正規軍人の着用する制服。外套(がいとう)、雨着、帽子、靴なども広義の軍服といえる。敵味方や非戦闘員との識別、軍隊団結の象徴などを目的とし、共通互換性、機能性、耐久性を重視する。
陸・海・空の各軍、将校・兵士などの階級身分、歩・騎・砲・工などの兵科、夏・冬・合(あい)の季節、寒帯・熱帯などの地域、通常勤務・特殊勤務などの作業、男女の性別、年齢などによってそれぞれ区分される。古くは日常用、戦闘用とも同一のものを用いたが、近代正規軍では儀礼用(正装)、日常用(軍装)、訓練・演習・戦闘に着用する戦闘用(略装)と区別するようになった。
軍服に類する衣服は、軍隊の発生とともにあり、各種族、部族の支配者が自分の手兵に同一の服を支給し団結を誇示した記録は、ギリシア、ローマ、エジプト、メソポタミア、中国など文明発祥地に多くみられる。ただしこの場合は下級兵士や傭兵(ようへい)に限られ、指導者、貴族、隊長クラスは自弁の自由な服装である。また部族が異なると軍服も異なって、全軍的統一にはほど遠く、むしろ統一性は兵士たちの武具甲冑(かっちゅう)に求められ、それがユニホームとなっていた。
定説では、イギリスの王位継承戦「ばら戦争」(1455~85)で両軍がそれぞれ赤ばら、白ばらの記章をつけて戦った史実を軍服の発祥としている。1644年、イギリスのクロムウェルが議会派新模範軍に赤服を着用させ、また1670年、ルイ14世が国費をもって全軍統一の軍服(兵科による差はあり)を採用するなど、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各国の国民軍は制服を着用するようになった。これらはいずれも赤青黄緑などのはでな原色地に金銀の装飾を凝らした華美なデザインで、わが国の鎧兜(よろいかぶと)と同じく武人を男子の華とするもので、ナポレオン戦争の槍騎兵(そうきへい)、竜騎兵のファッションはその代表例である。
19世紀後半に入ると火器の急激な発達により、目だつ原色軍服は野戦に不利なため避けるようになった。南ア戦争(ブーア戦争)の際、インドから派遣されたイギリス軍がカーキkhaki(ヒンディー語で土ぼこりの意)色の軍服で迷彩効果をあげたので各国軍はこれに倣い、いずれも国土にあわせて濃緑、灰緑、黄褐、褐色などのじみな色の軍服を採用するようになった。
一方、海軍では、各国とも黒または紺色(夏服は白)を基礎に機能性を加味し、幹部はフロックコート、詰襟、背広型に変わり、兵士は俗にセーラー服とよばれる型に伝統化された。また20世紀に創設された空軍の制服は初めは陸軍と同じで、やがて空色背広型に定着した。
日本では1870年(明治3)国軍の統一とともに陸、海、海兵の服制を定め、陸軍はフランス、海軍はイギリスを模範として、将校と兵士をデザインで区別。階級、兵科は階級章、兵科章で表した。日露戦争後半から従来紺系統の布地が茶褐色となり、昭和に入ってドイツの影響で詰襟から折襟となった。陸軍は日常衣と戦闘衣は同型で、特殊被服として防寒衣、防暑衣、航空服、戦車服、防毒服など各種があった。海軍は建軍以来大きな変革はなく、第二次世界大戦後期に緑色の陸戦服が採用され、艦艇乗員もこれを着用した。