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新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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新版 日本架空伝承人名事典
雪舟
せっしゅう
1420‐1506ころ(応永27‐永正3ころ)
 室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京、相国寺に入り、春林周藤に仕え等楊のいみなをもらい、画事を周文に習った。三〇歳代まで相国寺で修行、僧位は知客しかであったが、この間の作品は伝わらず、一部は周文筆と伝承される掛幅の中に混入している可能性もある。周文流詩画軸の伝統の中で、繊細な余情趣味の山水画風を学びとったが、一方、その観念化と矮小化に抗して、より本格的に南宋院体画の構成筆意を求め、より強固な筆致を身につけたのが前半生の立場と思われる。四〇歳以前に相国寺を出、当時対明勘合貿易を主宰するほどの勢力をもった周防の大内氏の庇護を受けたと推定される。一四六四年(寛正五)には、山口の雲谷庵に住し、すでに画僧として高名であった。雲谷の庵名、晦庵の別号ともに、当時禅林の宋学趣味に沿ったもので、朱熹の言葉からとったもの。雪舟号もこのころ自分でつけた法号で、雪の純浄と舟の自在を求めるとともに、水墨山水のイメージを重ね、画家としての本格的出発を意図した。
 六七年(応仁一)遣明船に陪乗して入明、天童山景徳寺で禅班第一座に任ぜられ、北上して北京にいたる。北京滞在中、礼部院中堂に壁画(竜図)を描き、また、『四季山水図』(東京国立博物館)を描く。途上、各地に立ち寄り、大陸の自然や風俗を実地に観察、スケッチし、つとめて宋・元・明の古典を模写したことが、後の画風形成に決定的な影響を及ぼした。
 六九年(文明一)帰国後、しばらく北九州に滞在、大分に天開図画楼とがろうなる画房を営みながら、宋・元の古典に対する研鑽をいっそう深めた。『山水小巻』(京都国立博物館)、『四季山水図』(ブリヂストン美術館)、『倣李唐牧牛図』(山口県立美術館)など宋元院体画、とくに夏珪、李唐、梁楷りょうかい牧谿もっけい、玉澗などの模倣的様式の作例はこの研鑽期に作られたといわれるが、年代の確かな例として七四年弟子の雲峰等悦に与えた高彦敬(高克恭)様『山水図巻』(山口県立美術館)がある。やがて周防に戻り、七九年には石見で『益田兼堯ますだかねたか像』を描き、八一年には美濃に至り『金山寺図』や溌墨はつぼく風の山水図を描くなど、日本各地を旅し、自然風物に触れながら画嚢がのうを肥やした。一説に出羽立石寺にまでいたり、奥州からの帰途鎌倉にも立ち寄ったというが定かでない。遅くとも八六年までには山口へ戻り、大内政弘によって再興された雲谷庵に入り、ここに再び天開図画楼を営んだ。『山水長巻』(毛利報公会)は八六年、天開図画楼で描かれ、大内氏に献じたものと推定される。これは六七歳の雪舟が長い宋元画研鑽と中国・日本の山水自然への渉猟・観照を集約したもので、独自の画境を展開している。宋元画の亜流にとどまらない日本的な水墨山水を確立した点では、『秋冬山水図』(東京国立博物館)とともに記念碑的大作である。以後、世事に拘泥しない自由と、画三昧の生活を保障され、自在な画法を深めたが、九五年(明応四)弟子宗淵に与えた『破墨山水図』(東京国立博物館)、九六年の『慧可断臂図』(斎年寺)等は晩年の傑作といえる。晩年には破墨、溌墨などの草体の画風も多く記録され、現実的な山水構成とともに、真行草の筆墨法についても、宋元画をよく祖述した独特の日本的典型に達したものと見られる。
 一五〇一年(文亀一)ころにもまだ旅をやめず、現地へおもむき、『天橋立図』(京都国立博物館)を描くなど驚くべき生命力を発揮したが、〇六年(永正三)ころ、山口または石見地方で没した(一五〇二年(文亀二)とする説もある)。弟子には雲峰等悦、秋月等観、如水宗淵らがあり、一四九〇年(延徳二)雪舟が秋月に描き与えた自画像の模本(藤田美術館)が残る。また、花鳥画も手がけ、二〇点内外の『花鳥図屏風』(小坂家、前田育徳会等)が残る。雪舟は狩野派の装飾画態に先がけた障屏画の開拓者としても注目されており、中世水墨画と近世の濃彩画との過渡期に当たる有力な画人として位置づけることができる。
[中島 純司]
「五岳なんどのごときは、草履取にも不足なり」と申しければ、帝大に驚き給ひ、「昔日本の画工雪舟といへる者、我が国に来り彼山を画きしより、唐土人も三保の原、気も浮島の風景も、我は其意を絵空言にて、五岳には及ぶまじと、今迄は思ひしが、汝が詞を聞きしより、初めて不二の万国の山にまさりたるを知れり。我も四百余州をたもてば、何に不足もなけれども、不二山ばかり日本にまけたる事、無念類は中橋なれば是より諸国へ申し付け、多くの人歩を呼び寄せて、不二山を築せて、後世に名を残すべし。」
風流志道軒伝
唐で誉るは雪の山雪の舟
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):29‐30
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
雪の山、つまり富士も三国一。雪舟とともにお国自慢のできるもの。


日本大百科全書(ニッポニカ)
雪舟
せっしゅう
[1420―1506]

室町時代の禅僧、画僧。僧位は知客(しか)。中国から渡来した水墨画の技法を自己のものとし、山水画を大成した画人として、日本美術史上の巨匠の一人。諱(いみな)は等楊(とうよう)。備中(びっちゅう)国(岡山県)赤浜(総社(そうじゃ)市)に生まれ、幼少にして上洛(じょうらく)、相国寺(しょうこくじ)に入り、春林周籐(しゅんりんしゅうとう)についたといわれる。ここで禅僧としての修行を積むかたわら、画を周文に学んだと考えられるが、40歳以前の画歴にはなお不明の点が多い。ほぼ同時代に水墨画の遺作をもつ拙宗等揚をその前身とする説があるが、いまだ確定をみていない。「雪舟」の号は、愛蔵していた元(げん)の名僧楚石梵琦(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字にちなみ、1462年(寛正3)ごろに友僧龍崗真圭(りゅうこうしんけい)が雪舟二字説をつくっていることから、これ以降この号を用いたとみられる。その後とびとびながらもその事績をたどることができるが、64年にはすでに京を離れて山口に住んでいたらしく、周防(すおう)国(山口県)の守護大名大内教弘(おおうちのりひろ)の庇護(ひご)を受けて、雲谷庵(うんこくあん)とよぶ画室を営んでいる。雪舟が山口に下った理由は、おそらく、日ごろあこがれていた中国宋(そう)・元の水墨画を自分の目で見たいがために、当時明(みん)との往来が盛んであった大内氏の領下に身を置き、中国へ渡る機会をうかがったためと考えられる。
 1467年(応仁1)48歳の春、ついに遣明船「寺丸」に便乗して入明、寧波(ニンポー)を経て北京(ペキン)に上った。この間かの地の名家の真跡を学び、自然と風物を観察、北京では皇帝の命により礼部院の壁画に筆をとり、広く賞賛を得た。また禅僧としても高い評価を与えられ、四明天童山の第一座に推された。この称号に雪舟は生涯誇りを抱いていたようで、晩年までその落款(らっかん)に「四明天童第一座」と加えている。滞明は3年に及び、69年(文明1)に寧波経由で帰国した。当時の中国画壇、とくに自らも述べているように長有声(ちょうゆうせい)、李在(りざい)、高彦敬(こうがんけい)などから影響を受けたようで、彼らに就いて設色と破墨の法を学んだといい、入明体験はその後の雪舟に大きな成果をもたらすことになった。『四季山水図』(東京国立博物館)は、款記に「日本禅人等楊」とあるところから在明中の制作と考えられ、そうした彼の学習の跡をうかがううえで貴重な作である。
 1476年には大分にあったようで、ここで天開図画楼(てんかいとがろう)という画房を開き、以後、美濃(みの)(岐阜県)、出羽(でわ)(山形県)など各地を漂泊、『鎮田瀑(ちんだばく)図』(大分県)や『山寺図』(山形県)などの真景図を描いた(これらの作品は模本が残されている)。86年67歳のとき、畢生(ひっせい)の名作『四季山水図(山水長巻)』(国宝、山口県・防府毛利(ほうふもうり)報公会)を制作し、さらに95年(明応4)には、76歳で弟子宗淵(そうえん)に画法伝授の印(しるし)として与えた『破墨山水図』(国宝、東京国立博物館)を描き、翌96年にも大作『慧可断臂(えかだんぴ)図』(愛知県・斎年寺)に筆をふるっていることから、晩年に至るまで旺盛(おうせい)な制作意欲を失わなかったことがわかる。また『天橋立(あまのはしだて)図』(国宝、京都国立博物館)は描かれた図様から1501年(文亀1)以降の景観を写したと考証される。この年雪舟は実に82歳で、おそらく当地を訪れたと考えられ、驚嘆すべき強靭(きょうじん)な意志と壮健な肉体とをもった画家であった。
 その作風は、如拙(じょせつ)、周文の系統を引きながら、これに馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)、李唐(りとう)、梁楷(りょうかい)、牧谿(もっけい)、玉澗(ぎょくかん)ら宋・元画家たちの画風を取り入れ、さらに自己の入明体験をもとに樹立されたもので、禿筆(とくひつ)を使ったきびきびした描線と、奥行のある強固に構築された構図法に真骨頂をみることができる。その端的な作例がいくつかの水墨山水画で、それは従来の禅僧の余技的な域を遠く乗り越えて、強い自己表出性をもった、厳しい芸術作品にまで高められている。日本の山水水墨画史上雪舟の果たした功績は、まことに偉大であったというべきだろう。
 代表作として、前記の作品以外には、『秋冬山水図』(国宝、東京国立博物館)、『四季山水図』(東京・ブリヂストン美術館)、図中に牧松周省(ぼくしょうしゅうせい)、および了庵桂悟(りょうあんけいご)賛のある『山水図』(国宝、京都大原家)、『山水図巻』(山口県立美術館)などがあり、庭園にも雪舟作庭と伝えるものがある。
 なお雪舟の肖像画は、71歳のときの自画像(寿像)があったとされるが、残念ながら伝存せず、雲谷等益(うんこくとうえき)筆の模本(山口県常栄寺)や大阪・藤田美術館所蔵の模本などで、その風貌(ふうぼう)や人となりをしのぶことができる。
[榊原 悟]



世界大百科事典
雪舟
せっしゅう
1420-1506ころ(応永27-永正3ころ)

室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京,相国寺に入り,春林周藤に仕え等楊の諱(いみな)をもらい,画事を周文に習った。30歳代まで相国寺で修業,僧位は知客(しか)であったが,この間の作品は伝わらず,一部は周文筆と伝承される掛幅の中に混入している可能性もある。周文流詩画軸の伝統の中で,繊細な余情趣味の山水画風を学びとったが,一方,その観念化と矮小化に抗して,より本格的に南宋院体画の構成筆意を求め,より強固な筆致を身につけたのが前半生の立場と思われる。40歳以前に相国寺を出,当時対明勘合貿易を主宰するほどの勢力をもった周防の大内氏の庇護を受けたと推定される。1464年(寛正5)には,山口の雲谷庵に住し,すでに画僧として高名であった。雲谷の庵名,晦庵の別号ともに,当時禅林の宋学趣味に沿ったもので,朱熹の言葉からとったもの。雪舟号もこのころ自分でつけた法号で,雪の純浄と舟の自在を求めるとともに,水墨山水のイメージを重ね,画家としての本格的出発を意図した。

 67年(応仁1)遣明船に陪乗して入明,天童山景徳寺で禅班第一座に任ぜられ,北上して北京にいたる。北京滞在中,礼部院中堂に壁画(竜図)を描き,また,《四季山水図》(東京国立博物館)を描く。途上,各地に立ち寄り,大陸の自然や風俗を実地に観察,スケッチし,つとめて宋・元・明の古典を模写したことが,後の画風形成に決定的な影響を及ぼした。

 69年(文明1)帰国後,しばらく北九州に滞在,大分に天開図画楼(とがろう)なる画房を営みながら,宋・元の古典に対する研鑽をいっそう深めた。《山水小巻》(京都国立博物館),《四季山水図》(ブリヂストン美術館),《倣李唐牧牛図》(山口県立美術館)など宋元院体画,とくに夏珪,李唐,梁楷(りようかい),牧谿(もつけい),玉〓などの模倣的様式の作例はこの研鑽期に作られたといわれるが,年代の確かな例として74年弟子の雲峰等悦に与えた高彦敬(高克恭)様《山水図巻》(山口県立美術館)がある。やがて周防に戻り,79年には石見で《益田兼尭(ますだかねたか)像》を描き,81年には美濃に至り《金山寺図》や潑墨(はつぼく)風の山水図を描くなど,日本各地を旅し,自然風物に触れながら画囊(がのう)を肥やした。一説に出羽立石寺にまでいたり,奥州からの帰途鎌倉にも立ち寄ったというが定かでない。遅くとも86年までには山口へ戻り,大内政弘によって再興された雲谷庵に入り,ここに再び天開図画楼を営んだ。《山水長巻》(毛利報公会)は86年,天開図画楼で描かれ,大内氏に献じたものと推定される。これは67歳の雪舟が長い宋元画研鑽と中国・日本の山水自然への渉猟・観照を集約したもので,独自の画境を展開している。宋元画の亜流にとどまらない日本的な水墨山水を確立した点では,《秋冬山水図》(東京国立博物館)とともに記念碑的大作である。以後,世事に拘泥しない自由と,画三昧の生活を保障され,自在な画法を深めたが,95年(明応4)弟子宗淵に与えた《破墨山水図》(東京国立博物館),96年の《恵可断臂図》(斎年寺)等は晩年の傑作といえる。晩年には破墨,潑墨などの草体の画風も多く記録され,現実的な山水構成とともに,真行草の筆墨法についても,宋元画をよく祖述した独特の日本的典型に達したものと見られる。

 1501年(文亀1)ころにもまだ旅をやめず,現地へおもむき《天橋立図》(京都国立博物館)を描くなど驚くべき生命力を発揮したが,06年(永正3)ころ,山口または石見地方で没した(1502年(文亀2)とする説もある)。弟子には雲峰等悦,秋月等観,如水宗淵らがあり,1490年(延徳2)雪舟が秋月に描き与えた自画像の模本(藤田美術館)が残る。また,花鳥画も手がけ,20点内外の《花鳥図屛風》(小坂家,前田育徳会等)が残る。雪舟は狩野派の装飾画態に先がけた障屛画の開拓者としても注目されており,中世水墨画と近世の濃彩画との過渡期に当たる有力な画人として位置づけることができる。(図参照)
[中島 純司]

[索引語]
等楊 周文 雲谷庵 晦庵 四季山水図 天開図画楼 山水図巻 山水長巻 秋冬山水図 破墨山水図 慧(恵)可断臂図 天橋立図
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日本大百科全書
みていない。「雪舟」の号は、愛蔵していた元(げん)の名僧楚石梵琦(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字にちなみ、1462年(寛正3)ごろに友僧龍崗真圭(りゅうこ ...
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如水宗淵らがあり、一四九〇年(延徳二)雪舟が秋月に描き与えた自画像の模本(藤田美術館)が残る。また、花鳥画も手がけ、二〇点内外の『花鳥図屏風』(小坂家、前田育徳 ...
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新選漢和辞典Web版
①雪の積もった舟。 ②人名。室町時代の画僧。(一四二〇~一五〇六)  ...
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9. せっしゅうとうよう【雪舟等楊】画像
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1420−1506 室町-戦国時代の画家。応永27年生まれ。出家して京都相国寺にはいり,画を周文にまなんだ。40歳すぎ,大内氏の周防(すおう)山口にうつり雲谷庵 ...
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13. 雪舟等楊花押[図版]画像
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17. 雪舟禅師碑詞(著作ID:3204146)
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で、本尊釈迦如来。「芸藩通志」には僧普融の開基で雪舟も閑居したとある。一説に文明五年(一四七三)二月、雪舟が創立したといい(世羅郡誌)、庭も雪舟作と伝える。 ...
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21. 秋山記行・夜職草 83ページ
東洋文庫
一博云星霜七百年ノハル`冬春導師限二此専一 愚案するに、此主予に見せぬ事推量せり。其故は絶絹は雪舟・元信時代迄は更になし。それすぎおこなはろ元信は織田信長公時代 ...
22. 秋山記行・夜職草 272ページ
東洋文庫
往き、曹洞一派の事博覧して、十七八歳の頃北國雲水いでたちかみがたもとの節、乞食道心の出立にて、雪舟の筆達磨の懸物の絶、上方にて索めたるを、加州大乗寺様こひねがに ...
23. 芦屋釜
世界大百科事典
れていることである。文様としては松竹梅,花鳥,馬,山水図等,当時の水墨画の趣を取り入れており,雪舟の下絵と称する釜もある。最盛期である室町時代末期の代表的釜師に ...
24. あまのはしだて【天の橋立】
国史大辞典
院は別名「海(あま)の橋立」とも呼ばれており、その風景が池泉にとり入れられていたらしい。なお、雪舟はこれを「天橋立図」として描き、近世に至っては陸奥松島・安芸厳 ...
25. 天橋立画像
日本大百科全書
幅40~100メートル。湾内を流れる潮流と風によって運ばれた砂の堆積(たいせき)によるもので、雪舟(せっしゅう)の晩年の作『天橋立図』に描かれた白砂青松の地であ ...
26. あまのはしだて【天橋立】京都府:宮津市
日本歴史地名大系
たって九世戸の文殊堂に来ている(「東寺王代記」「教言卿記」など)。なお謡曲に「天橋立」があり、雪舟筆の「天橋立図」はよく知られている。永禄一二年(一五六九)閏五 ...
27. いけい-しゅうとく【惟馨周徳】
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28. 池大雅[文献目録]
日本人物文献目録
大雅逸事』中川愛氷『諸家の大雅観と私の見解』正宗得三郎『蛻巌の花鳥画、大雅の風俗画』人見少華『雪舟・大雅・鉄斎の道』里見勝蔵『雪池と大雅堂 福沢翁の故宅と自性寺 ...
29. 医光寺画像
日本大百科全書
総門(県指定文化財)のほか数棟を数える。雪舟作の庭園は池泉観賞式庭園で、国の史跡・名勝に指定されている。寺宝に薬師三尊像(鎌倉後期、伝安阿弥(あんあみ)作)、松 ...
30. いこうじ【医光寺】
国史大辞典
火延焼し間もなく再建された。総門は七尾城の大手門を移築したものという(県指定文化財)。庭園は僧雪舟等楊の作庭と伝えられ、泉水庭として有数である(国指定史跡)。  ...
31. いこうじ【医光寺】島根県:益田市/上本郷村
日本歴史地名大系
医光寺を再建した宗兼は「医光寺殿全久宗兼大禅定門」とよばれたといわれる(東福寺誌)。医光寺庭園は雪舟作といわれる池泉観賞回遊式庭園で面積約二二〇坪、山畔を生かし ...
32. いこま-とうじゅ【生駒等寿】
日本人名大辞典
寛永3年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩主毛利綱広につかえ,のち京都にでて活躍。みずから雪舟派を名のった。作品に京都醍醐(だいご)寺「醍醐花見幕図」 ...
33. いたやかいどう【板谷街道】山形県:米沢市
日本歴史地名大系
本陣・脇本陣・問屋・旅籠屋・茶屋などが軒を連ねていた。大沢宿と板谷宿に文化八年(一八一一)と翌年に建立された雪舟大明神(雪路の旅の安全を祈ったもの)の石碑が残存 ...
34. 一休和尚年譜 2 110ページ
東洋文庫
わせる。この図は正確にいえば異なるが、雪舟が如水に与えたいわゆる「破墨山水図」に似るもので、山光を表現する動的で爽やかな表現は賛の内容によく合い、またその筆跡も ...
35. いまいちふなつきばあと【今市船着場跡】島根県:益田市/今市村
日本歴史地名大系
益田市の水運の拠点として機能した港の様子を今に伝える遺跡。画聖雪舟が晩年を過ごしたとの伝承をもつ東光寺跡に建てられた大喜庵や雪舟記念館などのある丘陵の麓を流れる ...
36. いまいちむら【今市村】島根県:出雲市
日本歴史地名大系
山と号す、本尊地蔵自徳禅師の開基なり、古老伝に云、雪舟此所に来て草庵をむすび、延命庵と名付て常に画図を楽たまふ、則達磨の像此寺の重宝とす、雪舟帰去て後山号をもと ...
37. いもじやむら【鋳物師屋村】岐阜県:関市
日本歴史地名大系
(現同上)の宅応を拝請して中興開山とし、伽藍を建立した(「寺院明細帳」県立歴史資料館蔵など)。雪舟筆釈迦出立像・円空作釈迦如来坐像を所蔵。 ...
38. うしろがわらまち【後河原町】山口県:山口市/山口町
日本歴史地名大系
していたらしいが、「古へ此街の産に雪舟盆とて普く世に行はれしとぞ、その文様は等楊の画なりといへり、(中略)今も此街に丸き盆を造りて田舎もしくは九州に出すは雪舟盆 ...
39. うちわえ【団扇絵】
国史大辞典
模写している。その最古の遺品が伝大巧如拙筆「王羲之書扇図」(重要文化財、京都国立博物館蔵)であり、雪舟等楊の宋元画模写団扇絵も数点残っている。さらに江戸時代には ...
40. うめつきむら【梅月村】島根県:益田市
日本歴史地名大系
不詳。曹洞宗聖清寺は創建年代不詳。もと臨済宗で、文明年間(一四六九―八七)周防より益田への途上雪舟が一時立寄り、袋棚に烏が瓜をついばむ画を残したという。天正一〇 ...
41. うんこくあんあと【雲谷庵跡】山口県:山口市/上宇野令村
日本歴史地名大系
雲谷寺としている。雪舟の詩友周興彦竜の「半陶集」に「雪舟諱は等楊、軒雲谷と号す」とあり、雲谷軒と称していたことも知れる。雪舟は永正三年(一五〇六)八七歳で雲谷庵 ...
42. うんこくけん【雲谷軒】
国史大辞典
雪舟等楊(せっしゅうとうよう)  ...
43. うんこく-とうえき【雲谷等益】
日本人名大辞典
うつり,毛利家につかえる。兄等屋の早世後,元和(げんな)4年跡目をつぎ雲谷派の維持につとめる。雪舟4代を称した。寛永21年2月14日死去。54歳。名は元直。別号 ...
44. 雲谷等顔
日本大百科全書
狩野永徳(えいとく)の作品からの影響も見逃せない。 のち雪舟(せっしゅう)に私淑、輝元の命で雪舟筆『山水長巻』を模写し、その恩賞によって、1593年(文禄2)雪 ...
45. 雲谷等顔
世界大百科事典
93年(文禄2)毛利輝元から雪舟筆《山水長巻》(毛利報公会)を与えられ,雪舟の旧居雲谷庵を賜って剃髪し,雲谷等顔(雪舟等楊の等字を継承)と改名した。再興雲谷庵主 ...
46. うんこく‐とうがん【雲谷等顔】
日本国語大辞典
桃山時代の画家。雲谷派の祖。肥前の人。毛利家に仕え、雪舟の旧跡雲谷庵を継ぎ、雪舟正系を自称。障壁画の山水を得意とした。天文一六~元和四年(一五四七~一六一八) ...
47. うんこくとうがん【雲谷等顔】
国史大辞典
認められて御抱絵師となる。文禄二年(一五九三)命により毛利家に伝わる雪舟筆「山水長巻」を模写。これによって雪舟の雲谷庵の復興を許され、雪舟三代、雲谷等顔を名のっ ...
48. うんこく-とうがん【雲谷等顔】
日本人名大辞典
直家の子。天正(てんしょう)の末ごろ安芸(あき)広島城主毛利輝元につかえる。雪舟の「山水長巻」を模写。輝元から雪舟の旧跡雲谷庵をあたえられ,雲谷と名のった。作品 ...
49. うんこく-とうばん【雲谷等〓
日本人名大辞典
長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩につかえる。寛文3年兄等与の養子となる。8年等与の死で,雲谷派宗家をつぐ。雪舟6代を称した。享保(きょうほう)9年2月6日死 ...
50. うんこく-とうよ【雲谷等与】
日本人名大辞典
慶長17生まれ。雲谷等益の長男。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩につかえる。寛永21年雲谷派宗家をつぎ,雪舟5代を称した。明暦元年弟の等爾らと御所の障壁画制 ...
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真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
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徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
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坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書(ニッポニカ))
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
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源義家(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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992-1074(正暦3-承保1)平安中期の公卿。摂政道長の長男。母は左大臣源雅信の女倫子。15歳で早くも従三位に昇り,累進して1017年(寛仁1)26歳で内大臣に進み,さらに父道長の譲により摂政となった。以後,後一条,後朱雀,後冷泉3代50余年にわたって
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