赤道の南約40キロメートルに位置する島国。正称はナウル共和国Republic of Nauru。1968年1月31日にオーストラリア、ニュージーランド、イギリスの施政下にあった信託統治領から独立。人口は1万2000(2024年国連推計)。東京都の新島(にいじま)より一回り小さい島が唯一の国土で、その面積は21平方キロメートル(2023年国連統計)。バチカン、モナコに次ぐ世界で三番目の小独立国である。かつては燐(りん)鉱石収入で世界有数の富裕国家であったが、21世紀に入って資源が枯渇してからは一気に経済が破綻(はたん)し、苦しい国家運営が続いている。首都はヤレン。
太平洋の島嶼(とうしょ)国家のほとんどは複数島からなるが、ナウルは周囲19キロメートルのソラマメ状の隆起サンゴ礁島一つが全領土である。また、島の周囲にはサンゴ礁の形成がみられず、この地域では珍しく海がいきなり深海に通じている。そのため島嶼民でありながら、リーフ(岩礁)内での魚貝類の生産活動といった漁労文化の発展はみられなかった。島の周辺部は平坦地で、中央部は海抜60メートルほどの台地である。この高台は、海鳥の糞(ふん)や死骸(しがい)が堆積し数万年単位の長期間を経て化石化した燐鉱石でなっており、この資源の存在が近代以降のナウルの人々の運命を翻弄(ほんろう)してきた。
熱帯海洋性気候で平均の年間降水量は2000ミリメートルほどであるが、毎年一定ではなく、島内に水源がないために干魃(かんばつ)にみまわれることも少なくない。
考古学や言語学の詳細研究はなされていないが、民族的、言語的特徴から住民はミクロネシアに属しており、紀元前2000年ごろに西方からカヌーで移動してきたと推定されている。
1798年、イギリスの捕鯨船ハンター号がナウル島を「発見」したとされる。1888年にはドイツが保護領化し、コプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの)生産に力を注いだ。1899年にイギリス人アルバート・エリスAlbert Fuller Ellis(1869―1951)が、ナウルの土壌がきわめて純度の高い燐鉱石であることを発見し、1907年から採掘権をもつドイツのヤルート会社に権利金を支払って、採掘を開始した。鉱山の採掘労働者は現地人ではなく、イギリス人が連れてきた中国人であった。第一次世界大戦でドイツが植民地領土を失ったあとの1920年、オーストラリア、ニュージーランド、イギリスの3国を施政国とする国際連盟の委任統治領となったが、日本軍が1942年に軍事拠点と燐鉱石を求めて占領。太平洋戦争での日本の敗戦により、1947年にはオーストラリア、ニュージーランド、イギリスの3国を施政国とする国際連合(国連)の信託統治下に置かれ、1968年1月31日に独立した。
独立後に燐鉱石事業を国営化した政府は、莫大(ばくだい)な収入をもとに国民の無税化、医療・教育費の無料化、さらには結婚した成人男子に無償で住宅を提供するなどの政策を実施。これにより1970年から1980年代にかけては世界でも有数な富裕国として知られた。一方、20世紀末には燐鉱石の資源枯渇が予想されていたため、余剰資金を積極的に事業に投資して将来に備えた。それは国営の航空・海運会社の運営であり、海外不動産や株式の保有であった。しかし、事業家の不在、乱脈経営、指導者の不正蓄財等々の理由で投資事業はことごとく失敗し、海外資産のすべてを消失した。21世紀に入り、燐鉱石の枯渇とともに政府財政が破綻し、これまでの富裕国から一気に国際的援助の必要な国へと転落してしまった。
政体は大統領を国家元首とする共和制であるが、独立後もイギリス連邦に所属している。議会は一院制で3年任期の議員数19で構成され、議員の互選により大統領を決める。行政は議院内閣制で、大統領が議員のなかから指名する4、5名の大臣により組閣される。
独立以来21年間、大統領に就いていたハマー・デロバートHammer DeRoburt(1922―1992)は、国民の信頼も厚く国内政治は安定していた。しかし、相次ぐ投資事業の失敗がしだいに明らかとなり、1989年に経済改革を掲げたバーナード・ドイヨゴBernard Dowiyogo(1946―2003)に大統領の座を奪われた。これで経済の健全化が進むかにみえたが改革は思うに任せず、その後はめまぐるしい政権交代が続いて政治は混迷、経済は破綻の道を突き進んだ。それは、この国には政党が存在せず、政治家への支持・不支持は、地縁、血縁、ならびにその時々の個人的な人気に左右されるため、政治的安定を築く社会基盤が整っていないからだとの指摘もある。2013年の総選挙後に大統領に選出されたバロン・ディバベシ・ワンガBaron Divavesi Waqa(1959― )は、初代大統領以後で初めて2期6年の任期を満了した大統領となった。2023年10月からは、ワンガ政権時代に外務大臣だったデイビッド・アデアンDavid W.R. Adeang(1969― )が大統領を務めている。元大統領のワンガは、2024年6月に、太平洋諸島フォーラム(PIF)の事務局長に就任した。
かつて近隣島嶼諸国に援助する側であったナウルが被援助国となって、対外関係への関心は変化した。2005年には、初めてドナー国会合を招致して国際社会へアピールしたのもその表れである。外交関係においては、当初台湾を国家承認していたが、2002年7月に断交して中国と国交を樹立。しかし、2005年5月にはふたたび台湾との外交関係を復活させて中国と断交した。2024年1月には再度、台湾と断交し、中国との外交関係を復活させた。1999年に国連加盟国となり、常駐の国連大使を送っている。
使用通貨はオーストラリア・ドルであるが、実際のところ国民の経済活動は存在しなかった。ナウル人といえば公務員か燐鉱石公社の幹部職員であり、実際に働く鉱山労働者や商業の担い手は近隣島嶼からの出稼ぎ者か中国人であった。食料品はもちろん水までも輸入に依存しており、自生する植物以外に自給的作物の栽培はなく、漁獲も趣味としてのスポーツフィッシングがあるだけで、漁民などはいなかった。それでも1人当りの国民総所得(GNI)が2万ドル(アメリカ・ドル)を超えていた1980年代は問題なかったが、2000年代には3433ドル(同、2009年)まで落ち込み、自給経済の基盤がないだけに、近隣島嶼と比べて深刻な事態となった。
そこで、これまで粗放採掘であった燐鉱石を緻密(ちみつ)に再掘して輸出するプロジェクトを立ち上げて実行に移した結果、2004年には年間100万オーストラリア・ドルまで落ち込んでいた輸出額を2007年には2000万オーストラリア・ドルまで回復させた。このまま順調に推移すれば、今後20年から30年は見通しが立てられる計算で、政府はこの間に国内産業の育成を実現したいと考えている。一方で、中国との外交関係を復活させてからは、中国はもちろん、周辺国からの経済協力も増加傾向にある。
国民の教育レベルは高いが、実際に生産労働をしたことのない人々ばかりで、今後の産業育成には多くの困難が予想される。国民の大半がキリスト教徒で、公用語は英語とナウル語である。
学校教育はすべて英語を使用し、国民の識字率はほぼ100%。6~16歳の間に10年間の義務教育期間が設けられている。高等教育進学希望者はさらに2年間の追加教育を受けたあとに、主としてオーストラリアの大学に進学する。
太平洋戦争中の日本軍による占領時、日本軍は戦闘準備と食糧不足のために1200名のナウル人をトラック諸島(現、チューク諸島)に強制疎開させた。そこでは飢えと病気のため多くの死者が出て、終戦後ナウルに帰島できたのは737人であった。そのなかに初代大統領のデロバートがいた。このような不幸な歴史にもかかわらず、彼は疎開中の日本人との交流から親日となり、独立後には頻繁に来日した。1971年(昭和46)から1989年(平成1)まで、東京に領事館を設置。国営ナウル航空も鹿児島に就航していた。
デロバート失脚後の政治混乱と財政危機が起きてから、対日関係はしだいに希薄になっていった。それでも、経済破綻したナウルは日本の援助対象国となり、2021年度(令和3)までの累計で37億0800万円の無償資金協力・技術協力が実施された。駐フィジーの日本大使がナウルも兼轄している。