(中略)
酒宴して猿楽に羅生門の
安土桃山時代の武将。尾張守護代織田大和守家の奉行の家に生まれた。織田氏は越前丹生郡織田荘が本貫で藤原氏を称したが,本姓は忌部氏といわれる。信長も初めは藤原氏を称した。のち平氏になったのは源平迭立(てつりつ)の思想によるという。曾祖父は信良,祖父は信貞といったらしいが,父の信秀は傑出した武将で尾張勝幡(しよばた)城に拠り,津島の経済力や天王社の信仰を背景に一族間に優越し,美濃・三河を攻略,信長を那古野城に置き,斎藤利政(道三)の女をめとらせた。しかし一族との対立,今川氏との対決という課題を残して1551年(天文20)急逝したので信長は孤立し,家臣団は動揺した。だが親族衆と連携しつつ敵対する一族を各個に撃破した信長は,55年(弘治1)清須城を奪い,57年老臣に擁立された弟信行を殺し,59年(永禄2)岩倉城の織田信賢を追って尾張を統一し,60年5月西上する今川義元を桶狭間の戦でたおし,62年岡崎の徳川家康と同盟して態勢を安定させた。そして65年墨俣(すのまた)に砦を築き美濃への攻撃を強め,67年ついに斎藤竜興を追って美濃を征服し,井之口を岐阜と改称して拠点とし〈天下布武〉の印判使用を開始した。そして68年足利義昭を擁して上洛,三好三人衆を追って幕府を再興,実質的な畿内支配を実現した。そして将軍のため二条城を造営する一方,殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し,70年(元亀1)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り,ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して浅井・朝倉軍に呼応したため退却し,天皇の権威をかりて講和した。ついで将軍の失政を責め,73年(天正1)ついに幕府を倒し,宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし,翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧,75年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し,また丹波・丹後の征服を開始,8月越前の一向一揆を鎮定し,柴田勝家ら直属部将を分封,国掟を与えて専制支配の姿勢を明らかにした。そして濃尾両国を嫡子信忠に譲り,76年近江に安土城を築き,77年羽柴秀吉に西国征伐を命じた。一方足利義昭の策謀により本願寺顕如・上杉謙信・毛利輝元らが信長を敵として連合し,松永久秀・荒木村重らの部将も背いた。しかし信長は77年紀伊雑賀(さいが)を圧迫し,翌年鉄甲船によって毛利水軍を破り,また上杉謙信も78年病没,荒木一族も翌年鎮圧されたので石山城の顕如は80年ついに屈服し,加賀の一向一揆も柴田勝家により平定された。そこで信長は宿老の佐久間信盛や林秀貞を追放して専制的体制を誇示し,翌年京都で盛大な馬揃を挙行,行幸を仰ぎ,整備された軍容を天下に示した。そして翌82年木曾義昌の来属を機に甲斐・信濃に侵入,武田勝頼を田野に敗死させ,信濃・甲斐・上野に部将を分封して国掟を与えた。ついで神戸信孝らに四国征伐を命じ,6月中国征伐の指示を与えるため上洛し本能寺に宿泊したところを明智光秀に急襲されて2日朝自殺,信忠も二条城で敗死した(本能寺の変)。
織田政権の軍事的特質は加地子(かじし)領主として農業経営から分離しうる濃尾地方の地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し,鉄砲・長槍で武装,専業武士団として機動性を与えたところにあった。しかもこの軍団は長期遠征に耐え,城下集住が可能であったため征服戦が有利に展開し,中央支配を早期に実現できたのである。またこの政権は土地の一職支配に基礎を置く過渡的存在であるといわれるが,一向一揆の鎮圧以後は大和や和泉に指出(さしだし)を徴して複雑な土地所有関係を固定明確化し,播磨では事実上の太閤検地といわれる検地が,柴田氏領内では刀駈(かたながり)が,大和では城破り(しろわり)が実施され,そして楽市・楽座,関所撤廃などの政策がとられた。もっとも最近では楽市・楽座令を都市振興政策の一環として限定的に理解するむきもあるが,これらの政策は豊臣秀吉により近世的統一政権の基礎として実現してゆくものである。また信長は律令制的支配を象徴する朝廷を保護し,内裏の修造,廷臣門跡の窮乏を救済する徳政の実施,皇大神宮・石清水八幡宮の保護など国家的支配に関与し,朝廷でも太政大臣か将軍の地位を贈る意向があった。信長はまた宗教の世俗的権威を否定し,1571年浅井・朝倉軍に荷担した延暦寺を,81年指出を拒否した槙尾寺を焼き,罪人を隠匿した金剛峯寺制裁のため多くの高野聖を斬り,82年甲斐恵林寺の快川紹喜を焚殺した。そして惣村や渡りの商工業者集団を基盤とする一向一揆には鏖殺(おうさつ)(みな殺し)戦術をもって臨み,町衆を信仰受容層とする日宗には79年安土宗論を行わせてこれを弾圧した。しかしキリスト教宣教師は優遇し,69年ルイス・フロイスの在京を許し,79年オルガンティーノに安土教会堂の,81年巡察使バリニャーノに学校の建設を許した。そして宣教師を通じてキリシタン大名を動かし,また仏僧を牽制した。なお宣教師は信長の資質を的確にとらえて報告している。信長は茶の湯の愛好者として知られるが,茶会を通じて堺や博多の豪商と接し,家臣には茶器を与え,茶の湯興行の特権を付与して褒賞するなど,茶道を商業資本家や家臣団の統制に利用している。
織田信長の人間像は,同時代の武将たちとともに,いわゆる〈太閤記の世界〉のなかでは,必ず顔をだすが,徹底して善良な人間像を獲得し,それゆえに活躍の場の多い豊臣秀吉(真柴久吉),あるいは屈折した悪役を割りふられ,独自の個性を作りあげた明智光秀(武智光秀)などに比べると,信長の場合は小(尾)田春永という名の単純な赤面(あかつつら)の暴君以上のものではなく,おもしろみに欠ける印象を否めない。また多くが脇役にとどまり,信長を主人公に扱う作品はみられない。江戸時代にははなはだ人気のない人物であった。しかもその悪役としての性格も,むしろゆたかな光秀像の形成にともなって,光秀を侮辱する役として浮上したふしが濃厚である。現代の日本人が抱くニヒルで悽惨な信長のイメージは,どちらかといえば近代文学のものというべきであろう。
新版 日本架空伝承人名事典
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