ジャパンナレッジの連載記事「日本語、どうでしょう?」の執筆者、神永曉さんを講師に迎えておくる日比谷カレッジ「辞書編集者を悩ませる、日本語」は今回で8回目。昨年はコロナ禍のため行なわれず、1年9か月ぶりという久々の講演会。昼間の開催でしたが、50名のお客様にお越しいただきました。
文と写真・ジャパンナレッジ編集部
講師: | 神永曉(国語辞典編集者) |
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開催日: | 2021年4月8日(木)14:00~15:30 |
場 所: | 日比谷図書文化館 日比谷コンベンションホール(千代田区日比谷公園) |
神永さんは小学館で日本最高峰と言われる国語辞典『日本国語大辞典』(以下『日国』)などたくさんの辞書の編集を担当されました。またジャパンナレッジでは「日本語、どうでしょう?」という人気のコラムを11年間、執筆していただいています。
今回は神永さんの新刊『辞書編集者が選ぶ美しい日本語101〜文学作品から知る100年残したいことば』をきっかけとした講演会です。神永さんの自己紹介が終わり、スクリーンには、
辞書編集者は用例採集の際、本の内容を読んではいけないという厳しい掟がある。私は掟を破ってしまいました……
と、衝撃の一文が映し出されました。さて、「辞書編集者の厳しい掟」とは?
神永さんが『日国』の編集に携わったのが20代のころ。用例文を整える役目を担っていました。そこで用例採集の方法を教わったのが、『日国』の編集委員の松井栄一(しげかず)先生と見坊豪紀(ひでとし)先生という日本が誇る国語辞典編纂者。松井先生からは近代文学の作品から用例文を、見坊先生からは新聞や雑誌などから新語を採集する方法を学んだそうです。
松井先生からは「言葉が私を呼んでいるような気がする。ここに(用例が)ありそうだと思ったら見つかる」と伝えられ、見坊先生からは「ことばの採集は内容を読むのではなく、ことばを読む人にしかできない」と教わりました。
「見坊先生からは内容を読むなと教えられたのですが、私は読んでしまいました。この言葉は文章の中でこんなふうに使われているんじゃないか、そしてこの作品はこういうことを言いたいんじゃないかって。そんなふうに作品に触れてしまった私は、辞書編集者の掟を破ってしまったと、お叱りを受けそうなんですが……」
天国にいる先生方に恐縮しながら、今回のテーマ「文学作品にみる100年残したいことば」へとお話は進みます。
まず取り上げられた作品は、太宰治の『チャンス』。この作品で太宰は、自分がもし当時出版されていた国語辞典『辞苑』(『広辞苑』前身となる辞書)の編集者だったらと、「恋愛」の語釈を披露しているのです。
「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」
神永さんは、「好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの」を太宰らしい表現と解説。また『辞苑』の語釈にある「男女間の愛情」を「男女間の激情」、そして「愛する異性」を「一個または数個の異性」に置き換えているところにも注目しました。「太宰は言葉の扱いが面白いので、ぜひそこに注目して作品を読み返していただければ」と、辞書編集者ならではの太宰作品の楽しみ方を伝授していただきました。
岡茂雄の『本屋風情』からはタイトルにも用いられた「風情」に関する岡と柳田國男のエピソード、その「風情」ということばを用いた幸田露伴『五重塔』から印象的な文章を紹介。露伴の小説が出版されたあと谷中霊園の五重塔は焼けてしまい、五重塔に思い入れがあった露伴の娘・文が奈良の法輪寺の三重塔の再建に尽力し……神永さんの講演は、ことばとそのことばを用いた文章を紹介するだけではなく、その文学作品を書いた作家の横顔、そしてその作品に関する名所案内など織り交ぜながら、「まるで連想ゲーム」(お客様からの感想)のように展開していきます。
堀辰雄『大和路・信濃路』から「木洩れ日」、芥川龍之介『蜜柑』からは「いたいけ」、森鴎外『雁』からは「無聊」、そして『源氏物語』・与謝野晶子の短歌・宮沢賢治の詩・夏目漱石の『吾輩は猫である』からは「あえか」を取り上げ、解説されました。
残り時間もあとわずか。「もうちょっとだけ。今日のテーマとは違うお話をさせてください」と神永さん。スクリーンには広島県鞆の浦で撮影した「離合可能」と書かれた道路や「離合箇所」といった看板が映し出されました。そこで提案されたのが「ワードウォッチングのススメ」。
「離合という言葉はご存知ですか?」という問いかけに、みなさんはほぼ知らないといった様子。「離合集散」でよく触れることばですが、ここでいう「離合」とは本来の「離れることと合うこと。離れたり集まったりすること」ではなく、「すれ違う」という意味。東日本ではほぼ使われないのですが、西日本ではよく出くわすことばだそうです。神永さんが福岡出身の作家村田喜代子さんが小説で「離合」を当たり前に使われていることや、東京地裁の判決文にも当然のように書かれていたという例を紹介。国語辞典では新語に敏感な『三省堂国語辞典』に、この「離合」の意味が載っているそうです。
神永さんは、「面白いことばがあるなと思ったら、ぜひ記録して、調べてみるといいんじゃないかなと思います。ご自宅でもできる“ワードウォッチング”、ぜひ試してみてください」と知的なことば遊びをご紹介いただきました。ことばに注目して本を読んだり生活することが、いかに豊かな時間をもたらしてくれるのか、気づかされた90分でした。