1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 最澄
新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
新版 日本架空伝承人名事典
最澄
さいちょう
767‐822(神護景雲1‐弘仁13)
 伝教大師。平安初期の僧侶。天台宗の開祖。三津首百枝の子という。幼名は広野。俗姓は三津氏で、帰化人の子といわれる。近江国滋賀郡古市郷(現、滋賀県大津市)の生れ。七七八年(宝亀九)一二歳で近江国分寺の大国師行表の弟子となり、七八〇年に得度して最澄と名乗った。その後、奈良に出て各種の教義を修めたが、奈良仏教界に失望。七八五年(延暦四)故郷に近い比叡山に隠遁して草堂を建立、これが延暦寺の開基となったという。そして、一七年にわたる修行生活に入った。七九七年に内供奉ないぐぶに任じられ、八〇四年に遣唐留学生として大陸に渡った。同行者には橘逸勢や空海の名もあった。唐では天台山に赴き、円・密・禅・戒の四宗を学んで、翌年帰国した。八〇六年(大同一)天台宗を開くことが勅許された。その後、真言の教義を深めようと空海とも親交を結んだが、弟子泰範の去就問題などから疎遠となる。八一四年(弘仁五)から九州・関東へ赴いて布教活動に専念、比叡山にいっさいの衆生を救済しようと「大乗戒壇」を建立しようとしたがならず、八二二年六月四日に没した。死後七日目に「大乗戒壇」の設立が許され、八六六年(貞観八)に伝教大師の諡号を贈られた。
空海
[田辺 貞夫]


国史大辞典
最澄
さいちょう
七六七 - 八二二
平安時代の僧、日本天台宗の祖。諡号伝教大師。叡山大師ともいう。近江国滋賀郡の人で、父は三津首百枝、母は不詳。幼名を広野という。三津首氏は後漢孝献帝の裔、登万貴王の後と伝える志賀漢人系の渡米氏族である。『叡山大師伝』『伝述一心戒文』などには、弘仁十三年(八二二)の没、五十六歳とし、逆算して神護景雲元年(七六七)の生まれとなる。「度縁」「戒牒」などの年齢記載によれば天平神護二年(七六六)の生まれとなるが、これは戸籍の誤った記載を踏襲したものらしいので、信頼すべき伝記史料の説を採る。七歳、村里の小学に入り陰陽・医方・工巧を学んだが、十二歳のとき近江国分寺に入って大国師行表の弟子となり、唯識および禅法を修め、十五歳で国分寺僧として得度し、最澄と名のる延暦四年(七八五)の春、東大寺の戒壇に入って具足戒を受けたが、同年七月中旬、世間の無常を観じ、比叡山に登って禅行生活に入った。この間、華厳教学を通じて天台教学に傾倒するに至った。延暦十六年、内供奉に補せられ、新たに一切経書写を発願し、七大寺の助成や大安寺の聞寂、下野の道忠らの知識を得て完成した。同十七年十一月、比叡山に南都の碩学を招いて法華十講を始修、同二十一年夏には、和気氏の主催する高雄山寺の天台会の講師に招かれるが、これが機縁となって入唐還学生に選ばれた。同二十三年七月訳語僧義真(のち初代天台座主)を伴い、遣唐第二船に乗って渡海、九月一日に明州に着岸した彼は、ただちに天台山に巡礼したのち、台州において天台山修禅寺座主道邃(どうずい)より天台法門および菩薩戒を受け、かねて同仏隴寺座主行満からも天台の付法を受けた。また〓(ゆうねん)から牛頭(ごず)禅を、惟象(ゆいぞう)から大仏頂曼荼羅を伝授された。台州に留まること五ヵ月の間に、刺史陸淳の援助をうけて多数の天台法文を写得、翌年四月には越州に赴き、順暁から金剛界灌頂を受け、多くの密教の法文を写得した。五月初め明州に帰り、大素・江秘・霊光らから雑曼荼羅を伝授された。かくて最澄は在唐わずか九ヵ月の間に、多彩な法門を伝授されたので、これを円禅戒密の四種相承という。帰途は遣唐第一船に便乗し、延暦二十四年七月十五日、帰朝復命をとげた。請来の典籍は二百三十部四百六十巻を数えた。桓武天皇は新渡の法文を書写させるとともに、高雄山寺にわが国最初の灌頂道場を設け、諸宗の大徳に受灌せしめた。翌大同元年(八〇六)正月、最澄の奏請により南都の諸宗と並んで天台宗に年分度者二人(止観業・遮那業各一人)が允許され、ここに日本天台宗が開創された。こうして彼は比叡山を中心に教団の基礎がために努め、弘仁元年春、金光明・仁王・法華の三部の経の長講を始修、同三年には法華三昧堂を造立した。新帰朝の空海との間に親交が結ばれたのも同じ時期で、彼は空海に経典の借覧や密教の受学を懇請し、弘仁三年冬には弟子を率いて高雄山寺に赴き、空海より結縁灌頂を受けた。しかしこのような親交も同四年十一月、最澄が『理趣釈経』の借用を申し出、空海がそれを拒絶するに及び、急速に悪化する。その背後に弟子泰範の去就問題がからんでいたことも事実であるが、要するに二人の宗教観の相違が露呈されたのである。弘仁五年春、最澄は筑紫に行化し、筑前の竈門山寺に入唐渡海の宿祷を賽し、ついで豊前の宇佐・香春両神宮寺に『法華経』を講じた。六年八月、和気氏の請により大安寺塔中院に赴いて天台教義を講じたが、ついで同八年春ごろ、関東に巡化し、上野国緑野(みとの)郡浄土院と下野国芳賀郡大慈院に宝塔各一級を造り、塔別に『法華経』一千部八千巻を書写し安置した。鑑真の弟子、故道忠禅師の門徒たちがこれを助成したという。東西への布教は天台宗教団の全国的拡大の布石の意味をもつであろう。この関東行化を契機として始まったのが「三一権実諍論」である。当時奥州会津に住む徳一が『仏性抄』を著わし、法相宗義に立って『法華経』を権教と判じたのに対して、最澄は弘仁八年二月、『照権実鏡』を著わし、天台宗義に立脚してこれを反駁した。以後、両者応酬を重ねて弘仁十二年に及んだ。『守護国界章』など、最澄の一連の著作はこの論争の所産である。関東の旅から帰山した最澄は、弘仁九年三月、門弟たちを集めて小乗二百五十戒の棄捨を宣言し、同時に比叡山一乗止観院に大乗戒壇を建立する決意を表明した。同年五月、天台宗年分学生に大乗戒を授けて菩薩僧とし、十二年間の山修山学を課することを定めた「六条式」を撰上して勅許を請い、ついで同年八月これをくわしく規定した「八条式」を、翌十年三月には重ねて大乗戒の独立を訴えた「四条式」を奏進した。この三式を『山家学生式』とよぶ。はじめ黙殺の態度をとっていた南都・僧綱側も「四条式」の出るに及んで反撃に出、同年五月、南都七大寺の意見をまとめてこれをはげしく論難した。この僧綱の奏状にこたえて執筆されたものが、最澄の主著と目される『顕戒論』三巻である。しかし大乗戒壇独立の主張は最澄の生前には実現せず、彼は弘仁十三年六月四日、山上の中道院でその悲劇的な生涯を終えた。彼の宿願は、残された門弟(特に光定)の奔走や藤原冬嗣・良岑安世らの助力によって、没後七日目の六月十一日に至って勅許された。奈良時代の仏教は、六宗の組織はあったが、諸大寺における学団組織であり、国家に従属し、教団としての主体性を欠いていた。最澄が生涯の課題とした三一権実諍論は、国家仏教に対する宗派仏教の独立をめざす教理論争であり、大乗戒壇独立運動は、国家に対する仏教の自立をめざす教団改革であったと評することができる。しかし、最澄の開創にかかる日本天台宗は、円禅戒密の四種相承を基礎として成立した一種の総合仏教であり、やがて空海の真言宗、南都の旧宗とともにいわゆる「南都北嶺体制」を形成し、王法仏法相依思想を生み出し、長く古代国家を支える精神的支柱となった。貞観八年(八六六)七月、清和天皇よりわが国最初の大師号宣下をうけ、伝教大師の大師号を贈られた。墓は比叡山の浄土院にある。
[参考文献]
三浦周行編『伝教大師伝』、塩入亮忠『伝教大師』、天台学会編『伝教大師研究』、安藤俊雄・薗田香融校注『最澄』(『日本思想大系』四)、塩入良道・木内堯央編『最澄』(『日本名僧論集』二)
(薗田 香融)


日本大百科全書(ニッポニカ)
最澄
さいちょう
[766/767―822]

日本天台宗の開祖。伝教大師(でんぎょうだいし)と諡号(しごう)され、澄上人(ちょうしょうにん)、叡山(えいざん)大師、根本(こんぽん)大師、山家(さんげ)大師とも称される。
 中国後漢(ごかん)の王族で応神(おうじん)帝ころの帰化人の子孫と伝える三津首百枝(みつのおびとももえ)(一説に巨枝=浄足(きょし))の子として比叡山麓(ひえいさんろく)古市(ふるいち)郷(大津市坂本本町)に生まれ、幼名を広野という。780年(宝亀11)近江(おうみ)(滋賀県)国分寺の行表(ぎょうひょう)を師として出家、「心を一乗に帰すべし」との教えを受ける。785年(延暦4)東大寺戒壇(かいだん)で具足戒(ぐそくかい)を受け前途有望の国家公認の僧となったが、ほどなく南都の仏教を避けて比叡山に登り修行、多くの経論を読んで天台教学の優れたことを知り、天台典籍を求めて学んだ。入山後の最澄は、世の無常を見つめ自己の未熟を恥じ、仏道修行を実現するための五つの誓願をたて(『願文(がんもん)』)、それが成就するまで下山しないと誓った。これはのちに僧の修行の規則「十二年籠山(ろうざん)」として制度化され現在に至っている。この間、比叡山に一乗止観院(いちじょうしかんいん)(根本中堂の前身)を創建し、等身の薬師如来(やくしにょらい)像を刻み、「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼじ)の仏(ほとけ)たち、我(わ)が立つ杣(そま)に冥加(めか)あらせ給(たま)え」と詠じたと伝える。またこの堂に献じた法燈(ほうとう)を「明らけくのちの仏のみ世までも、光りつたえよ法(のり)のともしび」とし、現在まで不滅の法燈をともす。797年内供奉(ないぐぶ)十禅師に加えられ、翌798年11月には天台智者大師の忌日法華(ほっけ)十講(現在の霜月会(しもつきえ))を始修した。802年和気清麻呂(わけのきよまろ)の子広世(ひろよ)・真綱(まつな)(783―846)に招かれて初めて山を下り、京都高雄山寺(たかおさんじ)(神護寺)において『摩訶止観(まかしかん)』『法華玄義(ほっけげんぎ)』『法華文句(もんぐ)』の法華三大部の講義を行い、南都の諸大徳も列席しその講を称賛したという。
[塩入良道]2017年7月19日

入唐と天台宗の開宗

802年9月、先に上奏した入唐求法(にっとうぐほう)の請願に対し、入唐請益(じょうやく)天台法華(ほっけ)宗還学生(げんがくしょう)の勅許が下り、804年7月に訳語僧義真(ぎしん)を伴い肥前(長崎県)田浦(たのうら)から出帆した。ちなみに、この遣唐使節団には空海も同行していたが、福州に着くと互いに交渉のないまま別れ、最澄一行は9月1日明州に着いた。9月26日台州に至った最澄は、天台山修禅寺(しゅぜんじ)で行満(ぎょうまん)座主(?―824)から、台州竜興寺で道邃(どうずい)和尚(生没年不詳)から天台教義を学び、また道邃から大乗菩薩戒(ぼさつかい)を授かった。さらに禅林寺翛然(しゅくねん)禅師(生没年不詳)から牛頭(ごず)の禅法、越州竜興寺順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)(生没年不詳)からは密教を授かり、わずか8か月余の間に天台山での120部345巻(『台州録』)、越州での密教典籍102部115巻(『越州録』)を請来(しょうらい)して、805年6月対馬(つしま)に帰着した。帰朝後、同年9月に高雄山寺で日本で初めての灌頂(かんじょう)を実施した。また南都六宗に加えて天台法華宗にも正式の僧の割り当て(年分度者(ねんぶんどしゃ))2人を請願し、806年1月26日勅許が下った。いわば国家的な公認を受けたこととなり、この日を日本天台宗の開宗とする。
[塩入良道]2017年7月19日

徳一との論争

814年(弘仁5)、入唐出発にあたり渡海祈願した筑紫(つくし)(福岡県)、豊前(ぶぜん)(大分県)の神々に謝恩の旅をし、翌815年は上野(こうずけ)(群馬県)、下野(しもつけ)(栃木県)に巡化して鎮護国家のため『法華経』1000部を納める宝塔を建立した。この日本国安鎮の願は、全国に六所の宝塔をつくることを発願した『六所宝塔願文(ろくしょほうとうがんもん)』(818)となった。また美濃(みの)(岐阜県)から信濃(しなの)(長野県)への難所神坂(かみさか)峠の登り口にそれぞれ広済(こうさい)・広拯(こうじょう)2院を建て旅人の便を図った。このころ会津(あいづ)(福島県)にいた法相宗(ほっそうしゅう)の徳一(とくいつ)が天台教義を批判して『仏性鈔(ぶっしょうしょう)』を著したのに対し、817年『照権実鏡(しょうごんじっきょう)』をもって反論し、続いて徳一の反駁(はんばく)書『中辺義鏡(ちゅうへんぎきょう)』『恵日羽足(えにちうそく)』『遮異見章(しゃいけんしょう)』などに対し、『法華去惑(こわく)』『通六九証破比量文(つうろくきゅうしょうはひりょうもん)』『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』などを著して再反駁した。これは法相宗の三乗思想と天台宗の一乗思想の論争で、世に「三一権実論争」といわれる。最澄が亡くなるまで論義が交わされたが、『法華秀句(しゅうく)』は入滅前年の権実論争の決着であった。
[塩入良道]2017年7月19日

大乗戒壇の独立

徳一との論争や『依憑(えひょう)天台義集』(813)などにより南都仏教とくに法相宗との対立が生じ、先に認可された年分度者も、807年(大同2)から10年間は24人中4人は法相宗に争奪され、住山僧10人という状況となった。また当時の年分度者南都10人、天台宗2人は、いずれも官から任命された僧綱(そうごう)の管下で、奈良東大寺、下野(しもつけ)(栃木県)薬師寺(やくしじ)、筑紫(つくし)(福岡県)観世音寺(かんぜおんじ)の戒壇で、インド以来の二百五十戒を受ける定めであった。最澄はこれを小乗戒とし、教法が大乗仏教であるから戒も大乗戒でなければならぬと主張した。818年に菩薩出家を請う表と、天台宗の年分度者の止観業(しかんごう)(天台仏教)と遮那業(しゃなごう)(密教)の教育制度を内容とする『天台法華宗年分学生式(がくしょうしき)』(六条式)、『勧奨(かんしょう)天台宗年分学生式』(八条式)を上奏し、翌819年は大乗戒の独立を願う『天台法華宗年分度者回小向大式(えしょうこうだいしき)』(四条式)を上表した。この三式を総称して『山家(さんげ)学生式』とよぶ。最澄はこの書において年分度者を菩薩僧として育成することを目的とした。
 しかし、護命僧都(ごみょうそうず)ら南都仏教の強い反対にあい、この反論として四条式の根拠と大乗戒の正統性を論じた『顕戒論(けんかいろん)』『顕戒論縁起』や、天台宗の円戒禅密(えんかいぜんみつ)の伝承『内証仏法相承血脈譜(ないしょうぶっぽうそうしょうけちみゃくふ)』を奉ったが、生存中にはついに実現せず、弘仁(こうにん)13年6月4日、「わがために仏をつくることなかれ、わがために経を写すことなかれ、わが志を述べよ」と遺言して比叡山の中道院で入滅。その7日後に藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)、良岑安世(よしみねのやすよ)の斡旋(あっせん)で大乗戒壇建立の勅許が下り、翌823年義真によって日本で初めて正式の大乗戒の受戒が行われ、延暦寺(えんりゃくじ)の寺号を賜った。さらに866年(貞観8)清和(せいわ)天皇から伝教大師の諡号が贈られたが、これが日本の諡号の最初である。
[塩入良道]2017年7月19日



世界大百科事典
最澄
さいちょう
767-822(神護景雲1-弘仁13)

平安初期の僧。日本天台宗の開祖。俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷の生れ。12歳のとき近江国分寺に入り,国師の行表(ぎようひよう)の弟子となり,14歳のとき国分寺僧の補欠として得度し名を最澄と改めた。785年(延暦4)19歳のとき東大寺の戒壇で具足戒(小乗戒)を受けたが,この年7月,世間の無常を感じ,突如として比叡山に登って草庵をかまえ,山林修行の生活に入った。このとき作った〈願文〉には,峻厳な自己内省と,衆生救済への志向とがうかがわれる。比叡山での修行中,多くの経典類を読破したが,なかでも天台の典籍を披閲したことが契機となり,最澄の運命を決定づけた。天台宗は隋の智顗(ちぎ)が大成した教学で,唐の初めに一時衰えたものを湛然(たんねん)が挽回し,江南地方を中心に復興の気運をむかえ,おなじく江南で布教していた鑑真(がんじん)によって天台の典籍が日本にもたらされたのである。すべての人の成仏を理論的に説き明かす天台の教学に魅せられた最澄は,ながく山にこもってきびしい禅行とたゆまない学行をつづけ,その名がようやく都の人士に知られるようになった。

 797年内供奉(ないぐぶ)十禅師に任ぜられ,802年和気広世の主催する高雄山寺(神護寺)法華会(ほつけえ)の講師に招かれた。斬新な講義の評判が天皇の耳にも達し,それが機縁で入唐求法(につとうぐほう)の還学生(げんがくしよう)(短期留学)に選ばれた。最澄は門弟の義真を通訳に連れ,804年7月,空海とおなじく遣唐使の船に乗って九州を出発し,9月明州に到着した。まず天台山に登り,ついで湛然の高弟である道邃(どうすい)/(どうずい)と行満(ぎようまん)について正統な天台教学の奥義をさずかった。また道邃からは大乗の菩薩戒を受け,翛然(しゆくねん)から禅を,順暁(じゆんぎよう)から密教をそれぞれ相承している。翌805年5月,遣唐使とともに帰国の途につき,7月上京した。在唐わずか8ヵ月にすぎないが,滞在中に書写し持ちかえった経典類は230部460巻をかぞえ,収穫は大きかった。最澄が帰国した当時,桓武天皇は病床にあって,すぐさま宮中に召され,天皇の病気平癒を祈っている。

 806年(大同1)1月,最澄の上表にもとづき,南都六宗に準じて,天台業を学ぶもの2人(止観(しかん)業1人,遮那(しやな)業1人)の得度が年分度者のなかに加えられた。ここに日本の天台宗が開立されたのである。この勅許は,和気広世の斡旋にあずかるところが大きいと思われるが,しかし最澄が天皇の病床に侍した功に対する恩賞の色あいが濃く,真の教団の成立は大乗戒壇の設立にまたねばならない。この年3月に桓武天皇が崩御すると,最大の外護(げご)者を失った最澄とその新生の教団はやや沈滞期に入った。空海との親密な交わりが結ばれたのはこのころである。空海は,最澄よりも長く滞留して真言密教の研修につとめ,806年帰朝した。最澄は,7歳年下の空海に辞を低くして,空海が持ちかえった多量の経典のうち,真言,悉曇(しつたん)(梵字),華厳(けごん)に関するものを借りうけ,あるいは書写して研究した。812年(弘仁3)の冬,弟子の泰範,円澄,光定(こうじよう)らを率いて高雄山寺におもむき,空海より灌頂(かんぢよう)を受けている。ところが,813年最澄が弟子を空海のもとに遣わし,真言に関する書籍を借りようとしたところ,空海は,最澄と自分との間に教学的な立場上こえることのできない溝のあることを述べ,最澄の懇請をきっぱりと拒絶し,二人の交情は急速に悪化し始めた。ことに最澄が最も嘱望していた愛弟子の泰範が空海のもとへ走るに及び,空海を尊敬しながらも決別しなければならなかった。

 815年最澄は和気氏の要請で大安寺において講説し,南都の学僧と激しく論争したが,それより東国へ旅立った。途中の美濃・信濃の国境に布施屋(ふせや)を置いて旅人に宿泊の便宜を与えている。関東では最澄にゆかりの深い鑑真の高弟道忠(どうちゆう)の遺弟(ゆいてい)らがいる上野の緑野(みとの)寺(浄土院)や下野の小野寺(大慈院)を拠点に伝道を展開した。会津にいた法相(ほつそう)宗の学僧徳一(とくいち)との間に,三一権実(さんいちごんじつ)の論争が始まったのは,この関東滞在中のことである。徳一が《仏性抄(ぶつしようしよう)》を著して最澄を論難したのに対し,最澄は《照権実鏡(しようごんじつきよう)》を書いて反駁した。論争は最澄が比叡山へもどった後も続き,《法華去惑(こわく)》《守護国界章》《決権実論》《法華秀句》などを著述し,徳一の主張をことごとく論破している。最澄は自己の教学の優越性に自信を深め,そして究極の目的とする大乗戒壇の設立に邁進した。かつて19歳のとき東大寺で受けた小乗戒は,まったく形式主義に堕し,国家鎮護・衆生済度の大任を果たしえないとして,818年みずから破棄を宣言し,ついで《山家学生(さんげがくしよう)式》を定め,天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり,12年間山中で修行することを義務づけた。これに対して南都の僧綱は猛然と反論した。最澄の主張は,僧侶を養成する権限を国家やその隷属下にある南都(東大寺)の戒壇より独立して,天台宗教団の自主管理に置こうとするところに主眼点があった。最澄は南都側の反論にこたえ,《顕戒論》を執筆し,《内証仏法血脈譜(けちみやくふ)》を書いて,自己の見解の正統性を説いている。だが最澄の念願はその生存中には実現せず,822年6月4日,比叡山の中道院で没した。宿願の大乗戒壇設立は,弟子の光定の奔走と,藤原冬嗣(ふゆつぐ),良岑(よしみね)安世の斡旋で,没後7日目に勅許された。ここに天台宗が名実ともに成立したのである。なお866年(貞観8)に伝教大師(でんぎようだいし)と諡号(しごう)された。
→天台宗
[中井 真孝]

[索引語]
天台宗 三津首広野 和気広世 義真 空海 大乗戒壇 泰範 徳一 三一権実(さんいちごんじつ)論争 仏性抄(ぶつしようしよう) 照権実鏡(しようごんじつきよう) 山家学生(さんげがくしよう)式 内証仏法血脈譜(けちみやくふ)
ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
タブレットやスマホからも利用できます。
最澄の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 1417
検索コンテンツ
1. 最澄画像
日本大百科全書
この遣唐使節団には空海も同行していたが、福州に着くと互いに交渉のないまま別れ、最澄一行は9月1日明州に着いた。9月26日台州に至った最澄は、天台山修禅寺(しゅぜ ...
2. 最澄
世界大百科事典
ところが,813年最澄が弟子を空海のもとに遣わし,真言に関する書籍を借りようとしたところ,空海は,最澄と自分との間に教学的な立場上こえることのできない溝のあるこ ...
3. さいちょう【最澄】
日本国語大辞典
平安初期の僧。日本天台宗の開祖。近江(滋賀県)の人。空海とともに延暦二三年(八〇四)入唐し、道邃、行満について天台の奥旨を学び、また ...
4. さいちょう【最澄】画像
国史大辞典
権教と判じたのに対して、最澄は弘仁八年二月、『照権実鏡』を著わし、天台宗義に立脚してこれを反駁した。以後、両者応酬を重ねて弘仁十二年に及んだ。『守護国界章』など ...
5. さいちょう【最澄】
日本人名大辞典
767−822 平安時代前期の僧。神護景雲(じんごけいうん)元年8月18日生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)の国分寺で行表(ぎょうひょう)に師事。19歳のときから ...
6. さいちょう【最澄】
日本架空伝承人名事典
滋賀県大津市)の生れ。七七八年(宝亀九)一二歳で近江国分寺の大国師行表の弟子となり、七八〇年に得度して最澄と名乗った。その後、奈良に出て各種の教義を修めたが、奈 ...
7. 最澄[文献目録]
日本人物文献目録
辻善之助『最澄』古代史部会(編)『最澄・円仁の請来した美術』佐和隆研『最澄及び空海』田口卯吉『最澄研究史』鶴岡静夫『最澄と空海』服部北蓮『最澄と空海 最澄の立場 ...
8. 最澄
日本史年表
対馬に帰着(後紀)。 805年〈延暦24 乙酉〉 8・9 最澄 を殿上に招き、悔過読経を行う.最澄、唐の仏像を献上(後紀)。 805年〈延暦24 乙酉〉 9・1 ...
9. 【最澄】さいちょう
新選漢和辞典Web版
人名。平安時代の僧。唐に渡って天台山でまなび、日本に天台宗をひろめた人。伝教大師(でんぎょうだいし)。  ...
10. 最澄入唐受天台 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 471ページ ...
11. 最澄入唐將來物 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 508ページ ...
12. 最澄創延曆寺 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 549ページ ...
13. 最澄創願興寺 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 682ページ ...
14. 最澄始行傳法灌頂 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 377ページ ...
15. 最澄學禪 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第1巻 734ページ ...
16. 最澄建戒壇於延曆寺 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 647ページ ...
17. 最澄弘天台宗 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第1巻 537ページ ...
18. 最澄諡號 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 806ページ ...
19. 爲〓六月會 (見出し語:最澄)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 214ページ ...
20. さいちょう‐き【最澄忌】
日本国語大辞典
〔名〕天台宗の開祖最澄の忌日。陰暦六月四日。比叡山延暦寺では六月四日に忌日会が行なわれる。伝教会。《季・夏》 ...
21. 最澄自署[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
22. 最澄求法書(著作ID:2714821)
新日本古典籍データベース
さいちょうぐほうしょ 天台  ...
23. 最澄梵鐘鋳造上表写(著作ID:1078462)
新日本古典籍データベース
さいちょうぼんしょうちゅうぞうじょうひょううつし 記録  ...
24. 最澄入唐將來物 (見出し語:將來物)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 508ページ ...
25. 最澄於高雄寺傳法灌頂 (見出し語:高雄寺)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 377ページ ...
26. 伝教大師将来目録(著作ID:46173)
新日本古典籍データベース
でんぎょうだいししょうらいもくろく 伝教大師御請来目録 伝教大師真筆将来録 将来目録 日本求法最澄目録 最澄(さいちょう) 天台 延暦二四奥書 ...
27. あいだむら【相田村】福岡県:飯塚市
日本歴史地名大系
る。「地理全誌」によると土産は石炭などで石炭礦場が七ヵ所ある。浄土宗宝幢寺は開山を昌泉という。最澄作と伝える秘仏の木造薬師如来立像がある(続風土記拾遺)。薬師如 ...
28. あいらじ【相良寺】熊本県:鹿本郡/菊鹿町/相良村
日本歴史地名大系
本尊は丈六坐身の千手観音。通称は相良観音。「相良観音由来記」は弘仁五年(八一四)最澄の開基と伝え、「国誌」には最澄以外に鎌倉初期の俊〓の開基説も載せる ...
29. あおはかむら【青墓村】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区
日本歴史地名大系
この神社をさすと思われる(「大垣市史」青墓篇)。白髭神社は円興寺の縁起によれば、桓武天皇の時代に最澄が当地に巡錫した時、仏堂を建立したという。天台宗円願寺は嘉禄 ...
30. あかおむら【赤尾村】滋賀県:伊香郡/木之本町
日本歴史地名大系
係があると伝え、「延喜式」神名帳の伊香郡「阿加穂神社」に比定される。境内には天応元年(七八一)最澄草創と伝える養泉寺(現阿弥陀堂)がある。文治年中(一一八五―九 ...
31. あがのむら【上野村】福岡県:田川郡/赤池町
日本歴史地名大系
彦山修験六峰の行場には最澄が帰朝の折に神恩報謝の塔を、空海は鐘楼を立て、それぞれ大塔石・鐘山谷とよんだと伝える。宝暦四年(一七五四)の福智山権現祠記(福泉坊文書 ...
32. あきづき・あきづきのしよう【秋月・秋月庄】福岡県:甘木市
日本歴史地名大系
れて以降も、検田使が庄内に入ることはなく、正暦三年秋以降の入部も停止されている。この筥崎塔院は最澄が全国に六基の宝塔を建立しようとした折、宇佐宮弥勒寺分のみが建 ...
33. あさくさよしのちよう【浅草吉野町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
建され、寛永元年に当地に移された。境内は古跡年貢地。北隣の瑞泉寺の起立年代等は不明。地蔵堂には最澄作と伝える三面地蔵尊が祀られていた。境内は年貢地。その北の源寿 ...
34. あさくらまち【朝倉町】福岡県:朝倉郡
日本歴史地名大系
いたことや、墨書土器(大寺・寺家と記す)が出土したことなどから、古代の寺院跡と考えられている。最澄は唐への船旅の平安を祈って薬師仏七体を甘木地方で造り、一体を長 ...
35. あしおむら【足尾村】栃木県:上都賀郡/足尾町
日本歴史地名大系
木植付反別二反余。天台宗の宝増寺がある。本尊阿弥陀如来で、もと日光輪王寺末。延暦七年(七八八)最澄の創建と伝え、木彫の波之利大黒天を所蔵。日蓮宗の本妙寺は金峰山 ...
36. 雨引観音
日本大百科全書
『法華経(ほけきょう)』を書写奉納したといい、現在でも皇后に安産の御守りを奉呈している。また、最澄(さいちょう)と論争を行った法相(ほっそう)宗の徳一(とくいつ ...
37. あもうずむら【甘水村】福岡県:甘木市
日本歴史地名大系
、同寺は弘仁年中(八一〇―八二四)に最澄が建立したとの伝承がある(続風土記附録)。この地蔵堂の前に甘水とよぶ井泉(村名の由来とされる)があり、この井泉で最澄が手 ...
38. あらかわむら【荒川村】長崎県:南松浦郡/若松町
日本歴史地名大系
地内に荒川・郷ノ首・高仏があり、高仏は国高仏という地名とともに、遣唐使の最澄に由来するという。東の山王山は延暦二三年(八〇四)第一六次遣唐使船で渡海する最澄が海 ...
39. あらみのしょう【荒見庄】和歌山県:那賀郡/粉河町/安良見村
日本歴史地名大系
粉河寺は山門末寺で、広義の山門領に入る。ただし頼聖具書案は荒見庄・水原庄と並んで金剛峯寺に先立って最澄開創という滝門山高野寺(跡地は現打田町)をあげており、この ...
40. あれ【阿礼】長崎県:下県郡/厳原町/阿連村
日本歴史地名大系
出航して渡海、翌年五月に唐を離れ、第一船は六月五日「下県郡阿礼村」に帰着している。船に留学僧の最澄が乗っていたことから、当地を伝教大師の到着地と伝える。中世は郡 ...
41. あんえ【安〓
国史大辞典
)氏。七歳で下野国小野寺の広智に師事し、十三歳のとき師に伴われて叡山に登り最澄に従って天台止観と真言密教を学び、最澄の滅後は円仁に従って密教経典を習った。天長四 ...
42. あんえ【安慧】
日本人名大辞典
下野(しもつけ)(栃木県)大慈寺(小野寺)の広智(こうち)に師事,13歳で比叡(ひえい)山にのぼり,最澄と円仁(えんにん)にまなぶ。承和(じょうわ)11年出羽講 ...
43. あんしょうじ【安性寺】愛知県:名古屋市/西区/稲生村
日本歴史地名大系
この寺は古くは天台宗で稲生庵という尼寺であったが、慶安四年(一六五一)徳川光友作の秋葉三尺坊の木像を勧請し、最澄の作という十一面観世音を本尊として曹洞宗に改め、 ...
44. あんじょうむら【安城村】愛知県:安城市
日本歴史地名大系
坊・法寿坊の六坊を有した甲山寺があったことによる。甲山寺は天台宗で、大同三年(八〇八)伝教大師最澄の創建と伝える。寛永八年(一六三一)まで代官鈴木了弥支配の幕府 ...
45. あんね【安慧】
日本国語大辞典
唯識三十頌の注釈が有名。(五一〇~五七〇頃)〔二〕平安時代の天台宗の僧。河内国(大阪府)の人。最澄、円仁に師事し、後に天台座主となる。延暦一三?~貞観一〇年(七 ...
46. 安然
日本大百科全書
平安中期の天台僧。最澄(さいちょう)の苗裔(びょうえい)。生地は出羽(でわ)(山形・秋田県)とも相模(さがみ)(神奈川県)ともいわれるが近江(おうみ)(滋賀県) ...
47. 安然
世界大百科事典
平安前期の天台宗の僧。天台密教(台密)の大成者。五大院先徳,後世阿覚大師と尊称される。近江国の人。最澄の俗系とも伝える。幼時に叡山にのぼり,円仁の弟子となって顕 ...
48. あんねん【安然】画像
国史大辞典
生没年不詳 平安時代前期の天台宗の学匠。五大院あるいは阿覚大師と称せられる。最澄の同族で出生は承和八年(八四一)との説がある。年少にして叡山に登り円仁の弟子と ...
49. あんねん【安然】
日本人名大辞典
841−? 平安時代前期-中期の僧。承和(じょうわ)8年生まれ。天台宗。近江(おうみ)(滋賀県)の人。最澄の同族。比叡(ひえい)山の円仁(えんにん)に師事,のち ...
50. あんぱちごう【安八郷】岐阜県:美濃国/安八郡
日本歴史地名大系
年(八一七)最澄東国巡錫の際に安八大夫安次が帰依し、一宇を建立したことに始まるという。このとき最澄は日吉神社も勧請したという。また下宮にある勧学院は安八大夫の娘 ...
「最澄」の情報だけではなく、「最澄」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

最澄と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「最澄」は日本の歴史に関連のある記事です。
その他の日本の歴史に関連する記事
空海(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
774‐835(宝亀5‐承和2)弘法大師、俗に「お大師さん」と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。生誕の月日は不明であるが、後に不空三蔵(七〇五‐七七四)の生れかわりとする信仰から
最澄(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
767‐822(神護景雲1‐弘仁13)伝教大師。平安初期の僧侶。天台宗の開祖。三津首百枝の子という。幼名は広野。俗姓は三津氏で、帰化人の子といわれる。近江国滋賀郡古市郷(現、滋賀県大津市)の生れ。七七八年(宝亀九)一二歳で近江国分寺の大国師行表
坂上田村麻呂(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
758‐811(天平宝字2‐弘仁2)平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきょ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で、武術に秀でていた。田村麻呂も
道鏡(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
?‐772(宝亀3)奈良後期の政治家、僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現、八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』等時代の下る書に見える。後者は『続日本紀』
鑑真(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
688‐763 中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動
日本の歴史に関連する記事をもっと見る
ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る