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  11. 足利尊氏

足利尊氏

ジャパンナレッジで閲覧できる『足利尊氏』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
足利尊氏
あしかがたかうじ
一三〇五 - 五八
室町幕府初代将軍。一三三八―五八在職。初名又太郎高氏。嘉元三年(一三〇五)出生。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。元応元年(一三一九)十五歳で従五位下治部大輔に叙任。六波羅探題北条久時の女登子赤橋氏(執権守時の妹)を迎えて妻とした。元弘元年(一三三一)八月後醍醐天皇の笠置挙兵にあたり、九月大仏(おさらぎ)貞直らとともに大将として西上、乱終って鎌倉に帰った。同二年従五位上に叙せられた。同三年二月、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆によるや、鎌倉幕府の命を受けて西上、その途中近江の鏡宿で綸旨を受け、四月丹波篠村八幡宮の社前で源氏再興、北条氏討伐の旗を挙げ、同時に密書を諸国の豪族に送って協力を求めた。ときに二十九歳。五月赤松則村・千種忠顕らとともに六波羅探題を攻め滅ぼし、京都に奉行所を置いて隠然たる勢力を得た。六月天皇が帰京すると、即日昇殿を許され、建武中興第一の功臣として、鎮守府将軍に任ぜられ、従四位下左兵衛督となり、天皇の諱の尊治の一字を与えられて尊氏と改めた。『神皇正統記』によると、このころ三ヵ国の国司と守護に任命され、あまたの郡荘を給わったとある。その三ヵ国とは武蔵・上総・常陸ともいわれるが、確証はない。しかし尊氏の本心は北条氏を打倒してみずからその地位に代わることであったから、征夷大将軍に補任されることを最大の目標とし、公家の中心人物であった護良親王がそれに任ぜられることを不満とし、さきに設けた奉行所を解散せず、着々地方の武士を糾合した。ここに護良親王は尊氏に逆心ありと称し、天皇も新設の機関たる記録所・恩賞方の職員に尊氏を警戒して参加させなかった。しかし尊氏の勢いは無視し難く、建武元年(一三三四)正月五日には正三位となり、八月雑訴決断所の改組に際し、尊氏の執事高師直以下の尊氏派が多数参加、九月尊氏は参議に進んだ。さらに十一月尊氏は天皇に迫って護良親王を逮捕し、身柄を弟直義の守る鎌倉に移すことに成功した。護良親王が失脚すると、中央では新田義貞が尊氏と正面から対決することとなった。同二年六月、信濃に兵を挙げた北条時行は、七月鎌倉に攻め入り、尊氏の弟直義はその混乱のうちに護良親王を殺した。尊氏は乱の鎮圧を名目として、征夷大将軍の地位を奏請したが、天皇はこれを許さず、成良親王をこれに任命した。尊氏は許されないまま東下したため、天皇は改めて尊氏に征東将軍の号を授けた。尊氏は時行の軍を撃破しつつ、八月直義とともに鎌倉を奪回した。天皇は尊氏の功を賞して従二位に昇叙し、上洛を促したが、尊氏は直義の諫めによって鎌倉を動かず、十一月直義の名で義貞誅伐の檄文を諸国に伝えた。尊氏の叛意が明らかになると、朝廷では尊氏の官爵を削り、北畠顕家と新田義貞に尊氏討伐を命じた。尊氏はいったんは鎌倉に閉居したが、直義の軍が義貞の軍に敗れたことを聞いて、ようやく立ち上がり、義貞を箱根竹ノ下に破って西上、建武三年正月入京し、天皇の軍を叡山に破った。しかしまもなく入京してきた顕家らの軍に敗れていったん西走、途中持明院統の光厳上皇の院宣を受け、一族を四国・中国に配置しつつ、九州に下った。やがて勢力をもり返して水陸から進み、楠木正成を兵庫湊川に倒し、六月再び入京、京都近傍の政府軍を完全に撃破した。七月光厳上皇の弟豊仁(ゆたひと)親王は即位して光明天皇となり、後醍醐天皇は花山院に軟禁され、十一月神器を光明天皇に引き渡し、十二月、吉野に脱出して南朝を立てた。尊氏は神器の授受が終った五日後、同三年十一月七日『建武式目』十七ヵ条を制定した。これは尊氏の施政方針とも見るべきもので、これをもって尊氏の幕府開設の第一声となすことができる。尊氏の南軍攻撃はまずその主力とみられる越前の新田義貞に向けられた。高師直の弟師泰は、同四年越前の金崎城を攻めてこれをおとし、恒良親王をとらえ、尊良親王を自殺させた。北畠顕家も陸奥から西上したが、暦応元年(延元三、一三三八)和泉の堺浦石津で戦死し、新田義貞も越前藤島で戦死した。ここに北朝は同年八月、尊氏を征夷大将軍に任命、南軍不振のうちに、翌二年後醍醐天皇も吉野の行宮で世を去り、後村上天皇が践祚した。尊氏・直義はこれを悼み、その百箇日に盛大な仏事を修め、また京都に天竜寺を創建してその菩提を弔った。この造営費用を得んため、貿易船(天竜寺船)を元に送った。こうして武家・北朝方の優位は確立するかに見えたが、その幕府の中で、尊氏党と直義党との内訌が生じ、吉野に拠る南朝と三者互いに対立抗争を続けることになった。元来尊氏は元弘の挙兵以来直義と苦労をともにし、建武三年八月、清水寺に自筆の願文を納めて、現世の幸福は直義に与え給えと祈ったほどの仲であった。暦応元年諸国に安国寺を置き、利生塔を建てたのも、直義の助けによるものであった。内乱開始以来、尊氏が将軍として家人統制にあたり、恩賞方を所管し、守護の任免権を掌握したのに対し、直義は尊氏から政務をまかされ、引付方を所管して裁判権を統括した。しかし内乱開始以来十年も経つと、この権力二分の両頭政治にもひびがはいり、政務を総轄する直義に声望が加わり、尊氏の執事高師直との対立がはげしくなった。貞和三年(正平二、一三四七)、南朝の攻勢が開始されたが、翌四年師直は楠木正行らの軍を破り、勢いに乗じて直義を討とうとはかった。尊氏は師直をおさえる一方、直義を退け、尊氏の子の義詮を鎌倉から迎えてこれに政務をとらせ、実権を師直に与えた。そのころ尊氏の庶子の直冬は、直義の養子となり、中国地方の管轄にあたっていたが、師直は直冬を九州に追うとともに、直義の引退をせまった。直義はこの圧力に屈していったんは出家したが、観応元年(正平五、一三五〇)十月、大和に走って南朝に講和を申し入れ、南軍の協力を得て師直誅伐の軍を起した。一方直冬はこの年兵を挙げ中国地方に戻って勢いを振るい、尊氏はこれを討つため京を留守にした。直義はその不在に乗じ、後村上天皇を奉じて男山八幡に進出し、さらに京に入って義詮を丹波に走らせた。観応二年二月、尊氏は直義党の優勢となるのを見て、直義と和を結んだが、その直後高師直・師泰兄弟が上杉能憲らに殺害された。尊氏は直義の処置を不満とし、諸将も二派に分かれて対立、ここに直義と師直の争いは尊氏・義詮と直義・直冬の対立となり、諸国の守護がこれに加わって、十数年にわたる全国的な動乱となった。これを観応擾乱という。尊氏・義詮の党はこの間に勢いをもりかえし、直義を北陸に追うとともに、南朝に一時降服し、みずから直義討伐のため関東に向かった。尊氏の軍は直義の党を各地で破り、ついに直義を降して、翌文和元年(正平七、一三五二)鎌倉に入った。直義はその後まもなく二月鎌倉で急死したが、これはそのころ新田義興らが兵を上野・武蔵に起して勢い盛んであったため、尊氏が将来の不安を断つため、直義を毒殺したのだといわれる。尊氏はその後子の基氏を鎌倉に留めてみずから義興の軍と戦い、一年半にわたる苦戦の末これを破った。しかしこの間に直義党の直冬は北陸の諸将や南軍の協力を得て、同二年京都占領に成功し、義詮を近江国に走らせた。まもなく義詮は京都を回復、尊氏も鎌倉から京都に帰った。ついで同四年にも直冬党の京都進入が行われたが、尊氏・義詮はこれを撃退、直義・直冬党の活動も一応終りを告げ、延文元年(正平十一、一三五六)には越前国の斯波高経も復帰した。ただ九州では懐良親王が菊池氏に擁せられ、文和四年博多に攻め入り大いに気勢をあげていた。尊氏はこの九州の情勢を苦慮して、延文三年九州行を計画したが、病のため果たさず、その年の四月三十日京都二条万里小路邸で五十四歳をもって死去した。六月尊氏は従一位左大臣を贈られ、長禄元年(一四五七)には太政大臣を追贈された。法名は仁山妙義、等持院殿、鎌倉では長寿寺殿といわれた。墓は京都市等持院。尊氏については山路愛山が明治の末、時代を代表する英雄と称えているが、南北朝正閏論が起って以来、逆臣として評価され、大正六年(一九一七)辻善之助が尊氏の政治行動をその信仰と関連して弁護したのを最後に、ことに太平洋戦争中は右翼によって筆誅を加えられた。戦後は古代王朝権力を打破して歴史を進展させた歴史的な人物であるとする説が有力となり、松本新八郎のごとく尊氏をもって革命勢力の組織者=指導者なりとする説さえあらわれた。→元弘の乱(げんこうのらん),→建武新政(けんむのしんせい)
[参考文献]
『大日本史料』六ノ二一 延文三年四月三十日条、高柳光寿『足利尊氏』、辻善之助「足利尊氏の信仰」(『人物論叢』所収)
(豊田 武)


世界大百科事典
足利尊氏
あしかがたかうじ
1305-58(嘉元3-正平13・延文3)

室町幕府の初代将軍。在職1338(延元3・暦応1)-58年。足利貞氏の次子,母は上杉頼重の女上杉清子。初名高氏,妻は鎌倉幕府執権北条(赤橋)守時の妹登子。足利氏は源氏将軍断絶後は清和源氏の嫡流として御家人の間で重んじられ,北条氏と肩を並べる存在であった。北条氏とは代々婚姻を重ね,その関係もはじめは良好であった。ところが,鎌倉後期になって,幕府政治が北条氏専制の傾向を強めていくと,しだいに圧迫を受けるようになり,高氏の祖父家時のころから源氏再興の志を抱くようになっていた。

1331年(元弘1)元弘の乱が起こると,前執権北条高時は,父貞氏の死去にあったばかりで,まだ仏事も済ませていない高氏に畿内出陣を命じた。高氏は幕府軍の一方の大将として参戦したものの,高時のこの処置に深い憤りを覚え,心中北条氏打倒の決意を固めたという。33年隠岐を脱出した後醍醐天皇を攻撃するため,高氏は幕命により再び西上したが,途中後醍醐天皇のもとに密使を遣わして綸旨を受け,丹波の篠村(しのむら)八幡宮で倒幕の旗を挙げた。そして密書を諸国の豪族に送って決起を呼びかけ,京都に攻め入って六波羅探題を滅ぼした。一方,関東では上野の新田義貞が挙兵南下して鎌倉を襲い,幕府は滅亡したが,このとき高氏の嫡子千寿王(義詮)が攻略軍に加わった。六波羅を攻略した高氏は京都に奉行所を設けて混乱の収拾にあたるとともに,諸国から上京してくる武士を傘下に収め,社寺や武士の所領に対する濫妨や東海道における狼藉を禁じるなど,いち早く全国の軍事警察権を掌握する構えを示す一方,一族を東下させて鎌倉をおさえた。後醍醐天皇が帰京して建武新政が始まると,高氏は勲功第一として天皇尊治の一字を賜って尊氏と改名し,高い官位を与えられたが,政治の中枢には加えられなかった。〈尊氏ナシ〉の言葉がささやかれる中で,尊氏は中央機関の職員に家臣の高師直(こうのもろなお)らを送りこんで新政への発言権を確保しつつ,諸国の武士の糾合に努め,弟足利直義を成良親王に付けて鎌倉に下して関東10ヵ国を掌握させるなど,幕府再興への足がかりを固めていき,34年(建武1)には尊氏の動きを阻もうとする護良親王を失脚させた。

翌年北条高時の遺子時行が関東で乱を起こすと,尊氏は乱鎮圧を名目に東下して鎌倉に入り(中先代の乱),新政府への反逆の態度を明らかにした。36年(延元1・建武3)には新田義貞軍を破って入京したが,まもなく京都を追われ九州に走った。途中持明院統の光厳上皇の院宣を受けて大義名分を得,態勢をたて直して再挙東上し,湊川で楠木正成軍を破って入京,光厳上皇の弟光明天皇を立て,建武式目を発布して室町幕府の開設を宣言した。後醍醐天皇は吉野に逃れ,朝廷を開いて尊氏に対抗したので,これより南北朝対立の時代となる。南朝側は各地に拠点を設けて勢力の扶植を図ったが,新田義貞,北畠顕家らの有力武将が戦死し,ついで後醍醐天皇が没すると,しだいに振るわなくなった。尊氏はこの間38年に北朝より征夷大将軍に任命され,内乱は終息の方向にむかうかにみえたが,やがて幕府内部の抗争が表面化し,50年(正平5・観応1)直義の挙兵によって新たな争乱(観応の擾乱(じようらん))が起き,これが南北朝の対立と結びついて,より深刻な様相を呈するに至った。幕府は創業以来尊氏と直義の二頭政治で,権力が二分されていたところから,尊氏の執事高師直と直義との間に対立が生じ,それがさらに尊氏と直義の抗争に発展していったのである。足利一族や諸将も二派に分かれ,両派は互いに他を圧倒するために,その時々の情勢で南朝と結ぶという事態が現出した。尊氏は51年直義を下し,翌年これを毒殺したが,その後も直義の養子直冬(尊氏の庶子)ら直義派の抵抗は止まず,京都を占領されることも一再ではなかった。尊氏はその対策に苦慮する中で,58年病のために死去した。54歳。法名等持院殿仁山妙義,関東では長寿寺殿と呼ばれた。

尊氏の一生は戦陣往来の一生であった。戦陣にあって怖畏の心なく,人を憎むこと少なく,度量広大で物惜しみすることがなかったといわれ,将器たるにふさわしい人物であったが,一面弱気なところもあり,この尊氏がよく時代の趨勢を察し決然立って幕府再興の大業を成し遂げることができたのは,沈着冷静な弟直義の補佐があったからであった。尊氏は信仰心が厚く,夢窓疎石に帰依し,天竜寺を創建して後醍醐天皇の菩提をとむらったり,直義と相談して戦没者の霊を慰めるために国ごとに安国寺と利生塔を建てたりした。また,地蔵菩薩を信仰し,みずから画筆をとって尊像を描くなどした。和歌にもすぐれ,《等持院殿御百首》《等持院贈左府御集》の家集がある。
[小谷 俊彦]

尊氏の人物像

同じ南北朝時代に活躍した他の武将たちとちがって,尊氏には心理・行動両面での複雑さがみとめられ,それが一つの魅力でもある。1336年2月の筑前多々良浜の戦にさいしては,菊池方の大軍を前にしてたじろぎ,いっそ切腹しようなどと口走って弟の直義につよくいさめられ,また投降してきた敵将の本意を疑ったので部下の高(こう)駿河守から,大功をなすにはあまりに人心を疑ってはならぬと進言されて気をとり直したという(《太平記》巻十六)。小心と狭量をうかがわせる挿話である。反対に《梅松論》が伝える夢窓疎石の尊氏評は,一に心が強く,二に慈悲心があり,三に〈御心広大にして物惜(ものおしみ)の気なく……〉であった。しばしばとりあげられる建武3年8月17日付の尊氏自筆願文(京都清水寺に奉納)は,早く遁世(とんせい)(脱俗)して,すべてを直義にゆずりたいと祈願したものであるが,これについても直義への誠実で優しい本意の表現とみる通説に対して,光厳上皇と後醍醐天皇との板挟みで世事すべてめんどうくさくなったからとみる説,八方美人なくせに投げやりな面のある彼が,後醍醐天皇との政治折衝をいとい,すべてを直義に預けようとしたとみる説,要するに弟への思いやりを表立てながら,実は弟を巧みに操縦する策に出たとみる説等々があって,尊氏の人柄の複雑さをしのばせている。楠木正成や新田義貞を〈忠臣〉とし,尊氏を〈逆賊〉とする見方は近世に発するが,1911年の〈南北朝正閏問題〉で〈南朝〉を正統と定められて以降,尊氏の〈逆賊〉観は国定教科書や諸文芸をつうじて国民に浸透させられたが,45年の敗戦後はその歴史的評価も一変し,14世紀の日本社会の進歩をになった人物として正当な位置づけを得た。
[横井 清]

[索引語]
足利直義 長寿寺殿 等持院殿御百首
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日本歴史地名大系
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40. あえば-うじなお【饗庭氏直】
日本人名大辞典
1335−? 南北朝時代の武将,歌人。建武(けんむ)2年生まれ。足利尊氏につかえ,観応(かんのう)3=正平(しょうへい)7年(1352)尊氏の新田義興・義宗との ...
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日本歴史地名大系
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43. あおきほ【青木保】新潟県:佐渡郡/新穂村
日本歴史地名大系
青木に所在したと思われる保。康永三年(一三四四)一一月一六日の足利尊氏寄進状(園城寺文書)によれば、飛騨国内の所領の替地として近江園城寺に「青木」保の地頭職など ...
44. あおぢかむら【青近村】広島県:世羅郡/甲山町
日本歴史地名大系
顕連の代官らが入込んで所務を違乱(貞和五年二月日付「備後国大田庄雑掌勝円申状」同文書)、同年三月一四日、足利尊氏は先の下知状のとおり顕連に沙汰するよう細川頼春に ...
45. あおぬまごう【青沼郷】山梨県:甲府市/旧山梨郡地区/西青沼村
日本歴史地名大系
た。金子氏は安芸国温科村(現広島市東区)の地頭職を相伝した一族であるが、信泰は観応の擾乱の際足利尊氏方の甲斐守護武田信武に従っていたらしい。貞治三年(一三六四) ...
46. 青野ヶ原の戦
世界大百科事典
発して再び西上の途につき,12月末いったん鎌倉を占拠し,1月には東海道の足利方を連破して美濃に入った。足利尊氏・直義は高師冬ついで高師泰らを派し,美濃守護土岐頼 ...
47. あおやぎのしょう【青柳庄】岡山県:苫田郡/加茂町/青柳村
日本歴史地名大系
含む一帯に推定される。建武三年(一三三六)一一月二六日、本圀寺(現京都市山科区)に造営料所として寄進された(「足利尊氏寄進状」本圀寺文書)。貞和二年(一三四六) ...
48. 赤池
日本大百科全書
ている。北九州国定公園の福智山や、筑豊県立自然公園の白糸(しらいと)ノ滝を中心とした上野峡、足利尊氏(あしかがたかうじ)の寄進で名高い興国寺(こうこくじ)などが ...
49. あかいしむら【明石村】宮城県:黒川郡/富谷町
日本歴史地名大系
後者には坂上田村麻呂の伝説が付随して伝わる(富谷町誌)。文和元年(一三五二)一二月二三日付留守持家宛足利尊氏御判御教書(留守文書)にみえる南迫七ヵ村の一と思われ ...
50. あかくらやま【赤蔵山】石川県:鹿島郡/田鶴浜町/三引村
日本歴史地名大系
し、愚淵を当山にとどめ、諸堂を建立して社領を寄進したと伝える。観応二年(一三五一)八月一八日足利尊氏方の吉見氏頼軍が、越中から乱入した足利直義方の桃井直信勢と戦 ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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