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  11. 藤原道長
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
藤原道長
ふじわらのみちなが
九六六 - 一〇二七
平安時代中期の公卿。摂政、太政大臣。御堂関白・法成寺関白などの別称がある(ただし実際には関白になっていない)。法名は行観、のちに行覚と改める。康保三年(九六六)生まれる。父は藤原兼家、母は藤原中正の女時姫。天元三年(九八〇)正月、従五位下に叙位。侍従・右兵衛権佐・少納言・左近衛少将・左京大夫などを歴任し、永延元年(九八七)九月非参議従三位となる。同二年正月、十一名を超えて参議を経ず権中納言となり、正暦二年(九九一)九月権大納言に進んだ。長徳元年(九九五)四月には、長兄の関白道隆が病により関白を辞し出家ののち死去。この間、内覧の職を代行したのは、道隆の子伊周であったが、道隆の弟道兼が関白に就任。彼が十日後に死去すると、道長はそのあとを襲い五月内覧の宣旨を受け、その地位を確立し、六月には右大臣、氏長者となり、翌二年七月には左大臣に進んだ。関白・内覧の地位をめぐって、道隆の子伊周・隆家の中関白家と道長との間に軋轢が生じ、この年正月の伊周・隆家兄弟が従者に花山法皇を弓で射させた事件、三月の東三条院藤原詮子呪詛事件、四月の大元帥法修法密告事件などがおこり、四月伊周を大宰権帥、隆家を出雲権守に左遷することとなった。二人は翌三年に召還されることはあっても、再び道長の対抗馬とはなり得ず、この事件を契機に中関白家の追い落としが確定することとなった(長徳の変)。長保元年(九九九)十一月には、その女彰子を一条天皇に入内させ、翌二年二月中宮に冊立し、寛弘五年(一〇〇八)九月の敦成親王(のちの後一条天皇)の誕生により外戚としての地歩を固めた。長和元年(一〇一二)二月には妍子を三条天皇の、寛仁二年(一〇一八)十月には威子を後一条天皇の、それぞれ中宮に立て、「一家立三后、未曾有」(『小右記』同年十月十六日条)と評され、この威子立后の宴で詠じた「望月の歌」に象徴される栄華を築いた。しかしこの間、寛弘八年六月の三条天皇即位により、八月には関白就任要請を拝辞することがあり、内覧宣下を受けるが、三条天皇との確執がしばしば生じ、三条天皇の眼疾を理由に譲位をしきりに勧めている。長和四年十月には、摂政に准じて除目・官奏を行なった(『御堂関白記』同年十月二十七日条)が、一方依然として一上の儀を行なったこともみえる(『小右記』同年十二月十日条)。翌五年正月天皇は譲位し、後一条天皇の受禅により、摂政となった。同年六月准三宮、年官・年爵を賜わり、十二月には左大臣を辞し、寛仁元年三月には摂政をも辞したが、同年十二月には太政大臣となった。この間、三条天皇の譲位の際の天皇の意向を無視できず、長和五年正月より東宮には同天皇皇子敦明が立てられていたが、寛仁元年八月、敦明は東宮を辞退し、敦良親王(のちの後朱雀天皇、彰子所生)が立太子することとなった。この背景には、道長が敦明の立太子に際し、「壺切の御剣」を奉らなかった(『小右記』同年八月二十三日条)ことなど、三条天皇・敦明への掣肘が伺える。同二年二月には太政大臣も辞し、同三年三月には院源を戒師として出家し、法名を行観と称し、六月には行覚と改め、九月には東大寺において受戒した。この間、五月には旧のごとく准三宮とされている。万寿四年(一〇二七)十二月四日、法成寺において六十二歳で没した。翌日入棺、七日に鳥辺野に葬送された。道長と源雅信の女倫子(鷹司殿)との結婚は、永延元年十二月、道長二十二歳、倫子二十四歳であった。雅信は、当初この結婚に賛成でなかったらしく、母藤原穆子の力によってまとまったとされる(『栄花物語』三)。倫子所生の子に、頼通・教通・彰子(一条天皇中宮)・妍子(三条天皇中宮)・威子(後一条天皇中宮)・嬉子(東宮敦良親王妃)がある。また、源高明の女明子(高松殿)とは翌二年に結婚したが、この結婚は姉である詮子の取り持ちがあったらしい(『栄花物語』三)。明子所生の子に、頼宗・能信・顕信・長家・寛子(小一条院女御)・尊子(源師房室)がある。その他に、源重光の女所生の子に長信、猶子に源成信(父致平親王、母源雅信の女)・藤原兼経(父藤原道綱、母源雅信の女)などがある。道長の女子は天皇あるいは東宮の妻として、三代の天皇の母として、道長の外戚としての地位を確立させるとともに、男子は摂関・大臣を輩出する一門として、後世にもその繁栄を引き継いだ。このような道長の栄華は、種々の逸話を生み出したが、若き日の彼の人相を、尋禅の従僧が占い、他の兄弟に比べ限りなく優れており、「とらの子のけはしき山のみねをわたるがごとし」と評したという(『大鏡』五、太政大臣道長上)のもその一つであろう。また、彼の資質を形成した青年時代の剛毅さを物語る逸話も数多く伝えられている。父兼家が、藤原公任を評価し、わが子は公任の影さえ踏めないと口惜しがったところ、兄の道隆・道兼はものも言えないでいたが、道長は「かげをばふまで、つらをやはふまぬ」と言ってのけたという話や、花山天皇の言い出した肝だめしで、兄たちは途中怖じけづいて帰ってきたが、彼は大極殿の高御座の柱を削って帰ってきたという話が同じく『大鏡』(同上)に収められている。道長の精神生活を晩年まで規定することとなった仏教への傾斜は、姉詮子の死去前後の長保年間ころより深まったとされる。寛弘四年八月には、金峯山に参詣し、みずから書写した『弥勒経』『法華経』『阿弥陀経』などを埋経したが、この時の経筒には「寛弘四年(丁未)八月十一日」の年紀が記され、五百余字の銘文が刻まれた経筒として伝存する(金峯神社所蔵、国宝。また、諸寺・諸堂の造立に励み、寛弘二年十月宇治木幡浄妙寺三昧堂供養、同三年十二月法性寺五大堂の供養、寛仁三年七月無量寿院の木造始、翌年三月落慶供養を行い、その後も無量寿院諸堂の造立を続け、治安元年(一〇二一)七月には、後一条天皇・太皇太后(彰子)・皇太后(妍子)・中宮(威子)・東宮(敦良親王)も臨席し、金堂供養が盛大に行われ、引き続き薬師堂・釈迦堂も建立され、一大伽藍を備えた法成寺として発展した。さらに法華三十講などの法会もしばしば催している。このような道長の仏教への帰依は、自身の病気、嬉子・妍子・顕信の死去(それぞれ万寿二年八月・同四年九月・同四年五月)などにより、一層その傾斜を深めたが、臨終に際しても、立て回した屏風の西側を開けて、九体の阿弥陀仏に面し、西向き北枕に臥した、釈迦入滅の姿勢をとったという(『栄花物語』三〇)。道長の政治観・政治運営をみる時、三条天皇時代は内覧の地位にとどまり、一上の事を行なったことにもみられるように、太政官機構の首班として政治機構の運営を行なっていることは注目される。また、彼が長徳元年五月から寛仁元年三月に頼通に摂政を譲るまでの時期、天皇に対する奏上を彼一人に限定する体制をとっていたとされることにも留意すべきであろう。そして、頼通に早く摂政の座を譲ったことは、父兼家やみずからの権力掌握の過程における一族の争いの経験から、それを未然に防ぐことをも意図していたであろう。また道長の地方政治観には、寛仁以前には、国司苛政上訴を行う百姓を追い払った国守を勘当するなど、国司の弾圧を不当とする認識があったが、治安ころからは、国司苛政上訴闘争に対する態度が変化したとされる。その背景として、在地の勢力による国司の国内支配に対する法的手段を採った抵抗、それに伴う太政官の法理の適用による国司の敗退、すなわち前期王朝国家体制の動揺へと帰結することに対する反動として、国司擁護の姿勢が強まったことが考えられるとする見解もある。道長の学問・文芸への造詣の深さは、「作〓棚厨子二双〓、立〓傍、置〓文書〓」(『御堂関白記』寛弘七年八月二十九日条)に際して、「三史・八代史・文選・文集・御覧(『修文殿御覧』)・道々書・日本紀具書等、令・律・式等具、并二千余巻」があったということにも示されている。また同記には、天皇や貴族たちとの書籍や書の贈答が数多くみられ、土御門第・宇治別業などで作文の会もしばしば催し、長保五年には「太政大臣殿三十講歌合」を主催するなど、学問・文芸を愛好した。歌の贈答を通じての交遊関係も多岐にわたり、公任(『前大納言公任卿集』に採録)・赤染衛門(『赤染衛門集』に採録)をはじめとする多数の人々との贈答歌が勅撰集や家集に残されている。彼の日記である『御堂関白記』は、永久五年(一一一七)には、自筆本三十六巻の所在が推定される(陽明文庫所蔵『旧記目録』『御堂御暦記目録』)が、そのうち自筆本十四巻のほか、藤原師実の筆になるとされる古写本十二巻、『御堂関白記』を抄出した『御堂御記抄』(ともに同文庫所蔵)などの写本の形で現在に伝えられている。これは道長を中心とした藤原氏の全盛期を知る格好の史料である。また、家集に『御堂関白集』があり、『拾遺和歌集』以下の勅撰集にも入集している。道長の邸宅としては、東三条殿・土御門殿(上東門第・京極殿とも)・枇杷殿・小二条殿と称される京内の邸宅のほか、宇治の別業もみられる。→金峯山経塚(きんぶせんきょうづか),→御堂関白記(みどうかんぱくき)
[参考文献]
中村匡男『道長の栄華』(『若い世代と語る日本の歴史』一一)、赤木志津子『御堂関白』、北山茂夫『藤原道長』(『岩波新書』青七六四)、目崎徳衛『王朝のみやび』、土田直鎮『王朝の貴族』(中央公論社『日本の歴史』五)、山中裕『藤原道長』(『歴史新書』四五)、同「藤原道長」(『平安人物志』所収)、坂本賞三「国司苛政上訴と中央貴族の地方政治観」(『日本王朝国家体制論』所収)、同「「御前定」の出現とその背景」(『史学研究』一八六)
(加藤 友康)


日本大百科全書(ニッポニカ)
藤原道長
ふじわらのみちなが
[966―1027]

平安中期の政治家で、藤原氏全盛期の最頂点にたった人物。『大鏡』や『栄花物語』は道長の生涯の記述に重点を置いている。父は、藤原氏北家(ほっけ)の摂政(せっしょう)・関白・太政大臣(だいじょうだいじん)の兼家(かねいえ)。母は、左京大夫藤原中正(なかまさ)の女(むすめ)の時姫。御堂殿(みどうどの)、法成寺殿(ほうじょうじどの)などとよばれたが、彼を御堂関白と記するのは誤り。彼は関白に類した内覧には在任したけれども、関白には任じられないままに終わった。兼家の五男に生まれた道長は順調に官途をたどり、991年(正暦2)26歳の若さで権大納言(ごんだいなごん)に任じられはしたが、兄に道隆(みちたか)、道綱(みちつな)、道兼(みちかね)がおり、彼自身さほど栄華を極めるに至るとは考えていなかった。ところが995年(長徳1)4月、関白道隆が疫病で倒れ、後を襲った関白道兼も、在職7日にして薨(こう)じたため、同年5月、姉の詮子(あきこ)(一条天皇(いちじょうてんのう)母后、東三条院)の推輓(すいばん)によって権大納言の道長は、図らずも内覧の宣旨を被り、ついで6月、右大臣に任じられ、政権の座についた。これに派生した甥(おい)の伊周(これちか)との政治的確執を克服した道長は、名門藤原公任(きんとう)を抑え、源俊賢(みなもとのとしかた)や藤原行成(ゆきなり)らの協力を得て自己の政権を強固にしていった。一方、彼は宇多源氏(うだげんじ)の倫子(ともこ)を正妻、醍醐源氏(だいごげんじ)の明子(あきこ)(高松殿)を本妻に迎え、毛並みを整えた。
 やがて長女の彰子(あきこ)が長ずると、中宮(ちゅうぐう)として一条天皇の後宮に納(い)れ、一帝二后の制を始めた。三条天皇(さんじょうてんのう)が登位すると二女の妍子(よしこ)をその中宮とした。三条天皇が眼病を患うに至って、彼はそれを理由に譲位を迫った。こうして彰子が産んだ敦成親王(あつなりしんのう)が登位し(後一条天皇(ごいちじょうてんのう))、彼は外祖父として摂政に任じられた(1016)。翌年、摂政を辞し、従(じゅ)一位太政大臣に昇進した。この年、工作して皇太子敦明親王(あつあきらしんのう)(三条皇子)の辞退を図り、彰子腹の敦良親王(あつながしんのう)を皇太弟にたてたし、一男の頼通(よりみち)が摂政に任じられた1018年(寛仁2)には、正妻腹の威子(たけこ)が後一条天皇の中宮、その同母妹の嬉子(よしこ)が尚侍(ないしのかみ)の名で皇太弟(後の後朱雀天皇(ごすざくてんのう))の妃となった。いまや娘たちのうち彰子は太皇太后、妍子は皇太后、威子は中宮(皇后)であり、道長は三后の父となった。有名な望月(もちづき)の歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」は、同年10月、権力の絶頂に達した道長が喜びのあまりに詠じたものである。
 政治家としての道長は、特別に優れた政策はもたなかった。それは刀伊(とい)の賊の入寇(にゅうこう)(1019)に際しての無策によっても指証される。しかし国内の政情は安穏であり、代々培われた摂関家の勢威が強固であったため、政界は事なきを得たといえよう。彼がもっとも腐心したのは後宮政策であって、次々と娘を宮中に入れ、外孫が登位することによって不動の地位を得、かつそれを息子たちに及ぼした。
 道長は、政治家として冷酷非情な人物ではなかった。政敵を倒すことは、どの政治家にも避けがたいことであるが、彼の場合は、いったん失脚した政敵を厚く遇し、かつ娘を配したりして、彼らの恨みを買わぬように配慮していた。また妾妻たちを女房として後宮の各所に仕えさせ、もろもろの情報を収集することも、彼の常套(じょうとう)手段であった。おそらく紫式部は、その意味での妾妻の一人であったのであろう。
 当時の貴族の常として、道長も厚く仏教に帰依(きえ)していた。彼は、祖先を供養するために、宇治の木幡(こはた)の墓地に浄妙寺を建てたし、また吉野の金峯山(きんぷせん)に詣(もう)で、埋経の端緒をつくった。1019年には、院源を戒師として出家し、法号を行観(ぎょうかん)(のち行覚(ぎょうかく))と称した。晩年には、本邸土御門殿(つちみかどどの)の東に接して、この世の浄土とも称せられた豪華な法成寺を建立した。
 文学の方面では、道長は優れた詩人であり、歌人でもあった。彼がつくった漢詩は『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に多数収められている。和歌のほうは、『後拾遺集(ごしゅういしゅう)』以下の勅撰集(ちょくせんしゅう)に33首とられている。『御堂関白集』にも彼の詠草が収められているけれども、これは彼の歌集ではないと認められている。
 道長が中宮彰子の側近に粒よりの才媛(さいえん)を女房としてはべらせたことは、女流文学の興隆を大いに助成した。『紫式部日記』によると、彼は『源氏物語』に非常な関心を抱き、その面でも紫式部を後援していた。
 道長は、政務に忙殺されてはいたが、23年にわたって毎日日記をつけていた。現存する日記の自筆本は14巻に及ぶが、これを『御堂関白記』というのは後人の呼称である。この日記は、11世紀初頭の政治や世相を知るうえで甚だ貴重な史料である。
 道長はもともと頑健な体質ではなく、生涯にわたって幾度も大病を患っている。51歳ごろからは糖尿病を患うようになった。実のところ例の「望月の歌」を詠んだころには、彼は糖尿病に由来する白内障や心臓神経痛に悩んでいたのである。これに加えて、1025年(万寿2)8月には娘の嬉子が皇子(後の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう))を産んで薨(こう)じ、妍子も1027年9月に崩じ、これらの悲哀は彼に大きな打撃をもたらした。同年6月から彼は背中にできた癰(よう)に悩んでいた。あらゆる祈祷(きとう)や治療によっても病勢は快方に向かわず、10月には乳房ほどに腫(は)れ上がった癰のため苦悶(くもん)を続けた。彼は法成寺の九体阿弥陀堂(くたいあみだどう)に病床を移し、そこで顔を西方(浄土)に向けて同年12月4日に薨逝(こうせい)した。享年は62歳。同じ日に道長の永年の盟友であった権大納言行成も薨じた(56歳)。道長の遺骸(いがい)は愛宕(おたぎ)郡の鳥倍野(とりべの)で荼毘(だび)に付され、骨灰は宇治木幡の墓地に埋納された。木幡には、藤原氏北家関係の火葬墓が累々と現存しているが、どれが道長の墓であるかは不明である。
[角田文衛]



世界大百科事典
藤原道長
ふじわらのみちなが
966-1027(康保3-万寿4)

平安中期の公卿。摂政兼家の五男。母は摂津守藤原中正の女時姫。986年(寛和2)一条天皇が践祚し,父兼家が摂政となるや,翌年従四位上から3階を越えて従三位に昇り,以後累進して,991年(正暦2)権大納言に任ぜられた。995年(長徳1)疫病が流行し,兄の関白道隆・道兼が相ついで没したため,その後継をめぐって,道隆の男伊周(これちか)と激しく争ったが道長の姉で,天皇の生母である東三条院詮子の強力な後援によりこの争いに勝ち,内覧(ないらん)の宣旨をたまわり,右大臣に昇り,翌年左大臣に進んだ。以後,一条・三条両朝にわたり,関白に準ずる内覧の臣として天皇を補佐し,一上(いちのかみ)(首席公卿)として廷臣を率いて公事・政務を奉行し,その権勢は摂政・関白と異ならずと評された。〈御堂関白〉の称の生まれたゆえんである。一方,999年(長保1)女彰子(上東門院)を一条天皇の後宮にいれ,すでに兄道隆の女定子が后位を占めていたにもかかわらず,翌年彰子を皇后に立て,2人の妻后が併立する新例を開いた。ついで1016年(長和5)三条天皇に強請して彰子が生んだ後一条天皇に位を譲らせ,外祖父として摂政の座に就いたが,翌年には早くも摂政を長男頼通に譲った。しかし権勢は少しも衰えず,世人は〈大殿〉と呼んで恐れはばかった。道長は三条天皇の後宮にも女の姸子(けんし)をいれ,さらに後一条天皇の後宮に女威子(いし)をいれたが,18年(寛仁2)10月16日には威子を皇后に立て,姸子は皇太后に転上したので,太皇太后彰子とともに,3人の女子が三后に並び立つという未曾有の盛観を呈した。かの有名な〈この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば〉の歌は,この日の威子の立后を祝う公卿の宴席で,道長がみずから十六夜の月にかけて詠んだ歌である。しかしそのころから道長は病気がちになり,翌年3月出家して行観(のち行覚)と称し,ついで法成寺の造営に力を傾け,20年には無量寿院が完成し,9体の阿弥陀仏が安置された。さらに22年(治安2)には金堂も建ち,法成寺の名も定められ,引き続いて薬師堂や釈迦堂なども造立された。これがすなわち御堂で,道長の別称にもなった。この間,やや健康をとりもどしたが,27年(万寿4)に入ると急速に心身の衰えを見せ,12月4日,無量寿院の九体阿弥陀仏から引いた糸を手にして生涯を終えた。

 その日記は自筆本の14巻をはじめとして,《御堂関白記》などの名称で伝えられている。また道長は左大臣源雅信の女倫子との間に上記の三后および頼通,教通らを生み,左大臣源高明の女明子との間に頼宗,能信らを生んだ。その子孫は御堂の子孫と称して一流を形成したが,やがてその御堂流の嫡流に摂関職が定着し,家柄としての摂関家が成立し,さらに五摂家に発展したのである。
[橋本 義彦]

[索引語]
御堂関白 藤原威子 法成寺
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30. あかぞめ-えもん【赤染衛門】
日本人名大辞典
?−? 平安時代中期の歌人。藤原道長の妻源倫子(りんし)に,のちその娘の上東門院につかえる。貞元(じょうげん)元年(976)ごろ大江匡衡(まさひら)と結婚し,挙 ...
31. あかぞめえもん【赤染衛門】
日本架空伝承人名事典
十数歳で没した。赤染時用(ときもち)の女。母が初め平兼盛の妻だったので、兼盛女ともいわれる。藤原道長の妻倫子の女房となり、父が右衛門志(うえもんのさかん)や尉( ...
32. あかぞめゑもん【赤染衛門】
全文全訳古語辞典
[人名]平安中期の女流歌人。生没年未詳。赤染時用の娘(実は平兼盛の娘という)で、藤原道長の妻倫子に仕えた後、大江匡衡の妻。当時、和泉式部と並び称せられるほど和歌 ...
33. あきづのしょう【秋津庄】和歌山県:田辺市/下秋津村
日本歴史地名大系
治四年二月三日上棟」とあるが、「尊卑分脈」によれば中院右大臣家源雅実の母は権中納言隆俊女で、藤原道長女(尊子)は雅実の父顕房の母。また「醍醐寺雑事記」(東京大学 ...
34. あく-まで【飽くまで】
全文全訳古語辞典
最後の最後まで。徹底的に。 「入道殿はあくまで情おはします御本性にて」〈大鏡・道隆〉入道殿(=藤原道長)は、どこまでもお心やさしいご性質で。 ...
35. あけだのしょう【緋田庄】兵庫県:姫路市/旧飾磨郡地区
日本歴史地名大系
「民経記」安貞元年(一二二七)一二月の二五日と思われる条にみえる「緋田庄」は摂関家領庄園で、藤原道長が造営した法成寺(現京都市上京区)の法印院賢が知行し、同寺の ...
36. 総角(源氏物語) 305ページ
日本古典文学全集
)宮であった。母明石の中宮が女一の宮を。女房は、普通五位程度の者、受領階級の娘に多かったが、藤原道長の時代以後、高家の娘も女房となる ...
37. あさごぐん【朝来郡】兵庫県
日本歴史地名大系
勘問を受けており(「小右記」同年四月二七日条など)、国郡司と庄園領主との対立と考えられるが、藤原道長の女婿小一条院敦明親王を背景とする惟朝は六月に至って宥免され ...
38. 蘆屋道満
世界大百科事典
物として登場することが多い。《古事談》《宇治拾遺物語》《十訓抄》に,道摩法師が藤原顕光の命で藤原道長に妖術をしかけるが,道長の犬と晴明に見破られ,本国播磨国に追 ...
39. あしや‐どうまん【蘆屋道満】
日本国語大辞典
平安時代、一条天皇の頃の陰陽家。安倍晴明と陰陽の術を争ったが、藤原道長を呪詛(じゅそ)し晴明に破れたため播磨国(兵庫県)に放逐されたと伝えられる。のちに浄瑠璃「 ...
40. あしや-どうまん【蘆屋道満】
日本人名大辞典
平安時代中期の伝説上の陰陽師(おんようじ)。藤原道長に呪いをかけて安倍晴明(せいめい)にみやぶられ追放されたといい,また晴明と術くらべをして敗れ弟子となり,のち ...
41. あしやどうまん【蘆屋道満】
日本架空伝承人名事典
物として登場することが多い。『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』に、道摩法師が藤原顕光の命で藤原道長に妖術をしかけるが、道長の犬と晴明に見破られ、本国播磨国に追 ...
42. あすか【飛鳥】奈良県:高市郡/明日香村
日本歴史地名大系
平安時代にはそれもほとんど廃された。古都への郷愁は飛鳥巡礼となって現れ、清和天皇・藤原道綱の母・藤原道長などが当地を訪れている。和銅三年庚戌の春二月、藤原宮より ...
43. あすかでら【飛鳥寺】奈良県:高市郡/明日香村/飛鳥村
日本歴史地名大系
、一〇月一五日に万灯会を修することが恒例とされた(続日本後紀)。治安三年(一〇二三)一〇月、藤原道長が当寺を訪ねた時、「日本霊異記」上巻三話の道場法師の説話にみ ...
44. あすかべのつねのり【飛鳥部常則】
国史大辞典
宮殿障壁に描いた例である。風景画では京都最古の林泉である神泉苑の写景画が冷泉院図書にあって、藤原道長が見て優美であるとほめている。天禄三年(九七二)に賀茂祭の御 ...
45. あせ-は・つ【褪せ果つ】
全文全訳古語辞典
る・つれ・てよ勢いがすっかり衰える。 「かばかりあせはてむとは思してんや」〈徒然草・25〉(藤原道長は自分の建てた寺々が)これほど荒廃してしまおうとはお考えにな ...
46. 敦明親王
日本大百科全書
平安中期の皇族。三条(さんじょう)天皇の第1皇子で母は皇后娍子(じょうし)。藤原道長は三条天皇に譲位を迫り、1016年(長和5)女(むすめ)である中宮彰子(ちゅ ...
47. 敦明親王
世界大百科事典
母は皇后娍子(じようし)(藤原済時女)。三条天皇は後一条天皇(一条天皇皇子)への譲位に際し,藤原道長の意に反して親王の立太子を実現したが,道長は東宮に伝えるべき ...
48. 敦明親王
日本史年表
丙辰〉 1・29 三条天皇 譲位、 敦成親王(後一条天皇) 受禅、 敦明親王 を皇太子とし、 藤原道長 を摂政とする(紀略)。 1017年〈寛仁元(4・23)  ...
49. あつあきらしんのう【敦明親王】
日本人名大辞典
子(せいし)。長和5年後一条天皇の皇太子にたてられたが,藤原道長の圧迫をうけ,翌年その地位を辞した。一品(いっぽん)。太上天皇に准じられ小一条院の院号をうける ...
50. 敦成親王・後一条天皇
日本史年表
丙辰〉 1・29 三条天皇 譲位、 敦成親王(後一条天皇) 受禅、 敦明親王 を皇太子とし、 藤原道長 を摂政とする(紀略)。 1016年〈長和5 丙辰〉 2・ ...
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