奈良後期の僧侶(そうりょ)、政治家。姓は弓削連(ゆげのむらじ)。河内(かわち)国若江郡(大阪府東大阪市若江)の人。出自に天智(てんじ)天皇皇子志貴(しき)(施基)親王の子説と、物部守屋(もののべのもりや)子孫説の2説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』など時代の降(くだ)る史料にみえる。河内弓削の地が若江郡、志紀郡にわたり、志紀(の人ということ)から志貴親王後胤説が出たものか。後者は『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)9月20日条の詔に「此禅師ノ昼夜朝廷ヲ護リ仕奉ルヲ見ルニ先祖ノ大臣トシテ仕奉リシ位名(物部守屋)ヲ継ガント……」とあるより推定される。守屋の子孫か否かは不明であるが物部氏に属した弓削部の伴造(とものみやつこ)であった。
道鏡は義淵(ぎえん)僧正の弟子といわれ、若年に葛木(かつらぎ)山に入って如意輪(にょいりん)法を修して苦行無極と称せられた。文献上初見は747年(天平19)1月正倉院文書に東大寺良弁(ろうべん)大徳御所使沙弥(しゃみ)とあり、良弁の弟子でようやく得度(とくど)したばかりであったらしい。その後禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となった。密教経典と梵(ぼん)文を研究し、これに通じた。761年(天平宝字5)より翌762年にかけ孝謙(こうけん)上皇(女帝)が近江(おうみ)保良宮(ほらのみや)(石山寺北方)に行幸滞在中と、762年4月病んだ際に、道鏡が宿曜(すくよう)秘法を修して看病し、病を癒(いや)して寵幸(ちょうこう)を得た。それを淳仁(じゅんにん)天皇が非難したので、上皇と天皇との間が悪化した。上皇は怒って平城京に還(かえ)り、法華寺で出家、6月3日詔して天皇の大権を奪い、国家の大事と賞罰の二事は朕(ちん)が行うと宣した。天皇を動かして政権を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))は権勢を失った。道鏡は763年少僧都(しょうそうず)に任ぜられた。翌764年9月11日仲麻呂は謀反を企てたが敗れて殺された。孝謙は淳仁天皇を廃して称徳(しょうとく)天皇として重祚(ちょうそ)した。道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り、765年(天平神護1)閏(うるう)10月、天皇弓削寺行幸の際、太政(だいじょう)大臣禅師に任ぜられた。766年法王に任じ、月料は天皇の供御(くご)に准(じゅん)ぜられ、人臣最高の地位を極めた。
道鏡の政治は仏教重視の政策で、放鷹(ほうよう)司を廃して放生(ほうじょう)司を置き、天下諸国に鷹(たか)、犬、鵜(う)を飼い猟をすること、肉、魚を御贄(にえ)として奉ることを禁じた。東大寺の向こうを張り西大寺、西隆寺を建立し莫大(ばくだい)な財を費やした。国分寺の復興修造に意を用い、諸大寺にしばしば天皇の行幸を仰いだ。765年貴族の墾田をいっさい禁じたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許した。767年(神護景雲1)阿波(あわ)国の王臣の功田、位田を収めて口分田(くぶんでん)として班給するなど、貴族を抑圧した。陸奥(むつ)国に伊治(いじ)城、桃生(もものう)城、筑前(ちくぜん)に怡土(いと)城を築き、水城を修理するなど辺境の防備を固めた。各地から道鏡におもねり奇跡、祥瑞(しょうずい)の報告、献上が相次いだが自分からも策謀し、彼の徳政を天が嘉(よみ)すると宣伝した。その最大のものが宇佐八幡(うさはちまん)神託事件である。769年「道鏡を天位に即(つ)かしめば、天下太平ならん」との宇佐八幡の神託があり、宮廷が動揺した。この神託は、当時大宰帥が道鏡の弟弓削浄人(きよひと)(生没年不詳)であるところから、大宰主神(かんづかさ)中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)(生没年不詳)と宇佐八幡宮の神官らとが共謀して演出したと考えられる。天皇は信任する法均尼(ほうきんに)(和気広虫(わけのひろむし))の弟清麻呂を勅使として宇佐に遣わし、神託を確認させた。清麻呂は帰京、神託を偽りとしたので道鏡は天位に即けなかった。清麻呂の背後には藤原氏ら貴族の援助があったかもしれぬ。道鏡は郷里河内弓削に由義宮(ゆげのみや)を建設、西京と号し、河内国を河内職と改め、三度行幸を仰いだ。770年(宝亀1)行幸中、天皇は発病、8月崩御し、道鏡は皇太子白壁(しらかべ)王(光仁(こうにん)天皇)により造下野(しもつけ)国薬師寺別当に左遷された。宝亀(ほうき)3年4月7日ここで死に、庶人として葬られた。
2017年9月19日
奈良後期の政治家,僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。後者は《続日本紀》天平宝字8年(764)9月甲寅条の詔に〈この禅師の昼夜朝庭を護り仕え奉るを見るに先祖の大臣として仕へ奉りし位名を継がむと……〉とある。前者の説は,河内若江郡と志紀郡と両方に弓削氏の氏神式内社弓削神社があり,弓削一族が志紀郡に居住していたことから付会されたものか。後者は先祖の大臣は物部守屋と推定されるが,弓削連氏は物部大連氏に隷属して弓を削り製造する部の族長で,守屋の子孫か否かは不明だが,守屋が物部弓削大連と称したことはなんらかの関係を推定させる。
道鏡は僧正義淵の弟子といわれ,若年に葛木山に入って如意輪法を修して苦行無極と称せられた。747年(天平19)1月の《正倉院文書》に東大寺良弁大徳御所使沙弥としてみえるのが初見。良弁の弟子であったらしい。その後禅行が聞こえて宮中の内道場に入り禅師となり,密教経典と梵文に通じた。761年より翌年にかけ孝謙上皇が近江保良宮(ほらのみや)に滞在中,762年4月に病気となった際,道鏡は宿曜秘法を修して看病し,病を癒して寵幸を得た。それを淳仁天皇が非難したので上皇は怒って平城京に還り,法華寺で出家,6月詔して〈天皇は小事のみ行え,国家の大事と賞罰の二権は朕が行う〉と宣した。天皇を操って政権を握っていた藤原仲麻呂は権勢を失い,764年9月11日謀反を企て,権力を奪還しようとしたが敗れて殺された(恵美押勝の乱)。上皇は淳仁天皇を廃して重祚した。称徳天皇である。道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り,翌年(天平神護1)閏10月天皇の弓削寺行幸の際,太政大臣禅師に任ぜられた。僧侶が最高権力の地位についたのも異例であるが,さらに766年,法王という未曾有の官に任ぜられ,翌年法王宮職が設置された。月料は天皇の供御に准ぜられ,人臣最高の地位に昇った。
道鏡は仏教重視,公卿抑圧の政策をとり,放鷹司を廃して放生司を置き,猟を禁じ,肉魚を御贄に奉ることを禁じ,貴族の墾田をいっさい禁じたが寺院のそれは認め,百姓の1,2町は許した。東大寺に対抗して西大寺,西隆寺を建立し莫大の財を費やした。道鏡におもねるものが各地から奇跡,祥瑞を報告し,献上した。自分からも策謀し,彼の徳政を天がよみすると宣伝した。その最大の事件が宇佐八幡宮神託事件で,769年(神護景雲3)〈道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん〉と宇佐八幡の神託の奏上があった。これは道鏡の弟の大宰帥弓削浄人と大宰主神中臣習宜阿曾麻呂と八幡神職団の共謀であったが,和気清麻呂が勅使として派遣され,その謀を見破り,道鏡をしりぞけよとの神託を復命,道鏡の企ては破れた。天皇は770年(宝亀1)由義宮(ゆげのみや)に滞在中病となり,同8月に没した。道鏡は下野薬師寺別当に左遷され,772年その地で死んだ。
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