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足利尊氏

ジャパンナレッジで閲覧できる『足利尊氏』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
足利尊氏
あしかがたかうじ
一三〇五 - 五八
室町幕府初代将軍。一三三八―五八在職。初名又太郎高氏。嘉元三年(一三〇五)出生。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。元応元年(一三一九)十五歳で従五位下治部大輔に叙任。六波羅探題北条久時の女登子赤橋氏(執権守時の妹)を迎えて妻とした。元弘元年(一三三一)八月後醍醐天皇の笠置挙兵にあたり、九月大仏(おさらぎ)貞直らとともに大将として西上、乱終って鎌倉に帰った。同二年従五位上に叙せられた。同三年二月、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆によるや、鎌倉幕府の命を受けて西上、その途中近江の鏡宿で綸旨を受け、四月丹波篠村八幡宮の社前で源氏再興、北条氏討伐の旗を挙げ、同時に密書を諸国の豪族に送って協力を求めた。ときに二十九歳。五月赤松則村・千種忠顕らとともに六波羅探題を攻め滅ぼし、京都に奉行所を置いて隠然たる勢力を得た。六月天皇が帰京すると、即日昇殿を許され、建武中興第一の功臣として、鎮守府将軍に任ぜられ、従四位下左兵衛督となり、天皇の諱の尊治の一字を与えられて尊氏と改めた。『神皇正統記』によると、このころ三ヵ国の国司と守護に任命され、あまたの郡荘を給わったとある。その三ヵ国とは武蔵・上総・常陸ともいわれるが、確証はない。しかし尊氏の本心は北条氏を打倒してみずからその地位に代わることであったから、征夷大将軍に補任されることを最大の目標とし、公家の中心人物であった護良親王がそれに任ぜられることを不満とし、さきに設けた奉行所を解散せず、着々地方の武士を糾合した。ここに護良親王は尊氏に逆心ありと称し、天皇も新設の機関たる記録所・恩賞方の職員に尊氏を警戒して参加させなかった。しかし尊氏の勢いは無視し難く、建武元年(一三三四)正月五日には正三位となり、八月雑訴決断所の改組に際し、尊氏の執事高師直以下の尊氏派が多数参加、九月尊氏は参議に進んだ。さらに十一月尊氏は天皇に迫って護良親王を逮捕し、身柄を弟直義の守る鎌倉に移すことに成功した。護良親王が失脚すると、中央では新田義貞が尊氏と正面から対決することとなった。同二年六月、信濃に兵を挙げた北条時行は、七月鎌倉に攻め入り、尊氏の弟直義はその混乱のうちに護良親王を殺した。尊氏は乱の鎮圧を名目として、征夷大将軍の地位を奏請したが、天皇はこれを許さず、成良親王をこれに任命した。尊氏は許されないまま東下したため、天皇は改めて尊氏に征東将軍の号を授けた。尊氏は時行の軍を撃破しつつ、八月直義とともに鎌倉を奪回した。天皇は尊氏の功を賞して従二位に昇叙し、上洛を促したが、尊氏は直義の諫めによって鎌倉を動かず、十一月直義の名で義貞誅伐の檄文を諸国に伝えた。尊氏の叛意が明らかになると、朝廷では尊氏の官爵を削り、北畠顕家と新田義貞に尊氏討伐を命じた。尊氏はいったんは鎌倉に閉居したが、直義の軍が義貞の軍に敗れたことを聞いて、ようやく立ち上がり、義貞を箱根竹ノ下に破って西上、建武三年正月入京し、天皇の軍を叡山に破った。しかしまもなく入京してきた顕家らの軍に敗れていったん西走、途中持明院統の光厳上皇の院宣を受け、一族を四国・中国に配置しつつ、九州に下った。やがて勢力をもり返して水陸から進み、楠木正成を兵庫湊川に倒し、六月再び入京、京都近傍の政府軍を完全に撃破した。七月光厳上皇の弟豊仁(ゆたひと)親王は即位して光明天皇となり、後醍醐天皇は花山院に軟禁され、十一月神器を光明天皇に引き渡し、十二月、吉野に脱出して南朝を立てた。尊氏は神器の授受が終った五日後、同三年十一月七日『建武式目』十七ヵ条を制定した。これは尊氏の施政方針とも見るべきもので、これをもって尊氏の幕府開設の第一声となすことができる。尊氏の南軍攻撃はまずその主力とみられる越前の新田義貞に向けられた。高師直の弟師泰は、同四年越前の金崎城を攻めてこれをおとし、恒良親王をとらえ、尊良親王を自殺させた。北畠顕家も陸奥から西上したが、暦応元年(延元三、一三三八)和泉の堺浦石津で戦死し、新田義貞も越前藤島で戦死した。ここに北朝は同年八月、尊氏を征夷大将軍に任命、南軍不振のうちに、翌二年後醍醐天皇も吉野の行宮で世を去り、後村上天皇が践祚した。尊氏・直義はこれを悼み、その百箇日に盛大な仏事を修め、また京都に天竜寺を創建してその菩提を弔った。この造営費用を得んため、貿易船(天竜寺船)を元に送った。こうして武家・北朝方の優位は確立するかに見えたが、その幕府の中で、尊氏党と直義党との内訌が生じ、吉野に拠る南朝と三者互いに対立抗争を続けることになった。元来尊氏は元弘の挙兵以来直義と苦労をともにし、建武三年八月、清水寺に自筆の願文を納めて、現世の幸福は直義に与え給えと祈ったほどの仲であった。暦応元年諸国に安国寺を置き、利生塔を建てたのも、直義の助けによるものであった。内乱開始以来、尊氏が将軍として家人統制にあたり、恩賞方を所管し、守護の任免権を掌握したのに対し、直義は尊氏から政務をまかされ、引付方を所管して裁判権を統括した。しかし内乱開始以来十年も経つと、この権力二分の両頭政治にもひびがはいり、政務を総轄する直義に声望が加わり、尊氏の執事高師直との対立がはげしくなった。貞和三年(正平二、一三四七)、南朝の攻勢が開始されたが、翌四年師直は楠木正行らの軍を破り、勢いに乗じて直義を討とうとはかった。尊氏は師直をおさえる一方、直義を退け、尊氏の子の義詮を鎌倉から迎えてこれに政務をとらせ、実権を師直に与えた。そのころ尊氏の庶子の直冬は、直義の養子となり、中国地方の管轄にあたっていたが、師直は直冬を九州に追うとともに、直義の引退をせまった。直義はこの圧力に屈していったんは出家したが、観応元年(正平五、一三五〇)十月、大和に走って南朝に講和を申し入れ、南軍の協力を得て師直誅伐の軍を起した。一方直冬はこの年兵を挙げ中国地方に戻って勢いを振るい、尊氏はこれを討つため京を留守にした。直義はその不在に乗じ、後村上天皇を奉じて男山八幡に進出し、さらに京に入って義詮を丹波に走らせた。観応二年二月、尊氏は直義党の優勢となるのを見て、直義と和を結んだが、その直後高師直・師泰兄弟が上杉能憲らに殺害された。尊氏は直義の処置を不満とし、諸将も二派に分かれて対立、ここに直義と師直の争いは尊氏・義詮と直義・直冬の対立となり、諸国の守護がこれに加わって、十数年にわたる全国的な動乱となった。これを観応擾乱という。尊氏・義詮の党はこの間に勢いをもりかえし、直義を北陸に追うとともに、南朝に一時降服し、みずから直義討伐のため関東に向かった。尊氏の軍は直義の党を各地で破り、ついに直義を降して、翌文和元年(正平七、一三五二)鎌倉に入った。直義はその後まもなく二月鎌倉で急死したが、これはそのころ新田義興らが兵を上野・武蔵に起して勢い盛んであったため、尊氏が将来の不安を断つため、直義を毒殺したのだといわれる。尊氏はその後子の基氏を鎌倉に留めてみずから義興の軍と戦い、一年半にわたる苦戦の末これを破った。しかしこの間に直義党の直冬は北陸の諸将や南軍の協力を得て、同二年京都占領に成功し、義詮を近江国に走らせた。まもなく義詮は京都を回復、尊氏も鎌倉から京都に帰った。ついで同四年にも直冬党の京都進入が行われたが、尊氏・義詮はこれを撃退、直義・直冬党の活動も一応終りを告げ、延文元年(正平十一、一三五六)には越前国の斯波高経も復帰した。ただ九州では懐良親王が菊池氏に擁せられ、文和四年博多に攻め入り大いに気勢をあげていた。尊氏はこの九州の情勢を苦慮して、延文三年九州行を計画したが、病のため果たさず、その年の四月三十日京都二条万里小路邸で五十四歳をもって死去した。六月尊氏は従一位左大臣を贈られ、長禄元年(一四五七)には太政大臣を追贈された。法名は仁山妙義、等持院殿、鎌倉では長寿寺殿といわれた。墓は京都市等持院。尊氏については山路愛山が明治の末、時代を代表する英雄と称えているが、南北朝正閏論が起って以来、逆臣として評価され、大正六年(一九一七)辻善之助が尊氏の政治行動をその信仰と関連して弁護したのを最後に、ことに太平洋戦争中は右翼によって筆誅を加えられた。戦後は古代王朝権力を打破して歴史を進展させた歴史的な人物であるとする説が有力となり、松本新八郎のごとく尊氏をもって革命勢力の組織者=指導者なりとする説さえあらわれた。→元弘の乱(げんこうのらん),→建武新政(けんむのしんせい)
[参考文献]
『大日本史料』六ノ二一 延文三年四月三十日条、高柳光寿『足利尊氏』、辻善之助「足利尊氏の信仰」(『人物論叢』所収)
(豊田 武)


日本大百科全書(ニッポニカ)
足利尊氏
あしかがたかうじ
[1305―1358]

南北朝時代の武将。室町幕府の初代将軍。足利貞氏(さだうじ)の二男。母は上杉頼重(よりしげ)の女(むすめ)清子(きよこ)。初名又太郎高氏。1319年(元応1)従(じゅ)五位下治部大輔(じぶのだいぶ)。北条久時の女登子と結婚。
[佐藤和彦]

尊氏の政権構想

1331年(元弘1)8月、後醍醐(ごだいご)天皇が笠置(かさぎ)で挙兵したとき、大仏貞直(おさらぎさだなお)とともに幕府軍を率いて上洛(じょうらく)。元弘(げんこう)の変を平定後、鎌倉に帰った。1333年2月、天皇が隠岐(おき)を脱出して、名和長年(なわながとし)と船上山(せんじょうさん)にこもるや、幕府軍を率いて再度西上したが、三河(愛知県)で一門の長老吉良(きら)貞義に北条氏討伐の決意を打ち明け、船上山への征途を偽装しつつ丹波(たんば)に至り、4月、篠村八幡(しのむらはちまん)の社前で源氏再興の旗をあげた。5月、赤松則村(のりむら)、千種忠顕(ちぐさただあき)らと京都に侵攻し六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼし、奉行所(ぶぎょうしょ)を置いて、全国各地から上洛する武将を傘下に加えた。後醍醐天皇は帰京後ただちに尊氏の昇殿を許し、鎮守府将軍とし、さらに諱(いみな)(尊治)の一字を与えて、北条氏討伐戦における尊氏の戦功を賞揚した。尊氏は、武蔵(むさし)など3か国の国務と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかったことを不満とし、建武(けんむ)政権のいかなる機関にも参加せず、奉行所を強化し、独自の政権構想を固めつつあった。そのため、護良親王との反目がしだいに深まり、1334年(建武1)11月には、天皇に護良親王の逮捕を強要し、親王の身柄(みがら)を鎌倉の弟直義(ただよし)のもとへ送り、ついに幽閉した。翌1335年6月、北条時行(ときゆき)が信濃(しなの)(長野県)に挙兵し、鎌倉へ侵攻するや、尊氏は時行の乱を鎮圧するため東下したが、このときにも征夷大将軍の地位を許されなかった。8月には、時行軍を撃破して鎌倉を奪回したものの、直義の諫言(かんげん)を受け入れて帰洛せず、11月、逆に、直義の名をもって、新田義貞(にったよしさだ)誅伐(ちゅうばつ)の檄文(げきぶん)を諸将に送って軍勢催促を要請した。義貞誅伐を名目として、建武政権への反意を表明したものである。後醍醐天皇は、新田義貞と陸奥(むつ)の北畠顕家(きたばたけあきいえ)らに尊氏誅伐を命令した。尊氏は箱根竹の下の合戦に義貞軍を破り、1336年(延元1・建武3)1月には入京し、天皇を叡山(えいざん)へと逐(お)った。しかし、尊氏の背後から入京した顕家軍との合戦に敗れ、九州へと敗走した。この途中、味方武将の動揺を鎮めるため、元弘以来の没収地を返付すると発表し、朝敵という汚名を逃れるために、光巌(こうごん)上皇の院宣を獲得した。さらに、一門の細川、今川氏や、小早川(こばやかわ)、大内氏などの有力武将を中国、四国の各地に派遣して、反撃の際の拠点づくりを怠らなかった。同年3月、尊氏は多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)で菊池軍を破ったのち、勢力を急速に回復し、5月楠木正成(くすのきまさしげ)を将とする建武政府軍を兵庫湊川(みなとがわ)に破り、6月には入京を果たし、京都近郊の合戦において政府軍をほぼ壊滅させた。8月、光明(こうみょう)天皇を擁立した尊氏は、「この世は、夢のごとくにて候」と、遁世(とんせい)を祈願し、今世の果報を直義に賜りたいとの自筆願文(がんもん)を清水(きよみず)寺に納めたが、混沌(こんとん)とした内乱期社会が、武士の棟梁(とうりょう)としての尊氏を隠遁させるはずもなく、彼の願望は終生を通じての夢でしかありえなかった。11月に、神器を光明天皇に引き渡した後醍醐天皇は、翌月、吉野に逃れて南朝を建てたが、この間尊氏は、「建武式目十七カ条」を制定して、室町幕府の施政方針を確立した。1337年(延元2・建武4)3月、高師泰(こうのもろやす)に越前(えちぜん)(福井県)金ヶ崎城を攻略させた尊氏は、翌1338年5月、北畠顕家を堺(さかい)の石津(いしづ)浜に敗死させ、閏(うるう)7月には、北国で勢力を挽回(ばんかい)しつつあった新田義貞をも越前藤島で戦死させた。そして8月、尊氏は、待望久しかった征夷大将軍に任命された。元弘以来の戦没者の遺霊を弔い、天下の泰平を祈願するために、諸国に安国(あんこく)寺と利生(りしょう)塔を建立し始めたのも、この年のことである。1339年(延元4・暦応2)8月、後醍醐天皇が吉野で死去したことを知った尊氏は、直義とともに天皇のために盛大な法要を営み、さらに天竜寺を創建して、その菩提(ぼだい)を弔っている。
[佐藤和彦]

二頭政治―足利氏の内訌

1347年(正平2・貞和3)から翌1348年にかけて、室町幕府軍と楠木正行(まさつら)らを中心とする南軍との攻防戦が展開されたが、この過程において、尊氏の執事(しつじ)高師直(こうのもろなお)の勢力が急速に伸張し、政務を統轄して声望の高かった直義との対立が激化した。尊氏は、師直の強請によって直義を退け、義詮(よしあきら)を鎌倉から呼び寄せて、直義のもっていた諸権限を義詮に与えた。尊氏の庶子で、直義の養子となっていた直冬(ただふゆ)も九州へと逐(お)われた。1350年(正平5・観応1)10月、直義は大和(やまと)に赴き、南朝へ降伏して師直誅伐(ちゅうばつ)の軍をおこした。翌1351年2月には、直義党の勢力は尊氏・師直派を圧倒し、ついに師直・師泰らは直義党の上杉能憲(よしのり)によって殺害された。尊氏は直義党の処置を怒り、諸将も2派に分かれて対立するに至った。こうして、直義と師直との対立抗争に端を発した観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)は、ついに尊氏・義詮派と直義・直冬党との全面的な対立へと発展し、8月、直義は北国へと逃走した。直義は北国から関東へと逃れたが、尊氏は直義討伐軍を率いて追撃し、1352年(正平7・文和1)1月には鎌倉へ入り、翌月、直義を毒殺した。尊氏は以後1年有半を関東で過ごすが、それは、新田義興(よしおき)の挙兵によって混乱した東国の政情を回復せんがための日々であった。尊氏が鎌倉より京都に帰ったのは翌1353年9月のことであった。1355年(正平10・文和4)正月から3月にかけての直冬党の京都進攻を退けたのち、尊氏・義詮派はその勢力をようやく確立し、翌1356年1月には越前の斯波高経(しばたかつね)も復帰し、室町幕府は、観応の擾乱による痛手を回復するに至った。1358年(正平13・延文3)尊氏は九州への遠征を計画した。それは、菊池氏に擁立された懐良親王の南軍が、博多(はかた)に攻め入るなどして勢力を強化しつつある情況を一挙に打開せんがためであった。しかし病を得て、この計画を果たすまもなく、この年4月30日、京都二条万里小路(までのこうじ)邸で死去した。法名は仁山妙義。等持院殿。墓所は京都・等持院にある。
[佐藤和彦]

人となり

尊氏の人となりは、つねに直義と対比されるが、尊氏が八朔(はっさく)の贈り物を惜しげもなく人々に与えたのに対し、直義は八朔の習俗そのものを嫌い、贈り物を受け取らなかったといわれている。夢窓疎石(むそうそせき)は尊氏を、勇気、慈悲、無欲の三徳を兼備した前代未聞の将軍であったと評価している。尊氏は疎石に帰依して禅を学ぶ一方、地蔵信仰や聖天信仰などにも深く傾倒していた。
[佐藤和彦]



世界大百科事典
足利尊氏
あしかがたかうじ
1305-58(嘉元3-正平13・延文3)

室町幕府の初代将軍。在職1338(延元3・暦応1)-58年。足利貞氏の次子,母は上杉頼重の女上杉清子。初名高氏,妻は鎌倉幕府執権北条(赤橋)守時の妹登子。足利氏は源氏将軍断絶後は清和源氏の嫡流として御家人の間で重んじられ,北条氏と肩を並べる存在であった。北条氏とは代々婚姻を重ね,その関係もはじめは良好であった。ところが,鎌倉後期になって,幕府政治が北条氏専制の傾向を強めていくと,しだいに圧迫を受けるようになり,高氏の祖父家時のころから源氏再興の志を抱くようになっていた。

1331年(元弘1)元弘の乱が起こると,前執権北条高時は,父貞氏の死去にあったばかりで,まだ仏事も済ませていない高氏に畿内出陣を命じた。高氏は幕府軍の一方の大将として参戦したものの,高時のこの処置に深い憤りを覚え,心中北条氏打倒の決意を固めたという。33年隠岐を脱出した後醍醐天皇を攻撃するため,高氏は幕命により再び西上したが,途中後醍醐天皇のもとに密使を遣わして綸旨を受け,丹波の篠村(しのむら)八幡宮で倒幕の旗を挙げた。そして密書を諸国の豪族に送って決起を呼びかけ,京都に攻め入って六波羅探題を滅ぼした。一方,関東では上野の新田義貞が挙兵南下して鎌倉を襲い,幕府は滅亡したが,このとき高氏の嫡子千寿王(義詮)が攻略軍に加わった。六波羅を攻略した高氏は京都に奉行所を設けて混乱の収拾にあたるとともに,諸国から上京してくる武士を傘下に収め,社寺や武士の所領に対する濫妨や東海道における狼藉を禁じるなど,いち早く全国の軍事警察権を掌握する構えを示す一方,一族を東下させて鎌倉をおさえた。後醍醐天皇が帰京して建武新政が始まると,高氏は勲功第一として天皇尊治の一字を賜って尊氏と改名し,高い官位を与えられたが,政治の中枢には加えられなかった。〈尊氏ナシ〉の言葉がささやかれる中で,尊氏は中央機関の職員に家臣の高師直(こうのもろなお)らを送りこんで新政への発言権を確保しつつ,諸国の武士の糾合に努め,弟足利直義を成良親王に付けて鎌倉に下して関東10ヵ国を掌握させるなど,幕府再興への足がかりを固めていき,34年(建武1)には尊氏の動きを阻もうとする護良親王を失脚させた。

翌年北条高時の遺子時行が関東で乱を起こすと,尊氏は乱鎮圧を名目に東下して鎌倉に入り(中先代の乱),新政府への反逆の態度を明らかにした。36年(延元1・建武3)には新田義貞軍を破って入京したが,まもなく京都を追われ九州に走った。途中持明院統の光厳上皇の院宣を受けて大義名分を得,態勢をたて直して再挙東上し,湊川で楠木正成軍を破って入京,光厳上皇の弟光明天皇を立て,建武式目を発布して室町幕府の開設を宣言した。後醍醐天皇は吉野に逃れ,朝廷を開いて尊氏に対抗したので,これより南北朝対立の時代となる。南朝側は各地に拠点を設けて勢力の扶植を図ったが,新田義貞,北畠顕家らの有力武将が戦死し,ついで後醍醐天皇が没すると,しだいに振るわなくなった。尊氏はこの間38年に北朝より征夷大将軍に任命され,内乱は終息の方向にむかうかにみえたが,やがて幕府内部の抗争が表面化し,50年(正平5・観応1)直義の挙兵によって新たな争乱(観応の擾乱(じようらん))が起き,これが南北朝の対立と結びついて,より深刻な様相を呈するに至った。幕府は創業以来尊氏と直義の二頭政治で,権力が二分されていたところから,尊氏の執事高師直と直義との間に対立が生じ,それがさらに尊氏と直義の抗争に発展していったのである。足利一族や諸将も二派に分かれ,両派は互いに他を圧倒するために,その時々の情勢で南朝と結ぶという事態が現出した。尊氏は51年直義を下し,翌年これを毒殺したが,その後も直義の養子直冬(尊氏の庶子)ら直義派の抵抗は止まず,京都を占領されることも一再ではなかった。尊氏はその対策に苦慮する中で,58年病のために死去した。54歳。法名等持院殿仁山妙義,関東では長寿寺殿と呼ばれた。

尊氏の一生は戦陣往来の一生であった。戦陣にあって怖畏の心なく,人を憎むこと少なく,度量広大で物惜しみすることがなかったといわれ,将器たるにふさわしい人物であったが,一面弱気なところもあり,この尊氏がよく時代の趨勢を察し決然立って幕府再興の大業を成し遂げることができたのは,沈着冷静な弟直義の補佐があったからであった。尊氏は信仰心が厚く,夢窓疎石に帰依し,天竜寺を創建して後醍醐天皇の菩提をとむらったり,直義と相談して戦没者の霊を慰めるために国ごとに安国寺と利生塔を建てたりした。また,地蔵菩薩を信仰し,みずから画筆をとって尊像を描くなどした。和歌にもすぐれ,《等持院殿御百首》《等持院贈左府御集》の家集がある。
[小谷 俊彦]

尊氏の人物像

同じ南北朝時代に活躍した他の武将たちとちがって,尊氏には心理・行動両面での複雑さがみとめられ,それが一つの魅力でもある。1336年2月の筑前多々良浜の戦にさいしては,菊池方の大軍を前にしてたじろぎ,いっそ切腹しようなどと口走って弟の直義につよくいさめられ,また投降してきた敵将の本意を疑ったので部下の高(こう)駿河守から,大功をなすにはあまりに人心を疑ってはならぬと進言されて気をとり直したという(《太平記》巻十六)。小心と狭量をうかがわせる挿話である。反対に《梅松論》が伝える夢窓疎石の尊氏評は,一に心が強く,二に慈悲心があり,三に〈御心広大にして物惜(ものおしみ)の気なく……〉であった。しばしばとりあげられる建武3年8月17日付の尊氏自筆願文(京都清水寺に奉納)は,早く遁世(とんせい)(脱俗)して,すべてを直義にゆずりたいと祈願したものであるが,これについても直義への誠実で優しい本意の表現とみる通説に対して,光厳上皇と後醍醐天皇との板挟みで世事すべてめんどうくさくなったからとみる説,八方美人なくせに投げやりな面のある彼が,後醍醐天皇との政治折衝をいとい,すべてを直義に預けようとしたとみる説,要するに弟への思いやりを表立てながら,実は弟を巧みに操縦する策に出たとみる説等々があって,尊氏の人柄の複雑さをしのばせている。楠木正成や新田義貞を〈忠臣〉とし,尊氏を〈逆賊〉とする見方は近世に発するが,1911年の〈南北朝正閏問題〉で〈南朝〉を正統と定められて以降,尊氏の〈逆賊〉観は国定教科書や諸文芸をつうじて国民に浸透させられたが,45年の敗戦後はその歴史的評価も一変し,14世紀の日本社会の進歩をになった人物として正当な位置づけを得た。
[横井 清]

[索引語]
足利直義 長寿寺殿 等持院殿御百首
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8. 足利尊氏[文献目録]
日本人物文献目録
足利尊氏』佐野学『足利ノ尊氏』中村直勝『足利尊氏』高柳光寿『熱田風土記 4』池田長三郎(編)『足利尊氏』佐野学『足利尊氏』高柳光寿『足利尊氏』停春楼主人『足利尊 ...
9. 足利高氏・足利尊氏
日本史年表
癸酉②〉 8・5 足利高氏 ,尊氏と改名(公卿補任)。 1335年〈建武2 乙亥⑩〉 8・9 足利尊氏 を征東将軍とする(室町家伝)。 1335年〈建武2 乙亥 ...
10. 足利尊氏不忠 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1061ページ ...
11. 足利尊氏像 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 842ページ ...
12. 足利尊氏建天龍寺 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 900ページ ...
13. 足利尊氏建寶戒寺 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 307ページ ...
14. 足利尊氏建等持寺 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 393ページ ...
15. 足利尊氏服父喪 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 739ページ ...
16. 足利尊氏爲征夷大將軍 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1057ページ ...
17. 足利尊氏誡足利直義 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 171ページ ...
18. 足利尊氏讒護良親王 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 698ページ ...
19. 足利尊氏賜後醍醐天皇諱 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 644ページ ...
20. 足利尊氏贈官位 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 268ページ ...
21. 足利尊氏印[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
22. 足利尊氏花押[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan ...
23. 足利尊氏花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
24. あしかがたかうじやかたあと【足利尊氏館跡】京都市:中京区/初音学区/杉屋町地図
日本歴史地名大系
指向テ、時ノ声ヲ三度挙サセ、流鏑三矢射サセテ、中門ノ柱ヲ切落ス」と記され、二条高倉小路の地に足利尊氏館があったことが知られる。「建武三年以来記」には「等持院殿、 ...
25. 足利尊氏施行状案(著作ID:1923644)
新日本古典籍データベース
あしかがたかうじせぎょうじょうあん 文書  ...
26. 足利尊氏願書 (見出し語:願文)
古事類苑
神祇部 洋巻 第1巻 713ページ ...
27. 足利尊氏爲後醍醐天皇追福天龍寺 (見出し語:後醍醐天皇)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 900ページ ...
28. 足利尊氏讒護良親王 (見出し語:護良親王)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 698ページ ...
29. あしかがたかうじもんだい【足利尊氏問題】
国史大辞典
⇒中島商相失脚問題(なかじましょうしょうしっきゃくもんだい),⇒山路愛山筆禍事件(やまじあいざんひっかじけん)  ...
30. 足利直義諫兄足利尊氏 (見出し語:足利直義)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 276ページ ...
31. 夢窻國師與足利尊氏〓訓状 (見出し語:疎石)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 241ページ ...
32. あいきょうのしょう・あいきょうほ【愛甲庄・愛甲保】神奈川県:厚木市
日本歴史地名大系
破って鎌倉に入った足利尊氏は、荘内上杉兵部少輔(重能か)の旧領の地頭職を松浦秀に(同年正月二〇日「足利尊氏充行下文」県史三)、梶原五郎左衛門尉の旧領の船子郷を本 ...
33. あいこうのしょう【愛甲荘】
国史大辞典
で、藤原清俊が地頭であったことが知られる。ついで、『松浦文書』によると、文和元年(一三五二)足利尊氏は、当荘の内上杉能憲あとの地頭職を松浦秀に与えている。なお、 ...
34. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
かりし世にもあひ沢の水のあわとや人の消えなん」と詠んでいる。建武二年(一三三五)一二月一一日足利尊氏軍と尊良親王・脇屋義助軍が戦った竹之下合戦の最初の激戦は当地 ...
35. あいづぐん【会津郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
州大友氏の支族門司氏に安堵されている。翌年足利尊氏が反旗を翻すと、三浦介高継は尊氏に従って河沼郡の所領を安堵されている(建武二年九月二七日「足利尊氏下文」宇都宮 ...
36. あいはら-うじみつ【粟飯原氏光】
日本人名大辞典
鎌倉-南北朝時代の武将。粟飯原清胤(きよたね)の父。鎌倉幕府の9代将軍守邦親王につかえたが,のち足利尊氏にしたがう。尊氏の命をうけて,建武(けんむ)5=延元3年 ...
37. あいばじんじゃ【饗庭神社】愛知県:幡豆郡/吉良町/荻原村
日本歴史地名大系
七度ヶ入 平坦な饗庭の集落の中に鎮座。建速須佐之男命を祀る。暦応二年(一三三九)の創立といい、足利尊氏が荒川城(現西尾市)在城のとき、饗庭御厨新田を築き、一の宮 ...
38. あいばむら【饗庭村】愛知県:幡豆郡/吉良町/荻原村
日本歴史地名大系
[現]吉良町饗庭 町域のほぼ中央、矢崎川の左岸に開けた集落。この地は暦応二年(一三三九)足利尊氏が開拓した新田といい、饗庭御厨新田の一。この年尾崎勘解由の一族が ...
39. あいらにしまた【姶良西俣】鹿児島県:鹿屋市
日本歴史地名大系
津貞久の当知行分の一つとして西俣村がみえ、翌二年八月一五日には足利尊氏が西俣村などを勲功の賞として貞久に宛行っている(「足利尊氏下文」島津家文書)。なお正平三年 ...
40. あえば-うじなお【饗庭氏直】
日本人名大辞典
1335−? 南北朝時代の武将,歌人。建武(けんむ)2年生まれ。足利尊氏につかえ,観応(かんのう)3=正平(しょうへい)7年(1352)尊氏の新田義興・義宗との ...
41. あえばしちごう【饗庭七郷】愛知県:幡豆郡/吉良町
日本歴史地名大系
三河を勢力範囲としていた足利尊氏が、手島四郎兵衛好忠を奉行として暦応二年(一三三九)から康永元年(一三四二)にかけて造成したという新田。厨新田・艫国新田・松井新 ...
42. あおかたうら【青方浦】長崎県:南松浦郡/上五島町
日本歴史地名大系
石築地用途請取状案)、同三年にかけて高直は新田義貞討伐のための軍勢催促を受け(同三年三月三日足利尊氏軍勢催促状写など)、参陣した肥後国菊池城(現熊本県菊池市)で ...
43. あおきほ【青木保】新潟県:佐渡郡/新穂村
日本歴史地名大系
青木に所在したと思われる保。康永三年(一三四四)一一月一六日の足利尊氏寄進状(園城寺文書)によれば、飛騨国内の所領の替地として近江園城寺に「青木」保の地頭職など ...
44. あおぢかむら【青近村】広島県:世羅郡/甲山町
日本歴史地名大系
顕連の代官らが入込んで所務を違乱(貞和五年二月日付「備後国大田庄雑掌勝円申状」同文書)、同年三月一四日、足利尊氏は先の下知状のとおり顕連に沙汰するよう細川頼春に ...
45. あおぬまごう【青沼郷】山梨県:甲府市/旧山梨郡地区/西青沼村
日本歴史地名大系
た。金子氏は安芸国温科村(現広島市東区)の地頭職を相伝した一族であるが、信泰は観応の擾乱の際足利尊氏方の甲斐守護武田信武に従っていたらしい。貞治三年(一三六四) ...
46. 青野ヶ原の戦
世界大百科事典
発して再び西上の途につき,12月末いったん鎌倉を占拠し,1月には東海道の足利方を連破して美濃に入った。足利尊氏・直義は高師冬ついで高師泰らを派し,美濃守護土岐頼 ...
47. あおやぎのしょう【青柳庄】岡山県:苫田郡/加茂町/青柳村
日本歴史地名大系
含む一帯に推定される。建武三年(一三三六)一一月二六日、本圀寺(現京都市山科区)に造営料所として寄進された(「足利尊氏寄進状」本圀寺文書)。貞和二年(一三四六) ...
48. 赤池
日本大百科全書
ている。北九州国定公園の福智山や、筑豊県立自然公園の白糸(しらいと)ノ滝を中心とした上野峡、足利尊氏(あしかがたかうじ)の寄進で名高い興国寺(こうこくじ)などが ...
49. あかいしむら【明石村】宮城県:黒川郡/富谷町
日本歴史地名大系
後者には坂上田村麻呂の伝説が付随して伝わる(富谷町誌)。文和元年(一三五二)一二月二三日付留守持家宛足利尊氏御判御教書(留守文書)にみえる南迫七ヵ村の一と思われ ...
50. あかくらやま【赤蔵山】石川県:鹿島郡/田鶴浜町/三引村
日本歴史地名大系
し、愚淵を当山にとどめ、諸堂を建立して社領を寄進したと伝える。観応二年(一三五一)八月一八日足利尊氏方の吉見氏頼軍が、越中から乱入した足利直義方の桃井直信勢と戦 ...
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