室町幕府の初代将軍。在職1338(延元3・暦応1)-58年。足利貞氏の次子,母は上杉頼重の女上杉清子。初名高氏,妻は鎌倉幕府執権北条(赤橋)守時の妹登子。足利氏は源氏将軍断絶後は清和源氏の嫡流として御家人の間で重んじられ,北条氏と肩を並べる存在であった。北条氏とは代々婚姻を重ね,その関係もはじめは良好であった。ところが,鎌倉後期になって,幕府政治が北条氏専制の傾向を強めていくと,しだいに圧迫を受けるようになり,高氏の祖父家時のころから源氏再興の志を抱くようになっていた。
1331年(元弘1)元弘の乱が起こると,前執権北条高時は,父貞氏の死去にあったばかりで,まだ仏事も済ませていない高氏に畿内出陣を命じた。高氏は幕府軍の一方の大将として参戦したものの,高時のこの処置に深い憤りを覚え,心中北条氏打倒の決意を固めたという。33年隠岐を脱出した後醍醐天皇を攻撃するため,高氏は幕命により再び西上したが,途中後醍醐天皇のもとに密使を遣わして綸旨を受け,丹波の篠村(しのむら)八幡宮で倒幕の旗を挙げた。そして密書を諸国の豪族に送って決起を呼びかけ,京都に攻め入って六波羅探題を滅ぼした。一方,関東では上野の新田義貞が挙兵南下して鎌倉を襲い,幕府は滅亡したが,このとき高氏の嫡子千寿王(義詮)が攻略軍に加わった。六波羅を攻略した高氏は京都に奉行所を設けて混乱の収拾にあたるとともに,諸国から上京してくる武士を傘下に収め,社寺や武士の所領に対する濫妨や東海道における狼藉を禁じるなど,いち早く全国の軍事警察権を掌握する構えを示す一方,一族を東下させて鎌倉をおさえた。後醍醐天皇が帰京して建武新政が始まると,高氏は勲功第一として天皇尊治の一字を賜って尊氏と改名し,高い官位を与えられたが,政治の中枢には加えられなかった。〈尊氏ナシ〉の言葉がささやかれる中で,尊氏は中央機関の職員に家臣の高師直(こうのもろなお)らを送りこんで新政への発言権を確保しつつ,諸国の武士の糾合に努め,弟足利直義を成良親王に付けて鎌倉に下して関東10ヵ国を掌握させるなど,幕府再興への足がかりを固めていき,34年(建武1)には尊氏の動きを阻もうとする護良親王を失脚させた。
翌年北条高時の遺子時行が関東で乱を起こすと,尊氏は乱鎮圧を名目に東下して鎌倉に入り(中先代の乱),新政府への反逆の態度を明らかにした。36年(延元1・建武3)には新田義貞軍を破って入京したが,まもなく京都を追われ九州に走った。途中持明院統の光厳上皇の院宣を受けて大義名分を得,態勢をたて直して再挙東上し,湊川で楠木正成軍を破って入京,光厳上皇の弟光明天皇を立て,建武式目を発布して室町幕府の開設を宣言した。後醍醐天皇は吉野に逃れ,朝廷を開いて尊氏に対抗したので,これより南北朝対立の時代となる。南朝側は各地に拠点を設けて勢力の扶植を図ったが,新田義貞,北畠顕家らの有力武将が戦死し,ついで後醍醐天皇が没すると,しだいに振るわなくなった。尊氏はこの間38年に北朝より征夷大将軍に任命され,内乱は終息の方向にむかうかにみえたが,やがて幕府内部の抗争が表面化し,50年(正平5・観応1)直義の挙兵によって新たな争乱(観応の擾乱(じようらん))が起き,これが南北朝の対立と結びついて,より深刻な様相を呈するに至った。幕府は創業以来尊氏と直義の二頭政治で,権力が二分されていたところから,尊氏の執事高師直と直義との間に対立が生じ,それがさらに尊氏と直義の抗争に発展していったのである。足利一族や諸将も二派に分かれ,両派は互いに他を圧倒するために,その時々の情勢で南朝と結ぶという事態が現出した。尊氏は51年直義を下し,翌年これを毒殺したが,その後も直義の養子直冬(尊氏の庶子)ら直義派の抵抗は止まず,京都を占領されることも一再ではなかった。尊氏はその対策に苦慮する中で,58年病のために死去した。54歳。法名等持院殿仁山妙義,関東では長寿寺殿と呼ばれた。
尊氏の一生は戦陣往来の一生であった。戦陣にあって怖畏の心なく,人を憎むこと少なく,度量広大で物惜しみすることがなかったといわれ,将器たるにふさわしい人物であったが,一面弱気なところもあり,この尊氏がよく時代の趨勢を察し決然立って幕府再興の大業を成し遂げることができたのは,沈着冷静な弟直義の補佐があったからであった。尊氏は信仰心が厚く,夢窓疎石に帰依し,天竜寺を創建して後醍醐天皇の菩提をとむらったり,直義と相談して戦没者の霊を慰めるために国ごとに安国寺と利生塔を建てたりした。また,地蔵菩薩を信仰し,みずから画筆をとって尊像を描くなどした。和歌にもすぐれ,《等持院殿御百首》《等持院贈左府御集》の家集がある。
同じ南北朝時代に活躍した他の武将たちとちがって,尊氏には心理・行動両面での複雑さがみとめられ,それが一つの魅力でもある。1336年2月の筑前多々良浜の戦にさいしては,菊池方の大軍を前にしてたじろぎ,いっそ切腹しようなどと口走って弟の直義につよくいさめられ,また投降してきた敵将の本意を疑ったので部下の高(こう)駿河守から,大功をなすにはあまりに人心を疑ってはならぬと進言されて気をとり直したという(《太平記》巻十六)。小心と狭量をうかがわせる挿話である。反対に《梅松論》が伝える夢窓疎石の尊氏評は,一に心が強く,二に慈悲心があり,三に〈御心広大にして物惜(ものおしみ)の気なく……〉であった。しばしばとりあげられる建武3年8月17日付の尊氏自筆願文(京都清水寺に奉納)は,早く遁世(とんせい)(脱俗)して,すべてを直義にゆずりたいと祈願したものであるが,これについても直義への誠実で優しい本意の表現とみる通説に対して,光厳上皇と後醍醐天皇との板挟みで世事すべてめんどうくさくなったからとみる説,八方美人なくせに投げやりな面のある彼が,後醍醐天皇との政治折衝をいとい,すべてを直義に預けようとしたとみる説,要するに弟への思いやりを表立てながら,実は弟を巧みに操縦する策に出たとみる説等々があって,尊氏の人柄の複雑さをしのばせている。楠木正成や新田義貞を〈忠臣〉とし,尊氏を〈逆賊〉とする見方は近世に発するが,1911年の〈南北朝正閏問題〉で〈南朝〉を正統と定められて以降,尊氏の〈逆賊〉観は国定教科書や諸文芸をつうじて国民に浸透させられたが,45年の敗戦後はその歴史的評価も一変し,14世紀の日本社会の進歩をになった人物として正当な位置づけを得た。
©2024 NetAdvance Inc. All rights reserved.