「歴史上の人物」カテゴリの記事一覧
オンライン辞書・事典サービス「ジャパンナレッジ」の「歴史上の人物」のカテゴリ別サンプルページです。
ジャパンナレッジは日本最大級のオンライン辞書・事典サービスです。
「国史大辞典」「日本古典文学全集」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など80種類以上の辞書・事典をパソコン、タブレット、スマートフォンで利用できます。
「国史大辞典」「日本古典文学全集」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など80種類以上の辞書・事典をパソコン、タブレット、スマートフォンで利用できます。
足利尊氏(国史大辞典・世界大百科事典)
一三〇五 - 五八 室町幕府初代将軍。一三三八―五八在職。初名又太郎高氏。嘉元三年(一三〇五)出生。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。元応元年(一三一九)十五歳で従五位下治部大輔に叙任。六波羅探題北条久時の女登子赤橋氏(執権守時の妹)を
足利義満(国史大辞典・世界大百科事典)
一三五八 - 一四〇八 室町幕府第三代将軍。一三六八―九四在職。二代義詮の子。母は石清水八幡宮社務善法寺通清の女紀良子。良子の母通玄寺開山智泉聖通は順徳皇子四辻宮善統親王の孫にあたる。良子は義詮に侍し義満とその弟満詮を生む。義満は延文三年
世阿弥(国史大辞典・世界大百科事典)
生没年不詳 室町時代前期の能役者・能(謡曲)作者・能楽伝書の著者。大和猿楽観世座(結崎座)の二代目大夫。幼名は鬼夜叉・藤若。通称三郎、実名は元清といい、秦氏を称した。法名は至翁・善芳。阿弥号は正式には世阿弥陀仏で、世阿・世阿弥はその略称
足利義政(国史大辞典・世界大百科事典)
一四三五 - 九〇 室町幕府第八代将軍。一四四九―七三在職。六代将軍義教の子で七代将軍義勝の同母弟。永享七年(一四三五)正月二日誕生。幼名三春。嘉吉三年(一四四三)七月義勝の死後、八歳で家督を嗣ぎ文安三年(一四四六)十二月十三日後花園天皇から
一休宗純(国史大辞典・日本架空伝承人名事典・世界大百科事典)
一三九四 - 一四八一 室町時代前期の臨済宗大応派大徳寺派下の禅僧。はじめ法名を周建といい、のち宗純と改め、一時宗順とも称し、道号を一休といい、別に狂雲子と号した。後小松天皇の皇子、母は南朝の遺臣花山院某の女。応永元年(一三九四)京都の民家において出生
北条早雲(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一四三二 - 一五一九戦国時代の武将。小田原北条氏の初代。早雲は庵号で、また北条を称したことはなく、一般に言い古されているこの呼称は、俗称というほかない。正しくは、伊勢を氏とし、新九郎を通称としている。入道してからは、「早雲庵宗瑞」あるいは「宗瑞」と
斎藤道三(国史大辞典・世界大百科事典)
? - 一五五六 美濃国の戦国大名。油売商人から身をおこしたと称せられている。幼名峰丸。生涯に数回改名している。生誕は明応三年(一四九四)といわれているが、永正元年(一五〇四)五月生まれとの説もある。一般に広く伝えられているところによれば
毛利元就(国史大辞典・世界大百科事典)
一四九七 - 一五七一 戦国時代の武将。中国地方の大名。毛利弘元の次男で母は福原広俊の娘。明応六年(一四九七)三月十四日安芸国吉田の郡山城(広島県高田郡吉田町)で出生(母の実家福原城とも)。幼名は松寿丸、のち少輔次郎。同九年家督を長男興元に
武田信玄(国史大辞典・世界大百科事典)
一五二一 - 七三 戦国時代の武将。はじめ甲斐国から起り、のちに信濃、駿河、西上野、飛騨、東美濃、遠江・三河の一部に及ぶ地域を支配した。父は信虎で母は大井氏であった。大永元年(一五二一)十一月三日、駿河の今川氏親の臣であった福島正成勢が
上杉謙信(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一五三〇 - 七八 戦国時代の武将、越後国の大名。享禄三年(一五三〇)正月二十一日、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。生年の庚寅(かのえとら)にちなんで童名を虎千代といい、元服して平三景虎と称す。天文五年(一五三六)長尾為景は
足利義昭(国史大辞典・世界大百科事典)
一五三七 - 九七 室町幕府第十五代最後の将軍。一五六八―七三在職。天文六年(一五三七)十一月三日、十二代将軍義晴の次男として京都で誕生。母は近衛尚通の女。幼名未詳。同十一年十一月尚通の子稙家の猶子となり、興福寺別当一乗院門跡覚誉に入室
伊達政宗(国史大辞典・世界大百科事典)
一三五三 - 一四〇五 室町時代の武将。本領は陸奥国伊達郡。兵部権少輔・大膳大夫、五位下。入道して円孝と号す。文和二年(一三五三)誕生。父は伊達宗遠。夫人は石清水善法寺通清の娘(蘭庭尼)で、足利義満の母紀子と姉妹。永和三年(一三七七)
徳川家光(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
一六〇四 - 五一 江戸幕府第三代将軍。一六二三―五一在職。二代将軍秀忠の次男。慶長九年(一六〇四)七月十七日生まれる。母は秀忠正室浅井氏(お江、崇源院)。兄長丸早世により、実質長男として祖父家康の幼名竹千代を与えられた
益田時貞(天草四郎)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
? - 一六三八 島原の乱における一揆軍の首領。通常、天草四郎時貞といわれるが、一揆当時の史料には「四郎」「益田四郎」とあり、乱後の覚書などには「大矢野四郎」「江辺(部)四郎」の呼称がみえる。没年の年齢が十六歳というから
徳川綱吉(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
一六四六 - 一七〇九 江戸幕府第五代将軍。一六八〇―一七〇九在職。三代将軍家光の第四子。母は本庄氏(於玉、桂昌院)。正保三年(一六四六)正月八日、江戸城本丸に生まれる。幼名徳松。慶安元年(一六四八)三ノ丸に移る。同四年四月三日
新井白石(国史大辞典・世界大百科事典)
一六五七 - 一七二五江戸時代中期の儒学者、政治家。名は君美(きんみ)。通称は与五郎・伝蔵・勘解由。字は在中または済美。白石はその号。ほかに紫陽・錦屏山人・天爵堂・勿斎などとも号した。明暦三年(一六五七)二月十日江戸に生まる
徳川吉宗(改訂新版 世界大百科事典)
1684-1751(貞享1-宝暦1)江戸幕府8代将軍。紀州2代藩主徳川光貞の四男。幼名源六。初名頼方。1697年(元禄10)越前国丹生郡3万石を与えられた。1705年(宝永2)兄が相次いで死去したので紀州藩主を相続,吉宗と改名。藩政改革に努め,倹約励行
大岡忠相(日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
[1677―1751]江戸中期の幕府行政官。幼名求馬(もとめ)、のち市十郎、忠右衛門。旗本大岡忠高(2700石)の四男、同族忠真(ただざね)(1920石)の養子となる。1702年(元禄15)書院番士に任ぜられ、順調に昇進して12年(正徳2)山田奉行(ぶぎょう)となり
杉田玄白(国史大辞典・世界大百科事典)
一七三三 - 一八一七江戸時代中期の蘭方医・蘭学者。諱は翼、字を子鳳、号を斎といい、晩年に九幸翁の別号を用いた。その居を天真楼と称し、家塾名ともした。晩年建てた書斎を小詩仙堂と呼ぶ。玄白は通称。享保十八年(一七三三)九月十三日
田沼意次(世界大百科事典)
江戸幕府の側用人,老中。父の意行は紀伊徳川家の足軽であったが,徳川吉宗が紀伊から将軍になるとともに江戸に移って旗本となった。意次は西丸御小姓を経て,1751年(宝暦1)将軍家重の御側衆,58年1万石を与えられて大名となり,62年に5000石加増
伊能忠敬(国史大辞典・世界大百科事典)
一七四五 - 一八一八 江戸時代中期の地理学者、測量家。延享二年(一七四五)正月十一日、上総国武射郡小堤(おんづみ)村(千葉県山武郡横芝町小堤)の神保利左衛門貞恒の三子として、同山辺郡小関(こせき)村(同九十九里町小関)に生まれる
シーボルト(世界大百科事典)
江戸後期にオランダ東インド会社の日本商館付医員として来日したドイツ人医師。ドイツ語の読みはジーボルト。南ドイツのビュルツブルクに生まれる。大学卒業後,1823年ジャワに渡り,同年(文政6)長崎に来航。出島の商館勤務のかたわら,許可を得て長崎郊外鳴滝に
大塩平八郎(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一七九三 - 一八三七 江戸時代後期の大坂町奉行所与力。儒学者。諱は後素、字は子起、通称平八郎、号は連斎・中軒さらに中斎と改めた。大塩敬高を父とし、寛政五年(一七九三)正月二十二日天満四軒屋敷の与力邸に生まれた。先祖は駿河・遠江の守護
水野忠邦(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七九四 - 一八五一 江戸時代後期の老中で、天保の改革の指導者。遠江国浜松藩主。通称は於菟五郎、松軒・菊園と号する。寛政六年(一七九四)六月二十三日江戸に生まれる。肥前国唐津藩主水野忠光の次男。母は側室中川氏、名は恂(中川氏から大住氏の養女となる)
ペリー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七九四 - 一八五八 米国海軍軍人。幕末の日本に来航して日米和親条約締結をした人物。一七九四年四月十日父クリストファーChristopher Ramond Perryと母セーラSarah Wallace (Alexander)Perryの三男としてロードアイランド州に生まれる。少年期をニューポートなどで育ち
井伊直弼(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一八一五 - 六〇 江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化十二年(一八一五)十月二十九日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生まれた。母は側室のお富の方。通称は鉄三郎といい、柳王舎(やぎわのや)・柳和舎・緑舎・宗観・無根水(むねみ)など
勝海舟(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二三 - 九九 幕末・明治時代の政治家。名は義邦、通称を麟太郎、海舟は号。安房守を明治後安芳と変えて字とした。文政六年(一八二三)正月三十日、江戸本所亀沢町(東京都墨田区亀沢)の父の実家男谷(おたに)邸に、旗本小普請組の勝小吉・のぶの長男
徳川慶喜(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三七 - 一九一三 江戸幕府最後の第十五代将軍。一八六六―六七在職。水戸藩主徳川斉昭(烈公)の七男として、天保八年(一八三七)九月二十九日江戸水戸藩邸に生まれた。生母は吉子女王(有栖川宮王女、貞芳院、文明夫人)。幼名七郎麿、字子邦、諱昭致・慶喜、雅号興山
木戸孝允(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三三 - 七七 明治維新の指導的政治家、萩藩士。通称は小五郎、のち貫治と改め、また準一郎と称す。新堀松輔とも変名。号は松菊・木圭・広寒・猫堂・老梅書屋・竿鈴(干令)。天保四年(一八三三)六月二十六日藩医和田昌景の次男として萩に生まれた
岩倉具視(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二五 - 八三 幕末・明治時代前期の政治家。小字周丸(かねまる)、号ははじめ華竜、のち対岳。文政八年(一八二五)九月十五日、前権中納言堀河康親の第二子として京都の堀河邸で生まれた。母は勧修寺経逸の女淑子。伏原宣明に学びその斡旋によって