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空海

ジャパンナレッジで閲覧できる『空海』の新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典
空海
くうかい
774‐835(宝亀5‐承和2)
弘法大師、俗に「お大師さん」と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。生誕の月日は不明であるが、後に不空三蔵(七〇五‐七七四)の生れかわりとする信仰から、不空の忌日である六月一五日生誕説が生じた。父は佐伯氏、母は阿刀あと氏。弟に真雅、甥に智泉、真然、智証大師円珍、また一族に実恵、道雄ら、平安時代初期の宗教界を代表する人物が輩出した。自伝によれば、七八八年(延暦七)一五歳で上京、母方の叔父阿刀大足あとのおおたりについて学び、一八歳で大学に入学、明経道の学生として経史を博覧した。在学中に一人の沙門に会って虚空蔵求聞持こくうぞうぐもんじ法を教えられて以来、大学に決別し、阿波の大滝嶽、土佐の室戸崎で求聞持法を修し、吉野金峰山、伊予の石鎚山などで修行した。この間の体験によって七九七年二四歳のとき、儒教、仏教、道教の三教の優劣を論じた出身宣言の書『三教指帰さんごうしいき』を著した。このころから草聖と称されるようになった。
八〇四年四月出家得度し、東大寺戒壇院において具足戒を受け空海と号した。同年七月遣唐大使藤原葛野麻呂に従って入唐留学に出発、一二月長安に到着した。翌八〇五年西明寺に入り、諸寺を歴訪して師を求め、青竜寺の恵果に就いて学法し、同年六月同寺東塔院灌頂道場で胎蔵、七月金剛の両部灌頂を、八月には伝法阿闍梨位灌頂を受け遍照金剛の密号を授けられ、正統密教の第八祖となった。師恵果の滅後八〇六年(大同一)越州に着いて内外の経典を収集し、同年八月明州を出発して帰国した。一〇月遣唐判官高階遠成に付して請来目録をたてまつったが入京を許されず、翌八〇七年四月観世音寺に入り、次いで和泉国に移り八〇九年七月に入京した。
同年八月、経疏の借覧を契機に最澄との交流がはじまり、一〇月嵯峨天皇の命で世説の屏風を献上したが、このころから書や詩文を通じて嵯峨天皇や文人の認めるところとなった。八一〇年(弘仁一)一〇月、高雄山寺で仁王経等の儀軌による鎮護国家の修法を申請したが、これが空海の公的な修法の初例である。八一一年一〇月、乙訓おとくに寺別当に補され修造を命じられたが、八一二年一〇月高雄山寺に帰り、一一月最澄や和気真綱に金剛界結縁灌頂、一二月には最澄以下一九四名に胎蔵界結縁灌頂を授けた。八一三年最澄は弟子円澄、泰範、光定らを空海の下に派遣して学ばしめ、同年三月の高雄山寺の金剛界灌頂には泰範、円澄、光定らが入坦している。八一二年末の高雄山寺の灌頂や三綱さんごうの設置は教団の組織化を意味しており、八一三年五月には、いわゆる弘仁の遺誡を作って諸弟子を戒めている。八一四年には日光山の勝道上人のために碑銘を撰し、八一五年四月には弟子の康守、安行らを東国に派遣し、甲斐、常陸の国司、下野の僧広智、常陸の徳一らに密教経典の書写を勧め、東国地方への布教を企てた。このころ『弁顕密二教論』二巻を著し、八一六年五月、泰範の去就をめぐって、最澄との間に密教理解の根本的な相違を表明してついに決別した。
同年七月、勅許を得て高野山金剛峯寺を開創したが、八一九年ころから『広付法伝』二巻、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義うんじぎ』『文鏡秘府論』六巻、八二〇年『文筆眼心抄』などを著述して、その思想的立場と教理体系を明らかにした。八二〇年一〇月伝灯大法師位、八二一年五月には請われて讃岐国満濃池を修築し、土木工事の技術と指導力に才能を発揮した。八二二年二月、東大寺に灌頂道場を建立して鎮護国家の修法道場とした。八二三年正月、東寺を賜り真言密教の根本道場とし、同年一〇月には真言宗僧侶の学修に必要な三学論を作成して献上し、五〇人の僧をおいて祈願修法せしめた。八二四年(天長一)少僧都、八二七年大僧都。八二八年一二月、藤原三守の九条第を譲りうけて綜芸種智院しゅげいしゅちいんを開き儒仏道の三教を講じて庶民に門戸を開放した。このころ、漢字辞書として日本最初の『篆隷万象名義てんれいばんしょうめいぎ』三〇巻を撰述した。八三〇年天長六宗書の一つである『十住心論』一〇巻、『秘蔵宝鑰ほうやく』三巻を著し、真言密教の思想体系を完成した。『弁顕密二教論』では顕教と密教を比較して、顕教では救われない人も密教では救われること、即身成仏の思想を表明しており、これを横の教判といい、『十住心論』の縦の教判に対する。
空海は個人の宗教的人格の完成、即身成仏と国家社会の鎮護と救済を目標としたが、八三二年八月、高野山で行った万灯万華法会や、八三五年(承和二)正月以来恒例となった宮中真言院における後七日御修法ごしちにちみしゅほうはその象徴的表現である。同年正月には真言宗年分度者三名の設置が勅許され、翌二月、金剛峯寺は定額寺に列した。同年三月二一日奥院に入定した。世寿六二。八五七年(天安一)大僧正、八六四年(貞観六)法印大和尚位を追贈され、九二一年(延喜二一)弘法大師の号がおくられた。宗教家としてのほかに文学、芸術、学問、社会事業など多方面に活躍し、文化史上の功績は大きく、それに比例して伝説も多い。
[和多 秀乘]
弘法大師の説話
弘法大師空海についてはさまざまな伝承が形成され、その人物像は多様に展開した。それらは平安~室町時代を通して制作された各種の大師伝記に詳しい。最も早い時期に成立したのは、大師自身の遺言という体裁をもつ『遺告ゆいごう』の諸本であり、次いで一一世紀初頭から一二世紀にかけて、『金剛峯寺建立修行縁起』、経範の『弘法大師行状集記』(一〇八九)、大江匡房の『本朝神仙伝』、藤原敦光の『弘法大師行化記』などに大師の説話伝承が集められていく。これらは『今昔物語集』『打聞集』などの説話集の典拠となっている。鎌倉期には、これらの諸伝を基として各種の大師絵伝が制作される。その成立には確実な説はないが、梅津次郎によれば、一三世紀半ばに『高祖大師秘密縁起』『弘法大師行状図画』が成り、一三七四年(文中三/応安七)には東寺において『弘法大師行状記』が成立する。南北朝期以降は、上記大師伝の物語化、注釈化が行われる。注釈面では、『弘法大師行状要記』がその代表である。物語には、『高野物語』『宗論物語』がある。さらに、幸若『笛の巻』、説経『苅萱かるかや』、謡曲『渡唐空海』、室町物語『横笛草子』などにも大師伝が物語られている。
伝説化の萌芽は大師の著に仮託されている『遺告』諸本にすでにみられる。たとえば誕生の奇瑞が説かれ、子どものころ、夢中に諸仏と語ったとされ、苦行中に明星が口に入ったとされるなどである。さらに『遺告』諸本にみえる伝説的な部分を記すると次のようなものがある。行基の弟子の妻から鉢を供養され、伊豆桂谷山では『大般若経』魔事品を空中に書き、入唐中には恵果または呉殷纂から三地の菩薩とたたえられ、帰朝後は神泉苑で祈雨法を修して霊験をあらわし、その功によって真言宗をたて、高野山を開くにあたっては、丹生の女神が現れて大師に帰依し土地を譲ったとされる。また、密教を守り弥勒下生に再会するため大師は入滅に擬して入定していると説かれ、宀一山べんいっさん(室生寺)には伝法の象徴として如意宝珠を大師が納めたとも説かれる。
やがてこれらにさまざまな伝承が加えられるようになる。入唐求法については、夢告で久米寺東塔から大日経を感得したのがその動機とされ、恵果入滅のときに影現し生々世々師弟と生じて再会しようと契ったなどとされ(清寿僧正作『弘法大師伝』)、神泉苑に請雨法を行ったのは、無熱池の善如竜王を勧請し密教の奥旨を示すためであったとされる(同書、『二十五箇条遺告』)。大師が公家に召されて諸宗の学者を論破し信伏させた(『行状集記』)とする説話は、清涼殿で即身成仏の義を説き、みずから大日如来の相をあらわした(『孔雀経音義序』『修行縁起』)ことと結合して『行状図画』に宗論説話となり、他の大師の説話とあわせて『平家物語』に結びつき、『平家物語』高野巻などを形成する。『高野山秘記』には入唐中、童子の導きで流沙・葱嶺そうれいを越えて天竺の霊山の釈迦説法の座に連なり直接に教えを受けたとする渡天説話を伝える。唐土よりの帰朝に際して、三鈷を投げると雲に飛び入り、高野山に落ちたと伝え(『修行縁起』)、また鈴杵を投げると東寺、高野山、室戸に落ちたとも伝える(『本朝神仙伝』)。大師が巡遊中に猟師にあい、高野山を教えられたとする説話(『修行縁起』)があり、延喜帝の夢想により観賢が高野山に入定した大師を拝すと、容色不変であったとする説話(『行状集記』)もあり、同様の説話は『高野山秘記』『高野物語』にもあって、『行状図画』や、『平家物語』にもとり入れられる。書に秀でた大師の説話には、唐の宮殿の壁に、手足口を用いて五筆で詩を書くなどしたので五筆和尚の号を得たとするものがあり、また、唐土で童子が空海に流水に字を書かせ、大師が龍の字を書くが、これに点を付すと真の龍となったとするもの(『修行縁起』)がある。これらの説話は、先の渡天説話とも結合して謡曲『渡唐空海』、舞曲『笛の巻』、説経『かるかや』などに流れ込み、物語化される。書に関しては応天門の額の字を書き、書き落とした点を下から筆を飛ばして補ったとする(『修行縁起』)説話もあり、このような神異は『本朝神仙伝』に説かれている。験者としての大師については、神泉苑で対抗する行者守円(敏)が瓶中に竜神を閉じ込め、殿上でクリを加持してゆでたり、呪詛したりするのを大師は破って勝利する(『行状集記』『御伝』)という説話があり、やがて『太平記』の神泉苑事として物語化する。始祖としての大師は、『麗気記』などに両部神道の祖とされ、また「いろは歌」の作者ともされ、『玉造小町壮衰書』は大師の著に仮託されるが、これでは浄土教の唱導者の面をも与えられている。
大師の足跡を残す聖地は各所にあって、とりわけ四国に集中し、やがてこれを結んで参拝する四国八十八ヵ所の巡礼「四国遍路へんろ」が生まれた。人々は大師とともに修行することを示す「同行二人」と書いたかたびらを着て巡礼するが、このように大師は民衆の生活とも深くかかわっている。
[阿部 泰郎]
昔、神泉苑にして、請雨経の法を行いたまえり。修因は、諸の竜をおしえて、瓶の中に入れしかば、仍ち久しく験を得ずありき。大師は、その心を覚りて、阿耨達池なる善如竜王に請いしかば、金色の小さき竜、丈に余れる蛇に乗れり。また両つの蛇の〓くちとりあり。ここに大きに雨ふりたり。これより神泉苑をもちて、この竜の住む所となし、兼ねて秘法を行う地となしき。
本朝神仙伝
大師、兼ねて草書の法を善くしたまえり。昔、左右の手足と口と、筆を秉り書を成したまえり。故に唐の朝にては五筆和尚と謂えり。帝都の南面の三つの門、並びに応天門の額は、大師の書きたまいしところなり。
本朝神仙伝
弘法大師、入唐の次でに、寿量品の「常在霊鷲山」の文を憶念して、霊山に登らんと欲す。いかにしてこの願を遂げんと心中に思惟したまう。ここに於て、神童、忽ちに現わる。その躰、異気最霊にして人の知る所に越たり。和尚、心に念じ進みて云わく。「霊山は路遠きこと五万余里なり。流沙〓嶺の難路は思えば易し」。かくの如く談ずる間、白馬、忽ちに来たる。光輝の鞍を置けり。見るに神の作す所なり。神童、我をこの馬に乗せるに、この馬、飛ぶが如くに忽ちに流沙を超えぬ。次に青羊あり。長七尺ばかり、高さ六七尺ばかり。置く所の鞍は前の如し。白馬の神童も先の如く、乗て〓嶺を前みて、一時ばかりに超えぬ。その次に飛車あり。夜叉神あり。我を乗せて霊山の麓に至らしむ。是則、三宝利生の方便なり。七日間に食す所は甘露なり。これを甜て更に飢の気なし。霊山の基にして、老翁、忽然として出来して、「何人ぞ」と云う。和尚、答えて云わく。「尺迦如来を見奉らん」と。老翁、実に眼根最霊なり。仏の相を見ることを得たり云云。老翁の云わく。「仏、涅槃に入りて多くの歳を経たり。いかでか能く見奉らん」。
……生仏不二の観を作す時に、山、響くこと雷声の如し。微風、山木を動かし、地振に似たり。香雲、谷に満ち、身心適悦す。この時、忽に空鉢を現じ、光を放ち、山路を示す。光に随いて漸く登りて山頂に至る。時に、尺迦如来、咲を含み、顔を開くこと鵝王の如くして出給う。
……大師、この山にかよい住み給う間、異相、甚だ多かりけり。山の路の辺り、十町ばかりの沢あり。山王丹生大明神の社なり。今、天野と云う所なり。大師、登山し給いし初めに、この社の辺りに宿し給いけるに、大明神、託宣しての給わく。妾は神道にありて威福を望むこと久し。今、この所に到り給う、妾が幸いなり。弟子、昔、現人たりし時、食国〓をすくにすべらみこと、家地万町許りを給えり。……願くは是を奉らん。永き世に仰信の心を顕わさん」との給えり。
初に遇いたりし獦者は、高野大明神にておわします。丹生・高野とて、山上山下共に是をいわい奉りて、今の世に法施絶えざれば、威福を増し給うらん事、おし量るべし。
かくて、官符を給わらせ給いて、伽藍を建立せんが為に、樹木をきりはらわるる間、松の木の梢に、かの唐にて投げ給えりける三鈷、厳然として懸れり。弥歓喜の心を催して、密教相応の地と云う事を知りぬ。地主山王の告げ給いし夜々の霊光は、この樹にぞありける。
……三鈷の留りたりける松樹の本にぞ、御庵室は作られて侍りける。今の御影堂、この所なり。三鈷の松とて今に侍るは、かの樹なり。
高野物語巻五
〈弘法大師の母〉さてさて大師の母御、御年八十三におなりあるが、大師に会わんとて、高野を指いてお上りあるが、にわかにかき曇り、山が震動雷電するなり。大師そのとき、いかなる女人この山におもむきてあるか、麓に下り見んと思しめせば、矢立の杉と申すに、八十ばかりな尼公が、大地の底ににえいるなり。大師御覧じて、「いかなる女人」とお問いある。(中略)大師御手を打ち、「われこそ昔の新発意、弘法なり。これまでお上りは、めでたくは候えども、この山と申すは、天を翔るつばさ、地を走る獣までも、男子というものは入るれども、女子というもの入れざる山にて候」とあれば、母御はそのとき、「わが子のいる山へ、上らぬことの腹立ちや」とて、そばなる石をお捩じあったるによって、捩石と申すなり。火の雨が降り来たれば、母御をお隠しあったによって、隠し岩と申すなり。「いかに大師なればとて、父が種を下ろし、母が胎内を借りてこそ、末世の能化とはなるべけれ。うき世に一人ある母を、いそぎ寺へ上れとはのうて、里に下れとは情けない」とて、涙をお流しある。大師そのとき、「不孝にて申すではなし」。七丈の袈裟を脱ぎ下ろし、岩の上に敷きたまいて、「これをお越しあれ」となり。母御はわが子の袈裟なれば、なんの子細のあるべきとて、むんずとお越しあれば、四十一にて止まりし月の障りが、八十三と申すに、けしつぶと落つれば、袈裟は火炎となって天へ上がる。それよりも大師、しゃうさい浄土にて、三世の諸仏を集め、両界くそんの曼陀羅を作り、七々四十九日の御弔いあれば、大師の母御、煩悩の人界を離れ、弥勒菩薩とおなりある。
説経節苅萱
けつはさつせいと弘法大師いゝ
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):信‐6
刊行/開き:1778(安永7年)(開き)
古ル郷を弘法大師けちをつけ
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):満‐2
刊行/開き:1761(宝暦11年)(開き)
陰間愚痴弘法様が初めずば
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):153‐14
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
江戸期には、空海がわが国で男色を創始したとの俗伝がひろく行きわたった。第二句、「故郷」は女陰。第三句「陰間」は江戸期のゲイボーイ。
弘法も一チ度は筆ではぢをかき
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):宮‐2
刊行/開き:1786(天明6年)(開き)
応天門の額の字を、空海が点の一つ足りぬまま掲げ、人に指摘されて、筆を投げて補ったとの説話による。空海の「投げ筆」として著名。能筆家空海に付随して生まれた伝説。


国史大辞典
空海
くうかい
七七四 - 八三五
平安時代前期の真言宗僧。宝亀五年(七七四)、讃岐国多度郡弘田郷屏風浦(香川県善通寺市)に誕生。父は佐伯田公、母は阿刀氏。幼名を真魚といい、また貴物と称ばれた。延暦七年(七八八)入洛、外舅阿刀大足(伊予親王の文学)に就いて文書を習い、十年、大学に学んだが、時に一沙門から虚空蔵求聞持法を示され、経説実修のために阿波の大滝岳・土佐の室戸崎などの地において勤行を重ねた。十六年帰洛、『三教指帰』三巻を撰して、儒・道・仏三教の優劣を論じ、仏教こそ最勝の道であるとした(別に同時撰述の空海自筆本が『聾瞽指帰』一巻(金剛峯寺蔵、国宝)として伝えられ、序文と末尾の十韻の詩が異なるほか、本文に多少の出入があり、また若干の自注が施されている)。空海の出家得度の年時については、延暦十一年・十二年・十四年・十七年・二十二年・二十三年と異説が多いが、『梅園奇賞』所載の延暦二十四年九月十一日付の太政官符、また『中村直勝博士蒐集古文書』所収の同官符案には、延暦二十二年四月七日出家の文字がみえ、『続日本後紀』所載の空海伝また「年卅一得度」と記すから(この書は空海六十三歳示寂とするから、年三十一は延暦二十二年にあたる)、今は延暦二十二年出家説に従う。受戒についても延暦十四年・二十二年・二十三年などの諸説があり、ここでは二十三年説を採るよりほかはないが、いずれにしても入唐を目前に控えて慌しい得度進具であったとしなくてはならぬ。事実、この『三教指帰』の撰述から入唐までの数年間は、空海伝の中で最も謎の多い部分であるが、ただその間に大和の久米寺東塔下において『大日経』を感得したという所伝は注目される。空海入唐の直接の動機は、まさにこの経の秘奥を探ろうとするところにあったからである。延暦二十三年五月十二日、空海は遣唐大使藤原葛野麻呂に従い、第一船に乗じて難波津を発し、同七月六日、肥前国松浦郡田浦から渡海、月余にして八月十日福州長渓県赤岸鎮已南の海口に著いたが、さらに福州に廻航、十月三日、州に至った。十一月三日、州を発して上都に赴き、十二月二十三日、長安城に入る。翌二十四年(唐、永貞元年)二月十日、大使らは長安を辞して明州に向かったが、空海は西明寺の永忠(日本の留学僧、この年帰朝)の故院に留住せしめられ、以後城中の諸寺を歴訪して師依を求め、青竜寺の僧恵果に遇って師主とすることを得た(恵果は、不空三蔵付法の弟子、三朝の国師と称せられた唐代密教の巨匠である)。空海は、恵果に就いて発菩提心戒を受け、青竜寺東塔院の灌頂道場において受明灌頂に沐し(六月十三日胎蔵界、七月上旬金剛界)、ついで伝法阿闍梨位灌頂に沐して(八月上旬)、遍照金剛の密号を受けた。恵果は、さらに両部大曼荼羅図十舗を図絵、道具・法文などを新造・書写せしめて空海に付嘱し、また仏舎利など十三種物を授けて伝法の印信としたというが、この年十二月十五日、六十歳をもって示寂。空海は、その建碑(翌大同元年(八〇六)正月十七日)にあたって碑文を撰し、みずからこれを書いた。一方、空海は、この年、長安の醴泉寺において、〓賓国の僧般若三蔵、北印度の僧牟尼室利三蔵からも学ぶところがあり、般若三蔵からは新訳の『華厳経』その他を付嘱されている。また、書家・詩人としての声名も、すでにその間に揚がっていたようである。大同元年(唐、元和元年)正月、遣唐判官高階遠成は、空海および橘逸勢らとともに帰国せんことを唐朝に奏し、認められたが、空海辞京の日は詳らかでなく、ただ四月には越州にあり、その節度使(浙東観察使)に書を送って内外の経書を求めている。明州からの解纜は八月としてよく、筑紫繋帆の日時については異説が多いが、『御請来目録』巻首の上表文に、大同元年十月二十二日の日付がみえるから、少なくともこの日には宰府の地にあったことが知られよう。この請来目録の内訳は、新旧訳経百四十二部二百四十七巻、梵字真言讃等四十二部四十四巻、論疏章等三十二部百七十巻、図像等十舗、道具九種、阿闍梨付嘱物十三種から成り、目録は高階遠成に付して進献されたものである(最澄書写の本が今に伝えられている。教王護国寺蔵、国宝)。宰府の地にあった空海は、大同二年四月、筑前の観世音寺に留住せしめられ、ついで請来の法文・道具・曼荼羅などを具して上洛したといわれるが、実際に京洛の地を踏んだのは同四年七月に入ってからのことで、それまでは和泉の槇尾山寺にとどまっていたと思われる。入京後は高雄山寺に住した。八月、最澄は空海に書を寄せて、請来の法文十二部の借覧を請い、ここに最澄との交友が開かれる。十月、嵯峨天皇の勅によって「世説」の屏風両帖を書いて進献し、爾後、高名の書家・詩人として厚く遇せられるに至った。一方、弘仁元年(八一〇)十月、空海は上表して、高雄山寺に鎮国念誦の法門の実修を請うたが、これは輒く聴されなかったらしい。また、この年、東大寺の別当に補せられたというが未詳。二年十月には高雄山寺の地は不便なりとして乙訓寺に住せしめられ、ついで同寺の別当に補せられている。翌三年十月、最澄はこの寺に空海を訪れて付法の約諾を得、空海また高雄山寺に還住して、翌十一月十五日、最澄らのために金剛界結縁灌頂を行なった。胎蔵界結縁灌頂は十二月十四日(空海自筆の『高雄山灌頂歴名』が今に伝えられている。神護寺蔵、国宝)。最澄と空海との交友は、四年十一月の『理趣釈経』の借請、七年五月の泰範離反などの問題から、急速に冷却するに至ったといわれるが、その間、空海自身としても、積極的に密蔵法門流布の意を明らかにし、六年四月、いわゆる「勧縁疏」を草して東国の国守や名僧らに送り、秘密経典の書写を勧め、七年六月には新たに修禅の道場建立の地として高野山の下賜を請い、七月聴されていることが注目される。顕密二教の優劣浅深を論じた教理の書、『辨顕密二教論』二巻の撰述がまたこの時期に懸けられていることもゆえなしとしない。空海がみずから高野の地に赴いて禅院の経営にあたったのは九年の冬になってからであるが、十年五月、鎮守神を勧請し、壇場などの結界を行なった。七月、中務省に入住(のちの真言院という)、月余にして高雄山寺に還った。このような動きの間にも、詩文の世界に対する空海の沈潜は深く、『文鏡秘府論』六巻の撰述を竟え、十一年五月、その玄要を抄録して『文筆眼心抄』一巻を作っている。十二年九月、入唐請来の両部曼荼羅および真言七祖などの影像二十六舗を修補し、新たに影像の賛文を撰して供養を行なったが、『真言付法伝』(『略付法伝』)の撰述がまたこのときに懸けられる。密教付法の本義と師資相承の系譜を明らかにしたもので、ほかならぬ空海その人の独自の立脚地を示したものである。とすると、先の『二教論』とこの『付法伝』との間に『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』三部の教義書の成立を考えることも可能になってくるのではないかと思われ、真言宗開立の基礎的な条件はすでにこの間に成熟しつつあったことがうかがわれる。十三年二月、東大寺南院に灌頂道場を建立、空海をして夏中および三長斎月に息災増益の法を修せしめられたが(公的修法のはじめ)、この年にはまた、平城上皇が空海を師として入壇、灌頂を受けている。そして翌十四年正月、空海は東寺を給預され、密教の道場としてこれを経営することになる。四月、淳和天皇即位。空海は賀表を上っているが、事実、爾後の空海の活躍は、一にこの天皇の庇護に負うところが大きかった。十月、『真言宗所学経律論目録』(『三学録』)を進献、東寺に真言宗僧五十人を住せしめ「道は是れ蜜教なり、他宗の僧をして雑住せしむること莫れ」(原漢文)という官符を得たのは、その第一歩であり、同月、皇后院の息災法、十二月、清涼殿の大通方広法と、公的の修法に請ぜられることが多くなった。翌天長元年(八二四)二月には神泉苑に請雨経法を修し、その功によって少僧都に直任(三月)、空海は辞したが聴されなかった。九月、高雄山寺を定額とし、神護国祚真言寺と称して、ここにも真言を解する僧十四人が置かれることになる。大和の室生寺を再興して真言修法の道場としたのもこの年に懸けられる。四年五月、大僧都に昇任、五年十二月、綜芸種智院を創立、道俗二種の師を請じて、貴賤貧富にかかわらず、宜に随って教授せんことを企図した(院は承和十二年(八四五)廃絶)。空海の生涯の書というべき『秘密曼荼羅十住心論』十巻とその略本『秘蔵宝鑰』三巻の二著は、いずれも天長七年、淳和天皇の勅を奉じて撰進されたものといわれ、菩提心発現の過程を十種の段階(住心)に分類、顕教諸宗をそれぞれの住心に位置づけるとともに、真言宗独自の立脚地を明かした画期的な教理の書である。翌八年六月、空海は病によって大僧都を辞せんとしたが聴されず、九年八月には高野山にあって万燈・万華の二会を修したことが知られるが(金剛峯寺の称呼もこの間に定められた)、十一月からは「深く穀味を厭い、もっぱら坐禅を好む」といわれ、爾後、高野山隠棲の日がつづいた。その間、承和元年十二月、毎年宮中正月の御斎会(金光明会)に、別に真言の法によって結壇修法せしめられんことを奏請して聴され(後七日御修法の起源)、また東寺の経営にも心を配るところがあったが、翌二年正月、真言宗年分度者三人の設置が認められ、空海の素志は、ほぼここに果たされたといえよう。しかし、この月から空海の病は篤く、三月二十一日、六十二歳をもって高野山に示寂した。延喜二十一年(九二一)弘法大師の諡号を与えられる。ときに高野大師ともいわれる。空海の著書として注目すべきものに、先述のほかに『篆隷万象名義』三十巻があり、撰述の年時を詳らかにしないが、わが国最古の辞典と称すべきもので、高山寺に永久二年(一一一四)書写の六帖本(国宝)が伝えられている。またその詩文は『遍照発揮性霊集』十巻(真済編・済暹補)、『高野雑筆集』二巻、『拾遺雑集』などに収められている。これら著作は、密教文化研究所編『弘法大師全集』全八巻、勝又俊教編『弘法大師著作全集』全三巻などに収録されている。書蹟としては先に掲げたもののほか、在唐中の筆録にかかる『三十帖策子』(一部分は橘逸勢の筆という。仁和寺蔵、国宝)、最澄との交友を物語る『風信帖』(教王護国寺蔵、国宝)などが挙げられよう。これらは『弘法大師真蹟集成』に収められている。
[参考文献]
密教文化研究所編『(増補再版)弘法大師伝記集覧』、密教学密教史論文集編集委員会編『密教学密教史論文集』、智山勧学会編『弘法大師研究論集』、中野義照編『弘法大師研究』
(川崎 庸之)


世界大百科事典
空海
くうかい
774-835(宝亀5-承和2)

弘法大師,俗に〈お大師さん〉と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。生誕の月日は不明であるが,後に不空三蔵(705-774)の生れかわりとする信仰から,不空の忌日である6月15日生誕説が生じた。父は佐伯氏,母は阿刀(あと)氏。弟に真雅,甥に智泉,真然,智証大師円珍,また一族に実恵,道雄ら,平安時代初期の宗教界を代表する人物が輩出した。自伝によれば,788年(延暦7)15歳で上京,母方の叔父阿刀大足(あとのおおたり)について学び,18歳で大学に入学,明経道の学生として経史を博覧した。在学中に一人の沙門に会って虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)法を教えられて以来,大学に決別し,阿波の大滝嶽,土佐の室戸崎で求聞持法を修し,吉野金峰山,伊予の石鎚山などで修行した。この間の体験によって797年24歳のとき,儒教,仏教,道教の3教の優劣を論じた出身宣言の書《三教指帰(さんごうしいき)》を著した。このころから草聖と称されるようになった。

804年4月出家得度し,東大寺戒壇院において具足戒を受け空海と号した。同年7月遣唐大使藤原葛野麻呂に従って入唐留学に出発,12月長安に到着した。翌805年西明寺に入り,諸寺を歴訪して師を求め,青竜寺の恵果に就いて学法し,同年6月同寺東塔院灌頂道場で胎蔵,7月金剛の両部灌頂を,8月には伝法阿闍梨位灌頂を受け遍照金剛の密号を授けられ,正統密教の第8祖となった。師恵果の滅後806年(大同1)越州に着いて内外の経典を収集し,同年8月明州を出発して帰国した。10月遣唐判官高階遠成に付して請来目録をたてまつったが入京を許されず,翌807年4月観世音寺に入り,次いで和泉国に移り809年7月に入京した。

同年8月,経疏の借覧を契機に最澄との交流がはじまり,10月嵯峨天皇の命で世説の屛風を献上したが,このころから書や詩文を通じて嵯峨天皇や文人の認めるところとなった。810年(弘仁1)10月,高雄山寺で仁王経等の儀軌による鎮護国家の修法を申請したが,これが空海の公的な修法の初例である。811年10月,乙訓(おとくに)寺別当に補され修造を命じられたが,812年10月高雄山寺に帰り,11月最澄や和気真綱に金剛界結縁灌頂,12月には最澄以下194名に胎蔵界結縁灌頂を授けた。813年最澄は弟子円澄,泰範,光定らを空海の下に派遣して学ばしめ,同年3月の高雄山寺の金剛界灌頂には泰範,円澄,光定らが入坦している。812年末の高雄山寺の灌頂や三綱(さんごう)の設置は教団の組織化を意味しており,813年5月には,いわゆる弘仁の遺誡を作って諸弟子を戒めている。814年には日光山の勝道上人のために碑銘を撰し,815年4月には弟子の康守,安行らを東国に派遣し,甲斐,常陸の国司,下野の僧広智,常陸の徳一らに密教経典の書写を勧め,東国地方への布教を企てた。このころ《弁顕密二教論》2巻を著し,816年5月,泰範の去就をめぐって,最澄との間に密教理解の根本的な相違を表明してついに決別した。

同年7月,勅許を得て高野山金剛峯寺を開創したが,819年ころから《広付法伝》2巻,《即身成仏義》《声字実相義》《吽字義(うんじぎ)》《文鏡秘府論》6巻,820年《文筆眼心抄》などを著述して,その思想的立場と教理体系を明らかにした。820年10月伝灯大法師位,821年5月には請われて讃岐国満濃池を修築し,土木工事の技術と指導力に才能を発揮した。822年2月,東大寺に灌頂道場を建立して鎮護国家の修法道場とした。823年正月,東寺を賜り真言密教の根本道場とし,同年10月には真言宗僧侶の学修に必要な三学論を作成して献上し,50人の僧をおいて祈願修法せしめた。824年(天長1)少僧都,827年大僧都。828年12月,藤原三守の九条第を譲りうけて綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)を開き儒仏道の3教を講じて庶民に門戸を開放した。このころ,漢字辞書として日本最初の《篆隷万象名義(てんれいばんしようめいぎ)》30巻を撰述した。830年天長六宗書の一つである《十住心論》10巻,《秘蔵宝鑰(ほうやく)》3巻を著し,真言密教の思想体系を完成した。《弁顕密二教論》では顕教と密教を比較して,顕教では救われない人も密教では救われること,即身成仏の思想を表明しており,これを横の教判といい,《十住心論》の縦の教判に対する。

空海は個人の宗教的人格の完成,即身成仏と国家社会の鎮護と救済を目標としたが,832年8月,高野山で行った万灯万華法会や,835年(承和2)正月以来恒例となった宮中真言院における後七日御修法(ごしちにちみしゆほう)はその象徴的表現である。同年正月には真言宗年分度者3名の設置が勅許され,翌2月,金剛峯寺は定額寺に列した。同年3月21日奥院に入定した。世寿62。857年(天安1)大僧正,864年(貞観6)法印大和尚位を追贈され,921年(延喜21)弘法大師の号が諡(おく)られた。宗教家としてのほかに文学,芸術,学問,社会事業など多方面に活躍し,文化史上の功績は大きく,それに比例して伝説も多い。
→金剛峯寺
[和多 秀乗]

空海の書

空海は日本書道界の祖として重視され,嵯峨天皇とともに二聖と呼ばれ,また橘逸勢を加えて三筆とも呼ばれる。世に空海筆と称されるものは数多いが,確実に彼の筆と認められるのは《風信帖》《灌頂歴名》《真言七祖像賛》《聾瞽指帰(ろうこしいき)》《金剛般若経開題》《大日経開題》《三十帖冊子》などである。《風信帖》は空海から最澄にあてた書状で三通あり,いずれも812,3年ころのもの。《灌頂歴名》は高尾神護寺で812年に授けた金剛界,胎蔵界灌頂に連なった人々の名簿。《真言七祖像賛》は金剛智,善無畏,不空,恵果,一行,竜猛,竜智の7人の画像の,初めの3幅にはそれぞれの名の梵号と漢名を飛白体で,次の2幅には漢名を行書で書き,画像の下部には付法伝が小字で記される。竜猛,竜智のものは空海筆か疑わしい。《聾瞽指帰》は797年の著述原稿で,彼の若年の書法を知るに貴重である。《金剛般若経開題》は815年の著作の草稿で,書き直しや墨の抹消など推敲の跡がある。《三十帖冊子》は空海が入唐中に経典,儀軌,真言などを書写したノートで,現存するものは《三十帖冊子》のほかに《十地経》《十力経》の32帖が伝わる。空海自筆の部分と,彼とともに入唐した橘逸勢筆といわれる部分,他の人々の書写した部分などを含んでいる。彼の書法は,王羲之の書法に顔真卿の法を加えて独自のものとしており,後世の書道界に大きな影響を与えた。
[栗原 治夫]

弘法大師の説話

弘法大師空海についてはさまざまな伝承が形成され,その人物像は多様に展開した。それらは平安~室町時代を通して制作された各種の大師伝記に詳しい。最も早い時期に成立したのは,大師自身の遺言という体裁をもつ《遺告(ゆいごう)》の諸本であり,次いで11世紀初頭から12世紀にかけて,《金剛峯寺建立修行縁起》,経範の《弘法大師行状集記》(1089),大江匡房の《本朝神仙伝》,藤原敦光の《弘法大師行化記》などに大師の説話伝承が集められていく。これらは《今昔物語集》《打聞集》などの説話集の典拠となっている。鎌倉期には,これらの諸伝を基として各種の大師絵伝が制作される。その成立には確実な説はないが,梅津次郎によれば,13世紀半ばに《高祖大師秘密縁起》《弘法大師行状図画》が成り,1374年(文中3・応安7)には東寺において《弘法大師行状記》が成立する。南北朝期以降は,上記大師伝の物語化,注釈化が行われる。注釈面では,《弘法大師行状要記》がその代表である。物語には,《高野物語》《宗論物語》がある。さらに,幸若《笛の巻》,説経《苅萱(かるかや)》,謡曲《渡唐空海》,室町物語《横笛草子》などにも大師伝が物語られている。

伝説化の萌芽は大師の著に仮託されている《遺告》諸本にすでにみられる。たとえば誕生の奇瑞が説かれ,子どものころ,夢中に諸仏と語ったとされ,苦行中に明星が口に入ったとされるなどである。さらに《遺告》諸本にみえる伝説的な部分を記すると次のようなものがある。行基の弟子の妻から鉢を供養され,伊豆桂谷山では《大般若経》魔事品を空中に書き,入唐中には恵果または呉殷纂から三地の菩薩とたたえられ,帰朝後は神泉苑で祈雨法を修して霊験をあらわし,その功によって真言宗をたて,高野山を開くにあたっては,丹生の女神が現れて大師に帰依し土地を譲ったとされる。また,密教を守り弥勒下生に再会するため大師は入滅に擬して入定していると説かれ,宀一山(べんいつさん)(室生寺)には伝法の象徴として如意宝珠を大師が納めたとも説かれる。

やがてこれらにさまざまな伝承が加えられるようになる。入唐求法については,夢告で久米寺東塔から大日経を感得したのがその動機とされ,恵果入滅のときに影現し生々世々師弟と生じて再会しようと契ったなどとされ(清寿僧正作《弘法大師伝》),神泉苑に請雨法を行ったのは,無熱池の善如竜王を勧請し密教の奥旨を示すためであったとされる(同書,《二十五箇条遺告》)。大師が公家に召されて諸宗の学者を論破し信伏させた(《行状集記》)とする説話は,清涼殿で即身成仏の義を説き,みずから大日如来の相をあらわした(《孔雀経音義序》《修行縁起》)ことと結合して《行状図画》に宗論説話となり,他の大師の説話とあわせて《平家物語》に結びつき,《平家物語》高野巻などを形成する。《高野山秘記》には入唐中,童子の導きで流沙・葱嶺(そうれい)を越えて天竺の霊山の釈迦説法の座に連なり直接に教えを受けたとする渡天説話を伝える。唐土よりの帰朝に際して,三鈷を投げると雲に飛び入り,高野山に落ちたと伝え(《修行縁起》),また鈴杵を投げると東寺,高野山,室戸に落ちたとも伝える(《本朝神仙伝》)。大師が巡遊中に猟師にあい,高野山を教えられたとする説話(《修行縁起》)があり,延喜帝の夢想により観賢が高野山に入定した大師を拝すと,容色不変であったとする説話(《行状集記》)もあり,同様の説話は《高野山秘記》《高野物語》にもあって,《行状図画》や,《平家物語》にもとり入れられる。

書に秀でた大師の説話には,唐の宮殿の壁に,手足口を用いて五筆で詩を書くなどしたので五筆和尚の号を得たとするものがあり,また,唐土で童子が空海に流水に字を書かせ,大師が龍の字を書くが,これに点を付すと真の龍となったとするもの(《修行縁起》)がある。これらの説話は,先の渡天説話とも結合して謡曲《渡唐空海》,舞曲《笛の巻》,説経《かるかや》などに流れ込み,物語化される。書に関しては応天門の額の字を書き,書き落とした点を下から筆を飛ばして補ったとする(《修行縁起》)説話もあり,このような神異は《本朝神仙伝》に説かれている。

験者としての大師については,神泉苑で対抗する行者守円(敏)が瓶中に竜神を閉じ込め,殿上でクリを加持してゆでたり,呪詛したりするのを大師は破って勝利する(《行状集記》《御伝》)という説話があり,やがて《太平記》の神泉苑事として物語化する。

始祖としての大師は,《麗気記》などに両部神道の祖とされ,また〈いろは歌〉の作者ともされ,《玉造小町壮衰書》は大師の著に仮託されるが,これでは浄土教の唱導者の面をも与えられている。

大師の足跡を残す聖地は各所にあって,とりわけ四国に集中し,やがてこれを結んで参拝する四国八十八ヵ所の巡礼〈四国遍路(へんろ)〉が生まれた。人々は大師とともに修行することを示す〈同行二人〉と書いた帷(かたびら)を着て巡礼するが,このように大師は民衆の生活とも深くかかわっている。
→大師信仰
[阿部 泰郎]

[索引語]
弘法大師 真言宗 遍照金剛 弁顕密二教論 金剛峯寺 東寺 秘蔵宝鑰(ほうやく) 十住心論 二聖 灌頂歴名 真言七祖像賛 聾瞽指帰(ろうこしいき) 三十帖冊子 遺告(ゆいごう) 金剛峯寺建立修行縁起 弘法大師行状集記 弘法大師行化記 高祖大師秘密縁起 弘法大師行状図画 弘法大師行状記 弘法大師行状要記 五筆和尚
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4. くうかい【空海】
日本国語大辞典
平安初期の僧。真言宗の開祖。俗姓佐伯氏。幼名真魚(まお)。諡号(しごう)弘法大師。讚岐の人。延暦二三年(八〇四)入唐して長安青龍寺の恵果(けいか)に真言密教を学 ...
5. くうかい【空海】
全文全訳古語辞典
[人名]平安初期の僧侶・漢詩人・書家。真言宗の開祖。諡は弘法大師。八〇四年(延暦二十三)入唐、長安で名僧恵果に学び、八〇六年帰朝。八一六年高野山、八二三年東寺を ...
6. くうかい【空海】画像
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→「弘法大師(こうぼうだいし)」  ...
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古事類苑
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古事類苑
文學部 洋巻 第1巻 31ページ ...
14. 弘法大師御影供 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 219ページ ...
15. 弘法大師開彌山 (見出し語:空海)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 1180ページ ...
16. 空海兩部神道 (見出し語:空海)
古事類苑
神祇部 洋巻 第2巻 1329ページ ...
17. 空海傳悉曇 (見出し語:空海)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 991ページ ...
18. 空海作慧果和尚碑 (見出し語:空海)
古事類苑
文學部 洋巻 第1巻 345ページ ...
19. 空海入唐受眞言 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 482ページ ...
20. 空海入唐將來物 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 509ページ ...
21. 空海創慧日寺 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 756ページ ...
22. 空海創綜藝種智院 (見出し語:空海)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1312ページ ...
23. 空海創金剛峯寺 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 927ページ ...
24. 空海創金剛證寺 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 135ページ ...
25. 空海善(見出し語:空海)
古事類苑
文學部 洋巻 第3巻 685ページ ...
26. 空海奏建眞言院 (見出し語:空海)
古事類苑
居處部 洋巻 第1巻 177ページ ...
27. 空海始修後七日御修法 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 242ページ ...
28. 空海得度官符 (見出し語:空海)
古事類苑
政治部 洋巻 第1巻 323ページ ...
29. 空海書大極殿額 (見出し語:空海)
古事類苑
居處部 洋巻 第1巻 138ページ ...
30. 空海誕生地 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 1022ページ ...
31. 空海諡號 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 808ページ ...
32. 賜東寺於空海 (見出し語:空海)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 785ページ ...
33. 日本漢詩集
日本古典文学全集
4世紀ごろより中国から入ってきた漢籍を訓読によって日本語化し、さらには本家に倣って「漢詩」をつくるようになる。飛鳥時代の大友皇子や大津皇子にはじまり、平安期には ...
34. くうかい【空海(1)】
日本人名大辞典
774−835 平安時代前期の僧。宝亀(ほうき)5年6月15日生まれ。真言宗の開祖。三筆のひとり。讃岐(さぬき)(香川県)の人。延暦(えんりゃく)23年唐(とう ...
35. くうかい【空海(2)】
日本人名大辞典
?−? 室町-戦国時代の茶人。足利将軍家の同朋衆(どうぼうしゅう)能阿弥(のうあみ)(1397-1471)の小姓をつとめ,茶の湯をまなぶ。のち堺にひきこもり,北 ...
36. くうかい‐き【空海忌】
日本国語大辞典
〔名〕空海の修忌で、陰暦三月二一日。《季・春》 ...
37. くうかいじ【空海寺】奈良県:奈良市/奈良公園地区/雑司町
日本歴史地名大系
[現]奈良市雑司町 雑司集落の東部にあり、五竹山と号し、華厳宗。東大寺末であった。本尊は空海作と伝える地蔵菩薩石像で現在秘仏。本堂内の石室に安置され、延享三年( ...
38. 空海自署[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
39. 『空海僧都伝』
日本史年表
835年〈承和2 乙卯〉 10・2 真済、 『空海僧都伝』 を撰す。  ...
40. くうかいそうずでん【空海僧都伝】
国史大辞典
空海の伝記。一巻。『高野贈大僧正伝』『南岳贈大僧正伝』ともいう。続群書類従本に「真済記」とあり、大須本にははじめ「相伝云、真済僧正云々」といい、末尾には「亡名 ...
41. くうかいの-はは【空海母】
日本人名大辞典
佐伯田公(さえきの-たきみ)の妻。息子にあおうと女人禁制の高野山にのぼるが雷鳴と火の雨のためはたせず,空海の用意した山麓(さんろく)の慈尊院にすみ,死後同寺の廟 ...
42. 空海十不同(著作ID:274179)
新日本古典籍データベース
くうかいじゅうふどう 真言  ...
43. 空海尺牘帖(著作ID:2393217)
新日本古典籍データベース
くうかいせきとくじょう 空海(くうかい) 真言  ...
44. 空海僧都伝(著作ID:161466)
新日本古典籍データベース
くうかいそうずでん 高野大僧正伝 南岳贈大僧正伝 真済(しんぜい) ? 真言 承和二 ...
45. 空海贈位勅書(著作ID:438288)
新日本古典籍データベース
くうかいぞういちょくしょ 真言  ...
46. 空海大師秘事(著作ID:439521)
新日本古典籍データベース
くうかいだいしひじ 大師流秘事 真言  ...
47. 空海風光帖(著作ID:4371347)
新日本古典籍データベース
くうかいふうこうじょう 空海(くうかい) 書道 文化元跋 ...
48. 空海法帖(著作ID:897949)
新日本古典籍データベース
くうかいほうじょう 書道  ...
49. 空海/弘法伝説
日本大百科全書
容が類型的であることに起因するといえよう。入定留身信仰(にゅうじょうるしんしんこう) 弘法大師空海は和歌山県高野山(こうやさん)の奥の院御廟(ごびょう)に祀(ま ...
50. 弘法大師行状集記(著作ID:180698)
新日本古典籍データベース
こうぼうだいしぎょうじょうしゅうき 弘法大師御行状集記 弘法大師伝 大師行状集記 大師御行状集記 空海大師御行状集記 経範(けいはん) 伝記 寛治三 ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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