原子が結合して生成した物質の基本構成単位。
[岩本振武]
1811年イタリアのアボガドロは、当時広く認められるようになったドルトンの原子説に対し、水素や酸素の単体が原子1個からなるのではなく、水素と酸素が反応して生じた水の分子も、水素原子1個と酸素原子1個からなるのではないことを主張し、水素、酸素はそれぞれ2個の原子が結合した分子をつくり、水の分子は水素原子2個と酸素原子1個が結合したものであるとの仮説を提出した。これが現代の分子像の最初の提案である。その仮説の正しいことは、1860年ドイツのカールスルーエで開かれた第1回万国原子量会議でアボガドロの後輩にあたるカニッツァーロの力説によって、ようやく化学者たちの支持を受けるようになった。そこで初めて原子量の正しい数値の算出が可能となり、この会議に出席していたロシアのメンデレーエフが、のちに元素の周期律を提出することになるのである。
同じころ、フランスのパスツールは酒石酸塩の光学異性体を分割し、オランダのファント・ホッフとフランスのル・ベルは有機化合物の光学異性体の構造と旋光能との関係を調べて、炭素が正四面体の中心から頂点の方向に結合の手を伸ばしている構造モデルを提案し、ドイツのケクレはベンゼン分子が正六角形に連結した炭素原子の環状構造をもつことを提案した。また、当時知られていた化合物のほとんどが簡単な整数比となる原子組成をもっていたため、すべての物質が単純な分子を基本単位としているとも考えられていた。
20世紀に入り、X線回折法をはじめとする分子構造の決定法が発達し、熱力学的な諸量における分子(モル概念)と実際の分子との対応もつけられるようになった。その結果、通常の純物質の分子は一定種類の原子がそれぞれ正確に勘定できる一定個数だけ集合し、一定の結合順序によって構成されたものであることが明らかとなった。アボガドロが考えた分子はこれに相当するので、この種の分子をアボガドロ分子ということがある。これに対し、イオン結晶や金属結晶では、イオン結合や金属結合が結晶全体に及んでおり、比較的少数の原子からなる独立した分子は存在せず、あえて分子というならば、結晶全体が一つの巨大な分子を構成していることになる。そこで、この種の分子を巨大分子ということがある。
一方、タンパク質やセルロースなどの高分子がきわめて分子量の大きな重合体であり、構成要素である単量体分子の単なる集合体ではないことが広く認められたのは1930年代のことであった。高分子は主として有機系、巨大分子は主として無機系の物質に使われる用語であるが、両者の間に本質的な差はない。
[岩本振武]
狭義の分子は複数の原子からなる電気的に中性な化学種であるが、分子運動や分子構造を論ずるときには原子やイオンを含むことも多い。気体分子運動論におけるもっとも簡単な分子は、分子回転や分子内での振動の寄与がない単原子分子である。現実には、希ガスの分子がこれに相当する。硫酸イオンのような多原子イオンや錯イオンの構造と分子構造との間には、電荷の有無を除けば本質的な差はない。たとえば、テトラヒドロホウ酸イオンBH4-、メタンCH4、アンモニウムイオンNH4+は、いずれも正四面体型の分子構造をもつ。電解質水溶液では、各イオンはそれぞれ独立した化学種として挙動し、電荷をもつ分子として扱うことができる。モル概念から誘導された物質(の)量は、物理・化学における基本単位の一つであり、単位名称はモル、単位記号molで示される。12C(質量数12の炭素原子)の0.012キログラムと同数の粒子を含む物質の量が1モルであるが、分子、イオン、原子、その他の基本的粒子のいずれであるかを問わず、アボガドロ定数個の集団が1モルとなる。1モル当りの熱力学的諸量の取扱いにおいても、分子、原子、イオンに対する区別はほとんどない。
[岩本振武]
もっとも簡単な構造をもつ分子は単原子分子であり、希ガス分子がその例となる。二原子分子は直線状であり、水素、窒素、酸素、塩素などその例は多い。三原子分子の二酸化炭素CO2は直線状であるが、水分子H2OはV字状である。アンモニアNH3は窒素原子を頂点とする三角錐(すい)の形となるが、リンの分子P4は各リン原子が頂点となる正四面体形である。アンモニア分子の三角錐も四面体形ではあるが、正四面体形ではない。BH4-,CH4,NH4+では、正四面体の中心にB、C、Nの各原子が位置し、各頂点にH原子が位置する。錯イオン[CoCl4]2-も正四面体形であるが、[Ni(CN)4]2-は正方平面形である。ヘキサシアノ鉄(Ⅲ)酸イオン[Fe(CN)6]3-も六フッ化硫黄(いおう)SF6もともに正八面体形である。ドデカボラン(12)酸イオンB12H122-は正二十面体の各頂点をB原子が占め、中心から頂点を結んだ線の延長上にH原子が位置する対称性の高い構造をもつ。
[岩本振武]
自然化学においては、なるべく精製された物質を用いて精密な実験を行い、その結果をなるべく単純化されたモデルによって理論的に説明する方法論が一般に採用されている。物理学、化学にとくにその傾向が著しい。しかし、天然に存在する物質系や人工的に合成される材料物質の多くはけっして単純な物質種ではなく、さまざまな化学種(分子、原子、イオンなど)が集合したものである。それらの理解は個々の分子に関する情報を正確に把握し、総合することによって可能となるとされており、分子集合体の物理・化学は今後の発展が期待される研究課題となっている。
[岩本振武]