平安中期の政治家で、藤原氏全盛期の最頂点にたった人物。『大鏡』や『栄花物語』は道長の生涯の記述に重点を置いている。父は、藤原氏北家(ほっけ)の摂政(せっしょう)・関白・太政大臣(だいじょうだいじん)の兼家(かねいえ)。母は、左京大夫藤原中正(なかまさ)の女(むすめ)の時姫。御堂殿(みどうどの)、法成寺殿(ほうじょうじどの)などとよばれたが、彼を御堂関白と記するのは誤り。彼は関白に類した内覧には在任したけれども、関白には任じられないままに終わった。兼家の五男に生まれた道長は順調に官途をたどり、991年(正暦2)26歳の若さで権大納言(ごんだいなごん)に任じられはしたが、兄に道隆(みちたか)、道綱(みちつな)、道兼(みちかね)がおり、彼自身さほど栄華を極めるに至るとは考えていなかった。ところが995年(長徳1)4月、関白道隆が疫病で倒れ、後を襲った関白道兼も、在職7日にして薨(こう)じたため、同年5月、姉の詮子(あきこ)(一条天皇(いちじょうてんのう)母后、東三条院)の推輓(すいばん)によって権大納言の道長は、図らずも内覧の宣旨を被り、ついで6月、右大臣に任じられ、政権の座についた。これに派生した甥(おい)の伊周(これちか)との政治的確執を克服した道長は、名門藤原公任(きんとう)を抑え、源俊賢(みなもとのとしかた)や藤原行成(ゆきなり)らの協力を得て自己の政権を強固にしていった。一方、彼は宇多源氏(うだげんじ)の倫子(ともこ)を正妻、醍醐源氏(だいごげんじ)の明子(あきこ)(高松殿)を本妻に迎え、毛並みを整えた。
やがて長女の彰子(あきこ)が長ずると、中宮(ちゅうぐう)として一条天皇の後宮に納(い)れ、一帝二后の制を始めた。三条天皇(さんじょうてんのう)が登位すると二女の妍子(よしこ)をその中宮とした。三条天皇が眼病を患うに至って、彼はそれを理由に譲位を迫った。こうして彰子が産んだ敦成親王(あつなりしんのう)が登位し(後一条天皇(ごいちじょうてんのう))、彼は外祖父として摂政に任じられた(1016)。翌年、摂政を辞し、従(じゅ)一位太政大臣に昇進した。この年、工作して皇太子敦明親王(あつあきらしんのう)(三条皇子)の辞退を図り、彰子腹の敦良親王(あつながしんのう)を皇太弟にたてたし、一男の頼通(よりみち)が摂政に任じられた1018年(寛仁2)には、正妻腹の威子(たけこ)が後一条天皇の中宮、その同母妹の嬉子(よしこ)が尚侍(ないしのかみ)の名で皇太弟(後の後朱雀天皇(ごすざくてんのう))の妃となった。いまや娘たちのうち彰子は太皇太后、妍子は皇太后、威子は中宮(皇后)であり、道長は三后の父となった。有名な望月(もちづき)の歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」は、同年10月、権力の絶頂に達した道長が喜びのあまりに詠じたものである。
政治家としての道長は、特別に優れた政策はもたなかった。それは刀伊(とい)の賊の入寇(にゅうこう)(1019)に際しての無策によっても指証される。しかし国内の政情は安穏であり、代々培われた摂関家の勢威が強固であったため、政界は事なきを得たといえよう。彼がもっとも腐心したのは後宮政策であって、次々と娘を宮中に入れ、外孫が登位することによって不動の地位を得、かつそれを息子たちに及ぼした。
道長は、政治家として冷酷非情な人物ではなかった。政敵を倒すことは、どの政治家にも避けがたいことであるが、彼の場合は、いったん失脚した政敵を厚く遇し、かつ娘を配したりして、彼らの恨みを買わぬように配慮していた。また妾妻たちを女房として後宮の各所に仕えさせ、もろもろの情報を収集することも、彼の常套(じょうとう)手段であった。おそらく紫式部は、その意味での妾妻の一人であったのであろう。
当時の貴族の常として、道長も厚く仏教に帰依(きえ)していた。彼は、祖先を供養するために、宇治の木幡(こはた)の墓地に浄妙寺を建てたし、また吉野の金峯山(きんぷせん)に詣(もう)で、埋経の端緒をつくった。1019年には、院源を戒師として出家し、法号を行観(ぎょうかん)(のち行覚(ぎょうかく))と称した。晩年には、本邸土御門殿(つちみかどどの)の東に接して、この世の浄土とも称せられた豪華な法成寺を建立した。
文学の方面では、道長は優れた詩人であり、歌人でもあった。彼がつくった漢詩は『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に多数収められている。和歌のほうは、『後拾遺集(ごしゅういしゅう)』以下の勅撰集(ちょくせんしゅう)に33首とられている。『御堂関白集』にも彼の詠草が収められているけれども、これは彼の歌集ではないと認められている。
道長が中宮彰子の側近に粒よりの才媛(さいえん)を女房としてはべらせたことは、女流文学の興隆を大いに助成した。『紫式部日記』によると、彼は『源氏物語』に非常な関心を抱き、その面でも紫式部を後援していた。
道長は、政務に忙殺されてはいたが、23年にわたって毎日日記をつけていた。現存する日記の自筆本は14巻に及ぶが、これを『御堂関白記』というのは後人の呼称である。この日記は、11世紀初頭の政治や世相を知るうえで甚だ貴重な史料である。
道長はもともと頑健な体質ではなく、生涯にわたって幾度も大病を患っている。51歳ごろからは糖尿病を患うようになった。実のところ例の「望月の歌」を詠んだころには、彼は糖尿病に由来する白内障や心臓神経痛に悩んでいたのである。これに加えて、1025年(万寿2)8月には娘の嬉子が皇子(後の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう))を産んで薨(こう)じ、妍子も1027年9月に崩じ、これらの悲哀は彼に大きな打撃をもたらした。同年6月から彼は背中にできた癰(よう)に悩んでいた。あらゆる祈祷(きとう)や治療によっても病勢は快方に向かわず、10月には乳房ほどに腫(は)れ上がった癰のため苦悶(くもん)を続けた。彼は法成寺の九体阿弥陀堂(くたいあみだどう)に病床を移し、そこで顔を西方(浄土)に向けて同年12月4日に薨逝(こうせい)した。享年は62歳。同じ日に道長の永年の盟友であった権大納言行成も薨じた(56歳)。道長の遺骸(いがい)は愛宕(おたぎ)郡の鳥倍野(とりべの)で荼毘(だび)に付され、骨灰は宇治木幡の墓地に埋納された。木幡には、藤原氏北家関係の火葬墓が累々と現存しているが、どれが道長の墓であるかは不明である。
平安中期の公卿。摂政兼家の五男。母は摂津守藤原中正の女時姫。986年(寛和2)一条天皇が践祚し,父兼家が摂政となるや,翌年従四位上から3階を越えて従三位に昇り,以後累進して,991年(正暦2)権大納言に任ぜられた。995年(長徳1)疫病が流行し,兄の関白道隆・道兼が相ついで没したため,その後継をめぐって,道隆の男伊周(これちか)と激しく争ったが道長の姉で,天皇の生母である東三条院詮子の強力な後援によりこの争いに勝ち,内覧(ないらん)の宣旨をたまわり,右大臣に昇り,翌年左大臣に進んだ。以後,一条・三条両朝にわたり,関白に準ずる内覧の臣として天皇を補佐し,一上(いちのかみ)(首席公卿)として廷臣を率いて公事・政務を奉行し,その権勢は摂政・関白と異ならずと評された。〈御堂関白〉の称の生まれたゆえんである。一方,999年(長保1)女彰子(上東門院)を一条天皇の後宮にいれ,すでに兄道隆の女定子が后位を占めていたにもかかわらず,翌年彰子を皇后に立て,2人の妻后が併立する新例を開いた。ついで1016年(長和5)三条天皇に強請して彰子が生んだ後一条天皇に位を譲らせ,外祖父として摂政の座に就いたが,翌年には早くも摂政を長男頼通に譲った。しかし権勢は少しも衰えず,世人は〈大殿〉と呼んで恐れはばかった。道長は三条天皇の後宮にも女の姸子(けんし)をいれ,さらに後一条天皇の後宮に女威子(いし)をいれたが,18年(寛仁2)10月16日には威子を皇后に立て,姸子は皇太后に転上したので,太皇太后彰子とともに,3人の女子が三后に並び立つという未曾有の盛観を呈した。かの有名な〈この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば〉の歌は,この日の威子の立后を祝う公卿の宴席で,道長がみずから十六夜の月にかけて詠んだ歌である。しかしそのころから道長は病気がちになり,翌年3月出家して行観(のち行覚)と称し,ついで法成寺の造営に力を傾け,20年には無量寿院が完成し,9体の阿弥陀仏が安置された。さらに22年(治安2)には金堂も建ち,法成寺の名も定められ,引き続いて薬師堂や釈迦堂なども造立された。これがすなわち御堂で,道長の別称にもなった。この間,やや健康をとりもどしたが,27年(万寿4)に入ると急速に心身の衰えを見せ,12月4日,無量寿院の九体阿弥陀仏から引いた糸を手にして生涯を終えた。
その日記は自筆本の14巻をはじめとして,《御堂関白記》などの名称で伝えられている。また道長は左大臣源雅信の女倫子との間に上記の三后および頼通,教通らを生み,左大臣源高明の女明子との間に頼宗,能信らを生んだ。その子孫は御堂の子孫と称して一流を形成したが,やがてその御堂流の嫡流に摂関職が定着し,家柄としての摂関家が成立し,さらに五摂家に発展したのである。
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