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  11. 武田勝頼

武田勝頼

ジャパンナレッジで閲覧できる『武田勝頼』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

武田勝頼
たけだかつより
一五四六 - 八二
戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の名跡を継承させ、永禄五年(一五六二)、伊那郡高遠城代として正式に諏訪四郎勝頼を名乗った。ところが同八年八月に信玄の長男の義信の謀反事件が発覚し、ほかに家督を継承するものがなかったところから、俄かに嗣子に定められ、同年十一月、織田信長の養女を妻とした。永禄十一年ごろから父と行動をともにするようになり、代行として領内に文書を発給している。天正元年(一五七三)四月、西上作戦の途中で信玄が病没すると、勝頼は甲府に帰陣し、家督を継承した。しかしこれは非公式のものであって、父の遺言によってその喪は三ヵ年間隠された。その間、勝頼は信玄の政策を引きつぎ、東美濃・奥三河に再三出兵して、徳川家康を牽制した。天正二年六月には遠江へ侵攻して高天神城を陥落させ、家康を圧迫した。翌三年五月には、大軍をもって三河へ侵攻し長篠城を包囲した。しかし織田信長の援軍を得た家康によって、長篠(愛知県新城市)で大敗し、重臣の多くを戦死させて帰陣した。こののちは、東美濃・遠江の諸城を支えることができず、順次その領国規模を後退させていった。翌四年四月には父の葬儀を塩山恵林寺で営み、正式に家督を継承し、継目の安堵状を領内に多数発給した。そして家康に対抗するために、同五年正月、妻に北条氏政の娘を迎えた。しかし翌六年三月に越後の上杉謙信が病死し、その家督をめぐって景勝・景虎の争いが起ると、勝頼は氏政の実子であった景虎を支援するために越後へ出兵しながら、景勝と講和して撤兵し、その後は、妹を景勝に嫁して同盟を結んだので、北条氏政とは相反することになってしまった。これによって、駿河へ北条勢が攻め入り、遠江では家康の攻勢がつづき、勝頼は駿河で狭撃される型となり、自然と領内の軍役も過重となり、領国の疲弊と家臣団の離反を招く結果となっていった。同九年三月には高天神城が攻略され、遠江は完全に家康領となった。東駿河や西上野でも氏政に圧迫され、領国維持の困難さを察知して、韮崎に新府城を築いて甲府を撤退する準備を始めた。同年十二月に新府城へ移るが、翌十年正月、まず親族衆の木曾義昌が織田信長と通じて離反し、その討伐に向かった留守にやはり親族衆であった穴山信君が徳川家康に内通し、二月十二日には信長の長男信忠が木曾救援の兵を起して、余勢をもって信濃国伊那郡へ入り、三月二日には高遠城が陥落した。同三日、勝頼は新府城に火を掛けて甲斐国都留郡の岩殿城へ向かった。しかし都留郡領主の小山田信茂の離反によって、織田軍との挾撃にあい、同十一日、一族とともに山梨郡田野(東山梨郡大和村)で自害した。これによって甲斐武田氏は滅亡した。勝頼三十七歳。墓は山梨県東山梨郡大和村の景徳院にある。
[参考文献]
上野晴朗『甲斐武田氏』、同『武田勝頼』
(柴辻 俊六)


日本大百科全書(ニッポニカ)

武田勝頼
たけだかつより
[1546―1582]

戦国期の武将。晴信 (はるのぶ)(信玄 (しんげん))の四男で、母は諏訪頼重 (すわよりしげ)の娘。幼名四郎。1562年(永禄5)元服して諏訪氏の名跡を継ぎ勝頼と称す。信州伊那郡代 (いなぐんだい)として高遠 (たかとお)城を守る。67年に長兄の義信 (よしのぶ)が信玄により反逆罪で刑死させられたのち、信玄の嗣子 (しし)に定まる。73年(天正1)信玄が病没すると家督を継ぐが、遺言により喪を3年間秘し、信玄の竜朱印と「晴信」の朱印を用いた。父の遺業であった西上 (さいじょう)作戦を続行し、74年の初戦では遠江 (とおとうみ)の高天神 (たかてんじん)城を陥落させた。しかし75年5月の三河長篠 (ながしの)の戦いで徳川家康・織田信長連合軍に敗れ、それを契機に、家臣団の分裂や勝頼自身の経験不足のため、父信玄の遺 (のこ)した領国の維持も困難になり順次領国を失っていった。とりわけ78年に、越後 (えちご)の上杉謙信 (けんしん)の没後の跡目相続に介入し、景勝 (かげかつ)側を支持したところから、同盟関係にあった北条氏政 (うじまさ)を敵に回し、孤立するに至り、美濃 (みの)の岩村城、遠江の二俣 (ふたまた)城、高天神城を次々と失った。家臣団内部でも対立が起こり、まず親族衆の木曽 (きそ)氏が信長へ、ついで同じく親族衆の穴山信君 (あなやまのぶきみ)も家康に内通するに至った。勝頼は81年、織田・徳川連合軍を迎え討つため、新府韮崎 (にらさき)城を築いたが、翌82年織田信長が甲斐侵攻作戦を開始すると、同年3月、新府城に火をかけて都留 (つる)郡へ逃れ、天目 (てんもく)山下の田野 (たの)で一族とともに自害し、武田家は滅亡した。

[柴辻俊六]



世界大百科事典

武田勝頼
たけだかつより
1546-82(天文15-天正10)

甲斐の戦国大名。信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。1573年(天正1)父の死で家を継ぎ,翌年には遠江高天神城を攻め落とし威勢を張ったが,75年織田・徳川の連合軍との三河長篠の戦に大敗し勢力を弱めた。以後勢力挽回に努めたが効果があがらず,82年織田信長・徳川家康に攻められ,新府城(韮崎市)に火をかけ岩殿城に向かったが,小山田信茂の裏切りにあい天目山の戦で自刃した。
[笹本 正治]

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1. 武田勝頼画像
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3. たけだ‐かつより【武田勝頼】
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戦国時代の武将。武田信玄の四男。幼名伊奈四郎。父の死後甲斐にはいって領国を継ぎ、美濃・三河・遠江と進出したが、長篠の戦いに大敗。以後信長、家康の勢力におされ、つ
4. たけだかつより【武田勝頼】画像
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勝頼三十七歳。墓は山梨県東山梨郡大和村の景徳院にある。 [参考文献]上野晴朗『甲斐武田氏』、同『武田勝頼』 (柴辻 俊六)
5. たけだ-かつより【武田勝頼】
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12. たけだ-かつよりの-つま【武田勝頼妻】
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1564−1582 織豊時代の女性。永禄(えいろく)7年生まれ。北条氏康の娘。天正(てんしょう)5年武田勝頼の後妻となる。10年甲斐(かい)(山梨県)武田八幡宮
13. 武田勝頼公御武辺形儀七ケ条之事(著作ID:3139466)
新日本古典籍データベース
たけだかつよりこうごぶへんぎょうぎしちかじょうのこと 兵法 
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新日本古典籍データベース
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15. 武田勝頼願状 (見出し語:願文)
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りけいにのき 武田勝頼滅亡記 理慶尼記 理慶尼(りけいに) 戦記 
17. 織田信長養女嫁武田勝賴 (見出し語:織田信長)
古事類苑
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18. あい‐うち[あひ‥]【相打・相討・相撃・合討】
日本国語大辞典
)二人以上が協力して一人の敵を討つこと。*中島紀次郎家文書‐天正八年〔1580〕八月二四日・武田勝頼感状(新編甲州古文書二二六〇)「頸一、同名次右衛門尉与合討、
19. あおじま【青島】静岡県:藤枝市
日本歴史地名大系
信玄判物写」判物証文写)。天正六年(一五七八)一一月、遠江の高天神城(現大東町)から退却した武田勝頼は、大井川を渡って青島に陣取ったあと田中城へ退いた(「家忠日
20. あおやぎ【青柳】静岡県:富士宮市/大宮町
日本歴史地名大系
書写)。天正四年(一五七六)五月九日、武田勝頼は前掲の「淀師・青柳」の一六貫文、木船の七貫文、後代村の一貫文の地を佐野惣左衛門尉に安堵している(「武田勝頼判物写
21. あおやぎしゅく【青柳宿】山梨県:南巨摩郡/増穂町/青柳村
日本歴史地名大系
天正八年(一五八〇)九月に武田勝頼が当地の地頭で一族の一条信就に対して青柳郷に新宿建設を命じ、そのために三ヵ年にわたる棟別・御普請役を除いた諸役を免除したのが(
22. あおやぎむら【青柳村】山梨県:南巨摩郡/増穂町
日本歴史地名大系
有していたと推定され、天正八年(一五八〇)九月には武田氏によって正式に青柳新宿が立てられた(同月一八日「武田勝頼印判状写」甲斐国古文書)。元亀四年(一五七三)八
23. あおやぎむら【青柳村】静岡県:榛原郡/吉田町
日本歴史地名大系
北は南原村(現島田市)。天正五年(一五七七)二月九日の武田勝頼判物写(土佐国蠧簡集残篇)に「青柳三ケ郷」一千一七三貫七〇〇文とあり、武田勝頼は今川家旧臣の小山城
24. あかさわむら【赤沢村】新潟県:中魚沼郡/津南町
日本歴史地名大系
はじめとして幾つかの城館跡や戦死者供養のためとみられる梵字碑がある。天正七年(一五七九)二月二五日の武田勝頼朱印状案(市河文書)によると、同六年からの御館の乱で
25. あきはさん【秋葉山】静岡県:周智郡/春野町/領家村
日本歴史地名大系
対し「社領」を安堵したとされる(「武田信玄判物写」古簡編年)。天正七年(一五七九)三月五日、武田勝頼は天野藤秀に対し秋葉寺の支配を安堵しているが(「武田家朱印状
26. あけちみつひで【明智光秀】画像
国史大辞典
併せると、滝川一益とともに越前の庶政に携わった。同二年大和の多聞山城を守り、東美濃に侵入した武田勝頼に備えて美濃に出陣し、転じて河内の三好氏および一向一揆と戦っ
27. あさはたごう【浅服郷】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区
日本歴史地名大系
の武田家朱印状(矢島文書)では浅服の内として一一貫五〇〇文が四宮与六に、同七年一〇月一六日の武田勝頼判物写(伊勢国度会郡古文書)では浅服内の三〇貫一〇〇文が向井
28. あさまじんじゃ【浅間神社】山梨県:東八代郡/一宮町/一ノ宮村
日本歴史地名大系
押出村(現静岡県芝川町)で一五貫文が新寄進されている(「武田家印判状」同古文書)。信玄没後は武田勝頼によって引続き保護が加えられ、天正四年(一五七六)七月一三日
29. あさりごう【浅利郷】山梨県:東八代郡/豊富村/浅利村
日本歴史地名大系
武田信玄より寄進された浅利のうちの太子堂分三貫文などの地が国分寺(現一宮町)に安堵されている(「武田勝頼判物」国分寺文書)。同一〇年六月徳川家康は甲斐の領有に乗
30. あしあらいのしょう・あしあらいごう【足洗庄・足洗郷】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区
日本歴史地名大系
与えている(「葛山氏元朱印状」蘆沢文書)。武田勝頼は天正四年二月二三日に葛山氏一族の御宿友綱に足洗三〇貫文などの代りに甲斐国久足(現山梨県勝沼町)の内を与え(「
31. 足利義昭
世界大百科事典
は滅びた。すでに武田信玄は病没し形勢は不利であったが,義昭は悲願を捨てず六角承禎,河野牛福,武田勝頼,上杉謙信,北条氏政,徳川家康,本願寺顕如,毛利輝元,島津義
32. あしがわごう【芦川郷】山梨県:東八代郡/芦川村
日本歴史地名大系
駿河合力衆よりの荷物について「あしかわ」などに伝馬が命じられている。天正五年(一五七七)には武田勝頼が「芦川之郷」も含めた九一色諸郷に従前から認められていた諸役
33. あそうむら【朝生村】静岡県:榛原郡/榛原町
日本歴史地名大系
・勝間田)。天正五年(一五七七)二月九日には武田勝頼が小山城(現吉田町)の城将岡部長教に麻生郷一〇八貫二〇〇文などの所領を宛行っている(「武田勝頼判物写」土佐国
34. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
9月北条と徳川両氏盟約し、武田勝頼に対峙1580(天正8)閏3月本願寺顕如、信長と和し石山戦争終わる1581(天正9)2月信長、馬揃を天覧に供す。10月秀吉、鳥
35. あなやまごう【穴山郷】山梨県:韮崎市/穴山村
日本歴史地名大系
当郷の増分のなかから一千疋(一〇貫文)の地を宛行っている(「穴山信君判物写」楓軒文書纂)。なお天正九年武田勝頼が本拠地移転・新城建設を図った折、穴山梅雪が本拠地
36. あの・あののしょう【阿野・阿野庄】静岡県:沼津市/旧駿東郡地区
日本歴史地名大系
それぞれ武田氏から安堵されている。翌年八月二七日には武田勝頼が甲府長禅寺に対して父信玄が与えた「阿野庄之内真如寺」を安堵している(「武田勝頼判物」清見寺文書)。
37. あべ-まさかつ【阿部正勝】
日本人名大辞典
1541−1600 織豊時代の武士。天文(てんぶん)10年生まれ。徳川家康の家臣。天竜川での武田勝頼との戦いや小田原攻めに功をたて,伊豆(いず)市原に5000石
38. あらいし【新井市】新潟県
日本歴史地名大系
景勝は春日山城、景虎は御館城(いずれも現上越市)に拠って戦闘を続けた。景虎の兄北条氏政の依頼を受けた武田勝頼は大軍を率いて越後へ進攻し、北国街道と飯山道の分岐点
39. あんどうのしょう・あんどう【安東庄・安東】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区
日本歴史地名大系
〇貫文で、土器屋名・たたミや名とともに馬端名が含まれていた。天正二年(一五七四)三月二九日、武田勝頼が当地内の五一貫六四〇文などを岡部長教に与え(土佐国蠧簡集残
40. あんようじ【安養寺】長野県:下伊那郡/喬木村/阿島村
日本歴史地名大系
郷之内旧御寺領拾緡之所、被還付」とあり、天正二年(一五七四)武田勝頼は、部将日向虎頭に毘沙門堂修復を命じている。更に同五年の武田勝頼朱印状(安養寺文書)に「信州
41. いいだむら【飯田村】静岡県:周智郡/森町
日本歴史地名大系
武田信玄判物写」古簡編年)。天正二年(一五七四)七月二八日には武田勝頼から山県善右衛門尉に飯田内二〇〇貫文が与えられた(「武田勝頼判物」反町茂雄氏所蔵文書)。な
42. いいづかむら【飯塚村】新潟県:三島郡/越路町
日本歴史地名大系
。飯塚集落の中央に浄土真宗本願寺派の明鏡寺がある。寺伝によれば、天正一〇年(一五八二)甲斐国武田勝頼の天目山の戦の難を避けた井上浄専が、柿崎村(現中頸城郡柿崎町
43. いいのやむら【井伊谷村】静岡県:引佐郡/引佐町
日本歴史地名大系
賞し(同年一一月二三日「武田家朱印状写」三川古文書)、七月六日には武田勝頼が小笠原信嶺に長篠在城料として井伊谷を与えており(「武田勝頼判物」小笠原家文書)、当地
44. いえしろごう【家代郷】静岡県:掛川市/家代村
日本歴史地名大系
た際に降伏した飯尾弥四右衛門尉に対し、武田家は家代のうちの本領三〇貫文の地などを安堵した(「武田勝頼判物」徳川黎明会所蔵文書)。
45. いおうじ【医王寺】愛知県:南設楽郡/鳳来町/長篠村
日本歴史地名大系
慶長八年(一六〇三)四一石余の朱印地を付せられている。裏山を医王寺山といい、天正三年長篠の戦で、武田勝頼はこの山を本陣として、長篠城を包囲攻撃した。同年五月一九
46. いかるみむら【五十海村】静岡県:藤枝市
日本歴史地名大系
文書など)。天正二年(一五七四)一一月晦日には武田勝頼から旗本を命じられた岡部小五郎が五十海郷内一〇〇貫文の地を知行地として与えられた(「武田勝頼朱印状写」土佐
47. いしかわむら【石川村】静岡県:清水市/旧庵原郡地区
日本歴史地名大系
田信玄判物」早稲田大学荻野研究室所蔵文書)。これらの所領は、天正四年(一五七六)八月一四日の武田勝頼判物(同文書)においても同人に安堵されている。江戸時代の領主
48. いしきむら【一色村】静岡県:駿東郡/小山町
日本歴史地名大系
佐野川とその支流海苔川に挟まれた字島土は中世の城館跡といわれる。天正八年(一五八〇)五月七日、甲斐の武田勝頼は室伏内膳ら六名が敵地へ欠落した後の「名田・屋敷等」
49. いしばしごう【石橋郷】山梨県:東八代郡/境川村/石橋村
日本歴史地名大系
尉が再び深沢城(現静岡県御殿場市)攻撃に動員され、翌年分の水役の細工奉公を免じられている(「武田勝頼印判状写」同文書)。同一〇年六月一七日および一二月九日には窪
50. いしやまほんがんじかっせん【石山本願寺合戦】
国史大辞典
七月信長は伊勢長島の一揆を海陸から攻めたて、九月開城して和を乞うた門徒を虐殺した。同三年五月、武田勝頼を長篠に撃破した信長は、八月越前に侵入して一向一揆を潰滅さ
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