中部太平洋のカロリン諸島に位置する連邦国家。全体の陸地面積は702平方キロメートル(2023年国連統計)であるが、607を数える島はどれも小さく、国内最大のポンペイ島でも334平方キロメートルである。ミクロネシアの広範な海域に散在する複数諸島の連合体だけに、島々には独自の言語や文化が形成されている。かつて異島間の共通語は日本語であったが、太平洋戦争での日本の敗戦、アメリカ軍の占領以後は英語が使用されている。人口は11万2000(2024年国連推計)で、1986年11月にアメリカを施政国とする国際連合(国連)の信託統治領から独立した。首都はポンペイ島のパリキールで、1989年11月に同島のコロニアから遷都した。
東西3000キロメートルにわたって島々が散在するミクロネシア連邦は、それぞれ最西端にあるヤップ諸島、中央のチューク諸島(旧称トラック諸島)、その東のポンペイ島(旧称ポナペ島)、最東端のコスラエ島(旧称クサイ島)が属する4州で構成されている。ヤップ諸島以外の各州の本島となる島は中央部に丘陵や山岳を有する火山島であるが、ヤップ諸島だけが古い地質の陸島で、紀元前と推定される土器遺跡なども発掘されており、東南アジア方面からの人類移動がそのころから始まっていたことを思わせる。しかし、日常の人々の暮らしでは、交易などの多少の交流があったにせよ諸島間の一体性はなく、それぞれの島嶼(とうしょ)形態や植生、気候風土の違いにより地域ごとの言語や生活習慣・文化が発展してきた。
諸島間の違いをいっそう広げたのは、西洋人との接触後にたどった歴史的展開の個別性であった。たとえば、日本統治時代の日本人移住者の影響の強いチューク諸島では、住民の2割以上が日系人となり、日系人大統領や日系人酋長を複数輩出する諸島になった。島の伝統をかたくなに守り続けたヤップ諸島では、伝統社会の構造が残っている。また、コスラエ島では島特有の伝統社会の構造が消え、敬虔(けいけん)なキリスト教信仰者の多い島になった。連邦国家を形成するうえで、こうした異質性は国家を豊かにする多様性でもあるが、統一をむずかしくする不安定要因にもなっている。
なお、ポンペイ島南東部の広大な海の浅瀬には、巨石を積み重ねてつくられた海上都市遺跡ナン・マドールがあり、2016年にユネスコ(国連教育科学機関)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。
1525年、ポルトガルの探検隊がインドネシア探索中にヤップ諸島とウルシー環礁を「発見」、1529年にはスペイン人がポンペイ島に、1565年にはチューク諸島に寄港して、島々は西洋人の知るところとなった。1595年、スペインがポンペイ島などの領有を宣言したが実質的な統治はなかった。19世紀に入るとポンペイ島近辺には捕鯨船団や貿易商、プロテスタント宣教師らが頻繁に行き交うようになり、これを見たスペインは1886年、カロリン諸島全体とマリアナ諸島まで含めた地域の領有を再宣言し、ポンペイ島を中心にキリスト教カトリックの布教を活発化させ、軍隊も送って本格統治を試みた。この時期すでに、コプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの)貿易のためにポンペイ島、チューク諸島に進出していた日本人たちがいた。2007年に大統領に就任したイマニュエル・モリEmanuel Mori(1948― 、在任2007~2015)の曽祖父である森小弁(もりこべん)(1869―1945)は、そのなかの一人である。
しかし1899年、米西戦争に敗れたスペインは、アメリカに奪われたマリアナ諸島のグアムを除き、すべてのミクロネシア領有権をドイツに売却。ドイツはコプラ生産に力を注いだが、1914年に第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するとドイツ領ミクロネシアは日本に占領された。日本はこの地域を南洋群島と称して統治を始め、1920年には国際連盟の委任統治領に認められた。
これにより日本は、現地民への日本語教育や神社の建立などの日本化を進めた。ポンペイ島には最盛期の1940年時点で8048人、チューク諸島には4128人の邦人(海外居住日本人)が居住したが、コスラエ島やヤップ諸島へと渡る民間邦人は少なかった。
太平洋戦争時、日本海軍はチューク諸島に太平洋艦隊基地を置いたが、アメリカ軍の徹底空爆を受け全滅した。ラグーン(サンゴ礁内の海域・礁湖)には60余隻の艦艇がいまも沈んでいる。1945年の日本の敗戦で、域内の邦人はすべて強制退去させられ、島々は国連の信託統治領としてアメリカの統治下に入った。アメリカは、日本的影響をことごとく排除し、地元民に英語を身につけさせ、アメリカ式民主主義を植えつける行政を熱心に行った。
信託統治終了後の島々の政治地位について、アメリカとの交渉が始まったのが1969年である。当初、信託統治領ミクロネシアは一丸となって自治または独立を目ざす方針を立てていたが、アメリカとの交渉途中で、諸島ごとの思惑の違いが顕在化。それがマリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島の離脱につながった。その結果、残った4地区をもってミクロネシア連邦を形成し、1986年にアメリカとの自由連合関係のもとに独立を果たしたのである。
政体は4州で連邦を構成する共和制。議会は一院制で、各州から1名選出される4年任期議員4名と州の人口比例で選出される2年任期議員10名の計14名で構成される。正副大統領は4年任期議員のなかから、議員による投票で選出される。正副大統領を出した州は、補充選挙を実施して不足を補う。
人口比により議員数の多いチューク州選出議員が連続して大統領職を独占しないように、各州輪番制合意ができている。また、過去には不信任などで大統領職を追われるような政治混乱はなかったが、これは政治の安定というより、大統領にさほどの権限が集中していないことによる。大統領が率いる中央政府は、外交や対米交渉、政府収入の各州分配に関する業務が主で、州内行政への権限を有しないからである。また、財政の根幹をなすアメリカからの財政援助金も協定で各州政府へ直接的に流れる仕組みになっているため、中央政府には財政的に州をコントロールする権限はなく、「五つの政府がある国」と表現されることもある。各州は独自の憲法を有し、直接選挙で選出される4年任期の知事と州議会のもとで統治されている。
首都はポンペイ島のパリキールに置かれ、各州から集まった議員や官僚が働いているが、独立後約40年が過ぎても依然として一国家のなかで州の壁が取り除かれていない。それは国家的な企業などがないことや使用言語、習慣の違いから、各州間の人的交流が進まないからである。
国際政治では、積極的に対外関係の拡大を図ろうとしており、2024年時点で90以上の国との外交関係を維持している。かつて日本統治を経験したミクロネシア3か国(ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオ)のなかで、ほかの2か国が台湾を国家承認しているが、ミクロネシア連邦は中国と外交関係を結んで北京(ペキン)に大使館を設置している。
「自由連合国は、憲法のもとに主権を有するが、防衛と安全保障についてはアメリカが全面的権限と責任を負う。同時に、アメリカは15年間にわたり財政支援を行う」。これが、ミクロネシア三国(ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオ)がアメリカと結んだ協定の骨子である。経済協定は2001年で終了したが、計画通りに経済自立への基盤が整わなかったため、2004年から20年間に限り財政支援の継続協定が結ばれた。さらに2023年には、第三次となる財政支援の協定が結ばれている。「自由連合」の名称由来は、どちらか一方の申し出で自由に協定の解消ができるところからきており、協定自体に有効期限はない。この協定は、アメリカとの自由連合関係の発足当初は国家の独立性を損ねかねないとの懸念があったが、軍隊も自国通貨ももたない小国にとって、いまでは国家存立の前提になっている。
財政は、アメリカからの協定援助金(コンパクトマネー)を基本に成り立っている。貨幣経済と伝統的自給経済が混在していたが、アメリカからの協定援助金や諸外国の援助から流入する資金により、伝統的自給経済が徐々に縮少しており、一方で、域内産業も育っていない。政府はこうした現状を、漁業や農業、観光業の開発で打開しようとしている。とくに漁業は、周辺海域が好漁場のため外国漁船からの入漁料収入は年間7000万ドル(2023)、国家歳入の30%にものぼる。政府はこれだけの漁業資源を自ら地場産業化すれば、一気に経済構造が好転すると考えている。
国民1人当りの国民総所得(GNI)は4140ドル(アメリカ・ドル、2022年)。産業のないわりにこの水準を保てるのは、財政援助のほかにも国外に出た人たちからの送金が大きく貢献しているからである。国内には働き口が少ないが、自由連合関係は、就労を含めて出入国が自由であるため、ミクロネシア連邦の人々にとってアメリカ行きにあまり抵抗がない。こうした条件が若者の海外転出傾向を後押ししている。通貨はアメリカ・ドル。
言語は英語が公用語で共通言語として使われており、地域ごとにチューク語、ヤップ語、コスラエ語などの言語も使われている。宗教はキリスト教のカトリック、プロテスタントが多いが地域伝統信仰も色濃く残っている。
教育制度は初等教育が8年、中等教育が4年で、教育言語は英語。国民の90%が小学校を卒業する。国内の高等教育機関としては、首都のあるポンペイ州にミクロネシア短期大学があり、教養教育や教員養成などを行っている。本格的な大学教育を求める者は、奨学金を得てグアムやハワイ、アメリカ本土の大学に進学する。国民の高等教育への進学率は20%弱である。
太平洋戦争後長い年月が経過し、日本語を話す世代は少なくなったが、ミクロネシア連邦住民の親日度は依然として高い。自治政府時代の1984年(昭和59)には東京事務所を開設し、1988年の外交関係樹立とともに大使館に昇格させるなど、日本との関係を重視している。日本も1995年(平成7)にポンペイ島に公館を開設し、2008年(平成20)には大使が常駐する大使館に昇格させた。
2024年(令和6)時点で、日本との直行便就航はないが、不定期で直行チャーター便が運航されることもある。日本から、2021年度までの累計で358億5600万円の無償資金協力・技術協力が実施されている。