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北条時房(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一七五-一二四〇鎌倉時代中期の連署。安元元年(一一七五)生まれる。北条時政の三男、義時の弟。文治五年(一一八九)四月、元服して五郎時連と称し、七月には奥州征伐に従軍。蹴鞠をよくし,二代将軍源頼家に近侍した。建仁二年(一二〇二)六月、時房と改名
公暁(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一二〇〇-一九鶴岡八幡宮寺別当。鎌倉幕府三代将軍源実朝を殺した。正治二年(一二〇〇)に生まれる。父は二代将軍源頼家、母は賀茂重長の娘。幼名善哉。父が将軍を廃せられて殺されたのち、元久二年(一二〇五)鶴岡八幡宮寺別当尊暁の門弟になる。建永元年(一二〇六
源範頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
生没年不詳平安・鎌倉時代前期の武将。父は源義朝。母は遠江国池田宿の遊女。源頼朝の異母弟。通称蒲冠者。史料上の初見は『吾妻鏡』養和元年(一一八一)閏二月二十三日条でこの時頼朝の命により志田義広追討のため下野国に出陣している。これ以前の経歴は不詳だが
大姫(国史大辞典・世界大百科事典)
?-一一九七源頼朝の長女、母は北条政子。治承二年(一一七八、一説には同三年)生まる。頼朝伊豆配流中の誕生。五、六歳のころ木曾義仲の長男志水義高十一歳の許嫁となり、義仲敗死の後義高が斬られたため、大姫は愁嘆のあまり病身となり一生を鬱病で過ごした
平賀朝雅(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
鎌倉前期の武将。朝政とも書く。父は武蔵守(むさしのかみ)義信(よしのぶ)。母は源頼朝(よりとも)の乳母(めのと)比企尼(ひきのあま)の三女。頼朝の猶子(ゆうし)。北条時政(ときまさ)の後妻牧方(まきのかた)の女婿(じょせい)。武蔵守、右衛門権佐
九条兼実(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一一四九-一二〇七平安・鎌倉時代初期の公卿。月輪殿・後法性寺殿ともよばれた。藤原忠通を父として久安五年(一一四九)に生まれた。早く僧籍に入った者を除くと第三の男子であった。母は太皇太后宮大進藤原仲光女加賀。同母兄弟四人のうちの長子にあたる。保元三年
源博雅(国史大辞典・日本大百科全書)
九一八-八〇平安時代中期の雅楽家。『博雅笛譜』(正称、『新撰楽譜』。異称、『長竹譜』)の撰者。延喜十八年(九一八)生まれる(一説に延喜十九年)。父は醍醐天皇第一皇子克明親王の長男。母は藤原時平末女。承平四年(九三四)正月七日従四位下に叙せられ
紀伊国屋文左衛門(国史大辞典・世界大百科事典)
?-一七三四江戸時代中期の江戸の豪商。略して紀文ともいう。その伝記は詳らかでないが、没年六十六歳といわれるので、寛文九年(一六六九)の生まれか。現在の和歌山県有田郡湯浅町別所の生まれと推定され、はじめ紀州のみかんを江戸に廻漕し、江戸から塩鮭を上方にも
仁田忠常(世界大百科事典)
鎌倉初期の武士。新田とも書く。伊豆国の住人。源頼朝の伊豆挙兵以来,これに従って頼朝の信任を得る。1203年の北条時政と将軍源頼家の外戚比企能員(よしかず)の対立に際して,忠常は時政にくみしたが,時政による比企氏謀殺を憤った頼家は,和田義盛と忠常に
和田義盛(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一四七-一二一三鎌倉時代前期の武将。三浦氏の一族。久安三年(一一四七)生まれる。三浦大介義明の孫で義宗の子。義澄は叔父にあたる。通称小太郎。左衛門尉。相模国三浦郡和田(神奈川県三浦市)に住した。治承四年(一一八〇)八月、源頼朝の挙兵にあたり三浦義澄
国定忠次(日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
江戸後期の博徒。忠次(治)郎ともいう。上野国佐位郡国定村の出身。中農以上に属する長岡与五左衛門の長男。二一歳のとき博徒の縄張を譲られて以来博徒の親分となり、一八三四年(天保五)縄張争いから同じ博徒の島村の伊三郎を殺害し、有名となる。四二年賭場の最中に
乃木希典(日本大百科全書・世界大百科事典)
陸軍大将。嘉永(かえい)2年11月11日、長州藩士族乃木希次(まれつぐ)の三男として江戸藩邸に生まれる。萩(はぎ)(山口県萩市)の明倫館(めいりんかん)に学び、報国隊に属し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北を転戦。維新後、フランス式軍事教育を受け
蘆屋道満(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
平安中期の法師陰陽師。道摩ともいう。安倍晴明と術くらべする人物として登場することが多い。『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』に、道摩法師が藤原顕光の命で藤原道長に妖術をしかけるが、道長の犬と晴明に見破られ、本国播磨国に追放されたと伝える。『峯相記』
大石良雄(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一六五九-一七〇三江戸時代中期の播磨国赤穂藩士。正しくは「よしたか」とよむ。赤穂事件における浪士の中心的指導者。万治二年(一六五九)播磨赤穂の浅野家の代々家老の家に生まれる。通称喜内。代々の通り名は内蔵助。父は権内良昭で、早く没し、延宝五年
ライト兄弟(日本大百科全書・世界大百科事典)
兄ウィルバーWilbur Wright(1867―1912)、弟オービルOrville Wright(1871―1948)。アメリカの発明家。人類初の動力飛行機を開発した。オハイオ州デイトンで自転車製造販売業を営み、かなりの成功を収めていたが、1896年ドイツ人リリエンタールがグライダーの墜落で死亡
ナポレオン1世(日本大百科全書・世界大百科事典)
フランス第一帝政の皇帝(在位1804~14、15)。本名ナポレオン・ボナパルトNapoléonBonaparte。[井上幸治]▲生い立ちコルシカ島は14世紀以来、イタリアのジェノバ領であったが、18世紀初期から住民は独立運動を開始し、同世紀中ごろから
沖田総司(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新撰組隊士。白河藩士の子として生まれる。天然理心流近藤周助の試衛館で剣を学び、同門の近藤勇とともに、新撰組に加わった。剣の才能は抜群であったものの、結核を患い、池田屋事件では、近藤らとともにわずか五名で、一番先に斬り込んだが、喀血して昏倒した。
ガンジーの実像(文庫クセジュ)
はじめにガンジーが二十世紀をかたち作った偉大な人物の一人であることを否定する人は誰もいないだろう。時が経過するにつれ、その人となりは神話となり、その話は伝説となった。伝記の多くは何よりも聖人伝であり、そのほかのものは直接子供を対象に賞讃されるべき人物
榊原康政(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四八-一六〇六安土桃山時代の武将。徳川家康の四天王の一人で、武功派の中心的存在で勇名を大いに喧伝された功臣である。幼名小平太。式部大輔。天文十七年(一五四八)三河国上野に生まれる。長政の次子、母は道家氏の女。榊原氏は、先祖が伊勢国壱志郡榊原に住居
鳥居元忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三九-一六〇〇戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年
平岩親吉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
小谷の方(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-一五八三安土桃山時代の女性。名は市、織田信長の妹。永禄十年(一五六七)末か翌年の初めごろ、近江浅井郡小谷城主浅井長政のもとに嫁し、長政が天正元年(一五七三)八月信長に滅ぼされた時城を脱出して織田氏のもとへ帰った。『総見記』によれば、信長は妹という
ガンディー(日本大百科全書・世界大百科事典)
インドの政治指導者で思想家。「マハートマー(偉大なる魂)」「ラーシュトラ・ピター(国の父)」「バープー(父)」などいくつかの呼称をもち、今日なおインド人大衆の尊敬と親愛の的となっている。[内藤雅雄]▲アフリカ時代インド西部カーティアワール半島にあった
春日局(国史大辞典・世界大百科事典)
一五七九-一六四三徳川三代将軍家光の乳母。お福ともいう。天正七年(一五七九)に生まる。父は明智光秀の重臣斎藤利三、母は稲葉通明女。父利三が山崎合戦で自刃(一説に磔刑)ののち、母方の一族稲葉重通の養女となり、その養子正成に嫁し、四男(正勝・正定・岩松
伝通院(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の生母、お大(だい)の方。三河(愛知県)刈屋城主水野忠政女。1541年(天文10)岡崎城主松平広忠(ひろただ)に嫁し、翌年竹千代(たけちよ)(家康)を生む。ところがその翌43年父忠政が死去すると、兄信元は尾張(おわり)の織田(おだ)方につき
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
松平広忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五二六-四九戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて
武田勝頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四六-八二戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の
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