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  11. 新田義貞
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
新田義貞
にったよしさだ
 - 一三三八
鎌倉・南北朝時代の武将。新田朝氏の嫡子。小太郎。左中将、右衛門佐、治部大輔を歴任。義貞は元弘三年(一三三三)河内に蜂起した楠木正成討伐の楠木合戦に御家人として参加したが途中で上野に帰国した。ところが幕府の軍費調達の有徳(うとく)銭徴収のため紀出雲介親連と黒沼彦四郎入道が徴税使として新田荘の世良田(せらだ)に入部し譴責したので、義貞は親連を捕え黒沼を梟首(きょうしゅ)した。この事件がきっかけとなり義貞は五月八日新田荘内一井郷(群馬県新田郡新田町市野井)の生品(いくしな)明神で一族を集め討幕の挙兵をした。笠懸野から東山道を西に進み上野国衙に圧力をかけながら八幡荘(高崎市)で越後・上野の一族などを結集した。そこから武蔵に進撃し鎌倉街道を南下するなかで東国各地の軍勢が雪だるま式に膨れあがった。足利千寿王丸(義詮)を擁した足利軍、足利氏被官高(こう)氏の一族の三浦大多和氏などの援助を得て、小手指(こてさし)河原(埼玉県所沢市)・分倍(ぶばい)河原(東京都府中市)合戦などで幕府軍を撃破し鎌倉に迫り、十八日に稲村が崎の海岸線を突破して鎌倉に雪崩込み、二十二日東勝寺に北条高時以下を攻め滅ぼした。幕府滅亡によって成立した後醍醐天皇の建武政権下では従四位上に叙せられ、上野・越後・播磨の国司(弟脇屋義助は駿河の国司)となり、国司庁宣などを発給して管国の支配にあたった。足利尊氏との対立は鎌倉制圧の時点から生じ、建武二年(一三三五)七月北条時行の中先代(なかせんだい)の乱が起ると尊氏は関東に下向し、義貞討伐を名目に建武政府に叛旗を翻し、南北朝内乱となった。幕府の再建を目ざす足利尊氏に対して、義貞は建武政府を擁護する南朝方の立場で以後活躍することになる。義貞は尊氏討伐の竹下の戦に敗れ、京都にもどり京都の争奪戦で北畠顕家の援助を得て尊氏を九州に追い落とした。しかし分国の播磨での赤松円心討伐に失敗し、再度上洛する尊氏軍と湊川で楠木正成とともに戦い敗れた(正成は戦死)。義貞は後醍醐天皇を奉じて比叡山に逃れ、京都奪回作戦などに従事したが、建武三年十月尊氏の和平工作によって後醍醐天皇は京都に帰還する時、義貞・義助らは恒良親王を奉じて越前に下り金崎(かねがさき)城に立て籠もった。翌建武四年正月、足利軍は高師泰を総大将とし諸国の軍勢を集めて城を包囲して糧道を絶ったので、城中は飢餓状況となり三月六日落城した。尊良親王や新田義顕以下は自殺し恒良親王は捕えられた。義貞はその直前に杣山(そまやま)城に脱出することができた。同年八月、陸奥の北畠顕家は大軍を率いて上洛し京都に迫った。これに呼応して義貞は延元三年(北朝建武五、一三三八)二月に杣山城を出撃、斯波直常軍を鯖江に撃破し越前国府も攻略しその勢力は著しく拡張された。しかし北畠軍は各地で幕府軍に阻まれ、同年五月二十二日顕家は和泉堺浦(さかいのうら)の合戦で戦死した。義貞は五月には斯波高経らの黒丸城(福井市)を包囲して足羽(あすわ)郡の諸城を落としていった。六月には越後の大井田氏経が来援した。この時藤島城(福井市)に斯波方の平泉寺衆徒が立て籠もり、これを新田軍が攻撃していた。閏七月二日に義貞は支援のため五十騎で駆けつける途中、黒丸城から藤島救援に出撃した三百騎と遭遇し、深田の中に追い落とされて矢に当たり自害した。三十七歳~三十九歳といわれる。元弘三年五月に新田荘を出陣してから五年余、南朝方の総大将として鎌倉・京都・播磨・比叡山・越前と転戦に明け暮れした生涯を閉じた。鎌倉幕府討滅の大功績で一躍政界に踊り出たが、その栄光の重荷を背負い続けた五年間であった。尊氏は「安養寺殿(義貞)追善料所」として暦応二年(延元四、一三三九)十一月に義貞の所領八木沼郷を世良田長楽寺に寄進し、観応元年(正平五、一三五〇)十二月には木崎村安養寺の「義貞跡」が岩松頼宥に与えられた。新田郡尾島町安養寺にある明王院は義貞・義助の菩提寺でここは二町四方の堀を巡らし、義貞の館跡である可能性がある。なお義貞の花押は鎌倉占領の時点で変化する。また義貞の子息義興・義宗の反幕府行動がその後も展開されるが、延元四年(北朝暦応二)の顕家・義貞、翌年の後醍醐天皇の死は南朝方の衰退を決定づけた。→建武新政(けんむのしんせい)
[参考文献]
『大日本史料』六ノ四 暦応元年閏七月二日条、藤田精一『新田氏研究』、群馬県教育会編『新田義貞公根本史料』、『群馬県史』資料編五、『新田荘と新田氏』(『新田町誌』四)
(峰岸 純夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)
新田義貞
にったよしさだ
[1301―1338]

鎌倉末・南北朝時代の南朝方の武将。朝氏(ともうじ)の子。上野(こうずけ)国新田荘(しょう)(群馬県太田市、伊勢崎市とみどり市の各一部)を拠点とする豪族新田氏の惣領(そうりょう)であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名すらもたぬほど鎌倉幕府からは冷遇された一御家人(ごけにん)にすぎなかった。元弘(げんこう)の変(1331)には、初め幕府軍の一員として千早(ちはや)城攻撃に加わったが、その途中帰国。1333年(元弘3・正慶2)、護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)を得て北条氏に背き挙兵。上野・越後(えちご)に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原(こてさしがはら)(埼玉県所沢市)・分倍河原(ぶばいがわら)(東京都府中市)の合戦に勝ち、5月22日鎌倉を落とし、得宗(とくそう)北条高時(たかとき)以下を自殺させた。その功により、建武(けんむ)政権下では重用され、越後などの国司(こくし)、武者所頭人(むしゃどころとうにん)、さらに昇進して左近衛中将(さこのえのちゅうじょう)などに任ぜられたが、やがて足利尊氏(あしかがたかうじ)と激しく対立するようになる。35年(建武2)、関東に下った尊氏を追撃するが箱根竹の下の合戦に大敗。しかしその直後、上洛(じょうらく)した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とす。36年(延元1・建武3)、再挙した尊氏と摂津湊川(せっつみなとがわ)・生田(いくた)の森(兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐(ごだいご)天皇方は楠木正成(くすのきまさしげ)らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金(えちぜんかな)ヶ崎(さき)城(福井県敦賀(つるが)市)を拠点に再起を図るが、37年これを失陥、嫡男義顕(よしあき)も自刃、ついで38年閏(うるう)7月2日、越前藤島(福井市)で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉(へいせん)寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇、戦死した。義貞は、鎌倉攻めのため上野を出たあと、ついに一度も上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義(ただよし)を中心に一族がまとまって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さももちろんだが、山名(やまな)・岩松(いわまつ)氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、わずかに弟脇屋義助(わきやよしすけ)をはじめ、大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏らの本宗系の庶子家しか動員しえなかったのであり、この点に、すでに義貞の非力さが存在した。にもかかわらず義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路をたどることになったのである。
[千々和到]



世界大百科事典
新田義貞
にったよしさだ
1301-38(正安3-延元3・暦応1)

南北朝期の武将。朝氏の子。新田氏の嫡流。義貞の社会的地位は,新田氏の鎌倉幕府下での立場を反映して,同族の足利尊氏に比べて低かった。元弘の乱に際しては当初幕府軍に属して,1333年(元弘3)正月楠木正成の千早城を攻めたが,護良親王の令旨をうけたため途中で兵を収め本拠に帰った。討幕勢力が興起して六波羅探題が陥落する同年5月ころより,義貞の動きがはっきりしてくる。まず上野守護代長崎四郎左衛門尉を討ち,同国世良田に軍陣をしいた。義貞はさらに大軍を率いて鎌倉に迫り,武蔵分倍河原に北条泰家を破ったのち,5月22日に鎌倉を陥れ,北条高時以下を自刃させた。ここに鎌倉幕府は滅亡したが,まもなく新田・足利の主導権争いが始まり,敗れた義貞は鎌倉を放棄して京都に入った。6月に成立した建武政府下では,義貞は上野介・越後守・播磨守,越後守護・播磨守護に任ぜられたり,一門武士を多く配した武者所を統括するなど,新政府に参加した武士の中でもことに重要な役割を果たした。しかし尊氏との対立は35年(建武2)の中先代の乱鎮定を機に早くも表面化し,ついには尊氏・直義の官爵を削る事態を招いた。ここに建武新政は実質的に崩れ,新田・足利の武門どうしの争いは南北朝対立の導火線の一つとなった。同年末,義貞は尊氏追討に出陣したが,箱根竹ノ下に敗れ,足利軍の入京をゆるした。やがて尊氏追討のため奥州から西上した北畠顕家軍と合力して,36年(延元1・建武3)2月足利軍を九州へ去らせたが,後醍醐天皇方武将たちの戦術上の足なみがそろわなかったため,6月に入洛した足利軍を迎えうつ合戦で,天皇方は多大の犠牲を払った。尊氏が8月持明院統の光明天皇を擁立したため南北朝が並立した。義貞は北国に南軍の拠点を築くべく恒良・尊良両親王を奉じて越前に下り,金崎(かねがさき)城,杣山(そまやま)城を根城に力戦を重ねたが,38年藤島の戦で戦死した。
[森 茂暁]

[索引語]
金崎(かねがさき)城 杣山(そまやま)城
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1301−1338 鎌倉-南北朝時代の武将。正安(しょうあん)3年生まれ。鎌倉を攻めて幕府をほろぼし,後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)の新政で重用される。 ...
7. にったよしさだ【新田義貞】
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日本歴史地名大系
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21. あおかたうら【青方浦】長崎県:南松浦郡/上五島町
日本歴史地名大系
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22. あおき[あをき]【青木】
日本国語大辞典
名字にしたとされる。源頼朝の挙兵に従い、御家人となっており、その後、鎌倉末期から南北朝期に、新田義貞に属した青木氏を、その一族とする説がある。〔二〕近世の摂津国 ...
23. 青野原の戦い
日本大百科全書
細川頼之の陣に迫ることなく、また幕府軍の恐れていた越前(えちぜん)(福井県)から京都に迫ろうとしていた新田義貞(にったよしさだ)軍との合流もせず、伊勢(いせ)路 ...
24. あかさわむら【赤沢村】新潟県:中頸城郡/吉川町
日本歴史地名大系
同年七月に後醍醐天皇の発した諸国平均安堵法に基づき、当村内松分の田地の安堵を求め、同年一二月五日当国国司新田義貞はこれを認めている(「須和部円教等申状并越後国々 ...
25. 赤橋守時
世界大百科事典
辞職,出家の後をうけて執権に就くが,得宗専制体制下執権の座は形式的なものであった。33年5月新田義貞の軍は鎌倉を攻撃。守時は洲崎で防戦に努めたが敗れ,同月18日 ...
26. あかはしもりとき【赤橋守時】画像
国史大辞典
同二年従四位下に昇叙。当時は得宗専制の時代であるから、執権といっても実権はなかった。元弘三年(一三三三)新田義貞の軍が鎌倉に迫るや、洲崎で戦い、一日一夜の間に六 ...
27. あかはし-もりとき【赤橋守時】
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28. 赤橋守時
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29. あかばし‐もりとき【赤橋守時】
日本国語大辞典
鎌倉幕府最後の執権。北条氏の一族。新田義貞に鎌倉を攻められ自刃。元弘三年(一三三三)没。 ...
30. あかまつ-さだのり【赤松貞範】
日本人名大辞典
。建武(けんむ)2年足利尊氏にしたがい,鎌倉で北条時行を討つ。ついで箱根竹下(たけのした)で新田義貞(よしさだ)をむかえ討ちやぶる。のち美作(みまさか)(岡山県 ...
31. 赤松則村
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1・建武3)足利尊氏が建武政権にそむいて九州下向の際その与党となる。播磨の守護職に補任され,新田義貞軍の攻撃を防ぎ,さらに尊氏の上洛,京都制圧に功があった。播磨 ...
32. あかまつのりむら【赤松則村】画像
国史大辞典
同三年春尊氏が京都に敗れて九州に奔った際には、佐用荘赤松村に新たに白旗城を築き、尊氏を追って西下する新田義貞の軍勢をこの城に支え、やがて、尊氏が勢力を挽回して東 ...
33. あかまつ-のりむら【赤松則村】
日本人名大辞典
尊氏とともに六波羅(ろくはら)探題をおとす。建武2年尊氏が新政府に反するとこれに応じ,追討の新田義貞軍を播磨(はりま)(兵庫県)で阻止した。播磨守護をつとめ,守 ...
34. あかまつむら【赤松村】兵庫県:赤穂郡/上郡町
日本歴史地名大系
山寺文書)。円心はその後苔縄城の対岸の白旗山に白旗城を築き、同城に拠って建武三年(一三三六)新田義貞を迎え討った(「太平記」巻一六)。同城は以降赤松氏の拠点とな ...
35. あがつまぐん【吾妻郡】群馬県
日本歴史地名大系
矢羽根で曳きとおして、血を流すことなく仕留めて面目をほどこした。元弘三年(一三三三)五月一五日、新田義貞の鎌倉攻めに参加して戦死した飽間斎藤三郎盛貞・同孫七家行 ...
36. あきばさんじょうあと【秋葉山城跡】新潟県:十日町市/六箇村
日本歴史地名大系
南北朝期に新田氏の一族羽川刑部の築城と伝える。元弘三年(一三三三)羽川氏が新田義貞に従って鎌倉幕府打倒のため活躍したことは「太平記」巻一〇(新田義貞謀叛事付天狗 ...
37. あくわなかごやむら【安久和中小屋村】福井県:南条郡/南条町
日本歴史地名大系
外側に堀跡もあったといわれ、「越前国城蹟考」の記す南朝方の飽和城跡にあたると思われる。「太平記」巻一九(新田義貞落越前府城事)に「一条少将行実朝臣、二百余騎ニテ ...
38. あこうぐん【赤穂郡】兵庫県
日本歴史地名大系
南北朝の内乱期には軍勢が山陽道を行き来し、建武三年(一三三六)に白旗城(現同上)に立籠った赤松円心を新田義貞軍が攻めている。赤松氏の経済基盤として千種鉄が指摘さ ...
39. あごじょうあと【安居城跡】福井県:福井市/旧足羽郡地区/金屋村
日本歴史地名大系
守の拠城。「太平記」巻二〇(黒丸城初度軍事付足羽度々軍事)に、延元三年(一三三八)五月二日、新田義貞が五千余騎の兵を差向けた五ヵ所のうちに当城の名があげられてい ...
40. あごのわたり【安居の渡】福井県:福井市/旧足羽郡地区/角折村
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川の渡し。「太平記」巻二〇(黒丸城初度軍事付足羽度々軍事)に、延元三年(一三三八)五月二日、新田義貞が北朝方の足羽の城を攻撃したことがみえるが、そのうちに「船田 ...
41. あさくらし【朝倉氏】画像
国史大辞典
朝倉広景は斯波高経に属した。建武四年(一三三七)高経に従って越前に下り、坂南郡足羽北庄黒丸城に拠って新田義貞らと戦った。これから高景・氏景と北朝方に属して戦い、 ...
42. あさ‐まだき【朝─】
日本国語大辞典
物語〔1001~14頃〕宿木「あさまだきまだき来にけりと思ひながら」*太平記〔14C後〕七・新田義貞賜綸旨事「朝(アサ)まだきの霧隠(きりがくれ)に、追っ返しつ ...
43. あざみむら【阿佐美村】群馬県:新田郡/笠懸村
日本歴史地名大系
生絽一二〇匹、薪九万三千八〇〇貫目を産し、民業は男は薪炭業一八(郡村誌)。宮久保の生品神社は、地元では新田義貞挙兵に参じた笠懸近くの武士たちが集まった地と伝えら ...
44. 足利尊氏画像
日本大百科全書
もって、新田義貞(にったよしさだ)誅伐(ちゅうばつ)の檄文(げきぶん)を諸将に送って軍勢催促を要請した。義貞誅伐を名目として、建武政権への反意を表明したものであ ...
45. 足利尊氏
世界大百科事典
諸国の豪族に送って決起を呼びかけ,京都に攻め入って六波羅探題を滅ぼした。一方,関東では上野の新田義貞が挙兵南下して鎌倉を襲い,幕府は滅亡したが,このとき高氏の嫡 ...
46. あしかがたかうじ【足利尊氏】画像
国史大辞典
護良親王を逮捕し、身柄を弟直義の守る鎌倉に移すことに成功した。護良親王が失脚すると、中央では新田義貞が尊氏と正面から対決することとなった。同二年六月、信濃に兵を ...
47. あしかがたかうじ【足利尊氏】
日本架空伝承人名事典
諸国の豪族に送って決起を呼びかけ、京都に攻め入って六波羅探題を滅ぼした。一方、関東では上野の新田義貞が挙兵南下して鎌倉を襲い、幕府は滅亡したが、このとき高氏の嫡 ...
48. 足利尊氏[文献目録]
日本人物文献目録
相の足利尊氏論批判』沼田頼輔『南北朝初期に於ける政治情勢について 足利尊氏と新田義貞を中心として』吉田輝代『新田義貞と足利尊氏』-『夢窓国師と足利兄弟』角張月峰 ...
49. 足利高氏・足利尊氏
日本史年表
入京(梅松論)。 1336年〈【北朝】建武3・【南朝】延元元(2・29) 丙子〉 1・27 新田義貞 ら,尊氏と賀茂河原で戦う.翌28日神楽岡,30日糺河原で戦 ...
50. あしかがたかうじやかたあと【足利尊氏館跡】京都市:中京区/初音学区/杉屋町地図
日本歴史地名大系
「太平記」巻一四、建武二年(一三三五)一一月八日の新田義貞東国進発の記事に「義貞節度ヲ給テ、二条河原ヘ打出テ、先尊氏卿ノ宿所二条高倉ヘ舟田入道ヲ指向テ、時ノ声ヲ ...
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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連歌(小学館 全文全訳古語辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〔名詞〕短歌の上の句(五七五)と下の句(七七)とを、二人が応答してよむ詩歌の一種。平安時代に発生し、はじめは、二人の唱和で一首とする「短連歌」であったが、中世以降、二人以上(時には一人)で、五七五と七七の句を交互に長く続ける「長連歌」
俳諧集(新編 日本古典文学全集)
俳諧集(扉) 哥いづれの巻(貞徳翁独吟百韻自註)(扉) 作品解説・作者解説 哥いづれ小町おどりや伊勢踊 紅梅やの巻(紅梅千句)(扉) 作品解説・作者解説 梅 第一 蚊柱はの巻(蚊柱百句)(扉) 作品解説・作者解説 そもそもいきとしいけるもの
吉田茂(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
山本五十六(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
[1884―1943]昭和期の海軍軍人。明治17年4月4日新潟県生まれ。海軍兵学校32期、海軍大学校14期卒業。第一次世界大戦後の3回にわたる在米勤務ののち、いち早く航空機の将来性に着目。1930年(昭和5)航空本部技術部長、1935年航空本部長。航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し
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