1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 北条時頼
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
国史大辞典
北条時頼
ほうじょうときより
一二二七 - 六三
鎌倉時代中期の執権。幼名戒寿丸。北条五郎と称す。北条時氏の次男。母は安達景盛の娘松下禅尼。安貞元年(一二二七)五月十四日辰刻、京都六波羅で生まれる。寛喜二年(一二三〇)四月十一日、父時氏の六波羅探題北方離任により鎌倉帰着。嘉禎三年(一二三七)四月二十二日、執権祖父北条泰時邸で元服、加冠の将軍藤原頼経の一字を受け五郎時頼と称す。暦仁元年(一二三八)九月一日左兵衛少尉。延応元年(一二三九)十一月二日毛利季光の娘と結婚。寛元元年(一二四三)閏七月二十七日左近将監。同二年三月六日従五位上。同四年三月二十三日、重病の兄経時の譲りを得て家督と執権職を嗣立。『吾妻鏡』のこの日の記事に、のち寄合衆に発展する「深秘御沙汰」の語初見。同五月、前将軍頼経・名越流北条光時らの陰謀を探知、同二十四日に兵をもって頼経御所と鎌倉中を制圧して未然に抑え、直後に評定衆の後藤基綱・藤原為佐・千葉秀胤・三善康持(問注所執事も)を罷免、光時を伊豆江間郷に、千葉秀胤を上総一宮に配流、頼経を京都に追却した(宮騒動)。ついで同十月、頼経の父前摂政九条流藤原道家の関東申次罷免と西園寺実氏の同職任命を京都に要求、実現させた。これにより九条家の勢威は落ち、かわって以降代々関東申次を世襲した西園寺家の地位があがり、同十一月後嵯峨院政にも実氏を中心とした院評定衆が創設され、朝政刷新にもなった。宝治元年(一二四七)四月、幕初以来の雄族三浦氏の討滅を図り、外祖父安達景盛を高野山より招いて三浦氏を挑発、同六月五日異心なきを誓う三浦泰村を奇襲して滅ぼし、同七日千葉秀胤も上総一宮で滅ぼして実権を確立、専制化を強めた(三浦氏の乱)。この時点を得宗専制の成立と見る説もあるが、建長元年(一二四九)六月十四日相模守に任じ、同十二月九日、訴訟の公正迅速を目的として評定衆の下に引付衆を付設したことをもって、合議制の進展、執権政治の最盛期とする見方もある。同三年十二月、自由出家のかどで足利泰氏の所領一所を没収。謀叛の疑いで了行法師・矢作左衛門尉らを追捕処断。両事件の背後に九条一族の陰謀を探知するや、翌年春、将軍藤原頼嗣を廃立京送して、後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王を将軍に迎えた。時頼の政治には、宝治元年十二月に京都大番役を六ヵ月から三ヵ月勤番に減じ、同二年閏十二月に寒中の的調べを止めるなどの御家人擁護、建長三年六月に地頭・農民間の訴訟の法を定め、同五年十月の十三条の新制で撫民のことを定めるなどの農民保護があり、特に質素倹約を勧めて、沽酒の一屋一壺制、過差・博奕・鷹狩の禁、薪・炭・蒿などの物価の統制などが有名。全体に北条氏得宗家に対する外様御家人、地頭に対する領家と農民、惣領に対する庶子などの弱者の救済を図ったので、善政と謳われて人気があり、ついに変装して諸国を廻国し勧善懲悪を行なったという廻国伝説が生じた。この伝説が最初にみえるのが『増鏡』九草枕であるが、ほかにも『弘長記』にもあり、謡曲「鉢の木」「藤栄」「浦上」などの話を生んだ。この伝説を時頼が廻国使という密偵を諸国に派遣したことの反映と見る説と、伝説のある地域が多く得宗領であることから、この時期に得宗領がもっとも増加したという解釈がある。康元元年(一二五六)十一月二十二日、赤痢により執権職を極楽寺流北条長時に譲り、翌日出家して最明寺入道覚了房道崇と号す。長時の地位は家督時宗の幼稚の間の眼代でしかなく、直後平癒した時頼は実権を回復して後見政治を行なった。その権力は執権職に由来せず、得宗たるの地位によっていたことは明白で、この時点より以前に得宗専制が成立していたと見るべきであろう。弘長三年(一二六三)十一月二十二日戌刻、最明寺北亭で死没。三十七歳。前後十八年間に及ぶ時頼の政治は、泰時の政治と並んで鎌倉幕府中興の仁政と謳われたが、反面、北条氏得宗家の権力のより強度な伸張を図ったことも否定できない。神奈川県鎌倉市の明月院に墓がある。
[参考文献]
奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』、同『鎌倉北条一族』、同「北条時頼の回国説と密偵組織」(『鎌倉武士』所収)、安田元久「北条時頼」(『鎌倉幕府―その実力者たち―』所収)、阿部征寛「執権北条時頼」(安田元久編『鎌倉将軍執権列伝』所収)、川添昭二「北条時頼の信仰」(『法華』六五ノ四)、豊田武「北条時頼の廻国伝説」(『中世史研究』一)、三浦周行「北条時頼の廻国説批評」(『史学雑誌』二四ノ六)、同「北条時頼廻国論批評」(『歴史地理』二二ノ四)、八代国治「北条時頼の廻国説を論ず」(同二二ノ二)、長沼賢海「時頼廻国の説を評してその信仰に及ぶ」(『仏教史学』三ノ二)
(奥富 敬之)


日本大百科全書(ニッポニカ)
北条時頼
ほうじょうときより
[1227―1263]

鎌倉幕府第5代執権。時氏(ときうじ)の二男、母は安達景盛(あだちかげもり)の女(むすめ)松下禅尼(まつしたぜんに)。幼名を戒寿といい、北条五郎と称した。左兵衛尉(さひょうえのじょう)、左近将監(さこんのしょうげん)、相模守(さがみのかみ)を歴任する。法名道崇(どうすう)。1237年(嘉禎3)元服し、将軍九条頼経(くじょうよりつね)によって時頼と名づけられる。46年(寛元4)病の兄経時(つねとき)から執権職を譲られた。時の将軍は8歳の頼嗣(よりつぐ)であったが、在位25年の前将軍頼経の周りに、幕府の実権を握ろうとする北条一族、御家人(ごけにん)らが集まっていた。時頼は、名越光時(なごしみつとき)が三浦氏らと通じて執権職をうかがった陰謀を打ち破り、光時を出家させて伊豆に流し、頼経を京都へ送還した。翌47年(宝治1)外戚(がいせき)安達(あだち)氏の後援を得て、謀略によって豪族三浦氏を滅ぼした。ここに幕府内における北条氏の独占的地位が確立した。ついで空席であった連署(れんしょ)に北条重時(しげとき)を迎え、時頼指導下の執権政治の安定をみた。49年(建長1)相模守となり、同年、判決の公正と審理の迅速を図るため引付(ひきつけ)制度を新設した。52年京都の九条家と将軍頼嗣とがかかわる陰謀が発覚、頼嗣を辞任させ京都へ送り、かわりに後嵯峨(ごさが)上皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え、幕府念願の皇族将軍が実現した。56年(康元1)病により家督を6歳の時宗(ときむね)に譲り最明(さいみょう)寺で出家した。執権には一族の長時(ながとき)がなったが、鎌倉の北方山内庄(やまのうちしょう)の別邸に隠居した時頼は、なお幕府政治の実権を握り続けた。執権政治から得宗(とくそう)(北条嫡流)政治への移行であった。弘長(こうちょう)3年11月22日死去した。禅に帰依(きえ)し、宋(そう)僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山に建長(けんちょう)寺を建立した。仁政の美談と諸国遍歴の伝説をもつ優れた政治家であった。
[田辺久子]



世界大百科事典
北条時頼
ほうじょうときより
1227-63(安貞1-弘長3)

鎌倉中期の執権。父は北条時氏,母は安達(あだち)景盛女(松下禅尼)。幼名戒寿。1230年(寛喜2)時氏が死去して祖父泰時に養育され,37年(嘉禎3)元服,43年(寛元1)左近将監従五位下。46年閏4月の兄経時の死没にさきだち3月23日執権となった。その直後,一族の名越光時を誅し,将軍藤原頼経を追放(宮騒動),47年(宝治1)には安達景盛と計って三浦泰村一族を滅ぼした(宝治合戦)。49年(建長1)引付衆(ひきつけしゆう)を設けて訴訟制度を改革し,52年には将軍藤原頼嗣を追放して後嵯峨天皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え,西園寺実氏を太政大臣につけるなど,執権政治と北条氏の権威の増大を計った。その政治は術策にとみ独裁的であったが,大番役(おおばんやく)の6ヵ月から3ヵ月への短縮,地頭の一方的在地支配の抑制など土民保護の姿勢から,のち諸国の民政を視察したという回国伝説が生じた。深く禅に帰依し,宋から来朝した蘭渓道隆を鎌倉に迎え,建長寺を建てて開山としたほか,兀庵普寧(ごつたんふねい)にも参禅した。そのほか弁円,忍性,叡尊などとも接触があった。56年(康元1)病気となり,11月22日執権職を退き,翌日最明寺(さいみようじ)で出家した。戒師は道隆,法号は覚了房道崇。しかし出家後もなお政治を左右し,63年9月22日最明寺北亭で没した。墓所は鎌倉の明月院。
[工藤 敬一]

伝説

政治家として高い評価が与えられたため,出家後諸国を行脚して民情を視察したとの伝説が生まれた。当時全国を遊行していた時衆(じしゆう)がその伝説を語りひろめたようである。いま滋賀県守山市勝部にある時宗の最明寺は鎌倉山と号し,北条時頼開基という寺伝がある。千葉県御宿(おんじゆく)町にも最明寺があり,時頼が足をとどめたので御宿の名があるという。《越中志徴》巻二の礪(砺)波郡西明寺村,《淡路名所図会》巻一の西明寺村,《下野国誌》芳賀郡益子郷西明寺,《新編相模国風土記稿》足柄上郡金子村最明寺,《〓門精舎旧詞》巻二十五の信濃更級郡真島村最明寺,《越前国名蹟考》巻四の今立郡水海の最明寺堂など,いずれも時衆や遊行者の語りひろめた伝説の痕跡である。《増鏡》《太平記》に最明寺入道時頼の回国伝説がみえるが,謡曲《鉢木》は特に名高い。旅僧に姿をやつした時頼が上野の国佐野で大雪に道を失い,佐野源左衛門常世の零落した家に泊めてもらう。常世は秘蔵の鉢の木をたいてもてなした。後年鎌倉に軍勢を集めた時頼は,はせ参じた常世の所領を復活し,雪の夜の鉢の木の礼に三ヵ所の土地を与えるというのである。
[金井 清光]

[索引語]
宮騒動 宝治合戦 蘭渓道隆 最明寺 最明寺入道 鉢木
ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
タブレットやスマホからも利用できます。
北条時頼の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 697
検索コンテンツ
1. 北条時頼
日本大百科全書
鎌倉幕府第5代執権。時氏(ときうじ)の二男、母は安達景盛(あだちかげもり)の女(むすめ)松下禅尼(まつしたぜんに)。幼名を戒寿といい、北条五郎と称した。左兵衛尉 ...
2. 北条時頼
世界大百科事典
)がその伝説を語りひろめたようである。いま滋賀県守山市勝部にある時宗の最明寺は鎌倉山と号し,北条時頼開基という寺伝がある。千葉県御宿(おんじゆく)町にも最明寺が ...
3. ほうじょう‐ときより【北条時頼】
日本国語大辞典
鎌倉中期の第五代執権。北条泰時の孫。母は松下禅尼。執権政治を強化し、裁判の迅速を図るために引付衆を設けた。また、摂家将軍を宮将軍にかえ、三浦氏を倒して北条氏の専 ...
4. ほうじょうときより【北条時頼】画像
国史大辞典
収)、川添昭二「北条時頼の信仰」(『法華』六五ノ四)、豊田武「北条時頼の廻国伝説」(『中世史研究』一)、三浦周行「北条時頼の廻国説批評」(『史学雑誌』二四ノ六) ...
5. 北条時頼
日本史年表
8) 丁未〉 6・5 北条時頼 ,三浦泰村・光村らを滅ぼし,ついで千葉秀胤ら与党を滅ぼす(宝治合戦)(吾)。 1256年〈康元元(10・5) 丙辰〉 11・22 ...
6. ほうじょう-ときより【北条時頼】
日本人名大辞典
1227−1263 鎌倉時代の武将。嘉禄(かろく)3年5月14日生まれ。北条時氏(ときうじ)の子。母は松下禅尼(ぜんに)。寛元4年鎌倉幕府5代執権となる。宝治( ...
7. ほうじょうときより【北条時頼】
日本架空伝承人名事典
)がその伝説を語りひろめたようである。いま滋賀県守山市勝部にある時宗の最明寺は鎌倉山と号し、北条時頼開基という寺伝がある。千葉県御宿(おんじゅく)町にも最明寺が ...
8. 北条時頼[文献目録]
日本人物文献目録
の写経と北条時頼菩提の写経』中川泉三『北条時頼廻国論批評』三浦周行『北条時頼と青砥藤綱』長谷川久一『北条時頼・時宗と日宋交渉』木宮泰彦『北条時頼と寧兀菴』鷲尾順 ...
9. 北條時賴儉約 (見出し語:北條時賴)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 63ページ ...
10. 北條時賴建建長寺 (見出し語:北條時賴)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 272ページ ...
11. 北條時賴建最明寺 (見出し語:北條時賴)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 263ページ ...
12. 北條時賴建海晏寺 (見出し語:北條時賴)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 456ページ ...
13. 北條時賴廻國修行 (見出し語:北條時賴)
古事類苑
法律部 洋巻 第1巻 999ページ ...
14. 北條時賴爲執權 (見出し語:北條時賴)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 683ページ ...
15. 北条時頼花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
16. 北条時頼一代記(著作ID:4321475)
新日本古典籍データベース
ほうじょうじらいいちだいき 伝記  ...
17. 北条時頼記(著作ID:490937)
新日本古典籍データベース
ほうじょうじらいき 西沢一風(にしざわいっぷう) 並木宗輔(なみきそうすけ) 安田蛙文(やすだあぶん) 浄瑠璃/義太夫 享保一一初演 ...
18. 北条時頼記(著作ID:490960)
新日本古典籍データベース
ほうじょうじらいき 鎌倉最明寺殿/北条時頼記 岡本一抱(おかもといっぽう) 浮世草子 元禄四刊 ...
19. 北条時頼記絵尽(著作ID:4388463)
新日本古典籍データベース
ほうじょうじらいきえづくし 絵本番附 享保一一 ...
20. 北条時頼記図会(著作ID:490982)
新日本古典籍データベース
ほうじょうじらいきずえ 池田東籬(いけだとうり) 作 松川半山(まつかわはんざん) 画 読本 弘化五刊 ...
21. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
月八日、二代将軍源頼家が「伊豆国藍沢原」で狩猟を行い、嘉禎三年(一二三七)七月二五日には執権北条時頼が「藍沢」で鹿を獲り、仁治二年(一二四一)九月一四日には北条 ...
22. 青砥藤綱
日本大百科全書
学問に励み、10年後に還俗(げんぞく)して三郎藤綱と名のる。左衛門尉(さえもんのじょう)。執権北条時頼(ときより)の時代に評定衆(ひょうじょうしゅう)として活躍 ...
23. 青砥藤綱
世界大百科事典
青砥氏は伊豆国住人大場十郎近郷が承久の乱の功による恩賞として賜った上総国青砥荘を本貫とする。藤綱は28歳のとき北条時頼に仕え,以後評定衆,評定頭人として活躍し, ...
24. あおと‐ふじつな【青砥藤綱】
日本国語大辞典
鎌倉中期の家人。上総(かずさ)の人。北条時頼に仕え、評定頭となる。清廉潔白な性格で、公平な裁判を行なったことや、鎌倉滑川(なめりがわ)に落とした銭一〇文を捜すの ...
25. あおとふじつな【青砥藤綱】
国史大辞典
三郎藤綱と名乗り、行印法師について儒仏の学を学んでいたが、二十八歳の時、二階堂信濃入道の推薦で北条時頼に仕えて評定の末座につき、ついに頭人となったが、数十ヵ所の ...
26. あおと-ふじつな【青砥藤綱】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉時代の武士。出家したが還俗(げんぞく)して三郎藤綱と名のり,北条時頼(ときより)につかえ,評定衆に列したという。執権時頼の権威をおそれず公平な裁断を ...
27. あおとふじつな【青砥藤綱】
日本架空伝承人名事典
青砥氏は伊豆国住人大場十郎近郷が承久の乱の功による恩賞として賜った上総国青砥荘を本貫とする。藤綱は二八歳のとき北条時頼に仕え、以後評定衆、評定頭人として活躍し、 ...
28. 青砥藤綱[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:3件 『北条時頼と青砥藤綱』長谷川久一『史話五則 青砥左衛門之有二無其人〓』星野 ...
29. あおとむら【青戸村】京都府:船井郡/八木町
日本歴史地名大系
二分する。北は氷所村、西は刑部村・西田村、南は観音寺村、東は屋賀村、桑田郡(現亀岡市)。地名は北条時頼に仕え、正直・公正を物語る逸話で知られる青砥藤綱が当地に居 ...
30. 青森(県)画像
日本大百科全書
は各地にあるが、恐山は地蔵伝説に支えられていて死者の魂に再会できるという。南津軽郡藤崎町には北条時頼(ときより)の愛妾唐糸(あいしょうからいと)の伝説があり、時 ...
31. あおやまじょうあと【青山城跡】福島県:喜多方市/上三宮村
日本歴史地名大系
さらにその外側に帯郭がある。佐原加納氏は佐原十郎義連の孫五郎盛時を祖とする。宝治合戦で盛時兄弟ら佐原氏一族は北条時頼方につき、同合戦で三浦宗家が滅ぶと盛時が三浦 ...
32. あがり‐や【揚屋】
日本国語大辞典
71〕一「中中にくい事じゃ。らうとはきこへぬ、せめてあかりや共なふてと、ののしる」*浄瑠璃・北条時頼記〔1726〕一「いささかの科により、上りやに押込られ、姿も ...
33. あきごう【安岐郷】大分県:東国東郡/安岐町
日本歴史地名大系
豊後国弘安図田帳ならびに豊後国弘安田代注進状に、「成久名三拾七町 相模七郎殿母御前辻殿」とみえる。相模七郎は北条時頼の末子宗頼で、北条得宗領になった経緯等は不詳 ...
34. あしかがし【足利市】栃木県
日本歴史地名大系
足利氏は代々北条氏の娘を妻に迎えて緊密な関係を結んでいた。「徒然草」によると、義兼の子義氏は執権北条時頼の求めに応じ、足利の「色々の染物三十、前にて女房どもに小 ...
35. あしかが-やすうじ【足利泰氏】
日本人名大辞典
1216−1270 鎌倉時代の武将。建保(けんぽ)4年生まれ。足利義氏の子。母は北条泰時の娘,妻は北条時頼の妹で北条氏と深いつながりをもつが,建長3年許可なく出 ...
36. あしかが-よりうじ【足利頼氏】
日本人名大辞典
仁治(にんじ)元年生まれ。足利泰氏の子。母は北条時氏の娘。上総(かずさ),三河の守護。建長8年執権北条時頼の長男時利の烏帽子(えぼし)親をつとめ,翌年将軍御所の ...
37. あそうのしよう【麻生庄】福岡県:北九州市(旧筑前域)
日本歴史地名大系
地頭は鎌倉幕府執権北条氏一門(ただし、麻生新庄の本家は宇佐宮弥勒寺)。建長元年(一二四九)六月二六日の北条時頼袖判下文(麻生文書/鎌倉遺文一〇、以下断りのない限 ...
38. あだこむら【畔蛸村】三重県:鳥羽市
日本歴史地名大系
鳥羽市立図書館蔵)。西明寺は臨済宗南禅寺派、本尊は阿弥陀如来木造坐像で鎌倉期のものと伝える。北条時頼が再建した。 ...
39. あだち‐かげもり【安達景盛】
日本国語大辞典
鎌倉前期の武将。盛長の子。出羽介となり秋田城を管領。のち執権北条時頼の外祖父として勢力をもち、時頼にすすめて相模の三浦氏を滅ぼす。法名大蓮房覚智。宝治二年(一二 ...
40. あだちし【安達氏】画像
国史大辞典
介となって以来、その職を世襲、ために城氏とも称した。景盛・義景のとき三浦氏と権勢を争い、執権北条時頼を動かして三浦氏討滅に成功したが、泰盛の代に、権勢ある唯一の ...
41. あだち-ときもり【安達時盛】
日本人名大辞典
鎌倉時代の武将。仁治(にんじ)2年生まれ。安達義景(よしかげ)の4男。兄泰盛(やすもり)と幕政にくわわる。北条時頼(ときより)の死により出家するがその後も政治の ...
42. 安達泰盛
日本大百科全書
り、1282年(弘安5)には陸奥守(むつのかみ)を兼ねる。将軍頼嗣(よりつぐ)に仕える。執権北条時頼(ときより)の信頼も厚く、引付衆(ひきつけしゅう)、評定(ひ ...
43. あみだじ【阿弥陀寺】茨城県:岩井市/長須村
日本歴史地名大系
印高拾石、本寺京都本願寺(中略)山林七町弐反八畝六歩、此年貢地拾石九斗八升壱合」とある。また北条時頼が諸国行脚の際当寺に立寄り、寺領を寄進したといわれ、「猿島郡 ...
44. あわたぐち【粟田口】京都市:東山区/粟田口村地図
日本歴史地名大系
清・有国・国綱の六兄弟の世代に至って、後鳥羽院御番鍛冶の列に加わると伝えられ、なかでも国綱は北条時頼のために名刀「鬼丸」を制作したことで名高い。更に国友の孫吉光 ...
45. あわたぐち‐くにつな【粟田口国綱】
日本国語大辞典
鎌倉前期の刀工。国頼の孫。通称藤六。左近将監。後鳥羽上皇に従って隠岐に行き、御番鍛冶となる。のち北条時頼のために名刀「鬼丸」を制作。長寛元~建長七年(一一六三~ ...
46. あわたぐちは【粟田口派】画像
国史大辞典
久国は院の指南役であったと伝えている。国綱はのちに北条家に召されて鎌倉に下向して作刀し、名物鬼丸は北条時頼の注文打と伝えており、明治天皇以来御物となっている。彼 ...
47. あわたぐちは【粟田口派】 : 粟田口派/(一)
国史大辞典
久国は院の指南役であったと伝えている。国綱はのちに北条家に召されて鎌倉に下向して作刀し、名物鬼丸は北条時頼の注文打と伝えており、明治天皇以来御物となっている。彼 ...
48. 安東〓
世界大百科事典
鎌倉後期西国で活躍した得宗被官。平右衛門入道と通称する。1262年(弘長2),西大寺叡尊のもとへ北条時頼の使者としておもむいたのが史料上の初見。文永ごろ京で山僧 ...
49. あんどうれんしょう【安東〓聖】画像
国史大辞典
、五条と号す。俗名不詳。没年からみて延応元年(一二三九)の生まれ。弘長三年(一二六三)に得宗北条時頼の命により信濃善光寺の不断経衆などのことを沙汰し、文永十年( ...
50. あんよういん【安養院】東京都:板橋区/上板橋村地図
日本歴史地名大系
言宗豊山派寺院。武王山最明寺と号し、本尊は阿弥陀如来。寺号からもわかるように、鎌倉時代に得宗北条時頼が全国行脚をした折、この地に持仏「摩利支天」を安置して一宇を ...
「北条時頼」の情報だけではなく、「北条時頼」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

北条時頼と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「北条時頼」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
伊達政宗(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一三五三 - 一四〇五 室町時代の武将。本領は陸奥国伊達郡。兵部権少輔・大膳大夫、五位下。入道して円孝と号す。文和二年(一三五三)誕生。父は伊達宗遠。夫人は石清水善法寺通清の娘(蘭庭尼)で、足利義満の母紀子と姉妹。永和三年(一三七七)
足利義昭(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五三七 - 九七 室町幕府第十五代最後の将軍。一五六八―七三在職。天文六年(一五三七)十一月三日、十二代将軍義晴の次男として京都で誕生。母は近衛尚通の女。幼名未詳。同十一年十一月尚通の子稙家の猶子となり、興福寺別当一乗院門跡覚誉に入室
上杉謙信(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五三〇 - 七八 戦国時代の武将、越後国の大名。享禄三年(一五三〇)正月二十一日、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。生年の庚寅(かのえとら)にちなんで童名を虎千代といい、元服して平三景虎と称す。天文五年(一五三六)長尾為景は
武田信玄(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五二一 - 七三 戦国時代の武将。はじめ甲斐国から起り、のちに信濃、駿河、西上野、飛騨、東美濃、遠江・三河の一部に及ぶ地域を支配した。父は信虎で母は大井氏であった。大永元年(一五二一)十一月三日、駿河の今川氏親の臣であった福島正成勢が
毛利元就(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一四九七 - 一五七一 戦国時代の武将。中国地方の大名。毛利弘元の次男で母は福原広俊の娘。明応六年(一四九七)三月十四日安芸国吉田の郡山城(広島県高田郡吉田町)で出生(母の実家福原城とも)。幼名は松寿丸、のち少輔次郎。同九年家督を長男興元に
人物に関連する記事をもっと見る
ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る