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  11. 松平広忠

松平広忠

ジャパンナレッジで閲覧できる『松平広忠』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

松平広忠
まつだいらひろただ
一五二六 - 四九
戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて伊勢・遠江を流浪。叔母婿吉良持広や今川義元の後援を得て岡崎回復をはかり、六年六月に帰還に成功し、十二月九日元服。以後、今川氏部将として東進をはかる信秀と対抗した。九年六月に安城城を奪われ、一族忠倫、老臣酒井忠尚らは信秀に通じた。十年水野忠政女於大と結婚し、翌年十二月家康が誕生。十一年八月の小豆坂の戦で今川・松平勢は織田勢に敗れ、十二年には叔父信孝が織田氏に奔った。同年七月水野忠政が死に後嗣信元が織田氏に属したため於大を離別。翌年渥美郡田原城主戸田康光女と結婚。十四年九月安城を攻めて敗北。十六年八月に竹千代(家康)を義元へ人質として送るが、途中で戸田康光に奪われて信秀の手に渡された。このような四面楚歌の情況は、十七年三月十九日の第二次小豆坂の戦の勝利や同年四月の信孝の戦死によって好転し始めたが、十八年三月六日、広忠は織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に刺殺され、二十四歳で死んだ。法名応政道幹。岡崎城外能見原で荼毘に付され、のち永禄四年(一五六一)に家康が同地に松応寺(愛知県岡崎市松本町)を建立した。墓は法蔵寺(岡崎市本宿町)・大林寺(魚町)・大樹寺(鴨田町)・広忠寺(桑谷町)にあるが、形式からみると法蔵寺のものが最も古い。
[参考文献]
『(新編)岡崎市史』二、中村孝也『家康の族葉』
(新行 紀一)


日本大百科全書(ニッポニカ)

松平広忠
まつだいらひろただ
[1526―1549]

戦国時代の武将。三河 (みかわ)松平家8代目。岡崎城主。清康 (きよやす)の子。徳川家康の父。10歳のときに父清康が織田信秀 (のぶひで)と戦うため、尾張守山 (おわりもりやま)へ出陣中に家臣の阿部弥七郎 (やしちろう)に刺殺(守山崩れ)されたため、大叔父信定 (のぶさだ)に岡崎城を追われ、伊勢 (いせ)、遠江 (とおとうみ)、三河を流浪。のち今川義元 (よしもと)の後援を受け、1537年(天文6)ようやく岡崎に帰ったが、以後も松平家では今川・織田勢力を背景に内紛が続いた。そうしたなかで41年、三河刈谷 (かりや)城主水野忠政 (ただまさ)の女 (むすめ)(於大 (おだい))と結婚、翌年に竹千代 (たけちよ)(家康)が生まれた。その後45年安祥 (あんじょう)城を攻め、47年には戸田康光 (やすみつ)の拠 (よ)る田原 (たはら)城を陥れたが、織田信秀の来攻に際し、竹千代を人質として今川義元に救援を求めた。竹千代が駿府 (すんぷ)に赴く途中、田原付近で戸田康光に奪われ、織田氏のもとへ送られたのはこのときである。のち三河平定に尽くしたが、天文 (てんぶん)18年3月、近臣岩松八弥 (いわまつはちや)に刺殺された。

[久保田昌希]



世界大百科事典

松平広忠
まつだいらひろただ
1526-49(大永6-天文18)

戦国時代の三河国の武将。清康の子で徳川家康の父。通称次郎三郎,法名道幹。守山崩れで清康が殺された後,一族の桜井松平信定に岡崎城を追放され,今川義元の後援で37年に復帰。41年刈谷城主水野忠政の女於大(おだい)(伝通院)をめとり,翌年家康が誕生したが,44年於大を離別した。織田信秀の三河進出と一族・家臣の離反に苦しみ,今川氏の属将となる。42年,48年の信秀の来襲を撃退するが,49年3月家臣に殺された。
[新行 紀一]

[索引語]
於大
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1. 松平広忠
日本大百科全書
戦国時代の武将。三河(みかわ)松平家8代目。岡崎城主。清康(きよやす)の子。徳川家康の父。10歳のときに父清康が織田信秀(のぶひで)と戦うため、尾張守山(おわり
2. 松平広忠
世界大百科事典
1526-49(大永6-天文18) 戦国時代の三河国の武将。清康の子で徳川家康の父。通称次郎三郎,法名道幹。守山崩れで清康が殺された後,一族の桜井松平信定に岡崎
3. まつだいらひろただ【松平広忠】画像
国史大辞典
一五二六―四九 戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)
4. まつだいら-ひろただ【松平広忠】
日本人名大辞典
1526−1549 戦国時代の武将。大永(たいえい)6年生まれ。松平清康(きよやす)の子。徳川家康の父。天文(てんぶん)4年父の死で大叔父松平信定に三河(愛知県
5. 松平広忠花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
6. 青山氏画像
日本大百科全書
いだいみょう)、旗本の姓氏の一つ。出自については不明な点があるが、忠門(ただかど)のときには松平広忠(徳川家康の父)に臣属していたことは間違いなく、当時の領地は
7. あおやまし【青山氏】画像
国史大辞典
田郡百々郷に移り、永享十二年(一四四〇)戦功によって采地を与えられた。八代忠門は徳川家康の父松平広忠に仕え、小豆坂の戦や鷲津・丸根の戦に功をあげ、元亀二年(一五
8. あおやま-ただかど【青山忠門】
日本人名大辞典
1518−? 戦国-織豊時代の武士。永正(えいしょう)15年生まれ。松平広忠,のち徳川家康にしたがう。三河(愛知県)一向一揆(いっき)のときや元亀(げんき)2年
9. 小豆坂
日本大百科全書
戦国時代初期、織田信秀(のぶひで)(信長の父)が岡崎城を攻めようと三河(愛知県)に大軍を向けたので、松平広忠(ひろただ)(徳川家康の父)はこの危機を乗り切るため
10. あまの-かたかげ【天野賢景】
日本人名大辞典
?−? 戦国時代の武士。三河(愛知県)岡崎城主松平広忠の家臣。天文(てんぶん)18年(1549)広忠の命により三河広瀬城主佐久間盛次を討つ。功により碧海郡(へき
11. あんじょうむら【安城村】愛知県:安城市
日本歴史地名大系
大乗院)を創建、再興した。東尾に本多忠豊碑がある。忠豊は天文一四年安祥城回復を図って出兵した松平広忠が危地に陥った時、身代わりとなって広忠を救った。明治初年に甲
12. あんどうし【安藤氏】画像
国史大辞典
諸説に分かれるが、諸家譜の説が有力であろう。 (一)紀伊国田辺藩主  前述の家重の嫡流。彼は三河に住んで松平広忠に仕え、嫡子基能は徳川家康に属して三方原で戦死し
13. 伊奈氏
世界大百科事典
国伊那郡に住み,孫易次のとき伊奈を姓とした。のち易次は信濃を去り東海地域に流浪,その子忠基は松平広忠・徳川家康父子に仕え,三河国小島城(愛知県西尾市)を居城とし
14. いなし【伊奈氏】画像
国史大辞典
九代易次は伊奈熊蔵と称した。易次は叔父易正との内紛により信濃を去り東海地域に流浪、その子忠基は松平広忠・家康に臣従、三河国幡豆郡小嶋(愛知県西尾市)の土豪として
15. いまがわよしもと【今川義元】画像
国史大辞典
尾張の織田氏の勢力が三河に進出し、松平氏を圧迫するようになった。同十六年織田信秀は同国岡崎城を攻撃し、松平広忠は義元に援を求め、子竹千代を質に送ったが、途中信秀
16. うえむら-うじあき【植村氏明】
日本人名大辞典
同年尾張(おわり)(愛知県)守山に出陣中の清康を殺した家臣阿部定吉の子,弥七郎を討ちとる。のち松平広忠,家康につかえ,尾張沓掛城で天文21年8月4日戦死した。3
17. おおくぼし【大久保氏】画像
国史大辞典
その曾孫忠俊は三河国碧海郡上和田(愛知県岡崎市上和田)にあって松平広忠に仕えて、大久保氏を称す。忠俊の三男忠員を大久保氏の祖とする。忠員は岡崎城の松平広忠に属し
18. おおくぼ-ただかず【大久保忠員】
日本人名大辞典
1510−1583* 戦国-織豊時代の武将。永正(えいしょう)7年生まれ。大久保忠茂の子。大久保彦左衛門の父。松平広忠,徳川家康の家臣。兄忠俊らとともに広忠の岡
19. おおはたむら【大幡村】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
享禄二年(一五二九)の吉田城(現豊橋市)攻めで功があった(寛政重修諸家譜)。天文一二年(一五四三)に中根正恭が松平広忠より「山中郷大畠村衣文村鳥巣村百貫文之采地
20. おかざきじょうか【岡崎城下】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
広め、後の大手門近くまで縄張して郭内に入れ、大手先の辺りには町家が建ち、市場も設けたという。松平広忠の時、天文一四年(一五四五)には岡崎市場(妙源寺文書)が現れ
21. おだいのかた【於大の方】
国史大辞典
徳川家康の生母。三河刈屋城主水野忠政の次女。享禄元年(一五二八)生まれ。天文十年(一五四一)岡崎城主松平広忠に嫁す。駿河の今川と結んだ松平氏と尾張の織田と結んだ
22. かけい-しげただ【筧重忠】
日本人名大辞典
1512−1588 戦国-織豊時代の武将。永正(えいしょう)9年生まれ。筧正重の兄。徳川家康の父松平広忠の臣。天文(てんぶん)16年(1547)織田信秀,松平忠
23. かけい-まさしげ【筧正重】
日本人名大辞典
1523−1594 戦国時代の武将。大永3年生まれ。徳川家康の父松平広忠の臣。天文(てんぶん)16年(1547)広忠から松平忠倫刺殺の命をうけた兄重忠の帰還をた
24. 掛塚
世界大百科事典
遠江国(静岡県)磐田郡天竜川河口に位置する港。古くは〈かけすか〉と呼び,天竜川河口の大きな中州で,徳川家康の父松平広忠が,三州長崎城を追われて伊勢神戸城にいたの
25. かとう-のりあき【加藤教明】
日本人名大辞典
?−? 戦国-織豊時代の武将。加藤嘉明(よしあき)の父。三河(愛知県)の人。もと松平広忠の臣。15代将軍足利義昭に属し,永禄(えいろく)12年(1569)京都本
26. かみむらじょうあと【上村城跡】愛知県:豊田市/上郷・高岡地区/上村
日本歴史地名大系
広忠君清定をして桜井に蟄居せしめ将監をして上野城を守らしむ」(武徳大成記)とあり、信定の子清定が松平広忠に敗れた。落城後広忠配下の酒井将監忠尚が在城。「碧海郡誌
27. きいのくにたなべはんしゅ【紀伊国田辺藩主】 : 安藤氏/(一)
国史大辞典
(一)紀伊国田辺藩主  前述の家重の嫡流。彼は三河に住んで松平広忠に仕え、嫡子基能は徳川家康に属して三方原で戦死した。その子直次が田辺藩祖である。彼は姉川の戦
28. くまのじんじゃ【熊野神社】愛知県:碧南市/大浜村
日本歴史地名大系
とったところ暴風に遭い、この地に漂着。熊野から流れ来た奇木を神体とし熊野三神を祀ったのが始まりという。松平広忠の崇敬がとくに厚く、天文一九年(一五五〇)今川義元
29. くりきむら【栗木村】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
字西外戸の真宗高田派黍生山聖洞寺は「三河志」によると、永和四年(一三七八)江州浜島より移住し創建される。松平広忠の臣近藤作左衛門の香華寺で、天文八年(一五三九)
30. くわがいむら【桑谷村】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
松平山城守の居城を伝える。広忠寺由緒書上によると、天文一〇年(一五四一)より同一八年の間に、松平広忠は、子の松平忠政および大給松平出身の忠政の母で後に妙琳尼と称
31. こうざんじ【甲山寺】愛知県:岡崎市/岡崎城下/六供
日本歴史地名大系
円寿坊)・法寿坊の六坊を、享禄三年(一五三〇)に松平清康が岡崎城鬼門の地に移したものという。松平広忠は子なきを憂え、碧海郡和田村の法性寺定光坊永玖をして鳳来寺の
32. こうちゅうじ【広忠寺】愛知県:岡崎市/桑谷村
日本歴史地名大系
本尊は釈迦如来。もと長泉寺(現蒲郡市)末で徳川家ゆかりの寺院である。天文一八年(一五四九)に没した松平広忠の位牌「応政道幹大禅定門尊霊」を広忠の子松平忠政と母の
33. 西遊草 清河八郎旅中記 173ページ
東洋文庫
その衣装合わせに私の座敷がしばらくふさがった。〕注 一 天文十六年(一五四七)三河の松平広忠が尾   張の織田信秀と戦い、子家康を人質として援   けを駿河の今
34. さかいし【酒井氏】画像
国史大辞典
左衛門尉酒井氏は広親の嫡子小五郎氏忠(元親忠)が左衛門尉に任ぜられたことに始まり、ついでその玄孫という忠次は松平広忠の妹を娶り家康の叔母婿となった。永禄七年(一
35. さかいし【酒井氏】 : 酒井氏/(四)
国史大辞典
左衛門尉酒井氏は広親の嫡子小五郎氏忠(元親忠)が左衛門尉に任ぜられたことに始まり、ついでその玄孫という忠次は松平広忠の妹を娶り家康の叔母婿となった。永禄七年(一
36. 酒井忠次
日本大百科全書
左衛門督(さえもんのかみ)に叙任され、88年62歳で隠居し、一智(いっち)と号した。妻は家康の父松平広忠(ひろただ)の異母妹である。林 亮勝
37. さかい‐ただつぐ【酒井忠次】
日本国語大辞典
戦国・安土桃山時代の武将。左衛門尉忠親の子。妻は松平広忠の妹。徳川氏三河累代の重臣。徳川四天王の一人。姉川、三方ケ原、長篠の戦いなどに従軍し、功を立てた。大永七
38. さかい-ただつぐ【酒井忠次】
日本人名大辞典
1527−1596 戦国-織豊時代の武将。大永(たいえい)7年生まれ。松平広忠,その子徳川家康につかえる。徳川四天王のひとり。妻の碓井(うすい)姫は家康の叔母(
39. さかいまさちか【酒井正親】
国史大辞典
三河統一に心血をそそいだ。天文四年(一五三五)清康が尾張国守山の陣で側近に暗殺されたとき子の松平広忠を奉じて伊勢にのがれ、のち岡崎城に広忠をむかえるため旧臣らと
40. 榊原氏画像
日本大百科全書
き三河国(愛知県)に移り、岡崎城北西部に位置する上野下(うえのしも)村に居住し、徳川家康の父松平広忠(まつだいらひろただ)に仕えた。清長の孫康政(やすまさ)は家
41. 榊原氏
世界大百科事典
仁木氏の出といわれ,伊勢国一志郡榊原村を本貫とする。清長のとき三河国に移り上野下村に居住し,松平広忠に仕えた。清長の孫榊原康政は家康に近侍し,旗本の部将に取り立
42. さかきばらやすまさ【〓原康政】画像
国史大辞典
先祖が伊勢国壱志郡榊原に住居していたことからおこった氏号と伝えられている。祖父清長の代三河に移り松平広忠に仕え、父長政は家康に仕えた。永禄三年(一五六〇)三河大
43. さかべ-まさいえ【坂部正家】
日本人名大辞典
1497−1570 戦国-織豊時代の武士。明応6年生まれ。坂部正則の子。松平広忠・元康(徳川家康)につかえ,永禄(えいろく)3年の尾張(おわり)(愛知県)石ケ瀬
44. しいのきやしきあと【椎木屋敷跡】愛知県:刈谷市/刈谷城下
日本歴史地名大系
を隔てる高台で、椎の木が多数繁茂していたのでこの名がある。刈谷城主水野忠政の娘於大が、岡崎の松平広忠に嫁して竹千代(のちの徳川家康)を産み、離縁となって刈谷に帰
45. しなののくにいいやまはんしゅ【信濃国飯山藩主】 : 本多氏/(四)
国史大辞典
(四)信濃国飯山藩主  定正系信重の子広孝が藩祖。松平広忠・徳川家康父子に仕えた広孝は、天正五年(一五七七)遠江国に二千貫文の所領を与えられ、三河国の旧領七百
46. じゅうはっちょうなわて【十八町畷】愛知県:刈谷市
日本歴史地名大系
知立から刈谷に至る街道のうち、刈谷に近い辺りをいう。「改正三河後風土記」に、天文一二年(一五四三)松平広忠の妻於大が離別して刈谷に帰ることを記し、「金田惣八・安
47. すぎうら-かつよし【杉浦勝吉】
日本人名大辞典
?−1612* 戦国-江戸時代前期の武将。杉浦吉貞の子。徳川家康の家臣。松平広忠(家康の父)の代よりつかえ,父と同様に蟹江(かにえ)七本槍のひとり。三方原,長篠
48. せいこうじ【清光寺】千葉県:印旛郡/酒々井町/本佐倉町地図
日本歴史地名大系
寺領とした(御朱印帳)。これは三河国大樹寺(現愛知県岡崎市)九世鎮誉の弟子峰誉が徳川家康の父松平広忠の歯骨を抱えて諸国遍歴の末、当寺二世となってその歯骨を埋葬し
49. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 14ページ
東洋文庫
諡号昭徳院。   いえやす 徳川家康 1542-1616江戸幕府の創始者。第1代将軍。三河岡崎城主松平広忠の子。はじめ今川義元の支配下
50. 全発句(松尾芭蕉集) 397ページ
日本古典文学全集
峰薬師と通称され、杉・檜に囲まれている。一時、秀吉によって三千石の寺領を没収されたが、家康の父、松平広忠の帰依を得、家康の天下統一の後、その庇護により、三河最大
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徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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一五四六-八二戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の
松平広忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五二六-四九戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて
松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
平岩親吉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
鳥居元忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三九-一六〇〇戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年
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