強まっていった。この時期、二大政党は保守党と自由党に姿を変えていったが、依然として地域の有力者である名望家によって構成された。
さらに1867年の第二次選挙法改正によって、都市部の労働者階級が有権者になると、保守・自由両党は議会外で有権者をメンバーとする恒常的な組織をつくりあげていく。議会外組織に対する議会内政党の優位は崩れなかったが、議会内政党でも集権化が進んでいった。それに対して、労働組合などの議会外組織によって結成され、議会に進出していったのが労働党である。それはまず1900年、労働代表委員会という名称で発足した。
第一次世界大戦の終結後のイギリス政治は、保守党、自由党、労働党の三党鼎立(ていりつ)状況となったが、第二次世界大戦の終結後、保守党と労働党の二党制に移行した。二党制であることに加え、労使の階級対立に基づいて政党システムが成立していながら、いずれも穏健であること、宗教をめぐる対立が弱いことなどが、イギリスの政党の特徴といえる。
イギリスと同じく二党制が発達したのが、アメリカである。1783年にイギリスからの独立戦争が終結した後の憲法制定会議で、連邦派と反連邦派の対立が明確化したが、これがアメリカの政党政治の始まりである。民主党とホイッグ党が対立した時期を経て、黒人奴隷制度を争点に民主党と共和党の二大政党が成立した。その後、対立軸や支持基盤を変化させながらも、今日に至るまで民主・共和両党による二党制が存続している。人種や地域の規定力の強さ、有力な社会主義政党の不在、政党組織の分権性などが、西ヨーロッパ諸国とは異なるアメリカの特徴である。
二党制が発達した英米両国とは違い、多党制が基調になったのが、フランスやドイツなどの大陸ヨーロッパ諸国である。
フランスでは長らく自立性の高い議員から構成される議会内党派が離合集散を繰り返し、安定した政党が成立しなかった。議会外組織が発達し、議会内政党の規律が高まるようになるのは、1905年の社会党や1920年のフランス共産党の結成を待たなければならなかった。戦後は保守系の政党も、そうした組織を有するようになったが、小党分立状態が続いた後、1958年に第五共和政が発足して以降、小選挙区2回投票制のもと、体制政党に転じた右派のゴーリスト政党(ドゴール派)と左派の社会党を中心とする2ブロック型の四党制へと移行していった。
ドイツでは特定の社会階層の利益を代表し、独自の世界観をもつ政党が分立割拠する傾向が強かった。1871年にドイツ帝国が成立すると、カトリックの中央党、労働者階級に基盤を置く社会民主党、エルベ川以東の地主貴族(ユンカー)を代表する保守党、ライン地方のブルジョアの利益を代弁する自由主義諸政党が対立した。社会民主党や中央党は、強固な議会外組織と党内規律を保持した。第一次世界大戦後はナチ党が台頭し、1933年以降、一党独裁体制を築いていったが、第二次世界大戦後は小選挙区比例代表併用制が採用され、キリスト教民主同盟・社会同盟と社会民主党を二大政党とし、いずれかが中道の自由民主党と連立を組む安定した多党制が成立した。
政党はイデオロギー、支持基盤、組織などによって類型化することができる。イデオロギーについては、自由主義政党、保守主義政党、キリスト教民主主義政党、社会民主主義政党、共産主義政党、ファシズム政党などの分類が可能である。共通のイデオロギーに基づく国際政党組織が結成され、現在、とくにヨーロッパで発達している。これにはヨーロッパ議会の存在も大きい。また、支持基盤について、国民政党、階級政党、宗教(宗派)政党といった分類が行われることがある。
政治学で政党を類型化する際に重視されてきたのは、組織である。政党は市民社会と国家の媒介役であり、有権者と公職者をつなぐ存在といえるが、組織のあり方はその性格を大きく規定するからである。
M・デュベルジェは、1951年の著書で「幹部政党」と「大衆政党」を区別した。
幹部政党は、納税要件などに基づく制限選挙制度のもとで19世紀に確立した。その末端は特定の議員を支える地方の名士などが構成する緩やかなクラブ的組織であり、それは有力者の互選による閉鎖的で非民主的なエリート集団である。各議員が選挙区に独自の基盤をもち、相互に独立しているため、分権的であり、結束力が弱い。こうした幹部政党の目的は、議会での多数の確保と議会活動への参加であり、議会の内部でエリートが形成した点に特徴がある。当時のイギリスの保守党や自由党、アメリカの民主党と共和党が、その例としてあげられる。
それに対して大衆政党は、19世紀末から20世紀初頭にかけて登場した。その末端の組織は、有権者が党員として加入する支部であり、あらゆる有権者が参加できるという点で開放的であり、かつ、指導部が選挙によって選ばれるという点で民主的である。その一方、党員は党費の納入義務などを負った。党員から選ばれた党指導部の権限が強く、集権的な性格をもち、結束力も強固である。党則による規律が強く、議員は党指導部に統制される。もっとも、議員団は一定の自立性をもち、党指導部との間で緊張関係がみられる。議会の外部の団体に依拠して結成された点に特徴があり、ドイツの社会民主党や中央党のような社会主義政党と宗教政党が代表例である。
このような大衆政党は、選挙権の拡張とそれによる普通選挙制度の導入に対応する政党組織であり、従来の自由主義政党や保守主義政党にみられる幹部政党も、大衆政党への対抗上、それを模倣して党員制度を採用していった。ただし、大衆政党に比べると、議員や地域の有力者の発言力が強く、党員の権利は制約された。
第二次世界大戦後、欧米諸国は豊かな大衆消費社会に変化し、階級対立が曖昧になり、1960年代に入ると、「イデオロギーの終焉(しゅうえん)」(D・ベル)が主張されるようになる。たとえば、ドイツ社会民主党によるバート・ゴーデスベルク綱領の採択にみられるように、社会主義政党は革命を放棄し、議会制民主主義と資本主義の枠内での改良を目ざす方針を明確化していった。これに対応して、多くの政党が特定の階級や集団を集票の対象とする方針を改め、有権者全体からの幅広い支持の獲得につとめるようになった。
こうした状況を背景に、大衆政党が「包括政党」に変化しつつあると論じたのが、1966年のO・キルヒハイマーOtto Kirchheimer(1905―1965)の論文である。包括政党は、(1)イデオロギー的な主張の減少、(2)政党指導部の強化、(3)個人党員の役割の縮小、(4)特定の社会階級や宗派集団に対する重点的な動員の低下、(5)投票や資金の調達のための多様な利益集団への接近、などによって特徴づけられ、政党との結び付きが希薄な有権者の票をめぐって競争するがゆえに政策距離が縮小し、多様な集団に接近するためにコンセンサスの形成を重視する。
政党システム(政党制)とは、選挙や政権形成をめぐる政党間の相互作用の構造である。これについても、さまざまな類型化がなされてきた。
デュベルジェは、1951年の著書で政党数を基準に据えて一党制、二党制、多党制に分類した。一党制では、一つだけ存在する支配政党に対抗する政党がなく、政権交代が行われない。ソ連や中国などの共産主義諸国、戦前のドイツやイタリアといったファシズム諸国にみられる。二党制では、二つの大きな政党が競争し、政権交代が行われ、単独政権が樹立される。イギリスやアメリカが代表的である。多党制は、三つ以上の有力な政党が競合し、単独で議会の過半数を獲得できないため、連合政権が形成される。大陸ヨーロッパ諸国で一般的にみられる。
現在、もっとも有力な政党システムの類型は、サルトーリが1976年の著作で示したものである。サルトーリは、政党数に加えて、政党間のイデオロギー距離という基準を導入し、七つに分類した。それらは政党間の競合の有無によって、大きく二つに分けられる。
まず非競合的な政党システムの代表的なものは、一党制であり、一つの独裁政党しか存在しない場合である。共産党支配下のソ連や中国のほか、ナチス・ドイツが、これにあたる。一党制以外には、ヘゲモニー政党制がある。形式的には複数の政党が存在するが、衛星政党にすぎず、実際には一党が覇権を握っている場合であり、政権交代の可能性が排除されている。政党間の競合が少しだけ存在しているとはいえ、制度的に著しく制限されている。冷戦期のポーランド、かつてのメキシコなどが、例としてあげられる。
次に競合的な政党システムとしては、一党優位政党制、二党制、穏健な多党制、分極的多党制、原子化政党制の五つがある。これらのうち原子化政党制は、非常に多くの政党が乱立し、イデオロギー的な違いも大きい場合で、マレーシアやタイが、これに近いとされる。また、二党制は、デュベルジェのそれと同じく、イギリスやアメリカなど、二つの大きな政党が政権をめぐって競争する政党システムである。
サルトーリの分類で重要な一つは、一党優位政党制である。これは複数の政党が存在して選挙で競合しているが、一つの政党が有権者の支持を得て議会の安定的な多数を占め、政権を握っている政党システムである。制度的には競争が十分に保障されているが、政権交代が行われないなど、実際には政党間の力の差が大きいという特徴がみられる。自由民主党(自民党)が長期政権を続けた1955年体制(五五年体制)下の日本、国民会議派が長期にわたって支配した時期のインドなどが、その例としてあげられる。
サルトーリの分類でもう一つ重要なのは、穏健な多党制と分極的多党制の区別である。穏健な多党制は、おもな政党の数が三つから五つほどであり、政党間のイデオロギーの違いが小さく、求心的に競合する。キリスト教民主同盟・社会同盟と社会民主党に加え、自由民主党の3党が競合した第二次世界大戦後の西ドイツが、代表例である。複数の政党による連合政権が樹立されるが、二党制と同様に政権交代と政治の安定がもたらされる一方、二党制よりも多様な民意が代表されるという特徴をもつ。
分極的多党制は、政党の数が六つ以上と多く、有力な反体制政党が存在するなど、イデオロギー的な違いも大きい。したがって、遠心的な競合がみられる。強力な共産党を抱えつつナチスの台頭を許した戦間期のワイマール・ドイツ、共産党とゴーリスト政党という左右の反体制政党が強大であった第二次世界大戦後のフランスの第四共和政、同じく巨大な共産党が存在し、キリスト教民主党を中心とする連合政権が続いた戦後のイタリアがその例である。
特定の政党システムを形成する要因としては、大きく二つの見方がある。
一つは国家の制度、とりわけ選挙制度である。有名なのが、小選挙区制が二党制を生み出し、比例代表制が多党制をもたらすという、デュベルジェの法則である。小選挙区制が二党制を生み出すメカニズムとしてデュベルジェは、第三党以下が過小代表されるという機械的効果、第三党以下の支持者が死票になるのを避けようと二大政党のいずれかに投票するという心理的効果の二つをあげる。ただし、この法則は選挙区レベルで成り立ち、有力な地域政党が存在する場合には、小選挙区制のもとでも全国レベルでは二党制に収斂(しゅうれん)しない。国家の制度としては選挙制度以外にも、「議院内閣制/大統領制」「単一国家/連邦制」、政党助成制度などが、政党システムに影響を及ぼす。
もう一つは、政党が基礎を置く市民社会のあり方である。ヨーロッパの大衆政党は、階級や言語・宗教ごとのコミュニティに立脚して成立した。S・M・リプセットとS・ロッカンStein Rokkan(1921―1979)は、1967年に共編著を出版し、国民国家の建設を背景とする(1)「中央/周辺」と(2)「国家/教会」、産業革命を背景とする(3)「農業/工業」と(4)「資本家/労働者」という四つの社会的亀裂(クリービッジcleavage)に従って、1920年代までにヨーロッパ諸国の政党システムが固まり、1960年代まで存続していると説いた。これは「凍結」仮説とよばれる。
第二次世界大戦を通じてナチス・ドイツが打倒されると、戦後の西ヨーロッパでは、ソ連や東ヨーロッパの共産主義に対抗しつつ、中道的な性格をもつ「戦後コンセンサス」が成立し、ケインズ主義的福祉国家が発展した。雇用と成長のために政府が経済に介入するとともに、社会保障制度が拡充されていった。そのもとで、キリスト教民主主義(保守主義)と社会民主主義に立脚する大衆政党を軸に、安定した民主政が実現した。
ところが、経済成長を通じて「豊かな社会」が到来すると、フランスで五月革命が起きた1968年という年号に象徴されるように、脱物質主義的価値観が登場するとともに、政治への直接的な市民参加の要求が高まり、1980年に西ドイツで「緑の党」が結成される。また、1979年、イギリスでサッチャー政権が成立して以降、市場メカニズムを重視して政府の経済への介入を減らす新自由主義が台頭し、戦後コンセンサスを掘り崩していった。
こうしたなか、1970年代なかば以降の欧米諸国では、有権者の党派性の減退、党員の減少、無党派層の増大、投票率の低下などがみられるようになり、それを根拠として政党の衰退が主張されるようになった。それはリプセットとロッカンの「凍結」仮説の揺らぎを意味する。各政党の前回の選挙からの得票増加率の合計によって測定される「変易性(ボラティリティvolatility)」が、1970年代に入って多くの西ヨーロッパ諸国で上昇しているという指摘がなされたり、アメリカでも有権者の政党帰属意識が低下し、政党の「脱編成」が起きているという主張がなされたりした。
このような背景のもと、デュベルジェの大衆政党モデルを乗り越えるべく、新たな政党組織の類型が提唱された。
有権者の政党離れ、テレビをはじめとするマス・メディアの発達などに注目し、「選挙プロフェッショナル政党」という政党組織の類型を1982年の著書で示したのが、A・パーネビアンコAngelo Panebianco(1948― )である。すなわち、党員とイデオロギーに基礎を置き、党官僚が中心的な役割を果たす大衆政党とは異なり、選挙で有権者にアピールすることを目標に据え、党首の個人的なリーダーシップを強調するとともに、選挙コンサルトなどを重用し、国会議員などの公職者が大きな影響力をもつのが、選挙プロフェッショナル政党である。
選挙での競争よりも、市民社会からの遊離と国家への依存に着目して、「カルテル政党」という類型を提示したのが、R・S・カッツRichard S. Katz(1947― )とP・メアPeter Mair(1951―2011)の1995年の論文である。彼らによると、理念型としての政党は、エリート政党(幹部政党)から、大衆政党、包括政党を経て、カルテル政党へと歴史的に変化してきたという。大衆政党は市民社会に基礎を置きつつ、市民社会と国家の間を架橋する役割を果たしたのに対して、カルテル政党は市民社会から切り離され、政党財政への公的補助(政党助成制度)とメディア規制に依存し、共謀しながら生き長らえる。
一方、政党が市民社会から遊離し、組織として弱体化しているという主張への反論もみられる。S・スキャロウSusan E. Scarrowの2015年の著書は、党内民主主義の深化を通じて新たな形態の市民社会に根ざした政党が形成されつつあると主張する。すなわち、活動家―党員―支持者―有権者と広がる同心円状の大衆政党とは違い、近年の政党は党首選挙の投票権の付与やインターネットの活用などを通じて、伝統的な党員に加え、簡易党員、サイバー党員、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のフォロアーなど多様な形態で有権者との接点を広げている。スキャロウは、それを「多段階メンバーシップ政党」とよんだ。
西ヨーロッパ諸国では、とりわけ2010年代以降、社会民主主義政党をはじめとする既成政党の弱体化、左右のポピュリズム政党の台頭などがみられ、既存の政党システムが大きく揺らいでいる。
それがもっとも顕著なのは、フランスやイタリアである。両国では、第二次世界大戦後、戦時下でレジスタンスを担った共産党が大きな勢力を誇った。しかし、東ヨーロッパ諸国の民主化やソ連の崩壊を受けて、共産党はイタリアでは社会民主主義に路線転換し、フランスでは衰退していった。さらに両国では近年、ポピュリズム政党の進出が著しく、政党システムが非常に流動化している。
ドイツでは、緑の党が穏健化しつつ地歩を固める一方、左翼党および極右の「ドイツのための選択肢」という左右のポピュリズム政党が台頭し、六つの有力政党が競合するようになった結果、多数派形成の必要上、キリスト教民主同盟・社会同盟と社会民主党の二大政党が大連立を組むことが増えている。イギリスでは、保守党と労働党による二党制が続いているが、地域政党やポピュリズム政党の伸長などによって二大政党の得票率が低下し、連合政権がみられるようになった。
日本の政党の起源は、征韓論に敗れて下野した板垣退助(いたがきたいすけ)らが中心となり、民撰(みんせん)議院設立建白書を提出するに際して、1874年(明治7)に結成した愛国公党に求められる。これはやがて自然消滅するが、高知に戻った板垣は立志社を設立し、西日本を中心に各地の民権結社と連絡をとりながら愛国社を発足させ、いったん解体するも再興する一方、国会の開設を求めて1880年に国会期成同盟を結成する。
自由民権運動が高まりをみせるなか、翌1881年に明治十四年の政変が起き、イギリス流の立憲政治の導入を求める参議の大隈重信(おおくましげのぶ)が政府から追放されるとともに、「国会開設の詔(みことのり)」が発せられた。これを受けて1881年、立志社を中心として自由党が結成され、板垣が党首に就任した。それに続いて1882年、大隈らが立憲改進党を設立する。
改進党がイギリス流の漸進主義を採用したのに対して、自由党ではフランス流の急進主義が重きをなし、激しく対立した。こうしたなか、薩長両藩出身者を中心とする藩閥政府は、両党を弾圧したり、懐柔したりして、解党あるいは解党状態に追い込むとともに、君主の権力が強いドイツ流の立憲政治の導入を進めた。
1889年の大日本帝国憲法(明治憲法)の発布を受けて、翌1890年に制限選挙制度による衆議院選挙が実施され、国会が開設された。自由・改進両党を中心とする民党は、「政費節減」「民力休養」を主張し、超然主義を唱えて選挙干渉も辞さない藩閥政府と対峙(たいじ)した。
ところが、1894年に日清(にっしん)戦争が始まると、それ以前から進みつつあった政府と民党との妥協が進展する。1898年、改進党の後身の進歩党と、自由党が合同して憲政党を結成し、日本初の政党内閣として隈板(わいはん)内閣(第1次大隈重信内閣)を樹立したが、内部抗争によって半年たらずで瓦解(がかい)し、憲政党は自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂する。
1900年(明治33)、政党に宥和(ゆうわ)的な藩閥指導者の伊藤博文(いとうひろぶみ)を党首として、立憲政友会が設立され、星亨(ほしとおる)が主導する憲政党が合流した。その後、政友会の総裁西園寺公望(さいおんじきんもち)は、山県有朋(やまがたありとも)系の藩閥指導者の桂太郎と交互に首相を務め、桂園時代とよばれた。桂は1913年(大正2)に立憲同志会の結成を企図し、これに憲政本党の後身の立憲国民党などが合流した。
以上のように、伊藤、桂といった藩閥指導者が政党を取り込んで、政友会や同志会の結成を主導した。とはいえ、実質的にみると、政党が官僚出身者などの人材を取り込んでいく結果になった。
こうして発展した政党は、デュベルジェのいう幹部政党であり、支持基盤は地方名望家に置かれ、その要求に従って鉄道の敷設、道路・港湾の建設、河川の改修、高等教育機関の設置などの利益誘導政治を行い、党勢を拡張した。とくに政友会は「我田引鉄」といわれたような積極主義をとり、長期にわたって最大政党の座を守り、山県系の藩閥勢力と対立しつつ提携した。政治資金については、幹部が財界などから調達した。
1918年、政友会総裁の原敬(はらたかし)が本格的な政党内閣を樹立したが、従来の政党勢力と藩閥勢力の提携の枠内にとどまった。その後、1924年の第二次護憲運動の結果、憲政会の総裁加藤高明(かとうたかあき)を首相とする護憲三派内閣が誕生したことを契機に、政党の党首が連続して内閣を組織する政党内閣制が成立する。同志会の後身の憲政会・民政党と政友会の二大政党が、交互に政権を担当する慣行が確立したのであり、「憲政の常道」とよばれた。
ただし、後任の首相は元老が天皇に推薦する形式がとられ、失政や閣内不一致、スキャンダルなどで内閣が倒れると、二大政党のもう一方が少数派政権をつくった後に衆議院選挙を行い、多数の議席を獲得した。その点で、議会の多数派に依拠する議院内閣制が成立したとはいえない。
護憲三派内閣のもとでは、男性普通選挙法が成立した。1922年に結成された日本共産党は非合法状態に置かれ、治安維持法などで激しく弾圧された。しかし、1928年(昭和3)の最初の普通選挙に基づく衆議院選挙には、合法無産政党が参加し、徐々に議席を伸ばすとともに、しだいに分裂状態を克服し、1932年に社会大衆党に結集することになる。
このように戦前の日本では、政党内閣制と男性普通選挙制度が実現したうえで、社会民主主義政党も一定の議席を得た。国際的にみて、当時としてはかなりの水準の民主化が達成されたといえる。
ところが、満州事変下の1932年の五・一五事件によって、加藤高明内閣から犬養毅(いぬかいつよし)内閣まで7代続いてきた政党内閣制は終焉した。これ以降、政党は存続しながらも、求心力を失っていき、それにかわって軍部の政治的発言力が増した。
さらに1937年に始まった日中戦争が長期化するなか、近衛文麿(このえふみまろ)を中心とする新体制運動が起こり、1940年に大政翼賛会が結成された。その直前、社会大衆党、政友会、民政党などは解散し、大政翼賛会に合流した。こうして戦前の政党政治は終焉を迎えた。
第二次世界大戦が終わると、アメリカ軍による占領が始まり、旧政友会の系譜を引く自由党、旧民政党の流れをくむ進歩党、戦前の合法無産政党が大同団結した日本社会党、合法化された日本共産党など、政党が再建されていくとともに、女性参政権が認められた。
明治憲法下の1946年(昭和21)4月、戦後初めての衆議院選挙が実施され、自由党と進歩党を与党とする吉田茂内閣が成立し、政党内閣が復活した。また、同年11月には日本国憲法が公布され、天皇主権から国民主権に転換し、議院内閣制が導入された。陸海軍の解体、貴族院から公選の参議院への転換などを含む一連の戦後改革によって、日本は徹底的に民主化され、政党の政治的な地位が著しく高まった。
敗戦後の日本では、多党制下の連立政権が続いた。1947年の新憲法施行直前の衆議院選挙の結果、社会党を中心とする連立政権として片山哲(かたやまてつ)内閣が成立し、翌1948年、進歩党の後身の民主党を中心とする芦田均(あしだひとし)内閣に引き継がれたが、昭和電工事件で倒れた。これ以降、第二次から第五次まで自由党(民主自由党)の吉田茂内閣が続いた。吉田内閣のもとで対日講和条約と日米安保条約が成立し、日本は主権を回復した。その後、吉田に対抗する保守勢力が民主党に結集し、1954年に鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣が成立した。
当初、自由党や民主党などの保守政党と社会党との政策距離は大きくなかったが、米ソ冷戦が日本に波及し、1951年に講和・安保両条約が批准されると、それに賛成した親米の「保守」と、反対した「革新」の対立が明確化した。保革対立には、従来の階級対立に加え、戦後的価値をめぐる改憲か護憲かという対立も含まれた。
両条約の批准をめぐって分裂した左右両派社会党が、しだいに議席を増やした結果、第五次吉田内閣、第一次鳩山内閣と衆議院での過半数を欠く単独政権が連続するなか、1955年に社会党が「非武装中立」を掲げて統一したことが決定打となって、民主党と自由党が保守合同に踏み切った。アメリカや財界も、自由民主党(自民党)の結成を後押しした。
この当時、自民党と社会党による保革の二党制が成立したという見方も存在したが、自民党と社会党の議席の比率は2対1であり、1959年に日米安保条約の改定をめぐって社会党がふたたび分裂し、民主社会党(後の民社党)が結成されたことなどで、自民党一党優位政党制がしだいに固まっていった。これが1955年体制(五五年体制)であり、新自由クラブと連立を組んだ短期間を除いて、自民党による安定した単独政権が、38年間にわたって続いた。
社会党は野党第一党であり続けたが、1964年に結成された公明党や、共産党が伸長するなど、野党の多党化が進んだ。その一方で、自民党も高度経済成長を背景に従来の農村部を中心とする支持基盤が揺らぎ、得票率を漸減させたため、1970年代に入ると、与野党伯仲状況に陥った。ところが、1973年のオイル・ショックによって高度成長が終わり、国民の間に生活保持主義が広がったこと、自民党が1977年に党改革を行い、党員参加の総裁予備選挙を導入したことなどを原因として、1980年以降、自民党は党勢を回復させ、保守復調とよばれた。
戦前の政友会・民政党以来の幹部政党としての組織を引き継いだ自民党では、同士討ちを招く当選者が3~5人の衆議院の中選挙区制を背景として、人事や選挙では派閥、政策決定では族議員が大きな影響力をもった。大衆政党の建設を目ざす党近代化も試みられたが、失敗に終わった。
衆議院の中選挙区制のもと自民党の国会議員や候補者は選挙区に個人後援会を組織し、利益誘導政治を展開して新たな票を掘り起こすとともに、地方議員を系列化した。自民党は与党として官僚制と緊密な関係をもちながら、労働組合を除く利益団体の多くと友好関係を築いた。さらに、中小企業者や農業者などを中核としつつも、都市部のサラリーマンなどの取り込みにつとめ、徐々に包括政党としての性格を強めていった。個人後援会や支持団体のメンバーが党員として登録され、1991年(平成3)には540万人を超えた。
衆議院の中選挙区制は、自民党の組織を分権的にする一方、野党が分立する一因になった。五五年体制のもと、社会民主主義政党は外交・安全保障政策をめぐって分裂した。「非武装中立」を党是とする社会党は、大衆政党の組織形態をとっていたが、党員は少数にとどまり、活動家の影響力が強く、それゆえドイツ社会民主党などに比べてマルクス主義からの脱却が遅れた。それも民社党が社会党から分かれた原因となった。組織的にはいずれも労働組合に選挙運動などを依存し、社会党・総評ブロックおよび民社党・同盟ブロックとよばれた。
野党で大衆政党の建設に成功したのは、1955年に武装闘争方針を放棄した共産党であり、1970年代なかばにかけて躍進したが、その後、頭打ちになった。公明党は支持母体の創価学会を通じて大衆政党的な性格をもったが、宗教政党という限界を免れなかった。
利益誘導政治などに特徴づけられる自民党長期政権は、ロッキード事件など大規模な汚職事件を繰り返し引き起こした。1988年(昭和63)にリクルート事件が発覚すると、衆議院の選挙制度改革を中心とする政治改革が叫ばれるようになった。
1993年(平成5)、政治改革をめぐって自民党が分裂し、衆議院選挙で新生党、新党さきがけ、日本新党といった新党が躍進した結果、自民党が衆議院議席の過半数を割り込み、非自民・非共産8党派による連立政権として細川護熙(ほそかわもりひろ)内閣が樹立され、五五年体制が終焉した。細川内閣のもとで政治改革が実現し、衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入されたほか、企業・団体献金が制限され、政党助成制度が創設された。
これ以降、小選挙区制を中心とする選挙制度のもとで、二大政党化が進展することになった。まず社会党とさきがけを除く非自民連立政権の与党が合流し、1994年末に新進党が結成される。しかし、3年後に解党の決定を余儀なくされた。それに続き、社会党とさきがけの一部によって1996年に結成された民主党が、旧新進党から分かれた諸政党と合併し、1998年に新たな民主党を設立した。
しかし、民主党は2009年(平成21)に自民党からの政権交代を実現したものの、政権運営に失敗し、2012年に自民党が政権に復帰した。この過程で民主党が分裂するとともに、日本維新の会が発足して伸長するなど、二大政党化は著しく後退した。
細川内閣以降、連立政権が続いたことをみても、二党制が成立したとはいえない。大きくいって、非自民連立政権から自社さ政権、そして自公政権と変化し、民主党政権も社会党の後身の社会民主党および国民新党との連立政権であった。
以上から、日本政治は1993年以降、一党優位政党制から多党制に移行したといえる。その背景には、衆議院の選挙制度が純粋な小選挙区制ではなく、比例代表制との並立制であること、より比例性が高い参議院が強力な第二院として存在していることなどがある。
ただし、多党制とはいっても、衆議院が小選挙区制を中心とする選挙制度である以上、2ブロック化の傾向がみられる。とりわけ自民党と公明党は、小選挙区の大部分を自民党、一部を公明党とすみ分けるとともに、自民党が比例代表で公明党に票を回すなど、緊密な選挙協力を行い、安定したブロックを形成している。
民主党は2016年に維新の党の一部と合流して民進党を結成するとともに、共産党を含む野党間の選挙協力を開始した。ところが、外交・安全保障などの政策距離が大きく、強固な野党ブロックを形成するには至っていない。しかも、民進党は2017年、希望の党への合流をめぐって分裂し、その後、立憲民主党と国民民主党に分かれた。これらの結果、1999年以来、3年あまりの民主党政権を除き、自公政権が続いているのであり、自公ブロックの優位が顕著である。
その一方で、有権者の党派性の減退、党員の減少、無党派層の増大、投票率の低下といった政党の衰退現象は、五五年体制が終わって以降の日本でも、かなりの程度みられる。冷戦の終焉を背景として、自民党と社会党が連立を組むなど、従来の保守と革新の対立が弱まったことが、無党派層の増大に拍車をかけたといわれる。
なかでも民主党は、社会党が活動家の影響力の大きさゆえに政権交代を実現できなかったことを反面教師として、労働組合の連合の支援を受けつつも、国会議員中心の組織を構築し、無党派層からの集票を重視した。このような組織のあり方は、民進党を経て立憲民主党や国民民主党に引き継がれている。また、自民党、公明党、共産党についても、党員の減少や支持団体の弱体化が進んでいる。そのため、マス・メディアの政治的影響力の上昇、政党助成への依存度の高まりなども踏まえて、日本の政党が選挙プロフェッショナル政党あるいはカルテル政党に接近しつつあるという分析も行われている。
ポピュリズムの色彩が強い地域政党の台頭もみられる。具体的にあげると、大阪府知事の橋下徹(はしもととおる)(1969― )が結成した「大阪維新の会」、名古屋市長の河村たかし(1948― )率いる「減税日本」、東京都知事の小池百合子(こいけゆりこ)(1952― )が設立した「都民ファーストの会」などである。
これらは、首長が地方議会で多数派を形成するために結成した政党であるが、大阪維新の会を基盤として日本維新の会が発足するなど、国政に進出するケースもみられる。しかし、それぞれの地域を超えて全国的な組織を構築することは容易ではなく、自民党から政権政党の座はもちろん、連合を支持団体とする民主党およびその後継政党から、野党第一党の座を奪うまでには至っていない。しかし、無党派層の票を掘り起こす政党が出現し、ブームが巻き起これば、政党システムが一気に流動化する可能性も否定できない。