室町時代の禅僧、画僧。僧位は知客(しか)。中国から渡来した水墨画の技法を自己のものとし、山水画を大成した画人として、日本美術史上の巨匠の一人。諱(いみな)は等楊(とうよう)。備中(びっちゅう)国(岡山県)赤浜(総社(そうじゃ)市)に生まれ、幼少にして上洛(じょうらく)、相国寺(しょうこくじ)に入り、春林周籐(しゅんりんしゅうとう)についたといわれる。ここで禅僧としての修行を積むかたわら、画を周文に学んだと考えられるが、40歳以前の画歴にはなお不明の点が多い。ほぼ同時代に水墨画の遺作をもつ拙宗等揚をその前身とする説があるが、いまだ確定をみていない。「雪舟」の号は、愛蔵していた元(げん)の名僧楚石梵琦(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字にちなみ、1462年(寛正3)ごろに友僧龍崗真圭(りゅうこうしんけい)が雪舟二字説をつくっていることから、これ以降この号を用いたとみられる。その後とびとびながらもその事績をたどることができるが、64年にはすでに京を離れて山口に住んでいたらしく、周防(すおう)国(山口県)の守護大名大内教弘(おおうちのりひろ)の庇護(ひご)を受けて、雲谷庵(うんこくあん)とよぶ画室を営んでいる。雪舟が山口に下った理由は、おそらく、日ごろあこがれていた中国宋(そう)・元の水墨画を自分の目で見たいがために、当時明(みん)との往来が盛んであった大内氏の領下に身を置き、中国へ渡る機会をうかがったためと考えられる。
1467年(応仁1)48歳の春、ついに遣明船「寺丸」に便乗して入明、寧波(ニンポー)を経て北京(ペキン)に上った。この間かの地の名家の真跡を学び、自然と風物を観察、北京では皇帝の命により礼部院の壁画に筆をとり、広く賞賛を得た。また禅僧としても高い評価を与えられ、四明天童山の第一座に推された。この称号に雪舟は生涯誇りを抱いていたようで、晩年までその落款(らっかん)に「四明天童第一座」と加えている。滞明は3年に及び、69年(文明1)に寧波経由で帰国した。当時の中国画壇、とくに自らも述べているように長有声(ちょうゆうせい)、李在(りざい)、高彦敬(こうがんけい)などから影響を受けたようで、彼らに就いて設色と破墨の法を学んだといい、入明体験はその後の雪舟に大きな成果をもたらすことになった。『四季山水図』(東京国立博物館)は、款記に「日本禅人等楊」とあるところから在明中の制作と考えられ、そうした彼の学習の跡をうかがううえで貴重な作である。
1476年には大分にあったようで、ここで天開図画楼(てんかいとがろう)という画房を開き、以後、美濃(みの)(岐阜県)、出羽(でわ)(山形県)など各地を漂泊、『鎮田瀑(ちんだばく)図』(大分県)や『山寺図』(山形県)などの真景図を描いた(これらの作品は模本が残されている)。86年67歳のとき、畢生(ひっせい)の名作『四季山水図(山水長巻)』(国宝、山口県・防府毛利(ほうふもうり)報公会)を制作し、さらに95年(明応4)には、76歳で弟子宗淵(そうえん)に画法伝授の印(しるし)として与えた『破墨山水図』(国宝、東京国立博物館)を描き、翌96年にも大作『慧可断臂(えかだんぴ)図』(愛知県・斎年寺)に筆をふるっていることから、晩年に至るまで旺盛(おうせい)な制作意欲を失わなかったことがわかる。また『天橋立(あまのはしだて)図』(国宝、京都国立博物館)は描かれた図様から1501年(文亀1)以降の景観を写したと考証される。この年雪舟は実に82歳で、おそらく当地を訪れたと考えられ、驚嘆すべき強靭(きょうじん)な意志と壮健な肉体とをもった画家であった。
その作風は、如拙(じょせつ)、周文の系統を引きながら、これに馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)、李唐(りとう)、梁楷(りょうかい)、牧谿(もっけい)、玉澗(ぎょくかん)ら宋・元画家たちの画風を取り入れ、さらに自己の入明体験をもとに樹立されたもので、禿筆(とくひつ)を使ったきびきびした描線と、奥行のある強固に構築された構図法に真骨頂をみることができる。その端的な作例がいくつかの水墨山水画で、それは従来の禅僧の余技的な域を遠く乗り越えて、強い自己表出性をもった、厳しい芸術作品にまで高められている。日本の山水水墨画史上雪舟の果たした功績は、まことに偉大であったというべきだろう。
代表作として、前記の作品以外には、『秋冬山水図』(国宝、東京国立博物館)、『四季山水図』(東京・ブリヂストン美術館)、図中に牧松周省(ぼくしょうしゅうせい)、および了庵桂悟(りょうあんけいご)賛のある『山水図』(国宝、京都大原家)、『山水図巻』(山口県立美術館)などがあり、庭園にも雪舟作庭と伝えるものがある。
なお雪舟の肖像画は、71歳のときの自画像(寿像)があったとされるが、残念ながら伝存せず、雲谷等益(うんこくとうえき)筆の模本(山口県常栄寺)や大阪・藤田美術館所蔵の模本などで、その風貌(ふうぼう)や人となりをしのぶことができる。
室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京,相国寺に入り,春林周藤に仕え等楊の諱(いみな)をもらい,画事を周文に習った。30歳代まで相国寺で修業,僧位は知客(しか)であったが,この間の作品は伝わらず,一部は周文筆と伝承される掛幅の中に混入している可能性もある。周文流詩画軸の伝統の中で,繊細な余情趣味の山水画風を学びとったが,一方,その観念化と矮小化に抗して,より本格的に南宋院体画の構成筆意を求め,より強固な筆致を身につけたのが前半生の立場と思われる。40歳以前に相国寺を出,当時対明勘合貿易を主宰するほどの勢力をもった周防の大内氏の庇護を受けたと推定される。1464年(寛正5)には,山口の雲谷庵に住し,すでに画僧として高名であった。雲谷の庵名,晦庵の別号ともに,当時禅林の宋学趣味に沿ったもので,朱熹の言葉からとったもの。雪舟号もこのころ自分でつけた法号で,雪の純浄と舟の自在を求めるとともに,水墨山水のイメージを重ね,画家としての本格的出発を意図した。
67年(応仁1)遣明船に陪乗して入明,天童山景徳寺で禅班第一座に任ぜられ,北上して北京にいたる。北京滞在中,礼部院中堂に壁画(竜図)を描き,また,《四季山水図》(東京国立博物館)を描く。途上,各地に立ち寄り,大陸の自然や風俗を実地に観察,スケッチし,つとめて宋・元・明の古典を模写したことが,後の画風形成に決定的な影響を及ぼした。
69年(文明1)帰国後,しばらく北九州に滞在,大分に天開図画楼(とがろう)なる画房を営みながら,宋・元の古典に対する研鑽をいっそう深めた。《山水小巻》(京都国立博物館),《四季山水図》(ブリヂストン美術館),《倣李唐牧牛図》(山口県立美術館)など宋元院体画,とくに夏珪,李唐,梁楷(りようかい),牧谿(もつけい),玉などの模倣的様式の作例はこの研鑽期に作られたといわれるが,年代の確かな例として74年弟子の雲峰等悦に与えた高彦敬(高克恭)様《山水図巻》(山口県立美術館)がある。やがて周防に戻り,79年には石見で《益田兼尭(ますだかねたか)像》を描き,81年には美濃に至り《金山寺図》や潑墨(はつぼく)風の山水図を描くなど,日本各地を旅し,自然風物に触れながら画囊(がのう)を肥やした。一説に出羽立石寺にまでいたり,奥州からの帰途鎌倉にも立ち寄ったというが定かでない。遅くとも86年までには山口へ戻り,大内政弘によって再興された雲谷庵に入り,ここに再び天開図画楼を営んだ。《山水長巻》(毛利報公会)は86年,天開図画楼で描かれ,大内氏に献じたものと推定される。これは67歳の雪舟が長い宋元画研鑽と中国・日本の山水自然への渉猟・観照を集約したもので,独自の画境を展開している。宋元画の亜流にとどまらない日本的な水墨山水を確立した点では,《秋冬山水図》(東京国立博物館)とともに記念碑的大作である。以後,世事に拘泥しない自由と,画三昧の生活を保障され,自在な画法を深めたが,95年(明応4)弟子宗淵に与えた《破墨山水図》(東京国立博物館),96年の《恵可断臂図》(斎年寺)等は晩年の傑作といえる。晩年には破墨,潑墨などの草体の画風も多く記録され,現実的な山水構成とともに,真行草の筆墨法についても,宋元画をよく祖述した独特の日本的典型に達したものと見られる。
1501年(文亀1)ころにもまだ旅をやめず,現地へおもむき《天橋立図》(京都国立博物館)を描くなど驚くべき生命力を発揮したが,06年(永正3)ころ,山口または石見地方で没した(1502年(文亀2)とする説もある)。弟子には雲峰等悦,秋月等観,如水宗淵らがあり,1490年(延徳2)雪舟が秋月に描き与えた自画像の模本(藤田美術館)が残る。また,花鳥画も手がけ,20点内外の《花鳥図屛風》(小坂家,前田育徳会等)が残る。雪舟は狩野派の装飾画態に先がけた障屛画の開拓者としても注目されており,中世水墨画と近世の濃彩画との過渡期に当たる有力な画人として位置づけることができる。(図参照)
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