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大久保利通(大久保一蔵)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三〇 - 七八 明治維新の指導的政治家。諱は利済のち利通と改む。幼名は正袈裟、のちに正助・一蔵と称し、甲東と号す。天保元年(一八三〇)八月十日鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として、鹿児島城下加治屋町に生まれる。
大山綱良(大山格之助)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二五 - 七七 幕末・維新期の薩摩国鹿児島藩士。初代鹿児島県令。通称は格之助、角右衛門ともいう。文政八年(一八二五)十一月六日、鹿児島藩士樺山善之進の次子として鹿児島に生まれ、のち大山四郎助の養子となった。家禄百三十六石。
西郷隆盛(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二七 - 七七 明治維新の指導的政治家。文政十年(一八二七)十二月七日鹿児島城下加治屋町で、父吉兵衛隆盛・母マサの長男として生まれた。諱は隆永。維新後は隆盛と改めた。幼名小吉、のち吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助と称し、号は止水、のち南洲とした。家格は城下士の下級の
大嘗祭(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
天皇が即位したのち、最初に挙行する大規模な新嘗祭のこと。「おおにえのまつり」、また単に大嘗ともいい、即位儀とともに即位儀礼を構成する。近世以前には大嘗会ともよばれたが、これは節会に重きをおいた呼称である。律令時代における毎年秋の新嘗祭との相違は、新嘗祭が十一月下
皇室祭祀(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
皇室で執り行われる祭祀で、おもに神道的儀式を基本としている。皇室祭祀には、新嘗祭など古代からの祭祀を継承したものや、元始祭などのように明治維新後の神道国教化政策、神仏分離政策の影響を受けて新たに定められた神道祭祀など多数ある。現行の皇室祭祀は、明治維新後新たに制度化
皇室喪儀令(国史大辞典)
天皇および皇族の喪儀について規定したもので、大正十五年(一九二六)十月二十一日皇室令の一つとして公布された。内容は、第一章大喪儀(第一条より第一一条まで)、第二章皇族喪儀(第一二条より第二一条まで)および附式から成り、第一章には第一条の、天皇が崩御した時は宮内大臣
島津斉彬(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸末期の薩摩藩主。斉興の長男。文化6年9月28日江戸に生まれる。異母弟久光を推す一派との家督争い(お由良騒動)を経て1851年(嘉永4)43歳で藩主となった。その間曽祖父重豪の感化もあって洋学に傾倒し、蘭医シーボルトに会見、川本幸民、箕作阮甫、高野長英、杉田成卿
島津久光(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末・明治初期の政治家。文化14年10月24日、薩摩島津氏27代当主斉興の三男に生まれた。母は側室お由良。山城、周防、和泉、三郎などと称した。一門重富島津家を嗣ぐ。1858年(安政5)長男茂久(のち忠義と改名)が29代当主となったので、久光が藩政の実権を握った。1861年(文久1)
海江田信義(有村俊斎)(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
鹿児島藩出身の維新政府官僚。天保三年(一八三二)二月十一日生まれる。鹿児島藩士有村仁左衛門とその妻連の長男。同藩の日下部伊三次の嗣子となり、その旧姓海江田に改姓。武次または通称俊斎といった。嘉永五年(一八五二)、江戸に出仕して水戸藩士藤田東湖らと交わり、その後
還幸(日本国語大辞典)
(1)天皇が行幸からお帰りになること。還御。*平家物語〔13C前〕一〇・請文「還幸なからんにおいては、三種の神器いかでか玉躰をはなちたてまつるべきや」*神皇正統記〔1339〜43〕下・後醍醐「つゐに朝敵を追落す。やがて其夜還幸し給」*太平記〔14C後〕七・船上合戦事
行幸(日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〔名〕(1)(─する)(「ぎょうごう」とも)天皇が皇居を出て、よそへ行くこと。なお、行く先が二か所以上にわたるときには巡幸という。みゆき。いでまし*令義解〔718〕儀制・天子条「車駕。〈行幸所
拝謁(日本国語大辞典)
身分の高い人や目上の人に面会することをへりくだっていう語。つつしんでお目にかかること。おめどおり。*吾妻鏡‐治承四年〔1180〕一一月八日「相搆伺拝謁之次、有可申事故也」*色葉字類抄〔1177〜81〕「拝謁 ハイエツ 対面詞 同分」*読本・椿説弓張月〔1807〜11〕拾遺
御製(日本国語大辞典)
(1)天皇や皇族が、文書や作品を書いたり、ことばを賜わったりすること。また、その文書。*正倉院文書‐天平勝宝八年〔756〕六月二一日・東大寺献物帳(寧楽遺文)「太上天皇、捨国家珍宝等、入東大寺願文。皇太后御製」*続日本紀‐神護景雲三年〔769〕一〇月癸亥「長岡避
鳥羽僧正(新版 日本架空伝承人名事典)
覚猷。密教図像の収集、書写に貢献し、後に天台座主にもなった平安時代の高僧。大納言源隆国の子。覚円に師事、四天王寺別当となり同寺復興に功をたてたあと、三井寺(園城寺)に法輪院を建立して籠居すること二十数年、密教事相の研究に努め、収集の図像は「法輪院本」として重きをなし
ナポレオン [改訳](文庫クセジュ ベストセレクション)
ナポレオン[改訳] 文庫クセジュ79 アンリ・カルヴェ著/井上 幸治訳 歴史・地理・民族(俗)学 第一章 ナポレオンの出身、青年時代 ボナパルト家 いま知られるところで、ナポレオンのもっとも古い祖先は、十五世紀末にあらわれたフランソワ・ボナパルトである。
西郷従道(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
明治時代の政治家、軍人。天保十四年(一八四三)五月十四日薩摩藩の下級藩士(御小性与)西郷吉兵衛の第六子(三男)として鹿児島城下加治屋町に生まれる。母は同藩士椎原権右衛門の娘マサ。西郷隆盛は従道の長兄にあたる。幼名は竜助。幼くして両親を失い島津家の茶坊主として
卑弥呼(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
二世紀末から三世紀前半にかけて、倭国すなわち当時の日本を統治したとされる邪馬台国の女王。しかし、彼女は日本にまだ文字がなかった時代の人物であり、日本の史料にはいっさい登場しない。忽然とその姿を登場させるのは、三世紀に中国で成立した
聖徳太子(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
?‐622(推古30)六世紀末~七世紀前半の政治家、仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇皇女)。生年は『上宮聖徳法王帝説』に甲午年(五七四)とあるが確かでない。幼名を厩戸豊聡耳
藤原鎌足(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
614‐669(推古22‐天智8)大化改新の功臣で藤原氏の始祖。もと中臣連(なかとみのむらじ)鎌足。父は弥気(みけ)(御食子(みけこ)、御食足(みけたり)とも)といい、推古・舒明朝に仕えた神官で、地位は大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)
行基(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
668‐749(天智7‐天平勝宝1)奈良時代の僧。父は高志才智(こしのさいち)、母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)。高志氏は百済系渡来人の書(文)(ふみ)氏の分派。行基は河内国(大阪府)大鳥郡の母方の家で生まれた
鑑真(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
688‐763 中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動
道鏡(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
?‐772(宝亀3)奈良後期の政治家、僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現、八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』等時代の下る書に見える
坂上田村麻呂(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
758‐811(天平宝字2‐弘仁2)平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきょ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で、武術に秀でていた。田村麻呂も
最澄(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
767‐822(神護景雲1‐弘仁13)伝教大師。平安初期の僧侶。天台宗の開祖。三津首百枝の子という。幼名は広野。俗姓は三津氏で、帰化人の子といわれる。近江国滋賀郡古市郷(現、滋賀県大津市)の生れ。七七八年(宝亀九)一二歳で近江国分寺の大国師行表
空海(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
774‐835(宝亀5‐承和2)弘法大師、俗に「お大師さん」と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。生誕の月日は不明であるが、後に不空三蔵(七〇五‐七七四)の生れかわりとする
蘇我馬子(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
?-626(推古34)飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,汙麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた
小野妹子(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
生没年不詳推古朝の廷臣。姓(かばね)は臣。推古天皇十五年(六〇七)遣隋使として海を渡る。時に大礼冠(十二階冠位の第五階)。「日出づる処の天子(下略)」(原漢文)という国書を携行した(『隋書』)。隋では蘇因高と呼ばれた。翌年隋使裴世清
蘇我入鹿(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
?-645(大化1)飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は,唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひとみん)の学堂に学んだが
藤原良房(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
八〇四 - 七二平安時代前期の政治家。諡号忠仁公。通称白河大臣・染殿大臣。冬嗣の次男、母は南家真作女の尚侍藤原美都子。延暦二十三年(八〇四)生まれる。嵯峨天皇に風采と才能を愛され、皇女源潔姫を妻とした。天長三年(八二六)蔵人
紫式部(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時
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