中国、山西(さんせい/シャンシー)省大同(だいどう/タートン)の西15キロメートル、武州川の北岸の断崖(だんがい)につくられた北魏(ほくぎ)の石窟寺院。2001年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。石窟の全長は約1キロメートル。敦煌(とんこう)石窟、竜門石窟とともに三大石窟と称され、大同石仏としても知られている。大小53窟あり、東方石窟群(第1~第4洞)、中央石窟群(第5~第13洞)、西方石窟群(第14~第53洞)の3部分に分かれている。雲崗石窟の開削は460年、沙門統(しゃもんとう)曇曜(どんよう)が時の皇帝文成帝に石窟5所を営みたいと奏上したのに始まる。この最初期の5窟(第16~第20洞)が完成したのは465年ごろで、これを曇曜五窟とよぶ。それぞれの石窟内部に十数メートルもある本尊像が立ち並ぶさまはまことに壮観で、これを取り巻く仏、菩薩(ぼさつ)、天人などの群像は、いずれも素朴で力強い作風を示し、遊牧部族だった北魏の拓跋(たくばつ)族のたくましいエネルギーを感じさせる。太武帝の時代に厳しい仏教弾圧を経験した直後だけに、仏教を永遠不滅なものにしたいという願いがここに凝集したかのようである。文成帝が崩ずると、13歳の献文帝が立ち、ついで5歳の孝文帝が即位するが、政治の実権は文成の皇后、馮太后(ふうたいごう)の手に握られていた。彼女は熱烈な仏教信者で、側近の元老たちも仏教に熱心だったから、北魏の仏教は繁栄の一途をたどった。雲崗石窟の造営も活発を極め、第7洞、第8洞、第5洞、第6洞など中央の石窟群が完成すると、石窟の造営は東方へ、さらに西方へと広がっていった。涼州出身の僧である曇曜は480年代まで、20年余も沙門統の地位にあって活躍したが、彼の率いる北涼系の工人集団が、石窟の造営、仏像の制作などの主流を占めていたものと考えられる。雲崗の仏像様式が西方の影響を強く受けていることは、シバやビシュヌ神のようなインドの神々、牛や金翅鳥(ガルダ)にのる多面多臂(たひ)像の存在によって明らかだが、釈尊(しゃくそん)の生涯を描いた仏伝(ぶつでん)図、その前生の物語・本生(ほんしょう)図をはじめ、盧遮那仏(るしゃなぶつ)、阿弥陀仏(あみだぶつ)、多宝仏、弥勒(みろく)菩薩、観音(かんのん)菩薩、維摩(ゆいま)、文珠(もんじゅ)など造像の種類も豊富。創建当初は極彩色に輝いていたが、今日残る彩色は近世の補修である。水野清一、長広敏雄(としお)らが1938年(昭和13)から1944年まで実施した現地調査に基づく報告書『雲崗石窟』全16巻(1951~1956・京都大学人文科学研究所)がある。