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  11. 藤原良房
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
藤原良房
ふじわらのよしふさ
八〇四 - 七二
平安時代前期の政治家。諡号忠仁公。通称白河大臣・染殿大臣。冬嗣の次男、母は南家真作女の尚侍藤原美都子。延暦二十三年(八〇四)生まれる。嵯峨天皇に風采と才能を愛され、皇女源潔姫を妻とした。天長三年(八二六)蔵人、同五年従五位下、大学頭・春宮亮・左近衛少将などを経て、天長十年仁明天皇即位にあたって蔵人頭となり、承和元年(八三四)参議に昇進したが、翌二年には上席の公卿七人を越えて権中納言に抜擢された。承和九年七月、嵯峨上皇の崩御に際していわゆる承和の変が起るや、機に乗じて皇太子恒貞親王を廃し、その側近の大納言藤原愛発・中納言同吉野を追放し、同母妹の女御順子所生の道康親王(文徳天皇)を皇太子に立てた。以後、外戚として政権を握り、嘉祥元年(八四八)右大臣、嘉祥二年従二位に進んだ。翌三年仁明天皇が急死し、文徳天皇が践祚するや、女明子所生の惟仁親王(清和天皇)を生後九ヵ月にして強引に皇太子に立てた。やがて文徳天皇は良房の権力を厭い、第一皇子惟喬親王を皇太子にしようと企て、良房との間にはげしい暗闘があったようであるが、それは成功せず、真相は国史にも陰蔽されている。天安元年(八五七)異例の太政大臣に任じられ、翌二年文徳天皇が崩じて、九歳の幼帝清和天皇が立つと、天下の政を摂行した。貞観六年(八六四)天皇が元服した後、これを辞退したとみられるが、同八年応天門の変が起ると、八月十九日勅を奉じてまた「天下の政を摂行」し、伴善男らを断罪した。古来良房を人臣摂政のはじめとするのは、『三代実録』貞観八年八月十九日条に基づくが、『大鏡裏書』『公卿補任』などに天安二年摂政となると記されたのは、職員令における太政大臣の規定により、当然幼帝の政を摂行したと解釈したためであろう。貞観十四年二月十五日、流行の「咳逆」病により禁中の直廬を出て、東一条第で療病に努めたが、九月二日に没した。六十九歳。愛宕郡白河に葬られた。正一位を追贈され、美濃国に封ぜられ、忠仁公と諡号を賜わるなど、先祖不比等以外に比をみない殊遇を受けた。男子に恵まれなかったが、兄長良の子基経の才幹を見抜いて養子とし、応天門の変後に自己同様七人を越えて中納言に抜擢し、変後の政局の主導権を自家に確保して、後世における摂関政治の基礎を確立した。『貞観格式』『儀式』『続日本後紀』の編纂、貞観寺(嘉祥寺)の建立と外護、盛儀をきわめた仁明天皇四十歳の算賀行事、「染殿のきさき」(明子)の宮における詠歌(『古今和歌集』一)などに、その事跡と人物をみることができる。
[参考文献]
坂本太郎「藤原良房と基経」(『古典と歴史』所収)
(目崎 徳衛)

後愛宕墓(のちのおたぎのはか)

 所在は不明。貞観十四年(八七二)九月四日に山城国愛宕郡の白川のあたりに葬り、同年末には清和天皇の外祖父にあたる故に近墓の列に加えられ(元慶八年(八八四)遠墓に移る)、のち守戸一烟を置いて管守させたことが『三代実録』にみえる。『延喜式』諸陵寮は、その室源潔姫の愛宕墓に対して後愛宕墓として載せ、「在〓山城国愛宕郡〓、守戸一烟」とあり、兆域の記載はない。
(戸原 純一)


日本大百科全書(ニッポニカ)
藤原良房
ふじわらのよしふさ
[804―872]

平安前期の官僚。人臣最初の摂政(せっしょう)。冬嗣(ふゆつぐ)の第二子で、母は尚侍(ないしのかみ)藤原美都子(みつこ)(大庭(おおば)女王ともいう)。初代の蔵人頭(くろうどのとう)として嵯峨(さが)天皇の信任を得て栄達した父の後を継いで、藤原北家の権力基盤をつくりあげた。814年(弘仁5)に嵯峨天皇より皇女潔姫(きよひめ)を降嫁され、蔵人、中判事(ちゅうはんじ)、大学頭(かみ)などを経て、仁明(にんみょう)天皇の即位に伴って蔵人頭、ついで834年(承和1)に31歳で参議となる。本人の政治的力量とともに、父母の勢力や妹順子(じゅんし)の入内(じゅだい)など、嵯峨(太上)天皇の信望が大きな影響を与えたらしい。842年の嵯峨上皇の死を契機にした承和(じょうわ)の変では、順子の産んだ道康(みちやす)親王(後の文徳(もんとく)天皇)の立太子に成功し、自らも大納言(だいなごん)に進んだ。848年(嘉祥1)右大臣兼皇太子傅(ふ)となり、翌々年に仁明天皇が没すると、文徳天皇が即位して外戚(がいせき)となり、天皇と女明子(あきらけいこ)との間に誕生した惟仁(これひと)親王(後の清和(せいわ)天皇)を生後8か月で皇太子にするという前例のない事態を生み出した。
 857年(天安1)太政(だいじょう)大臣となったが、実際には摂関に近い存在であったらしい。翌年文徳天皇が没して9歳の清和天皇が即位し、良房は太政大臣としての任務を遂行した。この幼帝の出現は藤原北家の政治支配の形成を画する事件であり、良房政権の完成を示す。6年後に天皇が元服すると、翌々年(866)には応天門の炎上事件に乗じて伴善男(とものよしお)を失脚させ、自らは「摂政」となった。これは「天下の政を摂行せしむ」というように、天皇にかわってその政務を行うという行為・権能を示すもので、官職ではない。871年(貞観13)に准三后(じゅさんごう)となったが、翌年9月2日に没した。正(しょう)一位・忠仁公(ちゅうじんこう)が贈られ、美濃(みの)国に封ぜられた。この時代に藤原一門への権力の集中と、天皇との基本的な関係が形成され、「前期摂関政治」とも称される。なお『続日本後紀(しょくこうき)』の編纂(へんさん)に参画している。
[佐藤宗諄]



世界大百科事典
藤原良房
ふじわらのよしふさ
804-872(延暦23-貞観14)

平安前期の官人。染殿大臣,白河殿とも称された。藤原冬嗣の二子で母は尚侍藤原美都子(大庭女王との説もある)。父のあとをうけて藤原北家への廟堂の権力の集中を積極的におしすすめた。814年(弘仁5)父冬嗣とともに嵯峨天皇の殊寵をえ,皇女潔姫を降嫁され,826年(天長3)には蔵人となり,以降中判事,大学頭などを経て,仁明天皇即位にともなって蔵人頭となり,834年(承和1)には31歳で参議となった。故冬嗣の影響もさることながら,本人の政治的力量と嵯峨上皇の信任や妹順子の入内などもあって急速に勢力をもつにいたり,翌年には権中納言,842年嵯峨上皇の死を契機に起こった承和の変では順子の生んだ道康親王(文徳天皇)を皇太子とすることに成功し,大納言に昇進して,848年(嘉祥1)には右大臣兼皇太子傅となった。850年仁明天皇が没し文徳天皇が即位すると外戚としての立場になり,また天皇と娘明子(あきらけいこ)との皇子惟仁親王を生後8ヵ月で立太子させたが,これは先例のない事態であった。857年(天安1)2月に良房は太政大臣となったが,これは令制の太政大臣とともに令制前の太政大臣の地位をも継承していたようで,実際には関白にふさわしい地位であった。翌年文徳天皇の死で清和天皇が9歳で即位し,良房は太政大臣として実際には摂政としての機能をもった。864年(貞観6)正月に15歳の天皇が元服し,866年に応天門の変で足場をかためた良房は,天皇の〈天下の政を摂行せしむ〉との詔をえて摂政となった。これが人臣摂政の初例であるが,当時はまだ後世のように官職として定立していたわけではなく,天皇に代わって政務を行うという行為を示すにすぎない。871年に准三宮となり随身の兵仗や封戸が加増されたが,翌年9月に没した。正一位を追贈され,忠仁公と諡(おくりな)され美濃国に封ぜられた。その生涯は,先例よりも機会に乗じて一門への権力の集中に努めるという方向性が強い。なお《続日本後紀》の編纂に参画した。
[佐藤 宗諄]

[索引語]
染殿大臣 白河殿 摂政 人臣摂政 忠仁公
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1. 藤原良房
日本大百科全書
平安前期の官僚。人臣最初の摂政(せっしょう)。冬嗣(ふゆつぐ)の第二子で、母は尚侍(ないしのかみ)藤原美都子(みつこ)(大庭(おおば)女王ともいう)。初代の蔵人 ...
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804-872(延暦23-貞観14) 平安前期の官人。染殿大臣,白河殿とも称された。藤原冬嗣の二子で母は尚侍藤原美都子(大庭女王との説もある)。父のあとをうけて ...
3. ふじわら‐の‐よしふさ【藤原良房】
日本国語大辞典
平安前期の公卿。人臣最初の摂政。通称染殿・白河殿。父は冬嗣。母は阿波守真作の娘美都子。嵯峨天皇の皇女潔姫を室とし、父祖の遺徳と妹順子が仁明天皇の女御(後に皇后) ...
4. ふじわらのよしふさ【藤原良房】
国史大辞典
る詠歌(『古今和歌集』一)などに、その事跡と人物をみることができる。 [参考文献]坂本太郎「藤原良房と基経」(『古典と歴史』所収) (目崎 徳衛) 後愛宕墓(の ...
5. 藤原良房
日本史年表
2・19 藤原良房 を太政大臣とする(文徳実録)。 866年〈貞観8 丙戌③〉 8・19 藤原良房 に「天下之政」を摂行させる(三実)。 871年〈貞観13 辛 ...
6. ふじわらの-よしふさ【藤原良房】
日本人名大辞典
804−872 平安時代前期の公卿(くぎょう)。延暦(えんりゃく)23年生まれ。北家藤原冬嗣(ふゆつぐ)の次男。母は藤原美都子(みつこ)。承和(じょうわ)元年( ...
7. 藤原良房[文献目録]
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8. 藤原良房(ふじわらよしふさ)
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9. 藤原良房六十賀 (見出し語:藤原良房)
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10. 藤原良房建貞觀寺 (見出し語:藤原良房)
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11. 藤原良房爲攝政 (見出し語:藤原良房)
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12. あおうまのせちえ【白馬節会】
国史大辞典
微し、近世再び恒例となったが形骸化し、ついに明治二年(一八六九)に廃絶。『源氏物語』乙女に、藤原良房が自邸で白馬御覧の儀を行なった例にならい源氏の邸でも行なった ...
13. 排蘆小船(近世随想集) 366ページ
日本古典文学全集
、天資好文、叡才神敏、宸藻最も富瞻と称す」。平安前期の官撰国史。二〇巻。文徳天皇の命を受け、藤原良房ほかが撰進。貞観十一年成立。仁明天皇の治世十八年間を編年体で ...
14. あぬのしょう【阿努庄】富山県:氷見市
日本歴史地名大系
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15. あべの-なみたか【安倍比高】
日本人名大辞典
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16. あわた【粟田】京都市:東山区/粟田口村
日本歴史地名大系
也」とあるもので、染殿は清和院と同じで藤原良房邸、そして当地にあった藤原基経の別邸が粟田院である。また「後撰集」には、 粟田の家にて人に遣はしける ...
17. あんぱちぐん【安八郡】岐阜県
日本歴史地名大系
八郡」とみえる。貞観寺(跡地は現京都市伏見区)領のうち田七町二段余・荒地三町六段余は太政大臣藤原良房の家領であったが、同四年九月八日民部省符によって良房の娘明子 ...
18. 伊勢物語 119ページ
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信濃の国、浅間の嶽に煙の立つを見て、 七 八  二条后を示す注めいた部分。→一一五ページ注一四。藤原良房女の染殿后。文徳天皇女御で、清和天皇の生母。「女御」は、 nbsp;...
19. 伊勢物語 199ページ
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五の「なくに」の説明)。老いること。助詞「がに」は、…するように、の意。〔九八〕 太政大臣。藤原良房(八〇四~七二)をさすと考えられる。良房が太政大臣であったの ...
20. 伊勢物語 203ページ
日本古典文学全集
こめて問うたととれる。主客藤原良近にへつらうととれるので、不快になる。「おほきおとど」は太政大臣。藤原良房をさす。良近が左中弁になる二年前に、良房は没している。 ...
21. いちえん【壱演】
国史大辞典
受け、真如親王に真言密教を授けられる。貞観二年(八六〇)皇太后順子不予に際し看病。同六年太政大臣藤原良房の病気平癒加持の功により翌七年九月律師を経ずに権僧正を賜 ...
22. いちえん【壱演】
日本人名大辞典
灌頂(かんじょう)をうける。貞観(じょうがん)2年皇太后藤原順子の看病にあたる。6年太政大臣藤原良房の病の平癒に功があり,7年権(ごんの)僧正,奈良超昇寺の座主 ...
23. いちかわのしょう【市河庄】山梨県:甲府市
日本歴史地名大系
)に庄名がみえる。法勝院は山城国紀伊郡深草郷(現京都市伏見区)にかつて存在した真言宗の寺で、藤原良房の建立した貞観寺(現同上)の子院として建てられたものらしいが ...
24. いんぐうきゅう【院宮給】
国史大辞典
しかし人臣にも特別な場合には三宮に准じて年官・年爵を給するという、准三宮の待遇を与えることがあった。藤原良房にこれを与えたことに始まる。→年給(ねんきゅう) [ ...
25. 宇治拾遺物語 303ページ
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26. うだいしょう【右大将】
国史大辞典
右近衛府の長官。左大将と同じ従三位の官であるが、その次位にある武官と観念され、斉衡元年(八五四)の藤原良房以後、右大将から左大将に遷任するのが一般化した。さらに ...
27. 内舎人
世界大百科事典
コースをとった。807年(大同2)内舎人の定員は40人に減少された。871年(貞観13)摂政藤原良房に内舎人2人を随身として賜与され,また延喜年間(901-92 ...
28. 栄花物語 91ページ
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29. 栄花物語 344ページ
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「閏五月十五日甲戌、上東門院、白川院ニ遷御ス」(略記)。白河殿は京都市左京区岡崎法勝寺町辺にあった邸宅。藤原良房の別業として始まり、この頃には頼通が所有。桜の名 ...
30. えい-ぐゎ【栄華・栄花】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕栄えて勢いの盛んなこと。 「太政大臣の栄華の盛りにみまそがりて」〈伊勢・101〉太政大臣(藤原良房様)が栄華の最盛期にいらっしゃって。 ...
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された。寛平三年(八九一)には関白・太政大臣であった藤原基経が、藤原不比等の近江(淡海公)、藤原良房の美濃(美濃公、また忠仁公ともいう)に続いて越前に封じられ、 ...
32. 絵解き
世界大百科事典
中央アジア・中国を経て日本にも流伝し,さらに独自な展開をした。 日本に現存する最古の記録は,藤原良房建立の貞観寺に参詣した際,良房をまつる太政大臣堂の柱に描かれ ...
33. 円珍
世界大百科事典
〉を造り,留学僧の利便に供した。唐商李延孝の船にのって858年(天安2)帰朝。当時,政界では藤原良房・基経の父子が権勢をふるっていたが,円珍を厚く遇した。864 ...
34. えんりゃくじ【延暦寺】滋賀県:大津市/北部地域
日本歴史地名大系
将来した典籍は四四部一千巻に達した。帰朝後円珍は天台密教の振興に尽力するかたわら、ときの政界の藤原良房・基経父子の知遇を得た。のち良房の娘が産んだ清和天皇の即位 ...
35. 応天門の変画像
日本大百科全書
左近衛(さこんえ)中将参議の藤原基経(もとつね)に事の由を告げ、基経は養父の太政(だいじょう)大臣藤原良房(よしふさ)にこれを知らせ、良房が源信を擁護したとも、 ...
36. 応天門の変
世界大百科事典
った。最初大納言伴善男(とものよしお)は左大臣源信の所業としてその処罰を主張したが,太政大臣藤原良房らの工作で無実が明らかになった。ところが8月3日に左京の備中 ...
37. おうてんもんのへん【応天門の変】
国史大辞典
もに、承和の変(承和九年(八四二))以来、摂関政治の確立をめざして着々と布石を進める太政大臣藤原良房にとっても邪魔な存在となってきていた。良房は、事件進展中の八 ...
38. 大鏡 25ページ
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兄に惟喬・惟条・惟彦親王がいた。清和天皇即位後に、皇太后となる。孫の陽成天皇の時に、太皇太后。藤原良房。→良房伝(六四ページ)。「近衛南、東洞院西」(拾芥抄)。 ...
39. 大鏡 26ページ
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文徳天皇は惟喬の立太子を願ったが、重臣に阻まれて実現しなかったと語り継がれていた(権記、東松本裏書)。藤原良房の家。「正親町北・京極西、二町、忠仁公(良房)ノ家 ...
40. 大鏡 62ページ
日本古典文学全集
年号定りたり。大宝元年といふ。文徳天皇の末の年、斉衡四年丁丑二月十九日、帝の御舅、左大臣従一位藤原良房のおとど、太政大臣になりたまふ、御年五十四。このおとどこそ ...
41. 諡
世界大百科事典
漢風諡は,文忠公であった。太政大臣の官にあった者は,封国を定め,漢風諡を賜るのが常であった。藤原良房が忠仁公,藤原忠平が貞信公と諡されたことなどは,その例である ...
42. おたぎのはか【愛宕墓】
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太政大臣藤原良房室源潔姫の墓。潔姫は嵯峨天皇の皇女、文徳天皇女御明子の母。斉衡三年(八五六)六月二十五日没、神楽岡白川の地に葬る。清和天皇の外祖母にあたる故に ...
43. 少女(源氏物語) 70ページ
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故人を慕いあう。元日。源氏はこの年、三十四歳。太政大臣は小朝拝や元日の節会に出なくてもよい。藤原良房(八〇四~八七二)は人臣ではじめて太政大臣・摂政に任じられた ...
44. おののみやあと【小野宮跡】京都市:中京区/竹間学区/松竹町地図
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今の松竹町を中心に少将井町・鏡屋町付近にあたる。惟喬親王は母が紀氏のため外家の力を頼るべくもなく、藤原良房を外祖父とする第四皇子惟仁親王が清和天皇として即位。こ ...
45. 陰陽道
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禁忌卜占が政治に影響するところが多く,貴族の御用的性格を帯びた宮廷陰陽道へと変わっていった。藤原良房の進出した仁明・文徳朝(833-858)ころよりこの傾向は著 ...
46. かしようじあと【嘉祥寺跡】京都市:伏見区/深草村地図
日本歴史地名大系
年号寺院であることもこれを裏付ける。開基は空海の弟子真雅。〔貞観寺との関係〕仁寿年間(八五一―八五四)には藤原良房が真雅と嘉祥寺西院を建立、貞観四年(八六二)に ...
47. かみつけのの-しげこ【上毛野滋子】
日本人名大辞典
?−897 平安時代前期の女官。太政大臣藤原良房家の女房頭をへて太皇太后藤原明子(めいし)につかえた。従三位(正三位とも),典侍(ないしのすけ)。寛平(かんぴょ ...
48. かわさきかんのんどうあと【河崎観音堂跡】京都市:上京区/京極学区/梶井町地図
日本歴史地名大系
この地に仏の感応があったので伽藍を構え、感応寺と号したとする。壱演はもと奈良薬師寺に住し、貞観六年太政大臣藤原良房の病を治して翌年権僧正に任じられた(「三代実録 ...
49. かんのんじ【観音寺】京都府:綴喜郡/田辺町/上村
日本歴史地名大系
以後度々火災に遭う。「普賢寺補略録」によると、延暦一三年(七九四)炎上し、仁寿三年(八五三)藤原良房が本願主、円仁(慈覚大師)が大導師となって再興したが、天暦六 ...
50. がいせき【外戚】
国史大辞典
通じて、きわめて深かった。天皇の外戚という立場が特に大きな政治的意義を持つようになったのは、藤原良房が文徳天皇の外伯父として太政大臣となり、ついで幼帝清和天皇の ...
「藤原良房」の情報だけではなく、「藤原良房」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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九六六 - 一〇二七平安時代中期の公卿。摂政、太政大臣。御堂関白・法成寺関白などの別称がある(ただし実際には関白になっていない)。法名は行観、のちに行覚と改める。康保三年(九六六)生まれる。父は藤原兼家、母は藤原中正の女時姫
紫式部(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
平安中期の物語作者,歌人。《源氏物語》《紫式部日記》《紫式部集》の作者。生没年不詳。誕生は970年(天禄1)説,973年(天延1)説などがあり,また978年(天元1)説は誤りである。本名も未詳。父は当時有数の学者,詩人であった藤原為時
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