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  11. 北条泰時

北条泰時

ジャパンナレッジで閲覧できる『北条泰時』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
北条泰時
ほうじょうやすとき
一一八三 - 一二四二
鎌倉時代中期の幕府執権。寿永二年(一一八三)に生まれる。執権義時の長男。幼名金剛。建久五年(一一九四)元服、頼時と称し、のち泰時と改名。建仁二年(一二〇二)三浦義村の娘を娶り、翌三年、長男時氏誕生。建暦二年(一二一二)安保実員の娘との間に次男時実誕生。建保元年(一二一三)将軍源実朝の学問所番に選ばれる。同年、和田氏の乱の戦功によって、陸奥国遠田郡を与えられた。同六年、侍所別当に就任。承久三年(一二二一)五月、承久の乱が起ると、叔父時房とともに大軍を率いて東海道から上洛、後鳥羽上皇方を破って、六月都に入り、泰時は六波羅北方、時房は同南方として六波羅探題の任に就いた。元仁元年(一二二四)六月、父義時の死で鎌倉に帰り、あとを継いで執権となった。さきに承久元年、源実朝が暗殺されると、幕府は左大臣九条道家の子の三寅を鎌倉に迎え、事実上は北条政子が政務をとり、執権義時がこれを補佐していた。嘉禄元年(一二二五)政子が没すると、泰時は大いに政治の刷新を試みた。まず連署を設けて時房をこれに任じ、さらに評定衆を置いて幕政を評議させたが、これらの政策は、それまでの独裁政治を改め、合議政治への転換を図るものであった。また幕府を大倉から宇都宮辻子(ずし)に移し、鎌倉大番の制を整え、さらに三寅を元服させて頼経と命名し、翌二年には朝廷に申請して頼経を征夷大将軍に任命させるなど、将軍に関する体制を整備した。貞永元年(一二三二)には、武家最初の法典である『御成敗式目』を制定、公平な裁判を行うための基準とした。嘉禎元年(一二三五)から三年にかけて興福寺と石清水八幡宮、延暦寺と近江の佐々木氏との間に紛争が起ったが、泰時は臨時に大和に守護、興福寺衆徒知行の荘園に地頭を置くなど、強硬な態度で興福寺・延暦寺の横暴を抑え、事態を処理した。都市鎌倉の発展に関する功績も大きい。泰時は鎌倉の家地の面積を測るのに丈尺を用い、面積の単位として戸主(へぬし)を採用した。家の集合体としての保を市政の基本単位とし、保に保奉行人を置き、市中の取締りや道路の清掃・保持の責任者とした。これらは京都の制に倣ったものである。鎌倉の海は遠浅で、港としての条件に恵まれていなかったが、勧進聖往阿弥陀仏が人工島の築造を試み、泰時が強力に援助し、貞永元年には和賀江島が築かれた。この結果、鎌倉は北九州を中継地として、中国とも水路で結ばれることになった。鎌倉と外部を結ぶ山越の道路も造られた。仁治元年(一二四〇)には鶴岡八幡宮の脇を山内に越える巨福呂(こぶくろ)坂が造られ、翌二年には鎌倉から良港六浦への六浦道が新造された。鎌倉の僧徒に対しては、僧兵のように顔を包んで市内を横行することを禁じ、念仏者が魚鳥を食い、女人を招き寄せ、党類を結び、酒宴を好むことを禁じるなど、統制を強めた。暦仁元年(一二三八)僧浄光が勧進によって鎌倉の深沢に大仏堂の建立を企てると、泰時はこれを援助し、仁治二年には大仏殿が上棟され、泰時が没した翌年、寛元元年(一二四三)に供養が営まれた。当時朝廷では九条頼経の父の道家や、外祖父の西園寺公経が実権を握っており、公武関係はおおむね円満であったが、嘉禎元年、道家らが承久の乱で流された後鳥羽・順徳両上皇の還京を図った際には、泰時はこれを強く拒否した。暦仁元年、頼経の上洛にあたっては、泰時も多数の御家人とともに上洛、十ヵ月も在京し、朝廷側との友好を深め、また在京中に京都に篝屋(かがりや)を設けることを決定、治安の強化に努めた。仁治三年四条天皇が急死した際、皇嗣の候補者として順徳上皇の皇子と土御門上皇の皇子が擬せられ、公卿の間では前者の方が有力であった。しかし順徳が承久の乱の際に討幕に積極的であったことを嫌った泰時は、皇位問題に干渉して、土御門皇子(後嵯峨天皇)を推戴した。この処断は、順徳の外戚であった九条家と幕府との亀裂を深めた。当時の幕府体制は安定していたが、それでも泰時の晩年には、貨幣経済の発展が御家人の所領を脅し始めた。泰時はこれに対処するとともに、御家人領の統制を強めた。延応元年(一二三九)には陸奥に銭の流布を禁じ、山僧・富商を地頭代にすることを禁じた。『御成敗式目』は恩領の売買を禁じたほかは、御家人がその所領を自由に処分するのを認めていたが、仁治元年の「追加」では、恩領については質入までも禁止し、私領についても御家人以外への売買を禁じた。官歴は建暦元年修理亮、建保四年従五位下、承久元年武蔵守、嘉禎二年左京権大夫を兼ね、延応元年正四位下。仁治三年五月出家(法名観阿)、六月十五日六十歳で没。泰時の政治は世の賞讃を以て迎えられ、堯・舜の再来とまでいわれた。反面、摂政近衛兼経は泰時を極重悪人と評しており、まったく悪評がなかったわけではない。しかし後世でも、北畠親房から頼山陽に至るまでが泰時を讃え、武家が皇室から政権を奪ったことを非難する中で、泰時だけを例外と見ている。
[参考文献]
『大日本史料』五ノ一四 仁治三年六月十五日条、上横手雅敬『北条泰時』(『人物叢書』九)、『鎌倉市史』総説編、石井進・大三輪竜彦編『武士の都鎌倉』(『よみがえる中世』三)
(上横手 雅敬)


日本大百科全書(ニッポニカ)
北条泰時
ほうじょうやすとき
[1183―1242]

鎌倉幕府第3代執権。父は北条義時(よしとき)。幼名金剛(こんごう)。1194年(建久5)元服して頼時(よりとき)と称し、のちに泰時と改めた。1211年(建暦1)修理亮(しゅりのすけ)に任ぜられたのを初めとして、以後式部少丞(しきぶのしょうじょう)、駿河守(するがのかみ)、武蔵(むさし)守、左京権大夫(さきょうごんのだいぶ)を歴任した。一方、1218年(建保6)に侍所別当(さむらいどころべっとう)に就任。1221年(承久3)承久(じょうきゅう)の乱が勃発(ぼっぱつ)すると、叔父時房(ときふさ)とともに西上、京方を打ち破り、その後も在京して乱後の処理にあたった。これが六波羅探題(ろくはらたんだい)の始まりである。なお、この時期に高山寺の明恵(みょうえ)(高弁(こうべん))との親交が始まったものと思われる。1224年(元仁1)父義時の死により、鎌倉に帰って執権に就任した。このとき、継母伊賀氏は実子政村(まさむら)を執権にたてようとしたが、泰時は伯母政子(まさこ)の助力を得てこの企図を阻止した。翌年政子と大江広元(おおえのひろもと)が相次いで没すると、泰時は時房を連署(れんしょ)に迎え、さらに評定衆(ひょうじょうしゅう)を設置して合議的な政治運営を目ざし、1232年(貞永1)には御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定した。こうして泰時の代に、名実ともに執権政治が確立したのである。対朝廷関係では、協調関係を基調としつつも、承久の乱で流された後鳥羽(ごとば)・順徳(じゅんとく)両上皇の還京要求を拒否し、また四条(しじょう)天皇没後公家(くげ)側の意向に反して、後嵯峨(ごさが)天皇を推戴(すいたい)するなど強硬な一面ももっていた。1242年(仁治3)病のため出家し観阿(かんあ)と称したが、6月5日没した。道理を愛する清廉な政治家として、当時より公武双方の称賛を受け、後世長く武家政治の亀鑑(きかん)と仰がれた。
[近藤成一]



世界大百科事典
北条泰時
ほうじょうやすとき
1183-1242(寿永2-仁治3)

鎌倉幕府3代執権。義時の嫡男。幼名金剛。1194年(建久5)元服,源頼朝が烏帽子親(えぼしおや)となり,名前の一字を与え頼時と名のらせたが,のち泰時と改名。江間太郎と称す。1213年(建保1)の和田義盛の乱では幕府を防衛するなど奮戦し,和田氏を滅ぼした。21年(承久3)の承久の乱には,叔父時房らとともに東海道の大将軍として大軍を率いて攻め上り,杭瀬川(くいせがわ)(美濃)や宇治川(山城)で後鳥羽上皇方を破り,ついに京都を占領した。さらに時房とともに六波羅探題(ろくはらたんだい)として都にとどまり,乱後の処理に当たった。六波羅探題は南北に分かれ,泰時は北方,時房は南方であった。24年(元仁1)父の執権義時が没すると,泰時は鎌倉に帰って執権となった。泰時は得宗家に家令を置き,尾藤景綱をこれに任じ,自家の制度の整備に努めた。継母の伊賀氏は,女婿の参議一条実雅を将軍に立て,泰時の異母弟政村を執権にしようと画策したが,北条政子によって鎮圧された。泰時の伯母である政子は,当時実質的な将軍の役割を果たしていたが,翌25年(嘉禄1)に没し,これを契機に泰時は大いに政治改革を行った。

泰時は執権とならんで執権を補佐する連署を置き,六波羅にいた時房をこれに任じた。また評定衆を置き,中原師員(もろかず),三浦義村ら11名をこれに任じた。連署,評定衆の設置は,幕府政治が独裁から合議に転換したことを意味するものであり,ここに執権政治が確立したといえる。さきに1219年,源実朝が殺されて後,鎌倉の主として京都から迎えられていた藤原三寅(頼経)はこの年元服し,翌26年朝廷によって征夷大将軍に任ぜられた。30-31年(寛喜2-3)ころの大飢饉には,倹約を命ずるとともに出挙米(すいこまい)の貸付け,年貢免除などによって,領民の救済に努めた。32年(貞永1)最初の武家法典である《御成敗式目》を制定し,御家人間の相論において公平な裁判を行うための客観的な規範を作った。当時畿内の大寺院は強大な勢力を誇り,朝廷も対策に苦しんでいたが,泰時は僧徒の武装禁止を求め,寺院側の不当な要求に対しては抑圧の態度で臨んだ。35-36年(嘉禎1-2)の石清水(いわしみず)八幡宮と興福寺との紛争では,朝廷に代わって収拾に乗り出し,前例を破って大和に守護を置き,興福寺僧の荘園に地頭を置くなどの強圧策によって,興福寺に収拾案を認めさせた。同じ時期の延暦寺と近江守護佐々木氏との紛争でも毅然たる態度で臨んだ。38年(暦仁1)将軍藤原頼経に従って上洛したが,このとき京都に篝屋(かがりや)を置き,治安を強化した。しかし貨幣経済の発展によって,困窮した御家人が所領を失う傾向はすでに始まっており,39年(延応1)から40年(仁治1)にかけて,泰時は比叡山の僧(高利貸を営んでいた)や借上(かしあげ)を地頭代とするのを禁じたり,御家人領の売買・質入れを統制したりしている。42年四条天皇が没し後嗣が問題になると,泰時は皇位に干渉し,貴族たちの反対を抑えて土御門上皇の皇子(後嵯峨天皇)を即位させた。同年病んで出家(法名観阿),やがて没した。
[上横手 雅敬]

[索引語]
連署 評定衆 御成敗式目 興福寺
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31. あぼごう・あぼしやかた【安保郷・安保氏館】埼玉県:児玉郡/神川町/元安保村地図
日本歴史地名大系
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32. あんじゅ【案主】
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35. あんようじ【安養寺】岡山県:和気郡/和気町/野吉村
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36. アーネスト・サトウ 神道論 50ページ
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ゆえに天皇の行いに疑問を持つことなく、絶対服従することが義務となる。中世において、北条義時、北条泰時、足利尊氏などがこの義務(「道」)をはずれ、天皇に刃向かった ...
37. いいぬまやかたあと【飯沼館跡】長野県:小県郡/丸子町/飯沼村
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「和名抄」高山寺本・流布本ともに「石井」と記し、訓を欠く。東は吉井郷、西は神戸郷、南は浮穴郡井門郷、北は天山郷に接する。天平勝宝二年(七五〇)四月七日付の写書所 ...
41. いしいむら【石井村】愛媛県:松山市/重信川北岸地域(旧久米郡・下浮穴郡地区)
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42. いしつくりのしょう【石作庄】兵庫県:宍粟郡/山崎町
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豆国の支配は、北条嫡流家(得宗)によって進められた。寛喜三年(一二三一)の大飢饉に際し、執権北条泰時は守護人として伊豆・駿河両国中に出挙米を施した(「吾妻鏡」同 ...
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国史大辞典
神威いよいよ揚がった。元暦元年(一一八四)源頼朝は院宣によって玉井四郎資重の濫行を停め、文暦元年(一二三四)北条泰時は社領を安堵し、貞和元年(一三四五)足利尊氏 ...
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49. いだ-まさつな【井田政綱】
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50. いとがのしょう【糸我庄】和歌山県:有田市
日本歴史地名大系
現糸我町辺りにあった荘園。天福元年(一二三三)智定房(下河辺行秀)が補陀落渡海をとげたことを鎌倉の執権北条泰時に報じた書状が、糸我庄より到来したことを記す「吾妻 ...
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一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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