1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 楠木正成
国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典

ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
国史大辞典
楠木正成
くすのきまさしげ
 - 一三三六
南北朝時代の武将。兵衛尉のち左衛門尉。河内国南部水分(みくまり)川流域の赤坂(大阪府南河内郡千早赤阪村)に居館があった。鎌倉御家人であったかどうか明らかではないが、中央貴族と主従関係を結んでいた武士らしく、機動性に富んだ武士団を擁し、文武にわたりかなり高い素養をもっていた。鉱山業者や物資輸送業者(散所)を従えた武士ではなかったかという説もあるが確証はない。後醍醐天皇の政治が始まって間もなく、天皇側近の公家・寺僧を通じて後醍醐側に結束する畿内武士の有力な一員になったらしい。すなわち元弘元年(一三三一)八月、後醍醐天皇が京都を脱出して笠置山にたて籠り討幕の軍事行動をとったころ、正成は和泉国若松荘に押し入り不法占拠して年貢などを掠めとり、荘園領主(領家)たる臨川寺から「悪党」呼ばわりされていた。鎌倉時代中期以降、荘園領主の強い支配のために現地で領主化することを阻まれた荘官層や、北条得宗家の専制化とそれを背景にして台頭した得宗被官の強引さに反撥する鎌倉御家人や寺僧らが、一族同類を結集し上層農民や商人らを組織して暴力的行動にでることが多く、これらが当時「悪党」と呼ばれていた。正成の悪党行為は単なる横暴ではなく、後醍醐方と内通し、むしろその指令を得て、挙兵のために兵粮を調達する合法的な軍事行動ではなかったかといわれている。九月に笠置は落ち、後醍醐天皇は捕われの身となったが、そこを脱出した尊雲法親王(大塔宮)を擁して赤坂城にたて籠った正成は、幕府軍の集中的攻撃をうけて十月下旬に敗北し、大塔宮とともに姿を消した。翌元弘二年三月、後醍醐天皇は京都を発し流刑地隠岐に向かったが、正成は隠岐との連絡を保っていたらしく、その間に「左衛門尉」に昇任したらしいことが、元弘二年十二月の金剛寺衆徒に送った正成自筆書状の署名から想定される。元弘二年十二月、正成は再び兵を起し、赤坂城に湯浅氏を攻めてこれを奪還し、翌三年正月紀伊を攻めて南方を確保し、和泉北部に進出し、摂津に出て天王寺・渡辺で幕府軍と戦って勝った。これに対して幕府は阿曾治時・長崎高貞らを将とする一軍を河内に派兵し、二月下旬から正成攻撃を開始した。数日にして楠木本城(上赤坂城)は落ち城将平野将監が投降した。正成は詰城(千早本城)に籠城し、城外から野伏などの支援をうけながら、万余に及ぶ幕府軍を釘づけにして防戦につとめた。ここで正成の奇策を駆使した智将ぶりが発揮されたという。千早城攻防戦がやや長期化する間に、赤松則村・足利尊氏・新田義貞などが反幕府・反北条を標榜して後醍醐方に味方して軍を起し、五月にはついに六波羅・鎌倉が落ち、ここに鎌倉幕府は崩壊した。千早城攻めを解いて四散した幕府軍を追い、勝利を収めた正成は、六月初め、さきに隠岐を脱出し京都への帰路にあった後醍醐天皇に摂津兵庫で会い、京都還幸の前駆となって四月に入京した。後醍醐天皇の親政を貫こうとする建武政権のもと、正成は記録所寄人・恩賞方寄人・雑訴決断所奉行・検非違使などを兼ねて中央政界で敏腕をふるうとともに、河内の国司、河内・和泉の両守護をあわせもち畿内武士団の棟梁的地位を得て、異例の昇進・台頭を遂げたのである。建武政権がかかえた難問の最たるものであった大塔宮と足利尊氏の対立にあたっては、大塔宮の有力与党として動いたが、建武元年(一三三四)十月、大塔宮が謀叛の陰謀ありとして足利尊氏によって拘禁された時、正成はたまたま飯盛山に拠って抗していた佐佐目憲法僧正を攻撃中で事なきを得たが、これより先親政に失望して雑訴決断所一番局の寄人筆頭万里小路(までのこうじ)藤房は失踪し、しばらくして一番局奉行であった正成も退いたのではないかと思われる。しかし不満の行動はとらず、翌二年六月には、西園寺公宗が北条時興を匿し光厳天皇を奉じて挙兵しようと策動した時、高師直とともに発向している。建武政権が破綻し、建武二年十一月、中務卿尊良親王・新田義貞が足利尊氏・直義追討のため東海道を下った時、正成は京都にとどまって京都・畿内の守護にあたったが、一族の正家を代官として常陸に派遣し、後醍醐方の地盤固めをさせている。翌三年(延元元)正月、正成は入京しようとする足利軍を宇治で迎え撃ったが果たせず、正成の京都宿所は焼きうちされた。しかし足利軍を追うようにして西下した北畠顕家軍によって勝機をつかみ、正成はこれと行動をともにして転戦し、二月には摂津西宮南方の打出浜合戦で足利軍を破り、足利尊氏を九州に走らせた。公家らは尊氏の再起不能を口にし後醍醐政権の完全な勝利を謳歌したが、正成は尊氏の挙兵・東上を予測し、尊氏との和議を説いたが容れられなかったという。この挿話のなかに正成の軍略家としての非凡な資質をうかがうことができる。正成の予測どおり、四月に足利尊氏は博多を出帆し東に軍を動かした。正成は兵庫でこれを迎え撃ったが、五月二十五日、激烈な戦いののち湊川(神戸市生田区)において弟正季ら一族郎等とともに自害した。『日本外史』は正成の没年を四十三歳とするが根拠はない。明治五年(一八七二)没地に湊川神社を建てて祀り、また境内には墓も存する。→笠置山の戦(かさぎやまのたたかい),→元弘の乱(げんこうのらん),→湊川神社(みなとがわじんじゃ),→湊川の戦(みなとがわのたたかい)
[参考文献]
『大日本史料』六ノ三 延元元年五月二十五日条、藤田精一『楠氏研究』、高柳光寿『足利尊氏』、植村清二『楠木正成』(『日本歴史新書』)
(三浦 圭一)


世界大百科事典
楠木正成
くすのきまさしげ
?-1336(延元1・建武3)

鎌倉時代末~南北朝時代の武将。橘正遠の子というが出自は不明。金剛山のふもと赤坂を本拠とし,和泉,北紀伊にもかかわりを持つ。鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇は,蔵人日野俊基,醍醐寺報恩院の文観,道祐を通じて正成を反乱計画に引き入れ,1331年(元弘1)兵衛尉正成は,後醍醐が道祐に与えた和泉国若松荘の所領に姿を現す。後醍醐挙兵後は悪党として追及され,本拠赤坂城で幕府軍と戦ったが敗北,吉野の護良親王と連繫しつつ潜行する。32年末,後醍醐,護良に与えられたとみられる左衛門尉の官途を名のって紀伊北部に出現,湯浅氏を破って味方とし,翌年摂河泉に進出,天王寺,赤坂城,千早城などに幕府の大軍を引きつけ,野伏を駆使,飛礫(つぶて)を打つなど,悪党的戦法によってこれを悩ました。この大功により,後醍醐の新政府成立後,検非違使,河内守,河内・和泉の守護として,記録所,雑訴決断所など,新政の多くの機関に名を連ね,河内国新開荘,土佐国安芸荘,出羽国屋代荘,常陸国瓜連等,多くの所領を与えられ,名和長年,結城親光,千種忠顕とともに三木一草の一人としてもてはやされた。しかし,34年(建武1)の護良失脚後,新政府内での動きは精彩を欠き,紀伊飯盛山の北条氏余党の反乱鎮圧に出動したが,まもなく斯波高経と交替している。36年,新政府に反した足利尊氏,直義が入京するや,いったんこれを九州に追ったが,その大胆な献策を朝廷にいれられぬまま,再挙東上した尊氏らの軍を兵庫の湊川で迎えうち,敗死した(湊川の戦)。

 《太平記》はその出生を信貴山の毘沙門天に結びつけ,智謀無双の悪党的武将の典型として正成を縦横に活躍させ,怨念に満ちた凄絶な最期を描き,直ちに怨霊として登場させている。こうした《太平記》の描く正成像はその普及とともに,強い影響を与えた。室町期から江戸初期にかけて,楠木流の兵法,政道に関する多くの書物や,〈非理法権天〉の法諺を正成の軍旗に結びつける説なども現れ,由井正雪は楠木流兵法を唱え,正成・正行にかかわる偽文書も盛んに作られた。一方,儒学者により正成は忠孝の臣とされ,とくに水戸学は南朝正統論と結びつけて,正成を称揚,崇拝の対象とした。明治以後,敗戦までの正成像は,その流れを汲んだ虚像であり,戦後,ようやく正確な実像が追究されるようになった。
[網野 善彦]

[索引語]
太平記
ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
タブレットやスマホからも利用できます。
楠木正成の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 633
検索コンテンツ
1. 楠木正成画像
日本大百科全書
鎌倉末・南北朝時代の武将。父は楠木正遠(まさとお)と伝えられる。幼名を多聞丸(たもんまる)、のち兵衛尉(ひょうえのじょう)と称する。1331年(元弘1)8月、後 ...
2. 楠木正成
世界大百科事典
?-1336(延元1・建武3) 鎌倉時代末~南北朝時代の武将。橘正遠の子というが出自は不明。金剛山のふもと赤坂を本拠とし,和泉,北紀伊にもかかわりを持つ。鎌倉幕 ...
3. くすのき‐まさしげ【楠木正成】
日本国語大辞典
南北朝時代の武将。幼名、多聞丸。河内の人。後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加。河内赤坂城、のち千早城に拠り、巧みな兵法と知略で幕府の大軍を防ぐ。建武の新政府が成 ...
4. くすのきまさしげ【楠木正成】画像
国史大辞典
史料』六ノ三 延元元年五月二十五日条、藤田精一『楠氏研究』、高柳光寿『足利尊氏』、植村清二『楠木正成』(『日本歴史新書』) (三浦 圭一)  ...
5. 楠木正成
日本史年表
) 辛未〉 9・11 楠木正成 ,挙兵し河内国 赤坂城 に拠る(太)。 1331年〈【幕府】元徳3・【朝廷】元弘元(8・9) 辛未〉 10・21 赤坂城陥落.  ...
6. くすのき-まさしげ【楠木正成】
日本人名大辞典
?−1336 鎌倉-南北朝時代の武将。河内(かわち)(大阪府)赤坂の土豪。元弘(げんこう)元年(1331)後醍醐(ごだいご)天皇の呼びかけに応じて挙兵。配下の武 ...
7. くすのきまさしげ【楠木正成】
日本架空伝承人名事典
鎌倉時代末~南北朝時代の武将。橘正遠の子というが出自は不明。金剛山のふもと赤坂を本拠とし、和泉、北紀伊にもかかわりを持つ。鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇は、蔵人 ...
8. 楠木正成花押[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan ...
9. 楠木正成花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
10. くすのき-まさしげの-つま【楠木正成妻】
日本人名大辞典
?−? 南北朝時代の女性。建武(けんむ)3=延元元年(1336)摂津湊川(兵庫県)で敗死した夫の首がとどけられた際,子の正行(まさつら)が後を追って自刃しようと ...
11. 楠木正成胴丸注文(著作ID:2408788)
新日本古典籍データベース
くすのきまさしげどうまるちゅうもん 武具  ...
12. 楠木正成之塚石碑之図并文(著作ID:4382640)
新日本古典籍データベース
くすのきまさしげのつかせきひのずならびにぶん 金石文  ...
13. 書評 歴史書の棚 楠木正成再評価の機運の中、冷静な実証分析が上梓=今谷明
週刊エコノミスト 2018-19
戦前のような軍部の圧力も皆無の戦後には種々の発展も見られ、評者は、戦前のような楠木正成崇拝がたやすく復活するとは必ずしも信じない。  それと、楠木正成の主君であ ...
14. あかさか【赤坂】
日本国語大辞典
あふはかもそれぞとばかり夕まぐれ」〔四〕大阪府南河内郡千早赤阪村の地名。奈良県境に近く金剛山西麓にあり、楠木正成の千早・赤坂城址で知られる。〔五〕岡山県の中央部 ...
15. 赤坂城
日本大百科全書
上赤坂城を本城、下赤坂城を前衛の城とするもので、1331年(元弘1)笠置(かさぎ)山城が落ちた直後、楠木正成(くすのきまさしげ)が護良親王を奉じて、本丸、二の丸 ...
16. 赤坂城
世界大百科事典
河内国石川郡赤坂(現,大阪府南河内郡千早赤阪村)にあった山城。上・下の2城からなり,元弘の乱にさいし楠木正成が挙兵した城として著名。正成は1331年(元弘1)後 ...
17. あかさか‐じょう[‥ジャウ]【赤坂城】
日本国語大辞典
大阪府南河内郡千早赤阪村にあった楠木正成の山城。元弘元年(一三三一)正成が、はじめて挙兵した下赤坂城と、翌年千早城で再挙の際、平野将監に守らせた上赤坂城(楠木城 ...
18. あかさかじょう【赤坂城】
国史大辞典
よりなる。鎌倉時代末期および南北朝内乱の時代、南朝方の楠木正成・同正儀らが拠った城として著名である。下赤坂城は大字森屋にあって、楠木正成生誕の地といわれる水分( ...
19. 赤坂城
日本史年表
1331年〈【幕府】元徳3・【朝廷】元弘元(8・9) 辛未〉 9・11 楠木正成 ,挙兵し河内国 赤坂城 に拠る(太)。 1333年〈【幕府】正慶2/・【朝廷 ...
20. あきし【安芸市】高知県
日本歴史地名大系
後宇多院が京都槙尾の西明寺に寄進したが、のち西明寺や金剛頂寺(現室戸市)の住持を兼帯した浄宝の仲介により、楠木正成が安芸庄の木材を得ようとしたことなどもあった( ...
21. あきのしょう【安芸庄】高知県:安芸市
日本歴史地名大系
またこの文書は西明寺をはじめ金剛頂寺(現室戸市)などの住持を兼帯した浄宝の自筆といわれ、浄宝と親しかった楠木正成が、摂津・河内の寺社造営のため、崑陽寺庄半分東方 ...
22. あきのしょう【安芸荘】
国史大辞典
。のち皇室領となったのであろうか。後宇多院が槇尾の平等心王院(西明寺)へ寄進している。さらに楠木正成が摂津・河内の寺社造営のため当荘の材木を必要としたので、崑陽 ...
23. 悪党
世界大百科事典
る不信感を増大させる結果を生んだ。 この不満を組織して,討幕の方向に導いたのが後醍醐天皇で,楠木正成,赤松円心,名和長年など,その直属武力はいずれも悪党的性格を ...
24. 浅見絅斎
日本大百科全書
遺言(せいけんいげん)』8巻は、近世勤王論の発達に大きな影響を与えた著作として知られる。また楠木正成(くすのきまさしげ)を敬い、望楠軒(ぼうなんけん)とも号した ...
25. 浅見絅斎
世界大百科事典
篆刻(てんこく)していたが,これは彼が単なる学者ではなく,実践を旨とした思想家であったことを示している。平生楠木正成の忠誠を仰薫し望楠軒と号した。終生任官せず京 ...
26. あさみけいさい【浅見絅斎】
国史大辞典
崎門派中でも佐藤直方の湯武是認と明白に対立している。また関連して注目すべきは闇斎以来の南朝正統論、楠木正成の顕彰である。幕末の志士たちに愛誦せられた長文の「楠公 ...
27. あさみむら【朝見村】大分県:別府市
日本歴史地名大系
じる道(東山路)や内成村に通じる道(内成路)が通っていた。源頼朝が大友能直に与えたという兜、楠木正成の所持品であったという蟇股鏃、天正一八年(一五九〇)銘の鉄灯 ...
28. 足利尊氏画像
日本大百科全書
同年3月、尊氏は多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)で菊池軍を破ったのち、勢力を急速に回復し、5月楠木正成(くすのきまさしげ)を将とする建武政府軍を兵庫湊川(み ...
29. 足利尊氏
世界大百科事典
追われ九州に走った。途中持明院統の光厳上皇の院宣を受けて大義名分を得,態勢をたて直して再挙東上し,湊川で楠木正成軍を破って入京,光厳上皇の弟光明天皇を立て,建武 ...
30. あしかがたかうじ【足利尊氏】画像
国史大辞典
院宣を受け、一族を四国・中国に配置しつつ、九州に下った。やがて勢力をもり返して水陸から進み、楠木正成を兵庫湊川に倒し、六月再び入京、京都近傍の政府軍を完全に撃破 ...
31. あしかが-たかうじ【足利尊氏】
日本人名大辞典
建武(けんむ)新政第一の功臣となる。のち建武政権にそむき,天皇方に敗れて一時九州にのがれるが,建武3=延元元年楠木正成(まさしげ)をやぶって京にはいり,光明天皇 ...
32. あしかがたかうじ【足利尊氏】
日本架空伝承人名事典
追われ九州に走った。途中持明院統の光厳上皇の院宣を受けて大義名分を得、態勢をたて直して再挙東上し、湊川で楠木正成軍を破って入京、光厳上皇の弟光明天皇を立て、建武 ...
33. 足利尊氏[文献目録]
日本人物文献目録
氏余聞』高柳光寿『足利尊氏論』堀江英夫『足利尊氏論』光井清三郎『偽らぬ日本史 5 足利尊氏と楠木正成』-『現代に生きる日本史の群像 6 師団長・足利尊氏 座談構 ...
34. あしなぐん【芦品郡】広島県
日本歴史地名大系
一族が各地に蟠踞した。「太平記」(巻三)は元弘元年(一三三一)宮氏の出と思われる桜山城の桜山慈俊が楠木正成に呼応して挙兵したとするが、「備後古城記」などの伝える ...
35. あしや・あしやのつ【葦屋・葦屋津】福岡県:遠賀郡/芦屋町
日本歴史地名大系
それらを結んで活発な対外交流を展開していたとされる。なお建武三年(一三三六)二月、摂津豊島河原で楠木正成・新田義貞に敗れた足利尊氏は九州へと走り、同月二九日に長 ...
36. あしやし【芦屋市】兵庫県
日本歴史地名大系
かる要地にあるため南北朝期には相次いで合戦が行われた。建武三年(一三三六)足利尊氏軍が打出で楠木正成らに敗れて九州に下り、観応二年(一三五一)には尊氏と弟直義が ...
37. あてがわのしょう【阿〓河庄】和歌山県:有田郡/清水町
日本歴史地名大系
上庄・下庄にそれぞれ預所を補任し、武力で当庄に打入って、地頭の排除に乗出していく。正慶元年(一三三二)楠木正成に取籠められた湯浅党の交名(楠木合戦注文)のなかに ...
38. あべの【阿倍野】大阪府:大阪市/阿倍野区地図
日本歴史地名大系
このとき当地で合戦はなかったが、南北朝期以降は繰返し戦乱の場となった。元弘三年(一三三三)一月一九日、楠木正成は天王寺の合戦で六波羅の軍勢を破って渡辺(現東区) ...
39. あまのさんこんごうじ【天野山金剛寺】大阪府:河内長野市/天野山村地図
日本歴史地名大系
南北朝時代の当寺の歴史は比較的詳しく知ることができる。元弘二年(一三三二)と推定される一二月九日付の二通の楠木正成自筆巻数返事から当寺の南北朝時代史は始まる。翌 ...
40. あまみむら【天見村】大阪府:河内長野市地図
日本歴史地名大系
高野街道に沿い、北は上岩瀬村、西は流谷村、南は紀見峠で紀伊国に接する。正慶二年(一三三三)正月、楠木正成が前年一二月赤坂城(現南河内郡千早赤阪村)を奪回したのに ...
41. 飯盛山(大阪府)
日本大百科全書
扼(やく)する要衝地として、南北朝から室町時代には山頂に城が構えられた。1334年(建武1)楠木正成(くすのきまさしげ)がここを攻略し、1348年(正平3・貞和 ...
42. いいもりやまじょうあと【飯盛山城跡】和歌山県:那賀郡/那賀町/中村
日本歴史地名大系
建武政権に対して湯浅党の六十谷定尚が北条高時の一族佐々目憲法を擁して起こした反乱で、南朝は斯波高経と楠木正成を大将とする鎮圧の大軍が三ヵ月以上かかってこれを制圧 ...
43. いがむら【伊賀村】大阪府:羽曳野市地図
日本歴史地名大系
野々上五丁目・はびきの五丁目 野々上村の西にあり、東西に竹内街道が通る。南北朝時代、当地方は楠木正成の勢力下に入り、足利軍との間で激しい戦闘が繰広げられた。この ...
44. いけだむら【池田村】兵庫県:神戸市/長田区
日本歴史地名大系
弓手(左)にして西へ落ちのびたとあり、山陽道の北側に蓮池があった。建武三年(一三三六)五月二五日、足利直義が楠木正成に追撃された時、直義軍の武将薬師寺公義が蓮池 ...
45. いしい-すえただ【石井末忠】
日本人名大辞典
千種忠顕(ちぐさ-ただあき)に属し京都六波羅(ろくはら)探題の攻略にくわわる。のち南朝方にくみし,楠木正成(くすのき-まさしげ)のもと摂津湊川(みなとがわ)(兵 ...
46. いしかわぐん【石川郡】
国史大辞典
園が設置され、なかには南北朝時代まで荘号のみえるのもある。鎌倉時代末から南北朝時代にかけて、楠木正成らが活躍し、南・北朝両軍の戦場となったことは有名で、『太平記 ...
47. いしかわぐん【石川郡】 : 石川郡/(二)
国史大辞典
園が設置され、なかには南北朝時代まで荘号のみえるのもある。鎌倉時代末から南北朝時代にかけて、楠木正成らが活躍し、南・北朝両軍の戦場となったことは有名で、『太平記 ...
48. いしかわぐん【石川郡】大阪府:河内国
日本歴史地名大系
替地として祇園社に寄付されたものである。〔中世〕南北朝内乱期、南朝方最大の武士勢力として活躍する楠木正成以下一統は、赤坂・千早(現千早赤阪村)を根拠とするが、こ ...
49. いしがきのしょう【石垣庄】和歌山県:有田郡/金屋町
日本歴史地名大系
その遺跡とともに歓喜寺・成道寺など、明恵ゆかりの寺院も今に伝えられている。正慶元年(一三三二)楠木正成に取籠められた湯浅党の交名(楠木合戦注文)には、石垣左近将 ...
50. いしだにむら【石谷村】鹿児島県:日置郡/松元町
日本歴史地名大系
けたという約一五〇メートルの自然石を敷詰めた石坂が残る。また城下の町田家屋敷に秘蔵されていた楠木正成の木像を当村に移して神体とし、楠公神社(東の丸岡)を創建した ...
「楠木正成」の情報だけではなく、「楠木正成」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

楠木正成と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「楠木正成」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
伊達政宗(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一三五三 - 一四〇五 室町時代の武将。本領は陸奥国伊達郡。兵部権少輔・大膳大夫、五位下。入道して円孝と号す。文和二年(一三五三)誕生。父は伊達宗遠。夫人は石清水善法寺通清の娘(蘭庭尼)で、足利義満の母紀子と姉妹。永和三年(一三七七)
足利義昭(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五三七 - 九七 室町幕府第十五代最後の将軍。一五六八―七三在職。天文六年(一五三七)十一月三日、十二代将軍義晴の次男として京都で誕生。母は近衛尚通の女。幼名未詳。同十一年十一月尚通の子稙家の猶子となり、興福寺別当一乗院門跡覚誉に入室
上杉謙信(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五三〇 - 七八 戦国時代の武将、越後国の大名。享禄三年(一五三〇)正月二十一日、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。生年の庚寅(かのえとら)にちなんで童名を虎千代といい、元服して平三景虎と称す。天文五年(一五三六)長尾為景は
武田信玄(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五二一 - 七三 戦国時代の武将。はじめ甲斐国から起り、のちに信濃、駿河、西上野、飛騨、東美濃、遠江・三河の一部に及ぶ地域を支配した。父は信虎で母は大井氏であった。大永元年(一五二一)十一月三日、駿河の今川氏親の臣であった福島正成勢が
毛利元就(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一四九七 - 一五七一 戦国時代の武将。中国地方の大名。毛利弘元の次男で母は福原広俊の娘。明応六年(一四九七)三月十四日安芸国吉田の郡山城(広島県高田郡吉田町)で出生(母の実家福原城とも)。幼名は松寿丸、のち少輔次郎。同九年家督を長男興元に
人物に関連する記事をもっと見る
ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る