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  11. 平清盛

平清盛

ジャパンナレッジで閲覧できる『平清盛』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
平清盛
たいらのきよもり
一一一八 - 八一
平安時代末期の武将。平忠盛の嫡子。実は白河院の落胤で、母は祇園女御の妹といわれる。懐妊後、白河院より忠盛に下賜され、生まれたのが清盛という(『仏舎利相承系図』)。この生母は清盛生誕の翌々年病没したらしい。武家としてはじめて太政大臣従一位の極官に昇り、平氏政権を現出した。その居館が六波羅にあったところから「六波羅殿」「六波羅入道」と呼ばれ、また「平相国」「平禅門」とも称された。

〔軍事権門〕

元永元年(一一一八)に生まれた清盛は、祖父正盛・父忠盛が院近臣として蓄えた政治力・経済力を背景に中央政界に地位を得、忠盛死後は武家棟梁としての地位を継承する。保元の乱(保元元年(一一五六))では後白河天皇方として勝利を収め、少納言入道信西と組んで勢力を伸ばす。ついで平治の乱(平治元年(一一五九))に源義朝を破り、軍事権門としての地位を確立した。両乱は「武」の重要性を政界内外に知らせる結果となり、以後清盛をはじめ平氏一門の官位は急速に上昇する。清盛自身は永暦元年(一一六〇)正三位参議となって、武家としてはじめて公卿に列し、仁安二年(一一六七)には内大臣正二位から太政大臣従一位にまで昇った。程なく官を辞し、翌三年二月病を得て出家、摂津福原に引退した。しかしその後も一門の総帥として、また国家権力の一翼をになう軍事権門として、政界に確固たる権力を保持し続けた。法名清蓮、のち静(浄)海。

〔全国組織〕

平治の乱のころまでに清盛は肥後・安芸・播磨の国守や大宰大弐を歴任し、父祖同様西国に基盤を形成、同地の武士組織に尽力した。西国の海民がそうである結果として、清盛自身も対宋貿易や海上交通に深い関心を示し、摂津大輪田泊の修築を行なって宋船をここまで入航させることに成功。また伝説によれば安芸音戸の瀬戸の開削(あるいは修復)も手がけたという。平家納経で有名な厳島神社への崇敬も海上交通や西国武士組織と無関係ではないと思われる。清盛自身の志向性もあるが、それに加えて伊予の河野氏や越智氏、肥前松浦党などの水軍の掌握を目的として、かかる努力が続けられたといえよう。平氏の擡頭が院との深い結びつきによってもたらされた結果、西国の国守歴任、海賊追捕、西国に多い院領の支配等々により、平氏自身も必然的に西国を基盤とするようになったのであるが、平治の乱後、唯一の武門棟梁になり上がった平氏は、東国や北陸への進出を積極的にはかるようになる。敗れた源氏の基盤を継承し、源氏家人の組織化を果たすことが急務だったからである。特に東国や北陸の国守を一門で占めることによって、国衙を媒介とする軍事力組織をはかる必要があった。その意味で清盛は平治の乱後、全国を対象とする唯一の武門棟梁として、まさに軍事権門の名にふさわしい存在になったということができる。ただしどのように基盤を拡大しようと、平氏が対象地域の支配をどう行うか、どう在地武士を組織するかが問題となる。公権を媒介として在地武士を戦時に動かすことができたとしても、彼らの利害を代表しうる存在として主従制のもとに彼らを私的に組織化しなければ、武門棟梁としての存在意義はきわめて薄い。公権に基づく軍制を把握しただけでは充分とはいえないのである。その点で清盛の全国支配には脆弱性が認められ、そこに平氏政権の限界も内包されていたということができる。

〔対朝廷勢力策〕

旧来の朝廷勢力に対する施策の一つとして清盛が採用したのは婚姻政策である。一門の人々は政界の有力者と婚姻を結んだが、特に清盛の娘のうち盛子は関白藤原基実の室に、寛子は基実の子基通の室となり、徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生んでいる。基実が若くして他界した際にはその遺領を盛子に継がせ、実質的には清盛の管理下に置いてしまった。安徳天皇の即位(治承四年(一一八〇))後、清盛は天皇外祖父の地位を得ることとなる。また高倉天皇の母は、清盛妻時子の妹建春門院平滋子にほかならない。この時子・滋子姉妹は桓武平氏本宗の流れをくむ平時信の娘で、他にも清盛の子重盛・宗盛が時信の娘と婚姻を結んでいる。清盛はこの一流と婚姻を結ぶことにより、堂上公家平氏をも一門にとりこんだのであった。このほか院近臣として勢力を誇った藤原家成の家とは、重盛・知盛(清盛子)・教盛(清盛弟)らが幾重にも婚姻を重ね、村上源氏の流れをくむ僧俊寛の一族とも頼盛(清盛弟)が婚姻を結ぶなど、有力公家との婚姻関係は非常に密接なものであった。しかしそれにもかかわらず鹿ヶ谷の謀議(治承元年)で平氏倒滅の陰謀をめぐらしていたのは、家成の子成親や西光・俊寛などであった。彼らは後白河院近臣としての立場から、平氏を政敵とみなし決起しようとしたのである。基実死後の摂関家遺領横領事件に典型的にみられるように、平氏の婚姻政策はあまりに強引であったため、それによって生ずる政治的、経済的な利害の対立が、密接に結ばれた婚姻関係をはるかに上回って表面化したのであった。

〔政権樹立〕

このように清盛の施策は中央・地方双方において矛盾を呈し、特に後白河院とは対立が尖鋭化していった。一門による官位の独占や知行国・荘園の集積が、旧勢力の不満を促進し、彼らを後白河院のもとに結集させる結果となったのである。鹿ヶ谷の謀議のあと、治承三年に盛子が死去するとその遺領を院が没収、ついで清盛嫡子重盛の死去後はその知行国越前を院が奪うなど、院の攻勢が続き、ついに同年十一月清盛は福原から上洛してクーデタを敢行し、院を鳥羽殿に幽閉、反平氏の公家の官を解き、平氏一門や平氏家人、親平氏派の公家をもってこれにかえた。ここに清盛の独裁政権が樹立され、清盛による強引な暗黒政治が展開されることとなる。一門の多くが公卿・殿上人となり、知行国の半数以上を一門が占めたという『平家物語』の記載は、実にこのクーデタ以後の状況を物語るものである。不満分子を摘発するため京中に密偵「禿童(かむろ)」を放ったというのもこのころのことであろう。荘園の集積にしても、これ以後は上級領有者を戴かない平家領も出現し、平氏が権力者として頂点に立ったことを示している。しかしいかに圧政をしいても反勢力の動向は抑えようがなく、翌治承四年五月には以仁王・源三位頼政の挙兵があり、八月には伊豆の源頼朝、木曾の源義仲らの挙兵が相つぎ、諸国は内乱の様相を呈していった。清盛は福原遷都をもってこれに対抗したが、新都造営が思うにまかせぬまま還都のやむなきに至った。寺社勢力の活発な動きへの対策として同年十二月には南都焼打ちを敢行するが、これも仏敵の汚名を着せられるだけの結果に終り、かえって反平氏勢力の結集を強めてしまった。翌養和元年(一一八一)閏二月四日、熱病におかされた清盛は、家人平盛国の九条河原口の邸で、平氏の行末を案じながら六十四歳の生涯を閉じた。
→六波羅政権(ろくはらせいけん)
[参考文献]
『平家物語』(『日本古典文学大系』三二)、『玉葉』、安田元久『平清盛』(『人と歴史シリーズ』日本八)、上横手雅敬『平家物語の虚構と真実』上(『塙新書』六一)
(飯田 悠紀子)


世界大百科事典
平清盛
たいらのきよもり
1118-81(元永1-養和1)

平安末期の武将。平忠盛の嫡子。白河院の落胤(らくいん)といわれ,母は祇園女御(ぎおんのにようご)の妹とする説が有力。白河院の寵姫であった祇園女御妹が懐妊したまま忠盛に下賜され,生まれたのが清盛という。この生母は清盛生誕の翌々年に病没したらしい。通称〈平相国(へいしようこく)〉〈平禅門(へいぜんもん)〉,またその居所から〈六波羅殿(ろくはらどの)〉〈六波羅入道〉とも呼ばれた。

軍事権門化

平忠盛が鳥羽院の近臣として築きあげた武将としての地位,西国の国守を歴任して蓄えた財力をもとに,忠盛死後,平家武士団の首長を継ぐ。1156年(保元1)保元の乱で源義朝とともに後白河天皇方として勝利をおさめ,少納言入道信西(しんぜい)と結んで昇進,59年(平治1)には平治の乱で源義朝を破り,以後は唯一の武門の棟梁として,国家権力の中で〈武(軍事)〉を担当する権門としての地位を確立する。この間,父祖同様肥後,安芸,播磨など西国の国守に任ぜられ,大宰大弐(だざいのだいに)として鎮西(ちんぜい)支配にも乗り出している。平治の乱後は昇進を急速に早め,60年(永暦1)には参議正三位となり,武士として初めて公卿に列した。67年(仁安2)には内大臣正二位から左右大臣を飛び越えて一気に太政大臣従一位の極官に昇る。時に清盛50歳であった。しかし3ヵ月後清盛は官を辞し,翌68年2月病により出家,摂津福原に引退する。しかし,その後も平家一門の総帥として朝廷内にも強い発言力を保持し続けた。法名清〓,のち静(浄)海。

婚姻政策

清盛の昇進にともない,嫡子重盛以下平家一門の人々の官位も昇り,また諸国の知行主(ちぎようしゆ),国守の地位を多く得て,平家は政治的,経済的に圧倒的優位に立つようになった。その権力集中を容易にした方策の一つに婚姻政策がある。一門の人々は政界の有力者とそれぞれ婚姻関係を結んだが,とくに清盛の娘たちは,盛子(せいし)が関白藤原基実(もとざね)の室となり,基実が1166年に24歳で他界したときには,その遺領を室盛子に継がせ,清盛は盛子の後見として実質的に摂関家領を押領してしまった。盛子の妹寛子は基実の子基通(もとみち)の室となったほか,徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生んでいる。安徳天皇の即位(1180)により,清盛は天皇の外祖父の地位を得ることとなる。また高倉天皇自体,清盛の妻平時子の妹滋子(じし)(建春門院)が後白河院のもとに入って1161年(応保1)に生んだ天皇であった。この時子・滋子姉妹は桓武平氏高棟(たかむね)王系の平時信の子で,堂上公家平家の出であり,また桓武平氏の本宗の流れをくむ家柄である。〈平氏〉としてはこの高棟王系のほうが嫡流で,清盛のような高望(たかもち)王系の武家平家は傍流にすぎなかった。そこで清盛はこの時信一族と婚姻関係を結び,時子を室としたほか,時子の妹たちを重盛,宗盛の室とし,平氏本宗を一族中にとりこんでいったのである。

独裁化

平氏の勢力伸張は,一門による官位の独占,一門への知行国の集中,荘園の集積という現象をいっそう促進させた。そのことは京都の公家勢力の政治的・経済的基盤を侵食する結果となり,朝廷内外には反平氏の気運がしだいにはぐくまれていった。とくにかつて平家の保護者的立場にあった後白河院とは,清盛の権力集中にともなって対立が深刻化し,1177年(治承1)には院近臣による平家討滅の陰謀が露顕するに至った(鹿ヶ谷(ししがたに)事件)。これを契機に清盛と院とは鋭い対立を見せ始め,79年6月平盛子が死去すると,その遺領を院が没収し,7月清盛の嫡子重盛死去の際にはその知行国越前を院が奪うに至った。そこで同年11月清盛は大軍を率いて福原から上洛し,後白河院を鳥羽殿に幽閉し,院に近い公家39名の官を解いて親平家派の人々をこれに替えた。ここに名実ともに権力を完全掌握した平氏政権が成立し,以後平氏は禿童(かむろ)を密偵として京中に放つ恐怖政治のもと,〈一門公卿十余人,殿上人三十余人〉〈平家知行の国三十余ヵ国,既に半国に及べり〉と言われる独裁政権が樹立された。しかしこのことは反平氏の気運をいっそう強めることとなり,院,貴族,寺社および在地武士が反平氏という立場で結束し,翌80年5月には以仁(もちひと)王の挙兵,8月には伊豆の源頼朝,9月には木曾の源義仲の挙兵と諸国源氏の蜂起が相ついだ。これに対し清盛は福原遷都,南都焼打ちを敢行してこれに対抗しようとしたが,結果は平氏の孤立化を深めただけであった。そして翌81年閏2月4日,清盛は憂慮のうちに熱病で64歳の生涯を閉じた。

海民の首領

平安時代,伊勢国は東国との海上交通の要地で,安濃津(あのつ),桑名津は東国と往反する船の発着港であった。伊勢に根拠地をもった平家は,父祖以来の伝統として海上への志向性をもっていたと思われる。しかも正盛,忠盛が白河・鳥羽両院政下,海賊を追捕してこれを家人化したり,西国の国守を歴任,また院領を支配したりして,西国およびそこの海民・水軍を基盤とするようになった関係から,いっそう海上交通や日宋貿易に積極的政策をとるようになったといえる。清盛の別業が福原に営まれたのもそうした事情と無関係ではあるまい。清盛はここで大輪田泊(おおわだのとまり)を修築し,宋船の内海入航を図った。伝承によれば音戸ノ瀬戸(おんどのせと)の開削(あるいは修復)も清盛の事績であるという。また厳島(いつくしま)神社を崇敬したのも,宗教上の問題だけでなく,内海交通・軍事編成と深い関係があったと思われる。西国を基盤とする以上,平家は伊予の河野(こうの)・越智(おち)水軍や肥前松浦(まつら)党に代表される勢力を把握せねばならず,彼らが離反したとき平家の命運も決したといえる。1183年(寿永2)7月の西走以前,平家の中では一度ならず鎮西に移ろうとの話がもちあがっていたが,実際に都落ちしたときは,まず鎮西を目ざしたにもかかわらず同地の在地武士に拒否されて上陸できなかった。また平家一族が滅んだのも結局壇ノ浦の海上においてであった。それは清盛亡きあとも海民の首領であるべき平家の皮肉な末路であった。
→平氏政権
[飯田 悠紀子]

平家物語にみる人物像

《平家物語》によると,清盛が犯した数多くの〈悪業〉のうち最も象徴的なものは,後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉し,大臣以下多くの公卿を流罪に処したこと,南都の東大寺,興福寺を重衡に命じて焼亡させたことであろう。古代王権の秩序を支える理念が王法と仏法にあるとすれば,清盛の行為は,まさに古代王権を根底から覆し,乱逆(らんげき)の世の到来を告げたことになる。またそれは,武士を担い手とする新しい政治体制に道を開いたことをも意味する。清盛は単なる悪業深い人として処理できない,歴史の転換期における必要悪のようなものを体現している。〈あっち死〉という無残な死は,清盛の犯した〈悪業〉の当然の報いでもあるが,死に臨んでみずからの生涯をふり返り,まったく後悔するところがないと言い放つ,その態度は,頼朝の首を墓前に供える以外は,堂塔の建立も,仏事供養もすべからずとのことばとともに,不遜ではあるが,転換期を身をもって生きた人間のみが発することのできる威厳にみちている。また,〈経島築造説話〉〈慈恵僧正再誕説話〉〈白河法皇落胤説話〉は,後の増補といわれる部分であるが,これらの説話には,清盛が熱心な法華信仰者であり,只人ではない点が強調されており,〈悪業〉深い清盛の評価を払拭している。これは,《平家物語》の伝承者や享受者が清盛に寄せる親愛感の現れであり,鎮魂の思いでもある。
[岩崎 武夫]

[索引語]
平相国 平禅門 六波羅殿 六波羅入道 後白河天皇(法皇) 静(浄)海 平盛子 平徳子 建礼門院 平時子 平滋子 建春門院 平氏 平時信 鹿ヶ谷(ししがたに)事件
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日本歴史地名大系
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44. ありだぐん【有田郡】和歌山県
日本歴史地名大系
り、荘園史の一典型を現出していく。〔中世〕平治元年(一一五九)一二月、熊野参詣の道中にあった平清盛は、源義朝挙兵の報を聞いて急遽上京したが、「愚管抄」に「湯浅ノ ...
45. 有馬地誌[文献解題]兵庫県
日本歴史地名大系
、寺観門(温泉寺・施薬院・蘭若院など)、祠廟門(湯山権現・三輪明神・鹿舌明神など)、墳墓門(平清盛墓・慈心坊尊慧墓・阿闍梨円仁墓)の各部門に分けて記述している。 ...
46. 安徳天皇
日本大百科全書
第81代天皇(在位1180~1185)。名は言仁(ときひと)。高倉(たかくら)天皇の第1皇子。母は平清盛(きよもり)の女(むすめ)徳子。治承(じしょう)2年11 ...
47. 安徳天皇
世界大百科事典
第81代に数えられる天皇。在位1180-85年。名は言仁。高倉天皇の第1皇子として平重盛の六波羅邸で誕生。母は平清盛の娘建礼門院徳子。翌月立太子。80年(治承4 ...
48. あんとく‐てんのう[‥テンワウ]【安徳天皇】
日本国語大辞典
第八一代天皇。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。名、言仁(ときひと)。治承四年(一一八〇)即位し在位五年。木曾義仲入京の時、平宗盛に守られて三種の ...
49. あんとくてんのう【安徳天皇】
国史大辞典
一一七八―八五 一一八〇―八五在位。治承二年(一一七八)十一月十二日高倉天皇の第一皇子として誕生。母は平清盛の女の中宮平徳子(のちの建礼門院)。諱は言仁。十二月 ...
50. あんとくてんのう【安徳天皇】
日本人名大辞典
在位1180-85。治承(じしょう)2年11月12日生まれ。高倉天皇の第1皇子。母は平徳子(建礼門院)。平清盛の後押しにより3歳で即位。翌年清盛が死に,各地で平 ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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