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  11. 榊原康政

榊原康政

ジャパンナレッジで閲覧できる『榊原康政』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

〓原康政
さかきばらやすまさ
一五四八 - 一六〇六
安土桃山時代の武将。徳川家康の四天王の一人で、武功派の中心的存在で勇名を大いに喧伝された功臣である。幼名小平太。式部大輔。天文十七年(一五四八)三河国上野に生まれる。長政の次子、母は道家氏の女。榊原氏は、先祖が伊勢国壱志郡榊原に住居していたことからおこった氏号と伝えられている。祖父清長の代三河に移り松平広忠に仕え、父長政は家康に仕えた。永禄三年(一五六〇)三河大樹寺においてはじめて家康に謁した。この年五月には桶狭間の戦があり、家康が大高城を出て大樹寺に入った際に謁見したのである。これ以後長く家康の側近にいて忠功をささげた。六年三河の一向一揆は松平譜代を多くまきこんだが、康政はあくまで家康側をはなれず、上野の合戦に初陣した。のち家康の一字を賜わり、康政を名のった。七年今川氏真の武将小原鎮実のよる吉田城を攻め、本多忠勝・鳥居元忠らとともに旗本の先手をつとめた。元亀元年(一五七〇)の姉川の戦でも本多広孝とともに奮戦して朝倉勢をやぶり、自分も負傷した。同三年の三方原の戦には先鋒部隊の中にあって奮戦した。ついで天正元年(一五七三)武田信玄の死後、その子勝頼が武田氏の属城長篠城を取り返すために三河・遠江に出兵したとき、康政は遠州森郷で大いに敵勢をやぶった。二年家康の遠州犬居城攻めに従軍し、敵将天野景貫の追跡をやぶる。三年の長篠の戦には長篠城外設楽原に他の諸将とともに奮戦して大戦果をあげた。八年より他の諸将と高天神城攻めに参加し、翌九年先頭して勇戦し高天神城を陥落させた。この落城によって武田氏の遠州における唯一の抵抗点が失われ、同時に武田氏の後退は不可避となった。十年武田氏滅亡。同年六月家康は泉州堺で本能寺の変報に接し、伊賀越の危難を冒して三河に帰ったが、このときの随行者の中に康政の顔がみえる。十二年全国統一者の座についた羽柴秀吉と家康とのあいだに小牧・長久手の戦がおこり、両者の緊張関係はさらに強化されたが、結局家康の妥協によって家康の秀吉への臣従が実現した。家康はこれ以後秀吉の側近として活躍し、秀吉の晩年には豊臣政権の最高諮問機関である五大老の筆頭として政務の中枢部に坐したのである。この間、康政は十八年の小田原征伐には家康に従い、家康が関八州を領するに及び上野国館林十万石を賜わった。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で家康は事実上覇権をにぎり、ついで幕府を開いたが、このころになると康政ら戦場を馳駆した武功派と家康の側近である本多正信・正純らの吏僚派との対立が激化し、「関ケ原以後、透(すき)ト沙汰無之、引込候テ果申サレ候」(『鳩巣小説』)とあるように康政と本多との対立にしぼられるが、康政は家康を背景とした正信ら側近の権力の前に時勢の変化を認め、消極的に生きようとしたのである。こうして康政は退隠のまま慶長十一年五月十四日世を去った。五十九歳。法名養林院殿前大守職上誉見向大禅定門。館林の善導寺に葬られる。
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ四 慶長十一年五月十四日条、『寛政重修諸家譜』一〇〇、『榊原系譜』、北島正元『江戸幕府の権力構造』
(北島 正元)


日本大百科全書(ニッポニカ)

榊原康政
さかきばらやすまさ
[1548―1606]

安土 (あづち)桃山時代の武将。徳川家康直属の有力部将で譜代 (ふだい)大名。幼名小平太、官名は式部大輔 (しきぶたいふ)。三河一向一揆 (いっこういっき)で家康に敵対した家老酒井忠尚 (ただなお)の小姓 (こしょう)であったといわれる。1560年(永禄3)岡崎に帰城した家康に属して近臣となり信任を得、三河一向一揆で初陣を飾り、家康の一字を与えられ康政と称した。永禄 (えいろく)(1558~70)末年、本多忠勝 (ただかつ)と同じ旗本一手の軍団を指揮する部将に取り立てられた。五か国領有時代を通じ旗本部将でつねに第一戦で軍功があり、同様の地位にあった本多忠勝、井伊直政 (いいなおまさ)とともに三傑と称せられた。関東入部後は上野 (こうずけ)国(群馬県)館林 (たてばやし)で10万石を与えられた。関ヶ原の戦い後、忠勝、直政とともに参陣した大名の論功行賞にあたり、政治の中枢にあった。

[煎本増夫]



世界大百科事典

榊原康政
さかきばらやすまさ
1548-1606(天文17-慶長11)

近世初期の武将。通称小平太。式部大輔に任じた。はじめ酒井忠尚の家臣で,1560年(永禄3)岡崎に帰城した徳川家康に属し近臣となった。三河一向一揆に初陣,家康の一字を与えられ,永禄末年に旗本一手の軍団を指揮する部将に取り立てられた。以後,徳川氏の5ヵ国領有期の諸合戦ではつねに第一線にあって活躍。関東入国時,上野国館林で10万石を与えられた。
[煎本 増夫]

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検索コンテンツ
1. 榊原康政
日本大百科全書
安土あづち桃山時代の武将。徳川家康直属の有力部将で譜代ふだい大名。幼名小平太、官名は式部大輔しきぶたいふ。三河一向一揆いっこういっきで家康に敵対した家老酒井忠尚
2. 榊原康政
世界大百科事典
1548-1606(天文17-慶長11) 近世初期の武将。通称小平太。式部大輔に任じた。はじめ酒井忠尚の家臣で,1560年(永禄3)岡崎に帰城した徳川家康に属し
3. さかきばら‐やすまさ【榊原康政】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。式部大輔。徳川四天王の一人。はじめ家康に、のち秀忠に仕える。姉川、長篠(ながしの)などの戦いに軍功を立て、のち上州館林一〇万石を領する。天文
4. さかきばらやすまさ【〓原康政】画像
国史大辞典
一五四八―一六〇六 安土桃山時代の武将。徳川家康の四天王の一人で、武功派の中心的存在で勇名を大いに喧伝された功臣である。幼名小平太。式部大輔。天文十七年(一五
5. さかきばら-やすまさ【榊原康政】
日本人名大辞典
1548−1606 戦国-江戸時代前期の武将,大名。天文(てんぶん)17年生まれ。榊原長政の次男。徳川家康につかえる。三河一向一揆(いっき)攻めの功によって康政
6. 榊原康政[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:1件 『仮名挿入皇朝名臣伝 4』中沢寛一郎(編)『江戸幕府その実力者たち 』北島正元『榊原康政の家系及其墓』川住銈三郎
7. 榊原康政印[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
8. 榊原康政花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. 榊原康政公御書翰(著作ID:29378)
新日本古典籍データベース
さかきばらやすまさこうごしょかん 書簡 
10. 榊原康政自筆消息(著作ID:452711)
新日本古典籍データベース
さかきばらやすまさじひつしょうそく 榊原 康政(さかきばら やすまさ) 書簡 
11. 榊原康政伝記(著作ID:29389)
新日本古典籍データベース
さかきばらやすまさでんき 伝記 
12. 榊原康政鎗笹切図(著作ID:2721257)
新日本古典籍データベース
さかきばらやすまさやりささきりず 武具 
13. あいづせいばつ【会津征伐】
国史大辞典
千坂景親の伏見からの通報に従って講和を決意、本庄繁長を上洛させた。そして結城秀康・本多正信・榊原康政らの尽力により講和が成立、景勝は同六年七月上洛して謝罪し、伊
14. あおうめじんじゃ【青梅神社】群馬県:館林市/館林城下/谷越町
日本歴史地名大系
青柳には元天神とよばれる地があるという。「館林城主代々聞書」(館林市立図書館蔵)によると、文禄四年(一五九五)榊原康政の城下町建設にあたり西方の現在地に移転、以
15. あしかがぐん【足利郡】栃木県:下野国
日本歴史地名大系
北条氏方に属した長尾顕長の足利城が攻略され、当郡は徳川氏の支配下に入った。その後上野国館林の榊原康政領となり、翌一九年には徳川氏による検地が実施されている。慶長
16. あたごじんじゃ【愛宕神社】群馬県:館林市/館林城下/木挽町
日本歴史地名大系
室町から戦国時代には赤井・長尾氏ら館林一帯の有力領主に崇敬された。天正一八年(一五九〇)館林に入部した榊原康政もまた当社を信心、文禄年間(一五九二―九六)館林の
17. あんようじむら【安養寺村】滋賀県:栗太郡/栗東町
日本歴史地名大系
に「百文 あんやうし」とみえる。慶長八年(一六〇三)徳川家康が上野国館林(現群馬県館林市)の榊原康政に「安養寺」四五八石余を含む五千石を在京賄料として与えた(「
18. 井伊直政
世界大百科事典
た。82年弱冠22歳で旗本一手役(ひとてやく)の長となった。この部署には三河譜代の本多忠勝,榊原康政がおり,後世,直政を加えて三傑と称せられた。直政の軍団は浜松
19. 池田光政
日本大百科全書
江戸初期の著名な外様とざま大名で岡山藩主。慶長けいちょう14年4月4日岡山城で生まれる。父は利隆としたか、母は榊原康政さかきばらやすまさの次女鶴子(法号福照院)
20. 池田光政
世界大百科事典
1609-82(慶長14-天和2) 江戸初期の外様大名。父は姫路城主利隆,母は榊原康政の次女鶴子で,利隆が岡山城主の弟忠継の代理で〈備前監国〉として岡山在城のと
21. いけだみつまさ【池田光政】画像
国史大辞典
幼名は幸隆(よしたか)、通称は新太郎、諡は芳烈公。慶長十四年(一六〇九)四月四日岡山城に生まれ、父は利隆、母は榊原康政の次女鶴子(法号福照院)。利隆は元和二年(
22. いしべいっき【石部一揆】
国史大辞典
して秀吉と絶交し小牧・長久手の戦が始まると、石部右馬丞は家康に款を通じた。家康はこれを容れ、榊原康政を使者として送るとともに二十三日付の返書を一揆中にあて発し、
23. いせおちむら【伊勢落村】滋賀県:栗太郡/栗東町
日本歴史地名大系
)の兵火により焼失したと伝える。慶長八年(一六〇三)徳川家康が上野国館林(現群馬県館林市)の榊原康政に在京賄料として「伊勢落村」の二〇石を含め五千石を与えた(「
24. いせむら【伊勢村】滋賀県:守山市
日本歴史地名大系
に沿って開かれた。古代条里の一里分にほぼ相当する村域をもつ。慶長八年(一六〇三)上野館林藩主榊原康政の在京賄料として与えられた(榊原政春家文書)。元和七年成箇帳
25. いとう-やそう【伊藤弥惣】
日本人名大辞典
?−? 戦国-織豊時代の武士。永禄(えいろく)7年(1564)徳川家康側近の榊原康政(さかきばら-やすまさ)につかえた。12年の遠江(とおとうみ)(静岡県)掛川
26. いわでやまじょうか【岩出山城下】宮城県:玉造郡/岩出山町/岩出山本郷
日本歴史地名大系
いた徳川家康は一揆の火の手があがった当地を移封先として政宗に推奨し、自ら修築を指揮、縄張りは榊原康政に当たらせている(前掲治家記録同年九月一〇日条など)。なお同
27. いわでやまほんごう【岩出山本郷】宮城県:玉造郡/岩出山町
日本歴史地名大系
岩手沢領ノ在々百姓以下」は家康の威光を恐れてことごとく逃散、そこで家康家臣で縄張りに当たった榊原康政は実相寺百姓中宛に書付(前掲治家記録所収)を送って戻るよう要
28. うえむら-いえつぐ【植村家次】
日本人名大辞典
子。徳川家康の家臣。天正(てんしょう)7年徳川信康につかえ,信康の切腹後流浪の身となる。のち榊原康政の推挙で,上野(こうずけ)(群馬県)邑楽(おうら)郡に500
29. おうしょうじ【応声寺】群馬県:館林市/館林城下/木挽町
日本歴史地名大系
付けた。築城以来時報の役目を命じられ、太鼓料として成島村に二町五反余を与えられていたという。榊原康政入部後鞘町に移転、さらに延宝年間(一六七三―八一)には木挽町
30. おうらぐん【邑楽郡】群馬県
日本歴史地名大系
ある石田三成・長束正家らの攻撃によって開城、終止符をうった。〔近世〕天正一八年徳川家康の家臣榊原康政が館林領一〇万石を支配し、翌年領内検地が行われた。支配地は上
31. おおたし【太田市】群馬県
日本歴史地名大系
氏征服によって廃城となっている。〔近世〕天正一八年徳川家康の関東入国後、市域の多くは館林城主榊原康政に与えられる。寛文郷帳では山田郡域はすべて館林藩領、新田郡域
32. おおはしむら【大橋村】滋賀県:栗太郡/栗東町
日本歴史地名大系
野洲川と葉山川に挟まれた平地に立地。慶長八年(一六〇三)徳川家康は上野国館林(現群馬県館林市)の榊原康政に「大橋村」の三〇一石余を含め五千石を在京賄料として与え
33. おびきいなりじんじゃ【尾曳稲荷神社】群馬県:館林市/館林城下
日本歴史地名大系
。同様に当社の霊験あらたかなことは「耳袋」などにもみえる。天正一八年(一五九〇)八月入部した榊原康政は城郭拡張工事を行うとともに当社の再建を行い、さらに正保二年
34. 家訓集 179ページ
東洋文庫
由」の記述がない。「内存」は考えないしは存念の意。 「本多中書」は家康の信任あつく井伊直政や榊原康政らとともに関ケ原の戦後処理にあたった本 多中務大輔忠勝のこと
35. かわまたむら【川俣村】群馬県:邑楽郡/明和村
日本歴史地名大系
れた会の川が分岐していることに由来する。「館林城主記」によれば、慶長二年(一五九七)館林城主榊原康政により川俣村の堤ができたという。近世は初め館林藩領。寛文郷帳
36. かんしょうじ【観性寺】群馬県:館林市/館林城下/材木町
日本歴史地名大系
と薬師堂が境内に移された。自性院の薬師堂は文禄元年(一五九二)まで城下の内加法師にあったが、榊原康政の館林城拡張工事のため、同年鞘町に移された(館林城主記)。当
37. 清正誠忠録
世界大百科事典
来を嘆く。清正は大坂城で秀頼,淀君にあいさつして肥後へ旅立つ。のち清正は竹田街道で家康の家臣榊原康政と別れのあいさつをする。世の推移を清正は悲しむ。団十郎のリア
38. きんりゅうじ【金龍寺】群馬県:太田市/太田町
日本歴史地名大系
現茨城県牛久市)へ移ったのを機に同地へ移転していった。慶長年間(一五九六―一六一五)館林藩主榊原康政は荒廃していた堂宇を修復、田畑山林を寄進し中興の開基となった
39. くのうはん【久能藩】
国史大辞典
この久能城は武田氏滅亡とともに自然廃城となった。慶長十一年(一六〇六)十二月徳川家康は、当時上野国館林の榊原康政のところで、病気療養のため閑居していた榊原清政(
40. くらしんでん【内蔵新田】群馬県:邑楽郡/板倉町
日本歴史地名大系
東は板倉村、西は浮戸村、南と西は籾谷村。「邑楽郡町村誌材料」によると、天正一八年(一五九〇)榊原康政の家臣清水内蔵之允によって開かれ、村名もこれによるという。し
41. くろばねじょうあと【黒羽城跡】栃木県:那須郡/黒羽町/黒羽城下
日本歴史地名大系
はじめ重臣金丸・浄法寺・松本・津田各氏の家族を人質として江戸に送った。黒羽は奥州境目であるので榊原康政の家臣伊奈主水により城に修復が加えられ、岡部長盛・服部保英
42. こう‐きょ【後拒・後距】
日本国語大辞典
主力部隊の後方に備えること。また、その軍。しんがり。後軍。*日本外史〔1827〕一八・徳川氏正記「榊原康政本多広孝為〓左右翼
43. 上野国画像
世界大百科事典
打ち,やがて関ヶ原の戦を経て1603年(慶長8)江戸幕府開設という新たな歴史段階を迎えた。江戸城に入った家康は榊原康政を総奉行として直ちに関東の知行割に着手した
44. こうずけのくに【上野国】群馬県
日本歴史地名大系
近世〔初期検地と所領構成〕徳川家康の関東入国以後、上野国内でもっとも早く検地に着手したのは館林に入封した榊原康政である。その領内であった山田郡只上村・吉沢村(現
45. 慊堂日暦 3 331ページ
東洋文庫
帳悶すること甚だし。飯後に微痢あり、且つ爆湯に浴して頗る快し。主人は来語すること半日、家蔵書の未見のもの一巻(榊原康政が加藤清正に与うる書)を出だす。即ち下に抄
46. 慊堂日暦 3 332ページ
東洋文庫
榊原康政の手紙(部分)廉堂写
47. こくわばらむら【小桑原村】群馬県:館林市
日本歴史地名大系
六四石六斗余(同年「村々助郷勤高帳」同史料)。字富士原にある富士嶽神社は文禄元年(一五九二)榊原康政の再建と伝え、旧郷社。明治四三年(一九一〇)近郷一八社を合祀
48. こまき・ながくてのたたかい【小牧・長久手の戦】
国史大辞典
九日早朝これを殲滅して小休止した。一方篠木郷民の通報にもとづき情況を探知した家康は、八日夜大須賀康高・榊原康政を先発させ、小牧には酒井忠次・石川数正・本多忠勝を
49. さいそくちょう【催促町】群馬県:館林市/館林城下
日本歴史地名大系
であった。宝永七年(一七一〇)頃の万聞書(山田文書)によると、天正一八年(一五九〇)入部した榊原康政は、当時城北にあった城下町を城西の館野ヶ原に移す計画をたてた
50. さかいただつぐ【酒井忠次】画像
国史大辞典
敬重したのも当然であった。忠次は家康の関東入部を待たず致仕したため軍事面の事績が多いのは当然で、井伊直政・榊原康政・本多忠勝の三名と合わせて「徳川四天王」の名声
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