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  11. 道鏡
新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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新版 日本架空伝承人名事典
道鏡
どうきょう
?‐772(宝亀3)
 奈良後期の政治家、僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現、八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』等時代の下る書に見える。後者は『続日本紀』天平宝字八年(七六四)九月甲寅条の詔に「この禅師の昼夜朝庭を護り仕え奉るを見るに先祖の大臣として仕へ奉りし位名を継がむと……」とある。前者の説は、河内若江郡と志紀郡と両方に弓削氏の氏神式内社弓削神社があり、弓削一族が志紀郡に居住していたことから付会されたものか。後者は先祖の大臣は物部守屋と推定されるが、弓削連氏は物部大連氏に隷属して弓を削り製造する部の族長で、守屋の子孫か否かは不明だが、守屋が物部弓削大連と称したことはなんらかの関係を推定させる。
 道鏡は僧正義淵の弟子といわれ、若年に葛木山に入って如意輪法を修して苦行無極と称せられた。七四七年(天平一九)一月の『正倉院文書』に東大寺良弁大徳御所使沙弥としてみえるのが初見。良弁の弟子であったらしい。その後禅行が聞こえて宮中の内道場に入り禅師となり、密教経典と梵文に通じた。七六一年より翌年にかけ孝謙上皇が近江保良宮ほらのみやに滞在中、七六二年四月に病気となった際、道鏡は宿曜秘法を修して看病し、病を癒して寵幸を得た。それを淳仁天皇が非難したので上皇は怒って平城京に還り、法華寺で出家、六月詔して「天皇は小事のみ行え、国家の大事と賞罰の二権は朕が行う」と宣した。天皇を操って政権を握っていた藤原仲麻呂は権勢を失い、七六四年九月一一日謀反を企て、権力を奪還しようとしたが敗れて殺された(恵美押勝の乱)。上皇は淳仁天皇を廃して重祚した。称徳天皇である。道鏡は九月二〇日大臣禅師に任ぜられて政権を握り、翌年(天平神護一)閏一〇月天皇の弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられた。僧侶が最高権力の地位についたのも異例であるが、さらに七六六年、法王という未曾有の官に任ぜられ、翌年法王宮職が設置された。月料は天皇の供御に准ぜられ、人臣最高の地位に昇った。
 道鏡は仏教重視、公卿抑圧の政策をとり、放鷹司を廃して放生司を置き、猟を禁じ、肉魚を御贄に奉ることを禁じ、貴族の墾田をいっさい禁じたが寺院のそれは認め、百姓の一、二町は許した。東大寺に対抗して西大寺、西隆寺を建立し莫大の財を費やした。道鏡におもねるものが各地から奇跡、祥瑞を報告し、献上した。自分からも策謀し、彼の徳政を天がよみすると宣伝した。その最大の事件が宇佐八幡宮神託事件で、七六九年(神護景雲三)「道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん」と宇佐八幡の神託の奏上があった。これは道鏡の弟の大宰帥弓削浄人と大宰主神中臣習宜阿曾麻呂と八幡神職団の共謀であったが、和気清麻呂が勅使として派遣され、その謀を見破り、道鏡をしりぞけよとの神託を復命、道鏡の企ては破れた。天皇は七七〇年(宝亀一)由義宮ゆげのみやに滞在中病となり、同八月に没した。道鏡は下野薬師寺別当に左遷され、七七二年その地で死んだ。
[横田 健一]
又同じ大后の坐しましし時に、天の下の国を挙りて歌詠ひて言はく、
法師等を裙著とな侮りそ。之が中に要帯薦槌懸レルゾ。弥発つ時々、畏き卿や。
又咏ひて言はく、
我が黒みそひ股に宿給へ、人と成るまで。
是くの如く歌咏ひつ。帝姫阿倍の天皇の御世の、天平神護元年歳の乙巳に次れる年の始に、弓削の氏の僧道鏡法師、皇后と同じ枕に交通し、天の下の政を相摂りて、天の下を治む。彼の咏歌は、是れ道鏡法師が皇后と同じ枕に交通し、天の下の政を摂りし表答なり。
日本霊異記下巻「災と善との表相先づ現はれて、後に其の災と善との答を被る縁」
道鏡は坐ルとひざが三ツ出来
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):桜‐2
刊行/開き:1763(宝暦13年)(開き)
道鏡は人間にてはよもあらじ
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):松‐6
刊行/開き:1766年(明和3)(開き)
道鏡巨根説は古くから行われた。正史にも「法王道鏡、西の前殿に昼す」(『続日本紀』巻二十九)とあり、孝謙女帝と夫婦同然であったと推測され、後には「……即ち孝謙帝の夫なり、馬陰にはかるに過ぎたり、わらうべし」とまで誇張されるにいたった。第一句、ヒザ三ツとは「馬敬礼」以上の代物、したがって第二句の感想となる。
仕殺したも知らず下野へ流罪
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『藐姑柳』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):19
刊行/開き:1785年(天明5)(刊)
女帝が没してからは、日ごろ憎まれていたために、即座に失脚、下野の薬師寺へ追放となった。


国史大辞典
道鏡
どうきょう
 - 七七二
奈良時代の政治家、僧侶。河内国若江郡弓削(ゆげ)郷(大阪府八尾市)の豪族弓削氏出身。弓削氏は、その北方渋川郷を本拠とする軍事氏族物部氏の配下で弓を製造する部の伴造。僧侶としては義淵僧正の弟子、のち東大寺の良弁の弟子となる。青年時代に郷里の東方の葛木(かつらぎ)山に籠り、苦行して如意輪法を修行し、験力を得たという(『七大寺年表』)。ほぼ梵文にわたるという(『続日本紀』)。サンスクリットも学んだようである。天平宝字六年(七六二)四月、近江国石山保良宮に滞在中の孝謙上皇の病気を宿曜(すくよう)秘法を用いて治療して(高山寺蔵『宿曜占文抄』所引道鏡伝)、上皇の寵を得た。同四月二十三日に如意輪観音を本尊とする大和飛鳥の岡寺に越前国江沼郡山背郷五十戸が施入されたことは、道鏡の治療に如意輪法を用いたことへの報賽であろう。岡寺は道鏡の師義淵の開創で、道鏡はここで義淵に就いて学んだと推定される。天平宝字八年九月、孝謙の寵を失った藤原仲麻呂が反し、十八日に敗死すると、二日後、道鏡は大臣禅師に任命された。その二十日後、淳仁天皇は廃位され、淡路に幽閉され、孝謙上皇は称徳天皇として再位した。翌天平神護元年(七六五)閏十月、道鏡は太政大臣禅師に任ぜられ、右大臣藤原豊成を超えて、臣下の最高位の官を得、政権を獲得し、腹心の円興を法臣に任じ、仏教重視の政治を開始した。天平宝字八年十月に放鷹司を廃して放生司を設置し、魚鳥類を山野に放ち、鷹や犬を養って狩猟漁撈をすることを禁じた。また神社への供物を除いて、諸国が宮中へ魚や肉を貢ぐことを禁じた。十一月には、諸国国分寺の造営を促進し、国郡司が寺の封田や財物を犯し用いることを禁じた。また称徳天皇が、仲麻呂(恵美押勝)の反乱平定を祈り発願した四天王像を安置する四王院を中心とする西大寺の建立を、天平神護元年より開始し、薬師堂・弥勒堂の建立、密教的諸像も多く造立し、壮麗宏大な寺の建造が進められた。西大寺は東大寺に対抗する意図があったと思われる。造東大寺長官佐伯今毛人が造西大寺長官に任ぜられたのも,その一証である。押勝の乱の平定を祈り、発願された百万塔の製作も大事業である。宝亀元年(七七〇)四月に完成した三重木製の小塔で、中に世界最古の印刷物といわれる木版と銅版印刷の『無垢浄光陀羅尼経』を納め、畿内十大寺に十万基ずつ奉納され、現在法隆寺に四万余基が残る。僧寺である西大寺に対し、尼寺の西隆寺の建設もすすめられた。天平神護元年三月には、寺院の墾田は、天平勝宝元年(七四九)に定められた限度内の墾田は認めたが、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法による権門勢家の墾田は厳禁した。大寺院の開墾は進んだが、貴族抑圧のこの法は貴族、豪族の反感を買い、道鏡失脚の遠因となった。僧尼は治部省から度縁を与えられて正式に僧尼となるが、道鏡は天平神護元年から治部省の印の代りに一切道鏡の私印を押させた。同年は非常な飢饉で米価が騰貴したので、二月に左右京備蓄穀の籾各二千石を東西市で、一斗百文で売らせ、四・五・六月に各一千石、計一万石を貧民に売らせ、大膳職の塩も売らせた。諸官司に三千三百石を売らせるほか、諸国の米・布などを売ったものに位を与えた。天平神護二年十月、道鏡配下の僧基真が隅寺(海竜王寺)の毘沙門天像胎内から、立派な仏舎利が出現したと上申した。これはのちに基真の詐欺とわかったが、天皇は道鏡の政治がすぐれているからと喜び、道鏡を法王に任じ、その月料は天皇の供御に准じた。神護景雲三年(七六九)初夏の候に宇佐八幡宮より「道鏡を天位につけたならば、天下太平ならん」との神託があり、和気清麻呂が勅命を受けて宇佐に詣で、神託を確めたが、初秋のころ、清麻呂は帰京し、神託は、「無道の人を排除せよ、天つ日嗣は皇緒を以てせよ」とあったと奏した。道鏡の野望は潰えたが故郷に由義宮を造営して西京と呼び、再度天皇の行幸を仰いで歓を尽くした。第二次行幸の宝亀元年四月の還幸後、天皇は病み、八月四日崩御した。道鏡は下野薬師寺別当に左遷され、同三年四月、この地で没し、庶人として葬られた。なお、正倉院に道鏡自筆の文書が残る。→宇佐神宮(うさじんぐう),→孝謙天皇(こうけんてんのう),→西大寺(さいだいじ),→太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ),→和気清麻呂(わけのきよまろ)
[参考文献]
横田健一『道鏡』(『人物叢書』一八)、平野邦雄『和気清麻呂』(同一二二)、北山茂夫『女帝と道鏡』(『中公新書』一九二)、滝川政次郎「法王と法王宮職」(『法制史論叢』四所収)
(横田 健一)


日本大百科全書(ニッポニカ)
道鏡
どうきょう
[?―772]

奈良後期の僧侶(そうりょ)、政治家。姓は弓削連(ゆげのむらじ)。河内(かわち)国若江郡(大阪府東大阪市若江)の人。出自に天智(てんじ)天皇皇子志貴(しき)(施基)親王の子説と、物部守屋(もののべのもりや)子孫説の2説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』など時代の降(くだ)る史料にみえる。河内弓削の地が若江郡、志紀郡にわたり、志紀(の人ということ)から志貴親王後胤説が出たものか。後者は『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)9月20日条の詔に「此禅師ノ昼夜朝廷ヲ護リ仕奉ルヲ見ルニ先祖ノ大臣トシテ仕奉リシ位名(物部守屋)ヲ継ガント……」とあるより推定される。守屋の子孫か否かは不明であるが物部氏に属した弓削部の伴造(とものみやつこ)であった。
 道鏡は義淵(ぎえん)僧正の弟子といわれ、若年に葛木(かつらぎ)山に入って如意輪(にょいりん)法を修して苦行無極と称せられた。文献上初見は747年(天平19)1月正倉院文書に東大寺良弁(ろうべん)大徳御所使沙弥(しゃみ)とあり、良弁の弟子でようやく得度(とくど)したばかりであったらしい。その後禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となった。密教経典と梵(ぼん)文を研究し、これに通じた。761年(天平宝字5)より翌762年にかけ孝謙(こうけん)上皇(女帝)が近江(おうみ)保良宮(ほらのみや)(石山寺北方)に行幸滞在中と、762年4月病んだ際に、道鏡が宿曜(すくよう)秘法を修して看病し、病を癒(いや)して寵幸(ちょうこう)を得た。それを淳仁(じゅんにん)天皇が非難したので、上皇と天皇との間が悪化した。上皇は怒って平城京に還(かえ)り、法華寺で出家、6月3日詔して天皇の大権を奪い、国家の大事と賞罰の二事は朕(ちん)が行うと宣した。天皇を動かして政権を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))は権勢を失った。道鏡は763年少僧都(しょうそうず)に任ぜられた。翌764年9月11日仲麻呂は謀反を企てたが敗れて殺された。孝謙は淳仁天皇を廃して称徳(しょうとく)天皇として重祚(ちょうそ)した。道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り、765年(天平神護1)閏(うるう)10月、天皇弓削寺行幸の際、太政(だいじょう)大臣禅師に任ぜられた。766年法王に任じ、月料は天皇の供御(くご)に准(じゅん)ぜられ、人臣最高の地位を極めた。
 道鏡の政治は仏教重視の政策で、放鷹(ほうよう)司を廃して放生(ほうじょう)司を置き、天下諸国に鷹(たか)、犬、鵜(う)を飼い猟をすること、肉、魚を御贄(にえ)として奉ることを禁じた。東大寺の向こうを張り西大寺、西隆寺を建立し莫大(ばくだい)な財を費やした。国分寺の復興修造に意を用い、諸大寺にしばしば天皇の行幸を仰いだ。765年貴族の墾田をいっさい禁じたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許した。767年(神護景雲1)阿波(あわ)国の王臣の功田、位田を収めて口分田(くぶんでん)として班給するなど、貴族を抑圧した。陸奥(むつ)国に伊治(いじ)城、桃生(もものう)城、筑前(ちくぜん)に怡土(いと)城を築き、水城を修理するなど辺境の防備を固めた。各地から道鏡におもねり奇跡、祥瑞(しょうずい)の報告、献上が相次いだが自分からも策謀し、彼の徳政を天が嘉(よみ)すると宣伝した。その最大のものが宇佐八幡(うさはちまん)神託事件である。769年「道鏡を天位に即(つ)かしめば、天下太平ならん」との宇佐八幡の神託があり、宮廷が動揺した。この神託は、当時大宰帥が道鏡の弟弓削浄人(きよひと)(生没年不詳)であるところから、大宰主神(かんづかさ)中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)(生没年不詳)と宇佐八幡宮の神官らとが共謀して演出したと考えられる。天皇は信任する法均尼(ほうきんに)(和気広虫(わけのひろむし))の弟清麻呂を勅使として宇佐に遣わし、神託を確認させた。清麻呂は帰京、神託を偽りとしたので道鏡は天位に即けなかった。清麻呂の背後には藤原氏ら貴族の援助があったかもしれぬ。道鏡は郷里河内弓削に由義宮(ゆげのみや)を建設、西京と号し、河内国を河内職と改め、三度行幸を仰いだ。770年(宝亀1)行幸中、天皇は発病、8月崩御し、道鏡は皇太子白壁(しらかべ)王(光仁(こうにん)天皇)により造下野(しもつけ)国薬師寺別当に左遷された。宝亀(ほうき)3年4月7日ここで死に、庶人として葬られた。
[横田健一]2017年9月19日



世界大百科事典
道鏡
どうきょう
?-772(宝亀3)

奈良後期の政治家,僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。後者は《続日本紀》天平宝字8年(764)9月甲寅条の詔に〈この禅師の昼夜朝庭を護り仕え奉るを見るに先祖の大臣として仕へ奉りし位名を継がむと……〉とある。前者の説は,河内若江郡と志紀郡と両方に弓削氏の氏神式内社弓削神社があり,弓削一族が志紀郡に居住していたことから付会されたものか。後者は先祖の大臣は物部守屋と推定されるが,弓削連氏は物部大連氏に隷属して弓を削り製造する部の族長で,守屋の子孫か否かは不明だが,守屋が物部弓削大連と称したことはなんらかの関係を推定させる。

 道鏡は僧正義淵の弟子といわれ,若年に葛木山に入って如意輪法を修して苦行無極と称せられた。747年(天平19)1月の《正倉院文書》に東大寺良弁大徳御所使沙弥としてみえるのが初見。良弁の弟子であったらしい。その後禅行が聞こえて宮中の内道場に入り禅師となり,密教経典と梵文に通じた。761年より翌年にかけ孝謙上皇が近江保良宮(ほらのみや)に滞在中,762年4月に病気となった際,道鏡は宿曜秘法を修して看病し,病を癒して寵幸を得た。それを淳仁天皇が非難したので上皇は怒って平城京に還り,法華寺で出家,6月詔して〈天皇は小事のみ行え,国家の大事と賞罰の二権は朕が行う〉と宣した。天皇を操って政権を握っていた藤原仲麻呂は権勢を失い,764年9月11日謀反を企て,権力を奪還しようとしたが敗れて殺された(恵美押勝の乱)。上皇は淳仁天皇を廃して重祚した。称徳天皇である。道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り,翌年(天平神護1)閏10月天皇の弓削寺行幸の際,太政大臣禅師に任ぜられた。僧侶が最高権力の地位についたのも異例であるが,さらに766年,法王という未曾有の官に任ぜられ,翌年法王宮職が設置された。月料は天皇の供御に准ぜられ,人臣最高の地位に昇った。

 道鏡は仏教重視,公卿抑圧の政策をとり,放鷹司を廃して放生司を置き,猟を禁じ,肉魚を御贄に奉ることを禁じ,貴族の墾田をいっさい禁じたが寺院のそれは認め,百姓の1,2町は許した。東大寺に対抗して西大寺,西隆寺を建立し莫大の財を費やした。道鏡におもねるものが各地から奇跡,祥瑞を報告し,献上した。自分からも策謀し,彼の徳政を天がよみすると宣伝した。その最大の事件が宇佐八幡宮神託事件で,769年(神護景雲3)〈道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん〉と宇佐八幡の神託の奏上があった。これは道鏡の弟の大宰帥弓削浄人と大宰主神中臣習宜阿曾麻呂と八幡神職団の共謀であったが,和気清麻呂が勅使として派遣され,その謀を見破り,道鏡をしりぞけよとの神託を復命,道鏡の企ては破れた。天皇は770年(宝亀1)由義宮(ゆげのみや)に滞在中病となり,同8月に没した。道鏡は下野薬師寺別当に左遷され,772年その地で死んだ。
[横田 健一]

[索引語]
弓削道鏡 物部守屋 孝謙上皇 称徳天皇 法王(日本史) 宇佐八幡宮神託事件
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日本国語大辞典
奈良時代の法相宗の僧。俗姓、弓削(ゆげ)。河内国(大阪府)の人。義淵に学び、大和国(奈良県)の葛城山で厳しい修行を行ない、天平宝字六年(七六二)孝謙上皇の病気平 ...
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国史大辞典
用いたことへの報賽であろう。岡寺は道鏡の師義淵の開創で、道鏡はここで義淵に就いて学んだと推定される。天平宝字八年九月、孝謙の寵を失った藤原仲麻呂が反し、十八日に ...
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日本架空伝承人名事典
あった。これは道鏡の弟の大宰帥弓削浄人と大宰主神中臣習宜阿曾麻呂と八幡神職団の共謀であったが、和気清麻呂が勅使として派遣され、その謀を見破り、道鏡をしりぞけよと ...
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慈訓 を解任し、 道鏡 を少僧都とする(続紀)。 764年〈天平宝字8 甲辰〉 9・20 道鏡 を大臣禅師とする(続紀)。 765年〈天平神護元(1・7) 乙巳 ...
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正式な道号はなかったが、寂後白隠慧鶴が的翁と諡し、文政二年(一八一九)の百年忌に法孫が花園第一座に昇位せしめ、道鏡の号を贈った。別に正受老人と呼ぶ。父は信濃松代 ...
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1642−1721 江戸時代前期-中期の僧。寛永19年10月22日生まれ。信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩主真田信之(のぶゆき)の子。臨済(りんざい) ...
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21. 食道鏡
日本大百科全書
内視鏡の一種。金属からなる硬性食道鏡とグラスファイバーよりなる軟性食道鏡がある。使用目的としては、種々の食道疾患に対して診断、組織生検、異物除去、早期食道癌(が ...
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23. 孝謙称徳天皇客人道鏡法王略縁起(著作ID:289292)
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25. 弓削道鏡物語(著作ID:1025678)
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国史大辞典
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ハ、例ノ片言ナルベシ、所〓祭弓削道鏡霊云々、或説宇治悪左府ヲ祭ルト」などと記す。平等院の鬼門に祀られることから平等院の創建当初に鎮 ...
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日本歴史地名大系
竹和山とよばれた。神護景雲三年(七六九)の宇佐八幡宮神託事件で勅使として派遣された和気清麻呂が道鏡に足の筋を切られて大隅に流されたが、宇佐宮の神告により竹和山麓 ...
32. あわのくに【阿波国】徳島県
日本歴史地名大系
担っていたのは粟凡直氏であり、同氏と造東大寺司とを結び付けたのは若子であるとみてよい。七六〇年代には奈良西大寺が道鏡政権のもとで庄園群を形成していき、そのなかに ...
33. いかん の 俗(ぞく)
日本国語大辞典
衣冠の姿をした俗体の男性。*源平盛衰記〔14C前〕一八・孝謙帝愛道鏡「奇雲聳(たなび)き来たって、松名が上に懸る。雲の中に衣冠(イクヮン)の俗(ゾク)ありて云は ...
34. い・ける【生・活・埋】
日本国語大辞典
やつでは無いと五両とり」*小学読本〔1874〕〈榊原・那珂・稲垣〉四「翌年光仁天皇御即位有りて道鏡をば命計をいけて下野国の薬師寺を造る別当にせられ」(2)死んだ ...
35. いせじんぐう【伊勢神宮】三重県:伊勢市
日本歴史地名大系
六の仏像が造られた。翌年伊勢国守から外宮上空に五色瑞雲が現れたことが上奏されると、天下の政事(道鏡を法王とするなど一連の仏教政治)が理にかない、三宝も諸天の神々 ...
36. いたのぐん【板野郡】徳島県
日本歴史地名大系
相当規模の庄園が宝亀年間以前に存在していたことは明らかである。天平神護元年(七六五)に伽藍が開かれた西大寺には道鏡政権下で膨大な庄園群が形成されており、板野郡の ...
37. いなづみごう【稲積郷】鹿児島県:大隅国/桑原郡
日本歴史地名大系
。同郷は現牧園町の中心部にあたるが、「続日本紀」神護景雲三年(七六九)九月二五日丑条には「於是道鏡大怒、解清麻呂本官(中略)除名配於大隅」とあるのみで、配流先の ...
38. いぶきさん【伊吹山】岐阜県:揖斐郡/春日村
日本歴史地名大系
(三代実録)。沙門三修は当山の山林修行者の指導者的存在であったと思われ、その弟子として安祥房・道鏡・名超童子・敏満童子などの名前を伝え(坂田郡大原観音寺文書)、 ...
39. いぶきやま【伊吹山】滋賀県:坂田郡/伊吹町
日本歴史地名大系
ている(三代実録)。三修は当山の山林修行者の指導者的な存在であったと思われ、弟子として安祥房・道鏡・名越童子・敏満童子などの名前が伝わり(大原観音寺文書)、伊吹 ...
40. いやまのしょう【井山庄】富山県:東礪波郡
日本歴史地名大系
志留志が墾田を寄進した天平神護期は恵美押勝がすでに失脚し僧道鏡が太政大臣ないし法王の位にあって権勢を振るった時期であり、志留志の寄進行為は道鏡政権の政策に対応す ...
41. 医療
世界大百科事典
もたらしている。内視鏡検査体腔内や臓器内腔を直接肉眼で観察できるようにくふうした器械を内視鏡というが,食道鏡,気管支鏡,胸腔鏡,腹腔鏡,関節鏡,膀胱鏡などがあっ ...
42. いん【陰】
日本国語大辞典
玉茎・玉門等之通称也〉蔭也。言其所在蔭翳也」*古事談〔1212~15頃〕一・称徳天皇御事「称徳天皇、道鏡之陰、猶不足に被〓思召 ...
43. いんがいかん【員外官】
国史大辞典
天平年間(七二九―四九)から員外国司があらわれ、員外官は長官を除く四等官から史生・郡司・軍毅にも及び、道鏡政権下ではことに増加した。特に弊害の多かったのは員外国 ...
44. うえまつむら【植松村】大阪府:八尾市地図
日本歴史地名大系
向かう道もあり、交通の要地を占める。村域の一部は長瀬川の北へも広がり、奈良時代に称徳天皇が弓削道鏡とともに参詣した竜華寺の所在地と考えられている。中世、植松から ...
45. うさうじ【宇佐氏】画像
国史大辞典
複雑な事情が秘されている。八幡宮が官社になってからは大和系の大神(おおが)氏が宮司であったが、道鏡事件に関連してはじめて池守が宮司に補せられ、九世紀に大神氏が大 ...
46. 宇佐神宮画像
日本大百科全書
外来の仏教とも容易に習合しうる特異性がある。たとえば新羅の朝貢物の奉献、東大寺大仏造立への神助、道鏡の専横を和気清麻呂(わけのきよまろ)が阻止した神託などが著例&nbsnbsp;...
47. 宇佐神宮
世界大百科事典
神体は奈良に移され,749年(天平勝宝1)八幡大神は一品,比咩(ひめ)神は二品の神位をうけた。道鏡の事件(宇佐八幡宮神託事件)の際には,769年(神護景雲3)和 ...
48. うさじんぐう【宇佐神宮】画像
国史大辞典
大仏鋳造には八幡神の託宣により陸奥国の黄金が出たとされ、神体は奈良に遷され、神位神封をうけた。称徳天皇の代には道鏡の皇位覬覦事件が起り、神意糺明のために和気清麻 ...
49. うさじんぐう【宇佐神宮】大分県:宇佐市/旧宇佐町地区/宇佐村
日本歴史地名大系
同八年九月、孝謙上皇の寵愛を受けていた道鏡を除こうとして反乱を起こして失敗、斬罪に処せられた。同年淳仁天皇は廃され、考謙上皇は重祚する。称徳天皇であり、道鏡は大 ...
50. うさづかい【宇佐使】
国史大辞典
天平九年(七三七)四月乙巳朔条の新羅無礼の奉告であり、最も著名なものには神護景雲三年(七六九)道鏡皇位覬覦事件での和気清麻呂の奉幣がある。即位を告げる奉幣は平安 ...
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安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
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?‐772(宝亀3)奈良後期の政治家、僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現、八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』等時代の下る書に見える。後者は『続日本紀』
鑑真(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
688‐763 中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動
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