平安初期の僧。日本天台宗の開祖。俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷の生れ。12歳のとき近江国分寺に入り,国師の行表(ぎようひよう)の弟子となり,14歳のとき国分寺僧の補欠として得度し名を最澄と改めた。785年(延暦4)19歳のとき東大寺の戒壇で具足戒(小乗戒)を受けたが,この年7月,世間の無常を感じ,突如として比叡山に登って草庵をかまえ,山林修行の生活に入った。このとき作った〈願文〉には,峻厳な自己内省と,衆生救済への志向とがうかがわれる。比叡山での修行中,多くの経典類を読破したが,なかでも天台の典籍を披閲したことが契機となり,最澄の運命を決定づけた。天台宗は隋の智顗(ちぎ)が大成した教学で,唐の初めに一時衰えたものを湛然(たんねん)が挽回し,江南地方を中心に復興の気運をむかえ,おなじく江南で布教していた鑑真(がんじん)によって天台の典籍が日本にもたらされたのである。すべての人の成仏を理論的に説き明かす天台の教学に魅せられた最澄は,ながく山にこもってきびしい禅行とたゆまない学行をつづけ,その名がようやく都の人士に知られるようになった。
797年内供奉(ないぐぶ)十禅師に任ぜられ,802年和気広世の主催する高雄山寺(神護寺)法華会(ほつけえ)の講師に招かれた。斬新な講義の評判が天皇の耳にも達し,それが機縁で入唐求法(につとうぐほう)の還学生(げんがくしよう)(短期留学)に選ばれた。最澄は門弟の義真を通訳に連れ,804年7月,空海とおなじく遣唐使の船に乗って九州を出発し,9月明州に到着した。まず天台山に登り,ついで湛然の高弟である道邃(どうすい)/(どうずい)と行満(ぎようまん)について正統な天台教学の奥義をさずかった。また道邃からは大乗の菩薩戒を受け,翛然(しゆくねん)から禅を,順暁(じゆんぎよう)から密教をそれぞれ相承している。翌805年5月,遣唐使とともに帰国の途につき,7月上京した。在唐わずか8ヵ月にすぎないが,滞在中に書写し持ちかえった経典類は230部460巻をかぞえ,収穫は大きかった。最澄が帰国した当時,桓武天皇は病床にあって,すぐさま宮中に召され,天皇の病気平癒を祈っている。
806年(大同1)1月,最澄の上表にもとづき,南都六宗に準じて,天台業を学ぶもの2人(止観(しかん)業1人,遮那(しやな)業1人)の得度が年分度者のなかに加えられた。ここに日本の天台宗が開立されたのである。この勅許は,和気広世の斡旋にあずかるところが大きいと思われるが,しかし最澄が天皇の病床に侍した功に対する恩賞の色あいが濃く,真の教団の成立は大乗戒壇の設立にまたねばならない。この年3月に桓武天皇が崩御すると,最大の外護(げご)者を失った最澄とその新生の教団はやや沈滞期に入った。空海との親密な交わりが結ばれたのはこのころである。空海は,最澄よりも長く滞留して真言密教の研修につとめ,806年帰朝した。最澄は,7歳年下の空海に辞を低くして,空海が持ちかえった多量の経典のうち,真言,悉曇(しつたん)(梵字),華厳(けごん)に関するものを借りうけ,あるいは書写して研究した。812年(弘仁3)の冬,弟子の泰範,円澄,光定(こうじよう)らを率いて高雄山寺におもむき,空海より灌頂(かんぢよう)を受けている。ところが,813年最澄が弟子を空海のもとに遣わし,真言に関する書籍を借りようとしたところ,空海は,最澄と自分との間に教学的な立場上こえることのできない溝のあることを述べ,最澄の懇請をきっぱりと拒絶し,二人の交情は急速に悪化し始めた。ことに最澄が最も嘱望していた愛弟子の泰範が空海のもとへ走るに及び,空海を尊敬しながらも決別しなければならなかった。
815年最澄は和気氏の要請で大安寺において講説し,南都の学僧と激しく論争したが,それより東国へ旅立った。途中の美濃・信濃の国境に布施屋(ふせや)を置いて旅人に宿泊の便宜を与えている。関東では最澄にゆかりの深い鑑真の高弟道忠(どうちゆう)の遺弟(ゆいてい)らがいる上野の緑野(みとの)寺(浄土院)や下野の小野寺(大慈院)を拠点に伝道を展開した。会津にいた法相(ほつそう)宗の学僧徳一(とくいち)との間に,三一権実(さんいちごんじつ)の論争が始まったのは,この関東滞在中のことである。徳一が《仏性抄(ぶつしようしよう)》を著して最澄を論難したのに対し,最澄は《照権実鏡(しようごんじつきよう)》を書いて反駁した。論争は最澄が比叡山へもどった後も続き,《法華去惑(こわく)》《守護国界章》《決権実論》《法華秀句》などを著述し,徳一の主張をことごとく論破している。最澄は自己の教学の優越性に自信を深め,そして究極の目的とする大乗戒壇の設立に邁進した。かつて19歳のとき東大寺で受けた小乗戒は,まったく形式主義に堕し,国家鎮護・衆生済度の大任を果たしえないとして,818年みずから破棄を宣言し,ついで《山家学生(さんげがくしよう)式》を定め,天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり,12年間山中で修行することを義務づけた。これに対して南都の僧綱は猛然と反論した。最澄の主張は,僧侶を養成する権限を国家やその隷属下にある南都(東大寺)の戒壇より独立して,天台宗教団の自主管理に置こうとするところに主眼点があった。最澄は南都側の反論にこたえ,《顕戒論》を執筆し,《内証仏法血脈譜(けちみやくふ)》を書いて,自己の見解の正統性を説いている。だが最澄の念願はその生存中には実現せず,822年6月4日,比叡山の中道院で没した。宿願の大乗戒壇設立は,弟子の光定の奔走と,藤原冬嗣(ふゆつぐ),良岑(よしみね)安世の斡旋で,没後7日目に勅許された。ここに天台宗が名実ともに成立したのである。なお866年(貞観8)に伝教大師(でんぎようだいし)と諡号(しごう)された。
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