人間が習慣的に1日のほぼ決まった時刻に、生存のために主たる食物をとること。食事の時刻、回数、内容、食べ方などは時代や社会によって異なる。動物の採餌(さいじ)と異なり、むしろ文化的要素が色濃く反映する。祝事、祭事などの行事の際には、日常と異なる食物が異なった仕方でとられることが普通で、多くの民族で発達している。
現在、国際的には1日に朝、昼、夕の3食をとるのが普通で、これは、1日の昼の大部分を活動にあて、夜の大部分を休息にあてる、という社会の仕組みに対応したものである。したがって、同一の社会でも、地位、職業によって食事の時刻や回数が異なることが多い。
日本では古代には朝夕の2食であり、鎌倉時代の初めごろ、朝廷、貴族の間で3食となり、江戸時代に3食が一般化した。その移行の途中では朝夕の間に間食をとることが行われ、中食(ちゅうじき)、点心(てんしん)、勤随(ごんずい)、非食(ひじき)などと階層によって異なってよばれた。中国の農家では2食が普通とされる。インドでは正午以前と日没後の2食が主で、早朝と夕方、乳の入った茶を飲む。アラビアでもほぼ2食が普通である。ヨーロッパでは、古代ギリシアで1日3食、ローマ人も3食だった。中世に2食の時代を経て、食事時刻や回数はめまぐるしく変わり、現在のようにほぼ定着した。一般的にいって食事の回数は、時代、地域を通じて、貴族の回数は少なく、農民では多いといえる。
また、1日の食事には軽重がある。一般に夕食は多く、ゆっくりとだんらんを伴って食べられる。しかし、たとえばスペインなどのように、昼食を多く、時間をかけて食べる国もある。
食事は家族あるいはグループで、同時にともに食べる(共食)のが普通であった。食卓あるいはそれにかわるものに置かれた食物を囲むのが普通である。日本の銘々膳(めいめいぜん)のように個人的なものもあるが、これもともに食べるという意味では同様である。食事の体系としては、日本のように各自の料理の皿にすべての料理が初めから盛り付けられて食事が始まるタイプと、欧米のように主たる料理がそのまま食卓に置かれ、各自が取り分けるやり方とがある。前者は初めにすべての料理が配膳されるが、後者では料理が次々に卓上にもたらされることが多い。しかし、日本の場合も、もともとは食卓上で取り分ける形であったと考えられ、このほうが一般的といえよう。
行事の際には日常とは異なった料理がつくられ、異なった様式によって食べられる。たとえば日本で正月にほぼ全国的に食べられる糯米(もちごめ)は、おそらく古代に常食だったと考えられ、神祭りの際に神(祖神)への供物として用いられたものが定着したものである。それを人も頂くわけで、行事食には神(あるいはそれにかわる絶対者)との共食(神人共食)の意識が濃い。日常の食事にも神が意識されていることが多い。食事の前に料理や飯を神棚あるいは仏壇に供える風習はそのことを物語っている。
[大塚 滋]
日本人の食事の系統や変遷については、自然環境、生活様式、生産活動、社会などとの関連でとらえる必要があり、多くの問題点をもっている。資料的にある程度判明しているのは縄文時代以後である。縄文時代の貝塚や遺跡などから出土する食料のうち動物質のものは550種余りもあり、貝類(350種余)、魚類(70種余)、獣類(70種余)が比較的よく残されている。これらは地方色をもって出土している。獣ではイノシシ、シカが多いが、地方によってはクマ、カモシカ、サル、タヌキ、ウサギ、キツネ、アナグマなどもみられ、魚類では北海道でニシン、スズキ、三陸から関東にかけてマダイ、マグロ、カツオ、瀬戸内ではマダイ、サワラ、フグ、ハモ、九州ではサメも多くみられ、内陸部ではフナ、コイ、ナマズ、スッポンなども検出されている。貝類はアサリ、カキ、ハマグリなどを主体にして各地の自然環境を反映したものが残されている。
植物質のものは多くが消滅しているが、トチ、どんぐり、クルミが遺跡に比較的残っており、さらにウリ、イネ、ソバ、オオムギ、コムギ、ヒエ、アズキ、リョクトウ、エゴマなどが縄文時代末期までの遺跡から発見され、日本の主要な栽培植物はすでにこの時代には食料となっていたと考えられる。調理などの方法は、動物質のものは煮たり焼いたり、薫製にされたと考えられ、植物質食料は、石皿や磨石(すりいし)の存在から粉食も考えられる。さらに縄文時代の後・晩期には西日本でどんぐりを主体にする貯蔵穴がつくられ、デンプン質の食料が計画的に用いられたようである。
弥生(やよい)時代になって注目されるのは水稲作の定着・普及で、西日本では弥生中期から塩の生産も始まっている。塩の生産は、食生活の基本が植物質のものに変わり、食物の味つけが行われたことを意味している。これは農耕による食料獲得が中心となったことも示している。一方、この時代の食具では箸(はし)はみられず、木製のスプーンや杓子(しゃくし)が主体で、弥生末期になると画一的な高坏(たかつき)や碗(わん)形のものが増える傾向にあり、盛る食物の普及がうかがえる。米の調理法は、弥生前期から甕(かめ)形の土器の底に一つの穴をあけたものがあり、これで蒸して食べる強飯(こわいい)が行われたものとの説もあるが、この時代には雑炊(ぞうすい)的な食べ方をしたというのが有力である。強飯は甑(こしき)がなければできず、これが出現するのは古墳時代の後半である。
古墳時代前半までは住居址(し)内に炉がみられるだけで、後半つまり6世紀になると各地で竈(かまど)が出現し、同時に本格的な甑がみられるようになる。食具では弥生時代の遺跡からスプーン、杓子が出土しているが、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』では「食飲用豆(へんとう)手食」(食飲(しょくいん)には豆(へんとう)〈高坏のこと〉を用い手食す)とあり、手食いである。箸については『古事記』に、須佐之男命(すさのおのみこと)が川を箸が流れ下るのを見て、上流に人家があるのを知る条(上巻)があり、8世紀の初めには使われていたことがわかる。
古墳時代から中央集権化が進む奈良時代になると、各種記録や公共建造物址から出土する木簡(もっかん)によって食事の内容を知ることができる。『古事記』では稲・粟(あわ)・小豆(あずき)・麦・大豆、『日本書紀』では稲・粟・稗(ひえ)・麦・豆を五穀とし、穀類が主食・常食であった。稲(米)は、強飯(こわいい)、(かたかゆ)(今日一般的な炊いた飯)、粥(しるかゆ)(今日の粥(かゆ))、(こみず)(重湯のようなもの)、糒(ほしいい)(保存食)、焼き米にされ、副食物としては野菜類、魚、貝、海藻類、鳥獣の肉、各種木の実などがあった。酒の記録もあり、清酒(すみざけ)、濁酒(にごりざけ)、醴(こさけ)(甘酒)、白酒(しろき)、黒酒(くろき)、難酒(かたざけ)、糟(かす)などの種類がみえる。酢もつくられており、調味料類として醤(ひしお)、未醤(みそ)、(くき)(納豆(なっとう)のようなもの)など、加工品として鮓(すし)(馴(な)れ鮓のこと)、醢(ししびしお)(肉類の醤)、(きたい)(魚貝肉の干物)、楚割(すわやり)(魚干物)、堅魚(かつお)(今日の節類)や塩・醤・糟につけた漬物、蘇(そ)(乳製品)など多種のものができている。
食事の回数は日に2回(朝夕)が基本で、官人は政府から身分や労働内容に応じた食料(米など)が朝夕料などと称して支給された。この時代には食品の種類が多く、食事は豊かなようだが、記録類は官人・貴族のものであり、庶民の食事は『万葉集』などから考えると貧しかったようである。
平安時代も基本的には前代に変わらないが、記録上にみえる飯や粥の種類はさらに豊富になっている。強飯は「古八伊比(こはいひ)」(『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』)と訓じられ、これが正規のものとして天皇の供御(くご)や節会(せちえ)の宴にも出された。固粥(かたがゆ)は姫飯(ひめいい)ともいわれ、平安末期には正規の食事でも使われ始めている。宮中・貴族の饗宴(きょうえん)では坐礼(ざれい)、共卓式の場合があり、豊富多様なものが出され、菓子として中国から伝わった唐菓物(からくだもの)なども添えられている。饗宴では右手に箸、左手にスプーンというようにスプーンが同時に使われ、主客が皿を箸でたたいてから客が一斉に箸をとり、また食事を中断するときには飯に箸を立てるのが習わしとなっていた。
その後、食事のあり方に大きな影響を与えたのは武士の台頭と仏教(とくに禅宗)の普及である。武士の台頭により、貴族への貢納物が乏しくなり、貴族の食事は生鮮な食物が減った。鎌倉時代の末期には禅宗の普及とともに姫飯と粥がさらに一般的なものとなった。米の飯は室町時代にも強飯・姫飯が並行してあったが、前代からの姫飯の一般化に伴い、江戸時代になると現在とほぼ同様に姫飯が標準となり、強飯は儀礼用となっていくのである。鎌倉・室町時代にはこれとともに僧侶(そうりょ)による点心(てんしん)という精進(しょうじん)料理が発達・普及し、茶の飲用も広まった。うどん、そうめん、羊かん、豆腐が食べられるようになり、かつお節、かまぼこ、納豆、こんにゃくの製造も広まっている。鎌倉時代にはすり鉢やおろし皿も普及し、調理法がしだいに複雑となり、一方では料理の形式化が進んで、室町時代には今日のいわゆる日本料理の原型ができ、料理・飲食の作法がつくられていった。ここから本膳(ほんぜん)料理が発達してくるのだが、江戸時代になると多くの料理本が出版されるようになる。江戸時代には中国や南蛮料理の影響が加わり、武家・町人を中心にさらに調理法が発達し、江戸後期には町に料理屋が増えていった。また、この時代にはサツマイモが食料に加わり、重要な役割を果たした。その後明治時代には、これに洋食が大きな影響を与え、さまざまな変化を生んでいくのである。
[小川直之]
日本では朝夕の2回食を基本とした時代が長い。平城宮址から出土した木簡には「常食朝夕」と記されたものがあり、祝詞(のりと)には「朝け」「夕け」の語がみえている。室町時代の北条氏康(うじやす)の『武者物語』には「およそ人間はたかきもひくきも一日再度づつの食なれば」とあり、この時代も2回食が基本であったことがわかる。1日3回の食事は、鎌倉時代初めの有職故実(ゆうそくこじつ)書である『禁秘抄』(1221年成立)に、宮中で行われたことがみえているが、日に3回を常食するのが普及したのは江戸時代と考えられている。しかし江戸時代においても武士の禄高(ろくだか)は2回食を基本とし、1食は米2合半で1日5合を基準としていた。現在の朝・昼・晩の三度の食事のうち、昼食については、奈良時代の記録にみえる「間食(かんじき)」がもとになっている。当時は前記のように2回食が基本だが、激しい労働を行う官人や役夫には朝夕2回のほかに間食が給されたのである。これは、『日本霊異記(にほんりょういき)』などにもみえており、現在の昼食はもとは労働内容に応じて必要となったことがわかる。
鎌倉・室町時代には昼食を意味する「午餉(ごしょう)」という語が使われ、昼食をとるのが広まりつつあったようだ。しかし一方には前記の『武者物語』のような記述もあり、昼食が定着していたとは考えがたい。三度の食事が一般的食習慣となったのは江戸中期といわれているが、労働の激しい農山漁村では、この時代には3回食のほかに朝食前、朝・昼食の間、昼・夕食の間などに間食(かんしょく)として軽い食事をとるのも習慣化していたようである。間食は常食ではなく、通常、繁忙期に行われ、コビル、ケンズイなど各地にさまざまな呼称がある。コビルは小昼で、昼間の軽食という意味をもち、おもに東日本でいわれ、ケンズイは「間食」を呉音(ごおん)読みにしたいい方で、西日本を中心に分布するほか、各種記録にもみえている。
[小川直之]
日本人の食事の規範として重要なことの一つにハレとケの区別がある。ハレというのは祭礼、年中行事、人生儀礼など、改まったときのことであり、ケというのは日常、普段のときのことで、この時々によって食物・食具・食制を区別するという規範が古くからある。古代の諸資料ではハレの日の食事に関するものが多く、日常の食事については明確な資料がほとんどないが、江戸時代以降をみると、日常の食事は季節的な変化は多少あるものの、総じて変化の少ない、種類の乏しいものであった。主食は米と麦、粟、稗あるいは野菜類を混ぜて炊いたもので、これに1、2種の副食がつく程度であった。昭和初期までは粟や稗を主食料とする所もみられ、いろりなどを囲んで各自決まった場所で箱膳を用いて食べるのが一般的で、食料の配分は主婦の重要な役割であった。
これに対しハレの日の食事は、日ごろ食べない魚や肉、変わり物を食べた。米だけの飯、餅(もち)、団子、粢(しとぎ)、強飯(赤飯)などを中心にした食事で、飲酒もハレの日に限られていた。全国どこでも米が常食となったのは第二次世界大戦以後のことであり、それ以前は米はハレの食料とするのが一般的だった。ハレの日の食物は、それぞれの日につくるものが決まっているのが普通で、日常とは違って共食者がいたり、そのときの食物を贈答したり、さらに特別の膳・椀(わん)などの食具を用いるのが特色である。直会(なおらい)は神と人間との共同飲食を示すことばであり、節供(せっく)は節日に特別な食物を神に供するという意味をもっている。
[小川直之]
(略)
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