「歴史上の人物」カテゴリの記事一覧
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始皇帝(世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典・日本大百科全書)
中国,秦31代の王(在位,前247-前222),中国最初の皇帝(在位,前222-前210)。姓は嬴(えい),名は政。荘襄王の子。一説では実父は陽翟の大賈である呂不韋とする。荘襄王が人質となって趙に寄寓していたおりに呂不韋は自分の姫妾を荘襄王に献上した
大江広元(世界大百科事典・日本大百科全書)
鎌倉前期の幕府の重臣。式部少輔大江維光の子で,明経博士中原広季の養子となり,鎌倉に下るまでは外記として文筆の職にあった。源頼朝と親しかった,同じ広季の養子親能の関係から頼朝に招かれ,1184年(元暦1)以来,幕府の公文所ついで政所の別当となり
源行家(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-一一八六平安・鎌倉時代前期の武将。本名義盛。為義の十男、熊野新宮に住し新宮十郎と呼ばれた。治承四年(一一八〇)四月八条院蔵人となり行家と改名、同年五月に挙兵した以仁王の令旨を奉じ東国に下向、源頼朝をはじめとする諸国源氏の蜂起を促した。
源実朝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一九二-一二一九鎌倉幕府第三代将軍。一二〇三―一九在職。幼名千幡。建久三年(一一九二)八月九日鎌倉で誕生。父は源頼朝、母は北条政子。正治元年(一一九九)正月十三日父が急死、兄頼家が第二代将軍となった。建仁三年(一二〇三)の八月二十七日
阿野全成(国史大辞典・世界大百科事典)
一一五三-一二〇三鎌倉時代前期の僧籍の武士。幼名今若、醍醐禅師・阿野冠者という。また勇力あり悪禅師という。父は源義朝、母は常盤。義朝が平治の乱に敗死したのち母は今若・乙若(義円)・牛若(義経)の三児を連れて逃れたが、平清盛に召し出され
武田信義(国史大辞典・世界大百科事典)
一一二八-八六平安・鎌倉時代前期の武士。治承・寿永の乱に活躍。甲斐源氏。新羅三郎義光の子義清が巨摩郡武田を本居とした。信義は義清の孫で、清光の子として大治三年(一一二八)に生まれ、治承四年(一一八〇)の以仁王の令旨に応じ挙兵、源頼朝方に参じ武功を
ジャンヌ・ダルク(日本大百科全書・世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典)
15世紀前半、イギリスのランカスター王家が仕掛けてきた戦争(後期百年戦争)の最中、神の命令を受けたと称して現れ、フランスのバロア王家を支援したロレーヌ出身の女。2年後、異端として殺された。今日われわれのみるジャンヌ・ダルクは、国民国家意識の高揚した
シェークスピア(デジタル版 集英社世界文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
イギリスの劇作家,詩人。中部イングランド,ウォリックシャーの小さな町ストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれた。誕生日は4月23日とされるが,それは記録に残る受洗日の4月26日から逆算して,後世がそのように定めたものである。父親ジョンは,近隣の
ガリレイ(Galileo Galilei)(岩波 世界人名大辞典・デジタル版 集英社世界文学大事典・世界大百科事典・日本大百科全書)
イタリアの物理学者,天文学者.ピサに生まれる.ピサ[1589]およびパドヴァ[92-1616]の各大学数学教授.ピサの聖堂の吊灯を見て振子の等時性を発見した[1583].ピサの斜塔で落体の実験を行い,アリストテレスの自然学の誤りを正し,近代的力学成立
桂太郎(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八四七-一九一三明治時代の軍人、政治家。弘化四年(一八四七)十一月二十八日、萩藩士馬廻役百二十五石の桂与一右衛門信繁と母喜代子の長男として、長州萩平安古(山口県萩市平安古町)に生まれる。はじめ寿熊と称し、のち太郎と改名。海城と号す。藤田与次右衛門
二葉亭四迷(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八六四-一九〇九明治時代の小説家。本名長谷川辰之助。元治元年(一八六四)二月二十八日(文久二年(一八六二)十月八日説、元治元年二月三日説もある)、江戸市ヶ谷の尾張藩上屋敷(東京都新宿区、現在陸上自衛隊市谷駐屯地)に生まれた。父は尾張藩士長谷川吉数
石川啄木(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八八六-一九一二明治時代の歌人、詩人。名は一、中学時代翠江・麦羊・白蘋(はくひん)と号した。明治十九年(一八八六)二月二十日岩手県南岩手郡日戸村(岩手郡玉山村)に生まれた。父一禎(いってい)は曹洞宗常光寺の住職、母かつは南部藩士工藤条作常房の娘で
東洲斎写楽(日本架空伝承人名事典・新版 歌舞伎事典・国史大辞典)
江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。一七九四年(寛政六)五月から翌九五年一月までの正味一〇カ月間(途中閏月がはさまる)を活躍時期として、役者絵、相撲絵の版画一四〇余図という多くを発表。当時おおいに人気を得たらしいが、その後は浮世絵界との交渉をまったく
喜多川歌麿(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
江戸中・後期の浮世絵師。本姓は北川。生国には諸説がある。幼名は市太郎、のち勇助(勇記とも)。江戸に出て、狩野派の絵師である鳥山石燕に師事し、のちに浮世絵の第一人者となった。初めは北尾重政・鳥居清長ら先輩の作風を学び、修業を重ねた。歌麿の号は
葛飾北斎(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。江戸本所割下水(現、東京都墨田区)で生まれた。幼少の頃より好んで絵を描き、版画の技術を学び、勝川春草の門に入って写実的な役者絵、黄表紙などの挿絵を描いた。狩野派を学んだために勝川派から追放され、以後は土佐派・琳派
運慶(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
?-一二二三鎌倉時代初期の仏師。康慶の子。長子湛慶が建長六年(一二五四)八十二歳であった(蓮華王院本堂中尊千手観音像銘)ことから逆算して、ほぼ一一四〇年代の出生と推定される。治承四年(一一八〇)焼亡の東大・興福両寺の復興造像に康慶とともに一門を率いて
北条時房(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一七五-一二四〇鎌倉時代中期の連署。安元元年(一一七五)生まれる。北条時政の三男、義時の弟。文治五年(一一八九)四月、元服して五郎時連と称し、七月には奥州征伐に従軍。蹴鞠をよくし,二代将軍源頼家に近侍した。建仁二年(一二〇二)六月、時房と改名
公暁(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一二〇〇-一九鶴岡八幡宮寺別当。鎌倉幕府三代将軍源実朝を殺した。正治二年(一二〇〇)に生まれる。父は二代将軍源頼家、母は賀茂重長の娘。幼名善哉。父が将軍を廃せられて殺されたのち、元久二年(一二〇五)鶴岡八幡宮寺別当尊暁の門弟になる。建永元年(一二〇六
源範頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
生没年不詳平安・鎌倉時代前期の武将。父は源義朝。母は遠江国池田宿の遊女。源頼朝の異母弟。通称蒲冠者。史料上の初見は『吾妻鏡』養和元年(一一八一)閏二月二十三日条でこの時頼朝の命により志田義広追討のため下野国に出陣している。これ以前の経歴は不詳だが
大姫(国史大辞典・世界大百科事典)
?-一一九七源頼朝の長女、母は北条政子。治承二年(一一七八、一説には同三年)生まる。頼朝伊豆配流中の誕生。五、六歳のころ木曾義仲の長男志水義高十一歳の許嫁となり、義仲敗死の後義高が斬られたため、大姫は愁嘆のあまり病身となり一生を鬱病で過ごした
平賀朝雅(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
鎌倉前期の武将。朝政とも書く。父は武蔵守(むさしのかみ)義信(よしのぶ)。母は源頼朝(よりとも)の乳母(めのと)比企尼(ひきのあま)の三女。頼朝の猶子(ゆうし)。北条時政(ときまさ)の後妻牧方(まきのかた)の女婿(じょせい)。武蔵守、右衛門権佐
九条兼実(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一一四九-一二〇七平安・鎌倉時代初期の公卿。月輪殿・後法性寺殿ともよばれた。藤原忠通を父として久安五年(一一四九)に生まれた。早く僧籍に入った者を除くと第三の男子であった。母は太皇太后宮大進藤原仲光女加賀。同母兄弟四人のうちの長子にあたる。保元三年
源博雅(国史大辞典・日本大百科全書)
九一八-八〇平安時代中期の雅楽家。『博雅笛譜』(正称、『新撰楽譜』。異称、『長竹譜』)の撰者。延喜十八年(九一八)生まれる(一説に延喜十九年)。父は醍醐天皇第一皇子克明親王の長男。母は藤原時平末女。承平四年(九三四)正月七日従四位下に叙せられ
紀伊国屋文左衛門(国史大辞典・世界大百科事典)
?-一七三四江戸時代中期の江戸の豪商。略して紀文ともいう。その伝記は詳らかでないが、没年六十六歳といわれるので、寛文九年(一六六九)の生まれか。現在の和歌山県有田郡湯浅町別所の生まれと推定され、はじめ紀州のみかんを江戸に廻漕し、江戸から塩鮭を上方にも
仁田忠常(世界大百科事典)
鎌倉初期の武士。新田とも書く。伊豆国の住人。源頼朝の伊豆挙兵以来,これに従って頼朝の信任を得る。1203年の北条時政と将軍源頼家の外戚比企能員(よしかず)の対立に際して,忠常は時政にくみしたが,時政による比企氏謀殺を憤った頼家は,和田義盛と忠常に
和田義盛(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一四七-一二一三鎌倉時代前期の武将。三浦氏の一族。久安三年(一一四七)生まれる。三浦大介義明の孫で義宗の子。義澄は叔父にあたる。通称小太郎。左衛門尉。相模国三浦郡和田(神奈川県三浦市)に住した。治承四年(一一八〇)八月、源頼朝の挙兵にあたり三浦義澄
国定忠次(日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
江戸後期の博徒。忠次(治)郎ともいう。上野国佐位郡国定村の出身。中農以上に属する長岡与五左衛門の長男。二一歳のとき博徒の縄張を譲られて以来博徒の親分となり、一八三四年(天保五)縄張争いから同じ博徒の島村の伊三郎を殺害し、有名となる。四二年賭場の最中に
乃木希典(日本大百科全書・世界大百科事典)
陸軍大将。嘉永(かえい)2年11月11日、長州藩士族乃木希次(まれつぐ)の三男として江戸藩邸に生まれる。萩(はぎ)(山口県萩市)の明倫館(めいりんかん)に学び、報国隊に属し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北を転戦。維新後、フランス式軍事教育を受け
蘆屋道満(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
平安中期の法師陰陽師。道摩ともいう。安倍晴明と術くらべする人物として登場することが多い。『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』に、道摩法師が藤原顕光の命で藤原道長に妖術をしかけるが、道長の犬と晴明に見破られ、本国播磨国に追放されたと伝える。『峯相記』
大石良雄(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一六五九-一七〇三江戸時代中期の播磨国赤穂藩士。正しくは「よしたか」とよむ。赤穂事件における浪士の中心的指導者。万治二年(一六五九)播磨赤穂の浅野家の代々家老の家に生まれる。通称喜内。代々の通り名は内蔵助。父は権内良昭で、早く没し、延宝五年