南北朝時代の武将。室町幕府の初代将軍。足利貞氏(さだうじ)の二男。母は上杉頼重(よりしげ)の女(むすめ)清子(きよこ)。初名又太郎高氏。1319年(元応1)従(じゅ)五位下治部大輔(じぶのだいぶ)。北条久時の女登子と結婚。
1331年(元弘1)8月、後醍醐(ごだいご)天皇が笠置(かさぎ)で挙兵したとき、大仏貞直(おさらぎさだなお)とともに幕府軍を率いて上洛(じょうらく)。元弘(げんこう)の変を平定後、鎌倉に帰った。1333年2月、天皇が隠岐(おき)を脱出して、名和長年(なわながとし)と船上山(せんじょうさん)にこもるや、幕府軍を率いて再度西上したが、三河(愛知県)で一門の長老吉良(きら)貞義に北条氏討伐の決意を打ち明け、船上山への征途を偽装しつつ丹波(たんば)に至り、4月、篠村八幡(しのむらはちまん)の社前で源氏再興の旗をあげた。5月、赤松則村(のりむら)、千種忠顕(ちぐさただあき)らと京都に侵攻し六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼし、奉行所(ぶぎょうしょ)を置いて、全国各地から上洛する武将を傘下に加えた。後醍醐天皇は帰京後ただちに尊氏の昇殿を許し、鎮守府将軍とし、さらに諱(いみな)(尊治)の一字を与えて、北条氏討伐戦における尊氏の戦功を賞揚した。尊氏は、武蔵(むさし)など3か国の国務と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかったことを不満とし、建武(けんむ)政権のいかなる機関にも参加せず、奉行所を強化し、独自の政権構想を固めつつあった。そのため、護良親王との反目がしだいに深まり、1334年(建武1)11月には、天皇に護良親王の逮捕を強要し、親王の身柄(みがら)を鎌倉の弟直義(ただよし)のもとへ送り、ついに幽閉した。翌1335年6月、北条時行(ときゆき)が信濃(しなの)(長野県)に挙兵し、鎌倉へ侵攻するや、尊氏は時行の乱を鎮圧するため東下したが、このときにも征夷大将軍の地位を許されなかった。8月には、時行軍を撃破して鎌倉を奪回したものの、直義の諫言(かんげん)を受け入れて帰洛せず、11月、逆に、直義の名をもって、新田義貞(にったよしさだ)誅伐(ちゅうばつ)の檄文(げきぶん)を諸将に送って軍勢催促を要請した。義貞誅伐を名目として、建武政権への反意を表明したものである。後醍醐天皇は、新田義貞と陸奥(むつ)の北畠顕家(きたばたけあきいえ)らに尊氏誅伐を命令した。尊氏は箱根竹の下の合戦に義貞軍を破り、1336年(延元1・建武3)1月には入京し、天皇を叡山(えいざん)へと逐(お)った。しかし、尊氏の背後から入京した顕家軍との合戦に敗れ、九州へと敗走した。この途中、味方武将の動揺を鎮めるため、元弘以来の没収地を返付すると発表し、朝敵という汚名を逃れるために、光巌(こうごん)上皇の院宣を獲得した。さらに、一門の細川、今川氏や、小早川(こばやかわ)、大内氏などの有力武将を中国、四国の各地に派遣して、反撃の際の拠点づくりを怠らなかった。同年3月、尊氏は多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)で菊池軍を破ったのち、勢力を急速に回復し、5月楠木正成(くすのきまさしげ)を将とする建武政府軍を兵庫湊川(みなとがわ)に破り、6月には入京を果たし、京都近郊の合戦において政府軍をほぼ壊滅させた。8月、光明(こうみょう)天皇を擁立した尊氏は、「この世は、夢のごとくにて候」と、遁世(とんせい)を祈願し、今世の果報を直義に賜りたいとの自筆願文(がんもん)を清水(きよみず)寺に納めたが、混沌(こんとん)とした内乱期社会が、武士の棟梁(とうりょう)としての尊氏を隠遁させるはずもなく、彼の願望は終生を通じての夢でしかありえなかった。11月に、神器を光明天皇に引き渡した後醍醐天皇は、翌月、吉野に逃れて南朝を建てたが、この間尊氏は、「建武式目十七カ条」を制定して、室町幕府の施政方針を確立した。1337年(延元2・建武4)3月、高師泰(こうのもろやす)に越前(えちぜん)(福井県)金ヶ崎城を攻略させた尊氏は、翌1338年5月、北畠顕家を堺(さかい)の石津(いしづ)浜に敗死させ、閏(うるう)7月には、北国で勢力を挽回(ばんかい)しつつあった新田義貞をも越前藤島で戦死させた。そして8月、尊氏は、待望久しかった征夷大将軍に任命された。元弘以来の戦没者の遺霊を弔い、天下の泰平を祈願するために、諸国に安国(あんこく)寺と利生(りしょう)塔を建立し始めたのも、この年のことである。1339年(延元4・暦応2)8月、後醍醐天皇が吉野で死去したことを知った尊氏は、直義とともに天皇のために盛大な法要を営み、さらに天竜寺を創建して、その菩提(ぼだい)を弔っている。
1347年(正平2・貞和3)から翌1348年にかけて、室町幕府軍と楠木正行(まさつら)らを中心とする南軍との攻防戦が展開されたが、この過程において、尊氏の執事(しつじ)高師直(こうのもろなお)の勢力が急速に伸張し、政務を統轄して声望の高かった直義との対立が激化した。尊氏は、師直の強請によって直義を退け、義詮(よしあきら)を鎌倉から呼び寄せて、直義のもっていた諸権限を義詮に与えた。尊氏の庶子で、直義の養子となっていた直冬(ただふゆ)も九州へと逐(お)われた。1350年(正平5・観応1)10月、直義は大和(やまと)に赴き、南朝へ降伏して師直誅伐(ちゅうばつ)の軍をおこした。翌1351年2月には、直義党の勢力は尊氏・師直派を圧倒し、ついに師直・師泰らは直義党の上杉能憲(よしのり)によって殺害された。尊氏は直義党の処置を怒り、諸将も2派に分かれて対立するに至った。こうして、直義と師直との対立抗争に端を発した観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)は、ついに尊氏・義詮派と直義・直冬党との全面的な対立へと発展し、8月、直義は北国へと逃走した。直義は北国から関東へと逃れたが、尊氏は直義討伐軍を率いて追撃し、1352年(正平7・文和1)1月には鎌倉へ入り、翌月、直義を毒殺した。尊氏は以後1年有半を関東で過ごすが、それは、新田義興(よしおき)の挙兵によって混乱した東国の政情を回復せんがための日々であった。尊氏が鎌倉より京都に帰ったのは翌1353年9月のことであった。1355年(正平10・文和4)正月から3月にかけての直冬党の京都進攻を退けたのち、尊氏・義詮派はその勢力をようやく確立し、翌1356年1月には越前の斯波高経(しばたかつね)も復帰し、室町幕府は、観応の擾乱による痛手を回復するに至った。1358年(正平13・延文3)尊氏は九州への遠征を計画した。それは、菊池氏に擁立された懐良親王の南軍が、博多(はかた)に攻め入るなどして勢力を強化しつつある情況を一挙に打開せんがためであった。しかし病を得て、この計画を果たすまもなく、この年4月30日、京都二条万里小路(までのこうじ)邸で死去した。法名は仁山妙義。等持院殿。墓所は京都・等持院にある。
尊氏の人となりは、つねに直義と対比されるが、尊氏が八朔(はっさく)の贈り物を惜しげもなく人々に与えたのに対し、直義は八朔の習俗そのものを嫌い、贈り物を受け取らなかったといわれている。夢窓疎石(むそうそせき)は尊氏を、勇気、慈悲、無欲の三徳を兼備した前代未聞の将軍であったと評価している。尊氏は疎石に帰依して禅を学ぶ一方、地蔵信仰や聖天信仰などにも深く傾倒していた。
室町幕府の初代将軍。在職1338(延元3・暦応1)-58年。足利貞氏の次子,母は上杉頼重の女上杉清子。初名高氏,妻は鎌倉幕府執権北条(赤橋)守時の妹登子。足利氏は源氏将軍断絶後は清和源氏の嫡流として御家人の間で重んじられ,北条氏と肩を並べる存在であった。北条氏とは代々婚姻を重ね,その関係もはじめは良好であった。ところが,鎌倉後期になって,幕府政治が北条氏専制の傾向を強めていくと,しだいに圧迫を受けるようになり,高氏の祖父家時のころから源氏再興の志を抱くようになっていた。
1331年(元弘1)元弘の乱が起こると,前執権北条高時は,父貞氏の死去にあったばかりで,まだ仏事も済ませていない高氏に畿内出陣を命じた。高氏は幕府軍の一方の大将として参戦したものの,高時のこの処置に深い憤りを覚え,心中北条氏打倒の決意を固めたという。33年隠岐を脱出した後醍醐天皇を攻撃するため,高氏は幕命により再び西上したが,途中後醍醐天皇のもとに密使を遣わして綸旨を受け,丹波の篠村(しのむら)八幡宮で倒幕の旗を挙げた。そして密書を諸国の豪族に送って決起を呼びかけ,京都に攻め入って六波羅探題を滅ぼした。一方,関東では上野の新田義貞が挙兵南下して鎌倉を襲い,幕府は滅亡したが,このとき高氏の嫡子千寿王(義詮)が攻略軍に加わった。六波羅を攻略した高氏は京都に奉行所を設けて混乱の収拾にあたるとともに,諸国から上京してくる武士を傘下に収め,社寺や武士の所領に対する濫妨や東海道における狼藉を禁じるなど,いち早く全国の軍事警察権を掌握する構えを示す一方,一族を東下させて鎌倉をおさえた。後醍醐天皇が帰京して建武新政が始まると,高氏は勲功第一として天皇尊治の一字を賜って尊氏と改名し,高い官位を与えられたが,政治の中枢には加えられなかった。〈尊氏ナシ〉の言葉がささやかれる中で,尊氏は中央機関の職員に家臣の高師直(こうのもろなお)らを送りこんで新政への発言権を確保しつつ,諸国の武士の糾合に努め,弟足利直義を成良親王に付けて鎌倉に下して関東10ヵ国を掌握させるなど,幕府再興への足がかりを固めていき,34年(建武1)には尊氏の動きを阻もうとする護良親王を失脚させた。
翌年北条高時の遺子時行が関東で乱を起こすと,尊氏は乱鎮圧を名目に東下して鎌倉に入り(中先代の乱),新政府への反逆の態度を明らかにした。36年(延元1・建武3)には新田義貞軍を破って入京したが,まもなく京都を追われ九州に走った。途中持明院統の光厳上皇の院宣を受けて大義名分を得,態勢をたて直して再挙東上し,湊川で楠木正成軍を破って入京,光厳上皇の弟光明天皇を立て,建武式目を発布して室町幕府の開設を宣言した。後醍醐天皇は吉野に逃れ,朝廷を開いて尊氏に対抗したので,これより南北朝対立の時代となる。南朝側は各地に拠点を設けて勢力の扶植を図ったが,新田義貞,北畠顕家らの有力武将が戦死し,ついで後醍醐天皇が没すると,しだいに振るわなくなった。尊氏はこの間38年に北朝より征夷大将軍に任命され,内乱は終息の方向にむかうかにみえたが,やがて幕府内部の抗争が表面化し,50年(正平5・観応1)直義の挙兵によって新たな争乱(観応の擾乱(じようらん))が起き,これが南北朝の対立と結びついて,より深刻な様相を呈するに至った。幕府は創業以来尊氏と直義の二頭政治で,権力が二分されていたところから,尊氏の執事高師直と直義との間に対立が生じ,それがさらに尊氏と直義の抗争に発展していったのである。足利一族や諸将も二派に分かれ,両派は互いに他を圧倒するために,その時々の情勢で南朝と結ぶという事態が現出した。尊氏は51年直義を下し,翌年これを毒殺したが,その後も直義の養子直冬(尊氏の庶子)ら直義派の抵抗は止まず,京都を占領されることも一再ではなかった。尊氏はその対策に苦慮する中で,58年病のために死去した。54歳。法名等持院殿仁山妙義,関東では長寿寺殿と呼ばれた。
尊氏の一生は戦陣往来の一生であった。戦陣にあって怖畏の心なく,人を憎むこと少なく,度量広大で物惜しみすることがなかったといわれ,将器たるにふさわしい人物であったが,一面弱気なところもあり,この尊氏がよく時代の趨勢を察し決然立って幕府再興の大業を成し遂げることができたのは,沈着冷静な弟直義の補佐があったからであった。尊氏は信仰心が厚く,夢窓疎石に帰依し,天竜寺を創建して後醍醐天皇の菩提をとむらったり,直義と相談して戦没者の霊を慰めるために国ごとに安国寺と利生塔を建てたりした。また,地蔵菩薩を信仰し,みずから画筆をとって尊像を描くなどした。和歌にもすぐれ,《等持院殿御百首》《等持院贈左府御集》の家集がある。
同じ南北朝時代に活躍した他の武将たちとちがって,尊氏には心理・行動両面での複雑さがみとめられ,それが一つの魅力でもある。1336年2月の筑前多々良浜の戦にさいしては,菊池方の大軍を前にしてたじろぎ,いっそ切腹しようなどと口走って弟の直義につよくいさめられ,また投降してきた敵将の本意を疑ったので部下の高(こう)駿河守から,大功をなすにはあまりに人心を疑ってはならぬと進言されて気をとり直したという(《太平記》巻十六)。小心と狭量をうかがわせる挿話である。反対に《梅松論》が伝える夢窓疎石の尊氏評は,一に心が強く,二に慈悲心があり,三に〈御心広大にして物惜(ものおしみ)の気なく……〉であった。しばしばとりあげられる建武3年8月17日付の尊氏自筆願文(京都清水寺に奉納)は,早く遁世(とんせい)(脱俗)して,すべてを直義にゆずりたいと祈願したものであるが,これについても直義への誠実で優しい本意の表現とみる通説に対して,光厳上皇と後醍醐天皇との板挟みで世事すべてめんどうくさくなったからとみる説,八方美人なくせに投げやりな面のある彼が,後醍醐天皇との政治折衝をいとい,すべてを直義に預けようとしたとみる説,要するに弟への思いやりを表立てながら,実は弟を巧みに操縦する策に出たとみる説等々があって,尊氏の人柄の複雑さをしのばせている。楠木正成や新田義貞を〈忠臣〉とし,尊氏を〈逆賊〉とする見方は近世に発するが,1911年の〈南北朝正閏問題〉で〈南朝〉を正統と定められて以降,尊氏の〈逆賊〉観は国定教科書や諸文芸をつうじて国民に浸透させられたが,45年の敗戦後はその歴史的評価も一変し,14世紀の日本社会の進歩をになった人物として正当な位置づけを得た。
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