中国の政治家。中国共産党中央委員会総書記、党および国家中央軍事委員会主席、中華人民共和国主席、中央国家安全委員会主席。その他、中央各領導小組組長など兼任。
陝西(せんせい)省富平(ふへい)県出身。1969年に文化大革命が始まって間もなく父である習仲勲(ちゅうくん)が批判され、自身も反動学生とされ、1969年から7年間、陝西省延安(えんあん)市延川(えんせん)県の文安駅公社梁家河(りょうかが)大隊という、きわめて生活環境の厳しい貧しい村に下放された。そこで下放知識青年としての活動に励み、1974年1月に中国共産党に入党し、やがて同生産大隊の党支部書記を務めた。7年近くの下放を終え、1975年に国家重点大学の清華大学化学工程学部に入学。1979年に卒業したのち、国務院弁公庁および中央軍事委員会弁公庁に勤務して、耿飈(こうひょう)(1909―2000。延安時代に習仲勲とともに政務、軍務の活動をし、1970年代には副総理および中央軍事委員会常務委員を務めた)の秘書をかけ持ちで務めた。
1982年以降はもっぱら地方幹部として活動し実績を積み重ねていった。1982~1985年は河北(かほく)省正定(せいてい)県で党および武装部関係の責任者、1985~2002年の17年間はもっぱら福建(ふっけん)省の地方幹部として活動し、徐々に台頭し有力幹部になった。すなわち1985~1988年は厦門(アモイ)市、1988~1990年は福建省寧徳(ねいとく)地区、1990~1996年は福州(ふくしゅう)市、1995~2002年は福建省の党、政府、軍区での指導者となった。2002年に浙江(せっこう)省に副書記として赴任し、以後2007年まで、書記、省長、軍区第一書記などを歴任した。2007年3月、上海(シャンハイ)市党書記となり、同年10月には一挙に中央政治局常務委員に大抜擢(ばってき)された。この間、地方の現場で直接の出会いを通してつくった彼の人脈は、第18回党大会(2012)で党総書記に就任した直後には習近平指導部の「圏子(チェンツ)」(信頼できる人間関係の束)としては露骨には現れていなかった。しかし、第18回党大会以降、彼らは主要な分野の政策決定機関のトップを独占し、「大虎もハエも叩(たた)く」という反腐敗闘争を大々的に展開し、速やかに、果敢に権力の集中を図った。第19回党大会(2017)に向かう新たな指導部形成の過程では、徐々にしかも露骨に習の「緊密な関係」、「習近平圏子」(習人脈)といわれる人々を次々と要職に抜擢し、指導体制を固めていった。
第19回党大会前年の2016年に、第18期中央委員会第6回全体会議(六中全会)で習近平を「党の指導的核心」と位置づけることが正式に承認され、第19回党大会では「習近平同志の『新時代の中国の特色ある社会主義』思想」という表現が党規約に盛り込まれることとなった。さらに同大会「政治報告」では、毛沢東(もうたくとう)の「建国」、鄧小平(とうしょうへい)の「富国」に続き、習の「強国」の目標が全面的に打ち出された。これらによって習近平は毛沢東、鄧小平に並ぶ突出した共産党の指導者として、第19回党大会以降も第2期習近平政権として、強力な指導力を発揮することとなった。
[天児 慧]