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  11. 松平信康

松平信康

ジャパンナレッジで閲覧できる『松平信康』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

松平信康
まつだいらのぶやす
一五五九 - 七九
戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と婚約し、十年五月に結婚。元亀元年(一五七〇)元服して岡崎城主となり、岡崎次郎三郎信康と称した。永禄九年末に父家康は徳川に改姓していたから、以後は徳川信康ということになる。平岩親吉が傅役兼家老とされた。初陣は天正元年(一五七三)九月の三河国設楽郡武節城攻めと伝えるが、場所には疑問あり。同三年、岡崎町奉行大賀弥四郎・松平新右衛門を主謀者とする武田勝頼通謀の家臣一揆は未然に処断したが、種々の不行跡が伝えられており、妻および父との対立が激化したらしい。妻から信長への訴状に端を発して、家康・信長の間で信康処分が議され、七年八月四日に信康は岡崎城を出され、遠江堀川城・同二俣城に移され、九月十五日に切腹させられた。二十一歳。法名騰雲院殿達岩善道大居士。墓所は静岡県天竜市二俣町二俣の清滝寺。
[参考文献]
『(新編)岡崎市史』二、中村孝也『家康の族葉』
(新行 紀一)


日本大百科全書(ニッポニカ)

松平信康
まつだいらのぶやす
[1559―1579]

近世初期、三河 (みかわ)(愛知県)岡崎城主。徳川家康の嫡子、2代将軍秀忠 (ひでただ)の兄。母は正室関口氏(築山殿 (つきやまどの))。幼名竹千代、通称次郎三郎。1567年(永禄10)9歳で織田信長の女 (むすめ)織田氏徳姫と結婚。70年(元亀1)家康が新領土遠江 (とおとうみ)(静岡県)に進出し、引馬 (ひくま)(浜松)を居城とする際、在来の家康の城地三河岡崎城が与えられ、岡崎次郎三郎信康と称した。信康は性剛直で武勇に優れ、よく家康を助けた。1575年(天正3)9月、家康が大井川で武田勝頼 (かつより)と対峙 (たいじ)し、陣を引こうとしたとき、信康は危険の多い殿 (しんがり)を望み、任務を遂行したことなど、よくその人柄を表している。79年夏、信康の室織田氏徳姫は、築山殿と信康とについて罪状12か条を記して父信長に送り、信長は家康の老臣酒井忠次 (ただつぐ)にその真偽をただしたが、忠次が弁疏 (べんそ)しなかったので、信長は両人の処罰を命じたという。その罪状は両人が勝頼と通じて信長に敵対しようとしていたとされている。信長に背くだけの力のなかった家康は、築山殿を切り、信康に自尽を命じた。同年9月15日信康は遠州二俣 (ふたまた)城で切腹した。21歳。信康が勝頼と通じていたとする根拠は薄く、また人柄が粗暴で諸人は恐れていたとする伝えも信じがたい。葬地は遠江清滝寺 (せいりゅうじ)(浜松市天竜区二俣町二俣)。

[林 亮勝]



世界大百科事典

徳川信康
とくがわのぶやす
1559-79(永禄2-天正7)

徳川家康の長男。母は築山殿,関口氏。幼名竹千代,通称岡崎三郎。駿府で生まれ,60年(永禄3)家康自立により母子ともに今川氏真に抑留されたが,人質交換で62年岡崎に迎えられた。67年織田信長の女徳姫と結婚。70年(元亀1)家康の浜松城移転後元服して岡崎城主。若年より武勇の誉れ高かったが,信長に武田勝頼通謀と疑われ,79年9月15日遠江国二俣城で自刃した。
[新行 紀一]

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検索コンテンツ
1. 松平信康
日本大百科全書
近世初期、三河みかわ(愛知県)岡崎城主。徳川家康の嫡子、2代将軍秀忠ひでただの兄。母は正室関口氏(築山殿つきやまどの)。幼名竹千代、通称次郎三郎。1567年(永
2. まつだいらのぶやす【松平信康】
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一五五九―七九 戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留さ
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4. まつだいら-のぶやす【松平信康】
日本人名大辞典
⇒徳川信康(とくがわ-のぶやす)
5. いなただつぐ【伊奈忠次】画像
国史大辞典
定)の長男として三河国幡豆郡小嶋(愛知県西尾市)に生まれ、天正七年(一五七九)徳川家康の嫡男松平信康自殺後、一時堺へ出奔したが、同十年六月小栗仁右衛門吉忠の同心
6. おかざきじょうか【岡崎城下】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
よんだりしており、この頃、岡崎城下に芸能者・医師・職人たちが集まって来ていたことを示す。天正四年、松平信康在城頃、三遠の地に盆踊が流行、信康はこれを好み岡崎城下
7. おかざきのぶやす【岡崎信康】
国史大辞典
松平信康(まつだいらのぶやす)
8. こうじょうじ【江浄寺】静岡県:清水市/旧有渡郡地区/江尻宿/江尻町
日本歴史地名大系
が残され、近世初期本尊修繕に広範な人々の喜捨があったことが知られる。また寺内に徳川家康の長男松平信康の遺髪を納めた供養塔がある。「言継卿記」弘治三年(一五五七)
9. せいりゅうじ【清瀧寺】静岡県:天竜市/二俣村
日本歴史地名大系
以後長安院とよばれたという(「清瀧寺記」寺蔵)。天正七年(一五七九)九月に徳川家康の嫡子徳川信康(松平信康)が二俣城で自刃。その後、家康は信康の供養のために長安
10. つきやまどの【築山殿】
国史大辞典
弘治三年(一五五七)、松平元康(徳川家康)と結婚し、永禄二年(一五五九)には長男の竹千代(のちの松平信康)を生み、さらにのちには長女亀姫(奥平信昌夫人)を生んで
11. 徳川信康
日本大百科全書
松平信康
12. とくがわのぶやす【徳川信康】
国史大辞典
松平信康(まつだいらのぶやす)
13. 徳川信康[文献目録]
日本人物文献目録
松平信康[松平信康]
14. とくひめ【徳姫】
日本人名大辞典
織豊-江戸時代前期,織田信長の娘。永禄(えいろく)2年3月2日生まれ。10年三河(愛知県)岡崎城主松平信康(のぶやす)(徳川家康の長男)と結婚,2女を生む。信康
15. ばんしょういん【万松院】神奈川県:小田原市/風祭村地図
日本歴史地名大系
旧東海道の北にある。祝融山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。開基は小田原城主大久保忠世、徳川家康の嫡男松平信康の供養のために建立したと伝える(小田原盛衰記)。もと愛
16. ふじづかこせんじょう【富士塚古戦場】愛知県:安城市/上条村
日本歴史地名大系
戦が繰広げられた安城合戦の主戦場の一つ。天文九年六月、織田信秀と安祥城の森左馬助長家、援軍の松平信康・藤井松平利長とが白兵戦を展開した。両軍の死傷者は一千余人を
17. まゆみやまじょうあと【真弓山城跡】愛知県:東加茂郡/足助町/足助村
日本歴史地名大系
して落城。信玄は下条伊豆守信氏を城代として入れ、足助地方の支配に当たらせた。信玄が没すると、松平信康が足助城を攻略、旧主鈴木重直に守らせた。「当代記」によると、
18. 室町殿物語 2 50ページ
東洋文庫
信貞:雅楽鹸W。長好:従五位下左京亮。童名は長。長次:童名は於縁。長兵衛」。女子は蒲生氏郷妻・松平信康妻・滝川一益妻・筒井定次妻、他四名。三 談合  四六の注三
19. 1579年〈天正7 己卯〉
日本史年表
策彦周良(79,禅僧)。 7・4 油屋常祐(堺商人)。 8・29 築山殿(徳川家康正室)。 9・15 松平信康(21,武将)。 10・2 種子島時堯(5
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